dadalizerの映画雑文

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ゼメキッソスと逆の立場

前から気になっていた「コンタクト」をようやく見た。

「メッセージ」のときも「インターステラー」のときも名前に上がっていて、見よう見ようと思ってはいたのですが2018年になってようやく見れたどす。

試写会の前日に突然嘔吐してしまってからこっち、あまり体調がよろしくないので記事を書くのも割と面倒というかしんどかったりするのですが。それでも「コンタクト」は色々とおもしろい映画だったのでつとつと書いて行こうと思いまする。

 

カール・セーガンの同名小説を原作とした映画なのですが、通例通り未読。ていうかもう原作に触れたことがあるときだけ書くようにしたほうがいいですな、こうなると。

セーガンの名前くらいは知っていましたし、大まかなあらすじも聞きかじってはいたのですが思っていたのとまったく違う映画だった、と。

いやーこれ「メッセージ」とも「インターステラー」ともまったく(後者に関してはまったくというわけでもないけれど)違う話でしょう。「未知存在とのファーストコンタクト」というガワは同一ですけれど。

あれらは極めて真面目にSFしていて上手く虚実を交えて巧みな嘘=劇中の理論で騙してくれていたのに対し、こちらはそういったプロセスを省き、そしてファンタジックかつチープに描いてみせている。チープというとやや聞こえが悪いのでB級感といったほうが適切かも(結局一緒か)。

ゼメキスは結構映像表現としてのテクノロジーを、イノベーターとまではいかずとも早い段階で積極的に取り入れているようには思っていましたが、この映画でもバリバリCGを多用しています。「フォレスト~」の木の葉のシーンが当時の北野映画一本分の予算であるくらいには金を掛けていたわけで、それを考えるとSF映画でCGを使うというのは当然の采配とも言える。もちろん、今の目で見ると荒削りではある。それでも「リターナー」よりも5年早いと考えると許容範囲でしょうか。

 

ただまあ、ゼメキスが単純につまらない映画を作るわけもなく。映像の繋ぎ方・見せ方は工夫が凝らされていて、人の顔から空に向けられて戻ると時間が経過していたり、パパの薬を二階に取りに行くシーンなんかはどうやって撮影したのかわからんのですが、鏡をうまく使った見せ方をしていて、当時の質感の映像でこういうギミックが見れるとビックリする。まあ「ジュラシック・パーク」の後なので、よく考えれば何も不思議なことではないのですが。個人的には冒頭の地球からどんどん距離が離れていくにつれて音声の語っていることが過去になっていく演出は滅茶苦茶良かったんですな。26光年先に届く情報と地球上で現在流れている情報のラグが説明なしに音と映像だけで伝わってくるこの演出はやっぱりいいですよねー。

あとエリーのワームホール通過シーンとか、「ドクターストレンジ」のあのトリップじみたシーンの部分的な引用元なんじゃないかと思うようだったりしますし。異星人の招待によってたどり着いた異星の正体が「ソラリスっぺぇべ」というのがあったりしますが、思い返してみるとイーガンの祈りの海だとか「真心を君に」とか「楽園追放」だとか結構印象的に使われているような気がしますがSFと海・海辺ってなんか繋がる論拠があったりするんだろうか。一つ目はともかく後ろ二つは孫引きという可能性もありますが。それにしても我ながら知識の偏りがアレすぎて困る。

 

個人的なタイムラインが「メッセージ」と「インターステラー」を見たあとということもあって、内容がまったく違うという意味でもこの「コンタクト」が言わんとしていることは中々興味深い。

雑ソウ記の方でわたしが前に書いた記事にも通じるのですが、科学の立場と宗教との差異が描かれているのが上の2作と違っておもしろい。まだスピリチュアルが今以上に説得力を持って受け止められていた時期だからこそ、というのもあるでしょう。原作が発表された年代はニューエイジが活気づいていた時期でもある(劇中でも登場人物がニューエイジの甘言がどうのこうのという部分がありましたし)のでしょうが、宗教と科学のテーマは今でも語り得る切り口ではあるわけで。自分自身は、どっちがどっちって議論は「鶏が先か卵が先か」だと思っているから決まりきったことは言えないけれど。一応、卵の形成に関わるタンパク質がメスの卵巣で作られるという研究結果から、科学的というか物理的には鶏が先らしいです。

オッカムの剃刀の反転とか「おぉ」となりましたし、科学者を宗教と相対化させるというのはありがちなテーマといえばありがちですがやはり面白いものではあります。

 

 

だけどねぇ、脚本がいかんせん雑。カール・セーガンの著書などを考えると本作もおそらくは原作に比較的忠実に(少なくとも伝えんとしている部分は)なっているはず。原作未読につきどこまでが原作のせいなのかはともかく、映画「コンタクト」はSFに重要なディールが欠けているんですよ。

最初に波長を拾うまでのシーンはまだいいとして、その後のディティールの適当さときたら。解析できなかった異星人のメッセージを伏線があったとはいえ突然登場したハッデンが、そのプロセスを描かずに解析していたんですよ。そこは普通、主人公たちがやるべきとこじゃろうて(この部分はテーマにも深く関係しているので後述)。「○年後」の一文だけで事態を大きく進行させる手法を使って気づいたら宇宙船完成してるし。あの宗教家はどうやって侵入したんだ、とか。ともかくプロセスを省いて結果だけを提示しているのでSFとして楽しむのは結構キツイです。唯一プロセスが描かれるのはエリーのワームホールシーンだけですからね。というか、ここすら省いたらもはやSF的見所が皆無になってしまう。しかしわたしはテーマを考えるとここすら省いてしまうぐらいのほうがむしろいいんじゃないかと思ったりしますが、まあでもエリーに感情移入させる作りである以上は「個人の体験に依拠している」という科学における不確かさを観客に体感させるためには必要か。そこから科学と宗教(似非科学含む)についての思考をスタートさせねばいけないわけだし。

盲目設定のウィリアム・ヒクナーの持て余した感じとか。彼のの演技自体は素晴らしいのですが、軽い扱われ方しかしないのがもったいない。そのギャップに笑えるけど。

 

た・だ・し、最後まで見れば、上記の文句は話の構造上ある程度は仕方ないのかもしれない。結果だけしか描かれないのは、科学というものへの大衆のスタンスそれにほかならないからだ。わたしたちの多くは科学の、それによってもたらされる恩恵のプロセスを知らない。今この瞬間、この文字を打つためにコンピュータの内部でどういったプロセスが行われているのか事細かに記述できるだろうか?普通に使っているスマホは?車は?電車は?

つまり、本作の主役であり科学者でもあるエリーは、その実として一般人たる我々の投影でしかない。なぜなら、エリーはこと異星人のメッセージの解析においてほとんど何もせずハッデンに解析の結果を渡されるだけだからだ。このハッデンという存在が極めてファンタジーなわけですが、テーマを考えるとこれも意図的なものなのかもしれない。科学を知らずに使っているわたしたちには、科学がなんでもできるファンタジックなものに映り、それを解する科学者は魔法使いに等しい。異星人のメッセージを解読できなかったエリーにとって、ハッデンはまさに魔法使いなのだろう(本編が終了しても彼の自作自演だったのかどうかは明らかにされないが)。

そして、そんなエリーに科学と人の幸福についてマコノヒー演じる神父損ないのパーマーが問いかける (どうでもいいことですがインターステラーのマコノヒーを思い出そうとするとジョンタトゥーロが邪魔してくる)。これは宗教から科学への問答にほかならない。

だから、過程をバッサリ省いているのはテーマ上仕方ないのかもしれない。SF的でありながらSF映画としての面白みがあまりないと文句を言うのは、勘違いしたこっちがないものねだりをしているだけにすぎないとも言える。だとしても衣装とかセットとかはもうちょっとどうにかなったんじゃないかと思うけど。

その割に実際にCNNのリポータ使ったりラリー・キング・ライブも使ったりするし、必要以上にクリントンが顔を出してくるし。「ちがう、そうじゃない」といった方向のリアリティがこれ見よがしな上に合成甘い部分があって気になるんですが、「フォレスト~」のケネディなどからあるからゼメキスは気に入ってるのかもしれない。

あと劇中に登場する日本人に爆笑。いくら20年前とはいえクリシェがすぎるだろうと。律儀にジャパニーズOJIGIするし、日本特撮っぽい妙ちきりんな服装してるし。

 

 

それともう1作品「鷲は舞いおりた」も見ました。「大脱走」「荒野の七人」のスタージェス監督のナチ映画(違う)。

ダーティ・ダズン要素もありつつ立場的に逆「ハイドリヒを撃て」(というか「ハイドリヒを撃て」が逆「鷲は舞いおりた」ですが)でした。

そういうわけで「ハイドリヒを撃て」と合わせて見ると「コンタクト」的な二元論な割り切りができなくなって面白いかもです。

しかしナチスの制服ってやっぱりかっこいいなぁ。