上映会がやっていたので行ってきました。
村上浩康監督の「蟹の惑星」と今井友樹監督「坂網漁」の二本立て。それと企画者の四方繁利の鼎談付き。
まあ監督本人が言う通り「蟹の惑星」は「東京干潟」と一緒に観たかったという気持ちもあるのですが、しかし鼎談や今井監督の過去作の経歴を知ったことでこの三人の並びから見えてきそうなものもあったので良かった。
「坂網猟」については、尺的にもNHKのBSとかEテレで流せそうなんですけど、私の知らないだけで放送されてたりするのだろうか。
個人的には本作よりも今井監督のフィルモグラフィーの呉秀三のドキュメントのやつで、ほかの監督作に比べると、これだけちょっと毛色が違うようにも思えるわけですが、実はこれもそうでもないんじゃないか、と思ったり。
とはいえまずは本編について。この中編映画はタイトル通り「坂網猟」についての映画でございますね。
そも 坂網猟とは何ぞや。
坂網猟とは石川県と福井県の県境に近い加賀市片野町にある片野鴨池という湿地で行われる(似たようなものは日本各地でも確認されたが、現在も継承されているのはこの片野鴨池と宮崎県佐渡原町だけだとか)カモ猟のことで、元禄時代から300年以上にわたって受け継がれてきた伝統的なものだという。元は士族に限られた(鍛錬の意味もあったとか)ものだったのが明治維新で猟が自由になって坂場の取り合いが起こったから組合が組織され・・・とまあ色々と歴史があるようで、またラムサール条約の登録湿地としても指定されているとか、300年も持続する生態系を破壊しないカモ猟であるワイズユースの好例として評価されたとか。
要するに乱獲だとか乱開発だとか、そういうものと対極にある猟であるということでせう。
夏は農家が管理して冬は坂網猟師が片野町に借賃を払ってカモを集める場所として利用しているらしく、季節によって変わる湿地の様相を定点カメラで捉えられる。水の多寡によってその姿を変える様は、もしかしたら企画者の四方氏が狙ったのかもしれないけれど、干潟の姿にも似る。
全長4メートルにおよぶ坂網の構造も、ただの網とは違って捉えたカモを逃がさないようにするような仕掛けがほどこされていたりして感心する。
ただ、「伝統的な」とは言いつつもフレームに映る猟師は老齢の方々ばかり。そしてこの手の伝統が往々にして直面する後継・継承の問題が取り上げられ、地域の子どもたちに投網を体験させたりしているのだけれど、しかしここにおいて疑問が生じてくる。
生計を立てられているのだろうかと。この映画では、それについてはまったく触れられない。坂網猟をできる季節は限られているわけで、それを仕事としてこの資本主義社会下において存続させるには冬の間に一年分の生活費を稼がなければならないわけで。
坂網猟以外にも彼らが農業なり林業なりやっているのかどうなのか。それとも蟹漁のように一度に多く稼げるのか。それはわからない。無論、そこまで稼がなくとも生活することはできるだろうけれど、一対一の真剣勝負とまで表現せしめるこの坂網猟に対し今の子どもがどれだけの熱量を捧ぐことができるのだろうか。
監督は「金」を意識させたくなかったのだろうか。「若女将は小学生!」のように単なる仕事としての女将ではなく、おっこという「個」が世界と向き合い考えるべき「きっかけ」としての女将という仕事を描いたように。
しかしあちらがおっこという子どものセルフケア・セルフセラピーとしてあったのに対して、「坂網猟」は坂網猟そのものにフォーカスしているので、それが効果的なのかどうかはわからない。
次は「蟹の惑星」。
これ傑作でした。本当は「東京干潟」も一緒に観たかったんですが(監督も一緒に観てほしいと言ってたし)、まあそれは別の機会に。
この映画は一人の老人、吉田唯義さんを追い続ける。「蟹の惑星」とは銘打ちながら、その老人を追い続けた結果として蟹が取り上げられるのであり、その蟹を追っていくと多摩川の河口干潟の状態が捉えられるのであり、そしてこの局所的トリニティあるいはトリニティの局所が地球規模の極めて巨視的な視座にまで導いてくれる。その飛躍の瞬間は、今思い出しても鳥肌が立つほど。
とにもかくにも、まず言わなければならないのはこれはアウトサイダーを切り取った映画であるということでせう。そして、メインストリームでは決して語られえない、周縁にて彷徨い続けるからこそ中心にいるものでは決して見据えることのできない(それでいて同じところに帰結する)ものを見ることができる。無論、そのアウトサイダーというのは吉田さんのことだ。
一念岩をも通すというが、その岩は地球という惑星大の岩である。
たかだか一国の、島国の数百平方メートル程度の局所の出来事が、結果的に地球全体へと一足飛びに拡張する。しかし、よくよく考えてみれば南極の氷が解けているという事実だって局所の話にすぎない。だとすれば、その局所的出来事から全体へと押し広げることができるのであれば、この干潟と南極にいかほどの違いがあるだろうか。
それはニアリーイコールで中心と周縁との間に差があるのかどうかという疑義でもある。
監督は鼎談で「まず撮る場所を決めてそこに赴く。そしたらその場所に適した人が必ずいる」と言っていたのだけれど、それはとりもなおさず人と自然(まあ、地球と言ってもいい)が、というか人が自然とのつながりの中でしかーー人同士のつながりも含蓄するーー生きることができないことの証左である。
「蟹の惑星」というタイトルも、干潟に降り立ったときに目にした大量の蟹の姿から撮影を始まる前から「蟹の惑星」に決まっていたとか。
確かに、劇中の蟹の数は凄まじい。しかし、夥しく、おぞましいにもかかわらずどこか美しくもある。チゴガニの求愛or威嚇のシーンなんかは特に顕著。
とまあ、ともかく蟹の姿を捉えまくる。大量の蟹を遠くから近くから捉えまくっており、それはマクロとミクロ、全体と局所、地球と干潟、といったこの映画のテーマそのものに通底しているものでもある。これは最初から地球規模の話を扱っているわけです。
おそらく、それは編集の構成にも及んでいる。映画の中で多摩川に投棄されたゴミについて言及されるシーンがあって、そのあとのシーンでは蟹の数が減ったことを吉田さんが語る。これ、普通に考えればそのゴミによって蟹が生息地を追われた云々という話になりそうなものなのですが、しかし吉田さんは蟹の数が減った理由を先の東北の地震での影響であると語る。地震による泥の変化、地盤沈下、津波。それによって蟹は減ってしまったのだと。
すなわち、人間などは及びもつかない地球の話なのだと、ここにおいてこの映画は干潟の話から地球の話へと飛躍せしめるわけです。最高。
ところで個人的に蟹の生体で一番感動したのは蟹の吹く泡が近くで観ると泡というよりも繊維の束のようにも見えるところ。まあそれ以外にも色々な蟹の色々の生体がつまびらかにされるわけですが、生体そのものもさることながら吉田さんの独自実験(ワサビを挟みにつけたり、目をふさいでみたり1メートル四方で囲って数を数えてみたり)の手法も面白い。
小難しい話もあるのでしょうが、そういうのを別にして単純に観ていて楽しいというのがこの映画。「東京干潟」がどのような感じなのか、今から楽しみでござい。
環境問題関連で思い出したのだけど、マイケル・ムーアが製作に回った「Planet of The Humans」の批判において、作為的云々というのとは別に、そもそも温暖化なんて存在しないという派閥もあるようで、そのての派閥の意見としては「そもそも温暖化というのは地球のサイクルの一環であって、人間ごときの産業活動程度が地球の環境に影響を及ぼすことなどありえない」というものだったりするらしい。精緻にデータを追っているわけでもない自分としてはなんか色々と凄まじいことになっていて、この辺の話も色々と意見を訊きたかったりする。
あと日本語字幕版が分割で挙げられていたので一応貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=5u7Yobzm0-0
もう一つ「Planet~」で国際環境経済研究所の面白い意見記事もあったのでそれもついでに。
http://ieei.or.jp/2020/05/opinion200515/
まあムーアはムーアで極端にシフトする(だから面白い)タイプなので観賞者はまっとうな批判と合わせた上で楽しむというのが一番いいのかもしれない。
ほかにも「自然との共生」という言葉には色々と注意が必要でもあるのですが、それについてはまだ考えがまとまってないので今度の機会に。