dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

三連単:二発目

で、小津。名前は知られてるけど、映画を積極的に趣味にしているような人でなければ今更触れる機会はまあないとは思うし、今を生きる特に若い世代が彼の映画を観て面白いと感じることがあるかどうかは疑問があるところではある。

が、少なくとも彼の作品が他とは明らかに異なっているということは、ある程度の数の映画を観てきた今になってようやく気づくことができた。その差異というのが果たして映画技術的にどうなのかということまでは語れないのだけれど。大学の授業でも「これこれこう」という部分までは教わったけど「だからこう」という部分までは教えてもらってなかった気がするし、当時は積極的に授業に参加していたわけでもないからなー。一応ノートはとってあるけど、ほとんど書いてないに等しい。

小津の「晩春」に関する記述として「ワンカットとショットをわけることで対立を表現」「クラシックを観ることで当時の世俗的なもの以外に自分のフィルムはどう残っていくかがわかる効用」という二行しか書いていない。マジか。

や、ほかにも東京物語でアクション・カッティングという言葉を知ったりとかそういうのはあったんですけど、基本的なノーティングの量はやはり少なかった。

まあ、90分全部を1作品に費やすわけじゃないし、まして本編を上映するわけでもなく特徴的な部分を抜粋して解説していくという授業形式だったから、というのもあるだろうか。

そんなわけで、わたしが初めて観た小津映画はBSでやっていた「麦秋」だったわけですが、今ほど熱心に観ていたわけでもないので「わー小津の映画がBSでやるぞー」みたいな無邪気な心持ちで観ていたわけです。そうやって漫然と眺めているだけだと「こんなもんか」程度にしか思わず、内容を思い出すのがこれまた困難なくらいに覚えていないのですが(小津+原節子という組み合わせおよび似た内容が多いということもあるんでしょうが)、それでも観ている間に「なんか変」と感じたことは漠然と覚えていた。

だからというわけではないのですが、改めて小津安二郎の映画を今回観てみると、まーほかでは見ないような絵面で映画が構成されていて、それが「なんか変」「異なっている」と感じた大きな要素なのだと気づいた。 

まあ、小津の映画なんて国内外で研究されてきているわけだから今更になって殊更に何かを分析するということではないのだけれど、一人の趣味映画観賞人として思ったことではあるのでお手柔らかに。と、誰に向けて釈明しているのか謎な前置きをば。

 

で、トーシロな私でも気づいたのはカットのテンポやセリフにおける重複、あるいは画面の歪さそのものとかかしら。

まず人が映る場面なんですが、バストのショットのときって絶対に人物を画面の中心に据えて絶対に二人以上の人物を撮さない。そうなると必然的にキスシーンだったりとか抱き合うとかそういうシーンが皆無になってくるのだなーというのを「秋刀魚の味」のあとに「人生はビギナーズ」を観て、改めてその歪さを認識したわけです。それと関連して人物同士の会話における位置関係の歪さ=イマジナリーラインをこえたカットバックもそう。しかもほぼ正面から人物ショットがないという。や、これがどういう効果を生み出すのかということはわからないんですけど、ほかとは明らかに違うということはわかるんです。

とか、ここまで書いてきたことが実はノートに書いてあったことをこの記事を書いている途中で気づいた。あとローアングルとかフィックス中心とか、そういうことも書いてあった。そういえば、観ている間「階段映らないなー」なんて、普通は見ていても気にしないようなことが気になったのですが、これもノートに書いてあった・・・。

ちなみに階段を撮さないことによる効果は「気配だけを感じさせている」ことにあり、登る時間・場面を上手く省略することで室内は省かないという小津の特徴があるらしい。

それと、小津映画には二階建ての日本家屋が出てくるのですが、特に「秋刀魚の味」では一階と二階では意味が異なっており、一階は公を二階は私を表しているのだそうな。なるほど、確かに言われてみればそうだけれど、それって普通のことではないだろうかと思わなくもない。ただ、それを象徴的に使う事によって人物の公私を描き分けているということなのでしょう。

とかなんとか、これもはや自分の感想じゃないんですけど、観ていて思ったことを感想とするならばこれも一応そういうことになるのかな。

ただ、ノートにもない自分の気づきというものもちゃんとあって、それはある空間を撮すときに、必ず多相にしているということがあるんじゃないか、ということ。

立体性を持つ平面とでも言えばいいのだろうか。たとえばおっさん三人が居酒屋で酒をかっくらっているシーンで、座敷の個室を撮すのですが、その手前に障子を配置することで画面内に奥行を持たせているんだけれど(ほかのシーンでも同様)、どこか平面的であったりするのですな、これが。絵画的、というと語弊があるんだけど、上手く表現する言葉が見つからないのでそういうことにしておく(オイ)。

それと、奥行のある(それでもなんか平坦なんだけど)通路をやたら撮したがるというのもある。居酒屋の通路(本作では二種類)、アパートの廊下、家の廊下とか。ともかく、そういうものが「変だな」と思うくらいしつこく登場する。

そういう部分とは別に、俳優の演技というものもかなり独特なものがあると思う。平板というか淡白というか、平熱というか。ともかく常に演技が一定の波を保っていて、ともすると宇宙人か何かかと思うくらいなのですが、かといって棒演技とかそういうのでもないし明確な違和感というものがあるわけでもないんですが、ともかくキャラクターの全員が全員どこか冷静なのが面白い。

それがかなり効果的だと思ったのが、劇中の登場人物が冗談を言う場面があるのですが、それが全然冗談に思えないということは確実にある。と思う。いや普通に見てたら冗談だと思わないでしょう、あれ。カットの間も相まって。

人物といえば、人物の関係性や対置はわかりやすい。笠智衆演じる平山と彼のもと教師であるひょうたんこと佐久間の対比は、実のところ現代日本にあって他人事ではないと思うのだけれど。

それと、これは自分の感性がアレなせいかもしれないんですけど、平山親子の間に親子だけでなく男女の匂いを感じてしまうのですよね。父親と弟の身の回りの世話しているからという理由で嫁に今までいかなかったわけですが(24歳で結婚を心配されるというのが現代じゃ考えにくいというのに)、嫁に行く時のあの岩下志麻の俯きとかはやっぱり嫁ぎたくないんじゃないかなーと思うわけです。

なんで?ダッドのことが好きだからだよ!

この父娘に男女をダブらせている感じはわたしが見たことある小津作品の中では少なからず嗅ぎ取っていたことなんですが、そんなことはないのかな。嗅覚に異常があるのかしら、それとも。

 

あとですねー、岩下志麻がねー、萌えるんですよ。

顔とか全然好みじゃないんですけど、なんか魅力的なんですよね。ふすまに寄りかかっているカットとか、かなりクるものがあるんですけど、そういう意味で女優の魅力を引き出す才能はやはり小津にはあるんじゃないかと思う。

月曜日のユカの加賀まりこも相当なもんでしたけど、やっぱり魅力的な女優というのは

時代とか関係ないのかもしれんですね。