dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

Awsome ! Shiaaaaaaaa! LaBoeuuuuuuuuuf!

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「ザ・ピーナツバター・ファルコン」観てきました。

いやー困った。いや、ここまで作り手が気持ちいいだけで観客としては反応に困る映画だとは思わなんだ。と、観た直後は思ったんですけど、思ったよりもいい映画なんじゃないかと、反芻しているうちに思い直した次第です。

 

いや、シャイア目当てで観に行ったのでシャイアが気持ちよさそうというか満足気なオナニープレイングをしているのは別に構わないのですけどね。まあ、あんだけ顔面アップで撮ってもらったりすればそりゃ気持ちよかとよ。というか、ほとんど彼にとってのセラピー懺悔映画としての佇まいを備えているゆえ、彼にとって心地よい映画であることは間違いないのでせう。

だってあなた、泥酔で事故ったりとかそもそも彼が演じるタイラーのキャラクターがシャイア本人とリンクしてしょうがないわけで。

実際、タイラー・ニルソン監督はパンフで「~前略~彼が演じることで観客はある種の先入観を持ってタイラーを見ることができる。そして彼が他人の幸せのため犠牲になるほど成長したら、きっと感動的だろうと考えました。シャイアはこの作品で過去の過ちを捨て、カタルシスを得たかったんだと思います。」なんて言ってるし。実際、私はシャイアを目的にこの映画を観に行ったわけですし、この映画がザック在りきに見えてその実はそれと同じくらいシャイア在りきだということです。

 私が彼を好きな理由は躁的な部分が役どころや私生活において前面に押し出される中で、しかしその躁的な部分にかなりのグラデーションがあって(それこそ「トランスフォーマー」シリーズのやりすぎなぶっとんだ感じから「フューリー」の戦場におけるレイジとか色々)、その私生活の落ち着きのなさも含めて滲み出る「弱さ」という魅力を感じるからなのです。弱い犬ほどよく吠える、その遠吠えを愛おしく思ってしまうのです。こう、「大いなる西部」的な愛おしさ、というか。いや、実際にかかわったら面倒な人なのかもしれませんけど。

そして、シャイアはこの映画で一つのみそぎを終えた。クレジットの名前の順番の謙虚っぷりも、やっぱりそういうことなんじゃないかと。

それはそうと躊躇なくガキんちょを殴り飛ばすシャイア最高。

 

他の役者もみんな楽しそうではある。ザック・ゴッツァーゲンも(ある意味で当然ではあるのだろうけれど)自然な演技ですし、ダコタ・ジョンソンもみんな気持ちよさそうに演技をしている。

即興の掛け合いもあったようだし、役者は楽しめたのだろう。ブルース・ダーンとか、ちょい役に上手い人を配置しているおかげで少々首をひねる展開とかがあっても比較的安心して観れる。ウェイン・ディハートとか、私はこの人のこと全く知らなかったんですけどその佇まいだけでもはや十分でしょうし。

共同監督のマイケル・シュワルツがドキュメンタリー出身ということでところどころドキュメンタリータッチ、ライティングを使ってないような自然さも見受けられたりとかもその辺の統制があったのかしら。それが即興とマッチしているのかもしれない。

ザックに関しては馴染みすぎて逆に目立っていないような気すらしますよ、シャイアスキーからすると。が、さもありなん。むしろこの映画は、シャイアがザックの夢の手助けをする、という構造を逆照射することでシャイアこそを輝かせる作品なのだから。

 

そんなわけでシャイアファンにとっては至高の一本ではある。

ともすれば、色々と問題を孕んでいる気がしなくもないこの映画。ハックルベリーフィンに重ねるのもそうだけれど、マイノリティ側の視線とマジョリティ側の視線にはやっぱり注意を向けなければいけない。

パンフレットの渡辺さんのレビューは一読の価値はあるけれど、しかしその無垢をマイノリティに投射するマジョリティの視線というのが、果たして同じ位置にあるのかどうか、ということを考えなければならない。

じゃあこの映画はどうなのか? そういう意味ではこの映画はしっかりと明示してはいるだろう。望遠でテレンスとザックを平行に(彼らの足は海の浅瀬を通じて繋がっている)描いていることからも、そこにあらゆる差異を取り除いて同地させようとする意識はあるはずだ。

まあ、正直渡辺さんの言うようなアメリカ的価値観の「無垢(innocence)」なんていうのは欺瞞で、それこそ押井の「イノセンス」くらいじゃないと私は納得などしません(そもそも「子ども」という概念自体が近代の発明という見方もあるくらいだし)し、そういう無垢さという名の下に障碍者を非人間化してきたことの問題だってあるわけですから。

ただ、このこの映画に関してはシャイアとザック、それを繋ぐダコタがそういう境界を取り去ってくれている。

すでに述べたようにシャイアがザックを助けるという行為の裏返しにシャイアがザックに助けられるもといザックがシャイアを救うという逆転構造が浮かび上がっているのは自明なわけで、そこの垣根は取り払われているのではないか、と少なくとも私は思ったりする。

 

ただまあ、それにしてもラストの数カットはいらないかなーとは思いますけど。せっかくあそこまで現実を超克するザックの超パワーを見せつけるのであれば、持ち上げたサムをそのままダンカンとラットボーイに投げつけて一網打尽にしちゃうくらいでも良かったかなぁ、と。

エンディングの「RUNNNING FOR SO LONG」でちょっとウルっと来たので多めに見てやりますが、ええ(何様)。

 

とはいえ、タイラーもといシャイアの劇中での振る舞いに腹を立てる人もいるでしょうし、それはぶっちゃけますとシャイア・ラブーフありきで、そのどうしようもなさを背負うシャイアという人間なればこその感動でもあるわけなので、シャイアファン以外がこれを観てどう思うのかはちょっとわからない。

でも、人の弱さを認めることができる人なら、シャイアを知らなくても大丈夫だと思う。