dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2022/2月

ホーンテッドマンション

この時期のCG黎明期の疑似ワンカットの繋ぎ目を見るのが、なんともはや奇妙な感覚が。シームレスにその境目が浮かび上がってくるという。特にラストの車内からズームアウトして車全体を俯瞰していくシーンね。

この三年後にキュアロンの「トゥモロー・ワールド」のあれがあると考えると……。

ところでなのですが、この映画って黒人男性が白人男性に妻(黒人女性)を寝取られる恐怖に苛まれるという視点があって興味深い。裕福な黒人家庭の大黒柱でありながら、しかしそれよりも大豪邸に住む白人男性によるNTRの恐怖。これはまあ、某アメリカのコメディアンを引き合いに出すまでもなく、レイシズムに基づく権力構造が引き起こす歪んだ関係性なのですが、それをディズニー映画かつエディ・マーフィーというコメディリリーフによって隠蔽しつつそれをファミリーにお出しするというのは結構えげつないと思うのですが。

 

「バード・ボックス」

マルコヴィッチがいつも「あれ、このおっさん誰だっけ」となってしまう。

話は全体的にB級にありがちで、「これネトフリでやる映画かえ?」と思わなくもないのだけれど、血縁(生殖)家族を越えたファミリー(ラストも含め)という価値観などはB級のそれにはあまり見られないように思える。

 

「ザ・フォーリナー/復讐者」

最近のポリティカルアクションの中ではかなりいい感じ。「グリーン・ランタン」の監督なんですけど、あれはネタにされてはいるけれど必ずしも悪いわけではない(良くもないけれど)のが過剰に、まあ主にライアン・レイノルズのせいなんだけれど弄られてはいるけれど、こっちは結構好きだったりする。

まあ「ジャッキーいるかなこれ?」というのはいえるが、タイトルが要するに異邦人だから

 

「イーグル・ジャンプ」

全然知らなかったけど俳優としてのキャリアの方が遥かに長いのね、デクスター・フレッチャー監督。てかこの人「ボヘミアン~」でブライアン・シンガーからバトンタッチした人かつ「ロケットマン」の監督だったのね。

ロケットマン」は観てないのだけれど、この「イーグル・ジャンプ」を観た後だとかなり食指が動く。というのも、タロン・エジャトンの真価がこの映画に詰まっていて、おそらくこの監督なら上手く彼を撮って見せるのではないかという確信があるから。

日本ではビデオスルーとなってしまった作品らしいので、ぶっちゃけオリンピックにかこつけてこの映画を放送するNHKの魂胆には「おいおい」と思わなくもないのだが、しかしこういう機会でもなければ観なかっただろうし、そういう意味ではこの映画をやってくれて良かった。前情報一切なしだったのも良かったかもしれん。

この映画はタロン・エジャトンを主役に据えたことで勝利したと言っていい。彼が演じたエディは、まあはっきり言ってしまうと今でいう発達障害に類する人間なのであろう。なんて言いつつ、ちょっとディグっただけではそういう情報は出てこないのだが、発達障害と視覚の関係(エディは極度の遠視)は昔から研究されていることだし、劇中でも言及こそされないが、彼が周囲からどう見られていたか、冒頭の幼少期の行動なども含め、少し「ズレた」人がどう扱われるかというのは誰しもわかっているはずだ。

そして、その説得力をタロン・エジャトンはその表情一つで体現してみせた。これはもしかすると監督が俳優としてのキャリアが長いからというのもあるのかもしれないが、タロンは童顔というかベビーフェイスだ。そんな彼に、ひげは似合わない。けれどそのヒゲはエディという人物の一つのアイコンである。ベビーフェイスにひげ、というのは、ともすれば下手なコント感が出てしまいかねない。

けれど、この映画に限っては彼のベビーフェイスとヒゲが上手く調和している。いや、調和していないが故の二律背反を体現できているといっていい。

エディの持つ、ある種のイノセンス(それは同時に、先に挙げた類の人間が抱える幼さでもある)をタロンの顔そのものが表現しつつ、ひげという大人(の男)としての象徴が同期しないままに内在している。そのちぐはぐさは、そのままエディという人物を表している。

マイケル・エドワーズという人物の伝記映画であるのだから、どうのように劇映画として彼を体現できるかが肝となるこの映画において、タロン・エジャトンを起用した時点で成功だったのだと言っていいほどに、タロン・エジャトンはハマっている。

 

クラッシャージョウ

うーん…?既視感と古めかしさが満載、というのは昔の映画だから当然なのだけれど、ワープ的な、超越的な跳躍のイメージが「2001年〜」のそれなのだがTFの「金あるしやりたいからやる」みたいな文脈の無視っぷりに比べると良くも悪くも平板な気がする。