dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

身体、権力、ポルノグラフ

元々、日本ではポルノ映画として紹介されていたんですね、これ。
サロン・キティって本当にある場所だったというのがまたナチスの何でもありな感じを際立たせてくれる。

 
それにしても、ここまで虚しく切ない、そして切実で誠実に娼婦のーー人間のーー交接を描いた映画もそうないのではないだろうか。

しかもフォーマットとしては勧善懲悪(ってわけでもないんですけど)リベンジものでもあり、普通に楽しいという。というよりも、ディストピア映画のフォーマットでしょうか。

これ控えめに言って傑作。 

ポルノ映画としても違和感のないほどのポルノシーンが多々あり、そしてこれが重要なのだけれど、そのポルノに対してもう一つ重要なモチーフとしてナチス・・・というか権力があって、それがとてもうまく機能している。

ポルノは制度や倫理ひいてはそれらを敷く権力への抵抗であり、それらによって隠蔽される「性」を、肉体を暴き出す。FEMENなどの抗議活動はまさにその典型だろうし、そういう共通理解は今も昔も変わらないと思う。 

で、この映画で「性」を描きだす舞台となるのは娼館である。いかにもである。

ポルノ(を用いた)映画というのは、ポルノを描写するという営為自体がすでにからして反権力的な意味合いを持つということは言えると思うのだけれど、この映画においてはそこにもう一つのファクターが代入される。それはナチスの親衛隊という権力。要するにわざわざ真正面からケンカを売るわけである。

そして、それによって一つのねじれた構造が現出する。

本来なら体制に対するカウンターとして機能するはずのポルノが、しかしこの映画の前半ではその体制の権力によって接収されポルノとしての機能が抑圧されてしまう。

そのため、冒頭でキティがあしゅら男爵な衣装で歌うシーンがあるのだけれど、振り返ってみると面白いことにここが前半部の絶頂であるように見えるのですね。

というのも、このシーンの後はすぐにナチス側の描写になり、そこでは娼婦の親衛隊を育成し裏切り者を炙り出し、そのための娼館が必要とされることが示されるから。

そのためまだキティの手中にあった=肉体に対する誠実さが優位にあった娼館の酒池肉林の営みに影が差しているからこそ、冒頭の影を知らない観客としてあの純粋な歌を楽しむことができるのでせう。

そして案の定、そこにゲシュタポの手が入り「性」を解放するための娼館が体制の権力下に置かれるというねじれが生じる。

そのねじれた構造は、しかしマルガリータのセックス=身体の解放に逆転することになる。

当初は国家社会主義への忠誠を誓っていたマルガリータだけれど、しかし客として訪れたハンスとのセックス=一糸まとわぬ肉体を通じたコミュニケーションを通じ(同時に衣をまとったバレンベルクへの口淫=ディスコミュニケーションを経て)決定的に逆転し恋に目覚め彼を愛するようになる。

が、亡命を企てていたハンスは処刑されてしまい二人の愛はご破算となる。

そう、これは愛の物語だったのですね。キティが歌っていたとおり、これはロミオとジュリエットの話でありアダムとイブの話であり、引き裂かれた二人の愛の話なのです。

いずれも権力によって引き裂かれたように、ハンスとマルガリータも同じ末路をたどる。

ところでハンスとバレンベルクのマルガリータとの交わり方の違いというのがすごく露骨に違うんですね。
ハンスの方とは裸の付き合いであるのに対して、バレンベルクは常に何かを全身に纏っている。それも征服だけでなくマフラーやマントといった小物まで身にまといそれを強調し決して素肌を見せようとせず、マルガリータとの性的な交わりの際においてまで身に纏う。それは彼が権力を纏うことしかできない空虚な男だからだ。

だからマントを脱ぐとすぐに化けの皮が剥がれる(んが、もちろん全裸になる=ナチの権力を少しでも手放すのを恐れる小物なので彼が果てるときは毎度制服に包まれたまま。しかもなんかオーガズムに達するときの姿が情けなくて笑える)。

そして、ハンスを殺されたことを知ったマルガリータはキティとともに、復讐を画策する。ここから展開される復讐劇も、もちろん彼女の肉体にコミットしたもの。まあいわゆるハニートラップなのですけれど、それは必然でしょう。

なぜハニートラップが有効なのかといえば、それはもう言うまでもなく極めて肉体的な作用であるからです。エロいものを見せると判断力が低下するというのは過去の実験が示していますし、つまるところ肉体の生理を利用したものだからに他ならない。 

肉体VS権力の戦いは、すでに勧善懲悪と書いたような終わり方を迎えるわけですが、ただここもちょっと面白いのが、バレンベルクを直接的に殺すのが彼の部下であるナチスの党員であるということなんですよね。

これは一見すると権力の相克作用に見えるのですけれど、実際は同じ親衛隊同士であっても微妙にレイヤーがずれているように見えるんですね。

というのも、バレンベルクがよりどころとするものは本当にただの権力なんですよ。そこにはイデオロギーや信奉するものなどもない、きわめて野卑な権力崇拝思想のみ。

一方で、彼を殺すことになる部下は、描写は少ないのだけれど実は彼には信奉するものがある(=ナチスへの忠誠)ような描写がさいしょからされているんですよね。
それをあるいは愛と呼んでもいいのかもしれない。
 
要するに最後に愛は勝つってことです、はい。


いや、なんか雑にまとめちゃいましたけど性と権力の構造のねじれを生み出してそれをさらに逆転させる(元にただす)という巧みさとか、細かい描写(娼婦がその仕事を遂行するとき、必ず三面鏡があって、「ブリッジオブスパイ」においてスピルバーグがある人物の内面を表現したのに通じるあれとか)もあったり、かなり良い映画だと思いますですよ。


ただですね、自分が観たバージョンだと明らかに無理やりカットされて前後の繋がりが意味不明になっているシーンが少なくとも2か所あったし、モザイクがでかすぎでノイズになっていたりでモヤモヤしたものがあるんですよね。
んで、そのカットが入ったところがレズビアンな同性愛的描写だったりしたので、それがカットされているというのはこの映画的には敗北を意味してしまっているので、かなり残念なポイント。まあ完全版はふつうに出回っているようなので機会があればそっちを観たいのですが。
 

しかしマルガリータ、最初は野暮ったい顔だなーと思って観てたのに化粧であそこまで美しく見えるものなんですな。すごい。


これ今年観た中で一番良かったかも。

のべばー

 「ミルカ」

全体的にそれでいいのか感が。

彩度の調整とかはまともかくとして、色々と能天気な部分ががが。

BGMの使い方とかアングルとか編集とか、すごいコマーシャルっぽい。ていうかまさに伝記CMって感じなんですよね、あの感覚。

あれで最後にコカ・コーラのロゴとかが出てきても違和感ない。

 

MASTER/マスター

韓国の金融犯罪もの。

出だしから最後まで話がぐいぐい進んでいくしテンポはいいし超面白いっす。

前半は。

後半はなんかオーシャンズっぽくなってきて前半のノリを期待してると若干肩透かしではありまする。

とはいえ一粒で二度美味しいとも取れますし、ましてつまらないわけではないのでモーマンタイではありまするが。

キムママver2のヘリのくだりとか笑える部分もしっかり入れてきてカッコマン気取りすぎないバランスも良い。

 

「エアポート2017」

連続ドラマの劇場版かと思うテンポ。てか原題からしワイルドスピードのパロですよねこれ。

まあアレをパロるなら筋肉成分、最低でもハゲは欲しいところですが。

会話のカメラワークの単調だったりズームの使い方が24ぽかったりするのががが。

 

アメリカン・アサシン

あんまし記憶に残らないようなタイプの映画だけれど、観ている間は少なくともあまり退屈はしなかったかな。

いや、後だしは結構あるしリアル路線な佇まいに比べてなんか馬鹿っぽい絵面もちょいちょいあるんですけど、その辺も含めてなんか愛らしいというか。

まあこれを成立させているのはマイケル・キートンの存在力であるわけでして、本来ならば死んでいてもおかしくない役どころでありながらも最後まで彼を生存させたというのも多分監督はキートンの力で最後まで牽引しようとしてたんでしょうな、最後まで。

他の役者もしっかりしてるし、まあ色々と気になる点はありますけれど、頑張っている気概が見える作品だし。

 

「シャンハイ」

政治あるいは戦争、その一線を超えたところで1人の人間の死によって緊張が弛緩するという皮肉。

背景に迫る戦争の音。それがついに火炎となって降り注ぐ瞬間のバカ野郎。

これは避け得ないカウントダウンの話だったのだなぁ。その佇まいはほとんど「ターミネーター3」的と言っていいかもしれない。

 

「シェナンドー河」

 

喪失と再起の物語。

喪失の象徴としてのジェームズ、アン、ジェイコブの死、再起の象徴としてのボーイの帰還。

ボーイの帰還は父であるチャーリーが息子を殺したボーイと同い年の16歳の少年兵士を赦したからではあるのだけれど、赦しというにはあまりにも怒りを湛えたものだった。

 

ジェームズ役のパトリック・ウェインがヘンリー・カヴィルに似ていて、つまりスーパーマン的人物が残り娘であるジェニーがボーイの回収に同行したり、夫のサムが助けられる側というのもジェンダーロールが逆転していて60年代のアメリカ映画とは思えない感じ。この辺はあまりフィーチャーされないのが物足りませんが。

まあそれを言ってしまえば、ジェームズ・スチュアートのあの戦争に対するスタンスというのも、中々見かけないタイプではあるとは思うのです。

けれど、これは伊藤の指摘したような逆セカイ系的な路線であり、つまりセカイというのは個と繋がっているわけで、まして自国同士の戦争の渦中にあって知らぬ存ぜぬでいられるわけもなく。

それが至極真っ当で誰もが抱く正論であったとしても。

 

奴隷制の下から解放された黒人少年のガブリエルが、その制度の名の影響下にあってボーイとの交友を育んでいたからこその、そして二人の背景を全く描かなかったからこそのあの純粋な友情のシーン。欺瞞的とも言えるのかもしれないけれど、あの状況下にあって敵軍であるボーイを救えるというのは、やはり友情のなし得るものでなくてなんなのだろう。「ハクソー・リッジ」におけるアンドリュー・ガーフィールド的な狂気的な聖人性に寄って立つものでもないのだから。

まあ、スパイク・リーとかはあまりいい顔しなさそうではありますけど。

ボーイは言う「人を撃ったことがない」と。

それに対して投げかけられる言葉は「敵は知らんさ」という非情なもの。

けれどガブリエルは知っていた。だからこそボーイは生き延びた。

徹底的に他者化を行うことで殺人を正当化する戦争という状況にあって、二人は人種的な壁や南北という隔絶を乗り越える。

 

 

帽子とか少年兵のくだりとか、何気に伏線を上手に回収していたりするあたりも上手い。

書割に見えるような牧歌的な背景の歪さやジェームズを刺し殺した剣をずって階段を上るカットとかゾクゾクするような恐ろしい画作りも際立っていて、中々どうして素晴らしい作品でござんした。

 

「超巨大ハリケーン カテゴリー5」

事実ベースでどういう脚色をするか、という方向性においてこういう手法を取るのはまあわからなくもないのですが、かえって安っぽくなってませぬか。

まあでも台風の目を真上から見たカット、あれは最高だったから良し。

 

「48時間」

すごいちょうどいい感じ(?)だと思ったらウォルター・ヒルでしたか。

コマンドー」でお馴染みのジェームズ・ホーナーもバリバリ分かりやすい音楽だし、こういうちょうどいい感じでサクサク観れる映画というのっていいですよね。

「張り込み」とか「ミッドナイト・ラン」とか、こういうのを延々とループしていたい。

 

太陽の季節

 何かの評論集で藤井善允さんが円城塔文学と石原慎太郎文学の比較でこの「太陽の季節」の原作を取り上げていたのを思い出て慌てて観る。

にしても原作60年以上前ですか。石原慎太郎何歳なのよって調べたらそろそろ米寿になる年なんですねぇ。

 しかし90分の映画でボクシングシーンに10分使うってすさまじいですな。

原作未読につきウィキさんを参照させてもらったのですが、これラストの方は藤井さんの原作の評論と照らし合わせると映画と原作で描かれてることってかなり違いませぬか。

藤井さんの評論の方だと竜也は堕胎するよう言ったと書いてありますけど、映画だと「好きにしろ」っていう感じでしたし。

(「子どもができても悪くねぇつっただけだ」ガシャーン/はちょっと露骨すぎますが。)

確かに子供を抱いたチャンピオンのだらしない顔~のくだりはありましたけど、どうも原作だと自分で思ったような描かれ方なのに対し、映画では友人に指摘されて気づいたような感じだったので、この辺のニュアンスはだいぶ変わっていることになる。

原作だともっと暴力性がフィーチャーされているようだけれど、映画だとそうでもない。

というか、「愛情表現が七面倒くさくて怠惰なたっちゃんがその性根ゆえに後悔する」話に見える。

 

どうでもいいけど「処女撲滅運動」というワードに笑う。あとウィキが妙に充実してるのも笑う。

 

金融腐食列島 呪縛」

タイトルバックに特撮みがあっていきなり笑ってしまったのですが、まあ「ガンヘッド」とか撮ってる人だし。

にしても凄まじい言葉の量。カメラワークといい「シン・ゴジラ」の一番の参照元って実はこの映画ではなかろうか?

もちろん異なる部分はかなりあるし、それが庵野さんがアニメーターという部分から起因しているのかは分からないけれど、「金融~」で観られるような手持ちよりもフィックスを多用している辺りは如実ではある。

状況(「シン・ゴジラ」ではゴジラ、「金融腐蝕列島」では不正融資によるまさに状況そのもの)に対する人間の反応を描くことで、ことさら人間ドラマ(笑)を描かずとも人間が浮かび上がってくるという。

そうなんですよね。役者の顔とレスポンスを――――まさにヒトというのが状況に適応するためのレスポンスの継ぎ接ぎによって今の姿になった=進化してきたわけなので。

いんやぁ、面白いですな。

 

レッドブル

観たことあると思ってたら通しで全編観たことなかったことに今更気づく。

フィッシュバーンが細いなーとか雪の中でシュワちゃんが震えてるのが観ていて笑えたり、何気に当時のシュワのターミネーター的な機械感を利用してソ連邦人という設定、それを最後に反転させるという(まあアメリカに来るきっかけとして親友を殺されたことが強いモチベーションになってるので「実は」とかそういうのではなかったりするんですけど)結構巧みな戦略が取られていて、「コマンド―」系の映画の中では割と出来栄えのいい映画なのではないかと。

結構好きですこれ。

 

「バトル・フロント」

おバカドンパチ系かと思って舐めてました。

なんか普通に面白いこれ…と思ったらスタローン脚本なんですね。キャラに血が通ってるのは彼の脚本のおかげかもですね。

アクションシーンの見辛さはあれですけど。

 

L.A.コンフィデンシャル

初めて最後までまともに観る。

普通に面白い…。

最後まで欺瞞たっぷり。水と油のキャラクターが友情は育みつつしかし最後までキャラぶれせずにハッピーエンドを迎えるのに、最後まで欺瞞たっぷりなところも含めてすんごい面白いです。

ガイ・ピアースラッセル・クロウが穴姉弟というのも面白い。

ラッサルクロウはあれ半分くらいガチバイオレンスなんじゃないですか、と思えるくらいの猪突猛進ドーテースピリット持ちの暴力デカで笑ってしまいましたよ…。

 

「ケース39」

エスターの亜種というかオーメンの亜種というか。時期的にも「エスター」が公開して間もないタイミングというのもあったんでしょうけど、同じようなネタにしても向こうの方がインパクトありまするゆえ。

イアン・マクシェーンとかブレッドリー・クーパーとか何気にこうして見ると豪華ですね。主演のレネーさんがどっかで観た顔なんですがいまいち思い出せない。

この手の映画で勝利エンド(投げっぱなしジャーマンともいう)は珍しいかも。明らかに投げただけに見えるけども。

午後ローでながら見する分にはいいかも。

 

 「メガ・スパイダー」

蜘蛛のモンスター系パニック映画って結構良作が多い気がする。といってもほかのサンプルが「スパイダー・パニック」くらいしかないんですけど。

主人公がグレッグ・グランバーグというのも絶妙な知名度な感じでいい。

アングルとかトランスフォーマーぽいところがあったり、別の怪獣映画のパロディらしきシーンがあったり、そこそこ楽しい。

アルバトロスが買い付けてきそうでそうでもない絶妙なライン。

 

 

「危険な情事」

基本的にはダグラスの屑っぷりが引き起こすことではあるんですけれども、グレン・クローズのあの感じは既視感があってすごい嫌でした。

というかダグラス目線(作り手の意図はこっち)で観ればホラーなんんですけれど、一方でグレンの視点からするとむしろ哀れというか同情を誘うわけでもあって、そういう感情が色々とまぜこぜになって観ていていやーな感覚に。

 

はじまりのボーイミーツガール

 最初のシーンのカメラワークにすごい既視感がー。

最初の方は割とよかったんだけどパーツがとっ散らかったまま終わってしまった印象。

なんだかなぁ・・・コメディに振り切ればまだしも。

 

34丁目の奇跡

ジョン・ヒューズ製作っていうのが本筋とも相まってより胸に来るものが。

ジョン・ヒューズの大人に対する不信みたいなものの裏返し、自分の理想の大人を描いたのではないかと思うと。

決してサンタの超能力的なものではなく、むしろサンタを救うために動こうとした結果としてスーザンの願いをかなえるというのが前半にサンタのハイスペックさを見せつけていたからこそ。

 

しかし鈴置さんの吹き替えボイスってこんなにセクシーでしたっけ? ちょっとやばいくらい色っぽくてヤヴァイ。

 

試写会に補欠当選したので行ってきた。あとターミネーターも観たよ

前日に「補欠当選しましたよ!」って言われて都合を付けられる自由人ってどれくらいいるのだろう、などとどうでもいいことを考えつつ「まあタダで映画観れるならそれに越したことはない」ということで試写会に行ってきました。

 

んで観に行ってきたのが「幸福路のチー」という台湾産のアニメでございます。

私は日本のアニメにも疎いので海外のアニメ事情なんて全く知らないので何とも言い難いのですけど、いやーでもこれやっぱり「窓辺系」映画の系譜でしょ。

いやーでも観賞環境もあるのかなぁ。今回は日比谷図書文化館のコンベンションホールで観たんですけど、座席が自分に合わなかったのと(劇場としては)かなり小さめのスクリーンにDVD?映像を映しているだけっぽかったので、ちゃんとした映画館で観たらもうちょっと評価が違ったのかもしれないですね。

「プロメア」のときも書きましたけど、観賞環境ってかなーり大事です。

 

さて、そういうわけであまり良い観賞体験ではなかったんですけど、それを差し引いてもこの映画はチョー最高というような映画ではないでせう。

というか、ちょっと良く分からないのが劇場アニメなのにリミテッドアニメーションでかなり枚数を省いている(かといって京アニ的とか日本の深夜アニメに見られるような書き込みがあるというわけでもない。キャラデザも一昔前のNHKの教育アニメとか・・・まあ一番近いのは「レジェンズ 蘇る竜王伝説」とか、ああいうのですし)んですよ。下手したら低予算の日本産アニメ並みの枚数並みのときもある(たぶん、1秒あたり8枚もないところが結構あるんじゃないかしら)くらいなんですよ。

かと思えば唐突にフルアニメーションになったりと、どうも場面単位でアニメーションにブレがありまして、じゃあフルアニメーション(とまではいかずとも秒単位の枚数が増える)シーンには何か意図的なものがあるのかというと、ちょっと私には分からないくらい規則性とか表現としての狙いが見えてこないんですよね、そこの使い分けに。

その辺がかなり気になったのと、これ基本的にはさっきも書いたような「窓辺系」の映画なので何か具体的な物語上の目的があるわけでもなんでもなくて、まあかなり乱暴に言ってしまえば「都会での生活に疲れた中年女性が故郷に戻ってそこで人の暖かさに触れてほんわかぱっぱする」系の映画なので、どうも観ている側としては困る。

 

アニメの表現という点ではほかにも気になるところがあって、たとえば食べ物を背景絵(セル塗りじゃない絵)と同じように描いているところがあったりして、しかもそれを意識してしまうくらいには大きく映っていて、なんだか食べ物というよりはキャン★ドゥとかのオーナメントがテーブルの上に乗っているのではないか(というかテーブルと一体化している)んじゃないかと思えるような無機質さだったり、夫がタクシーで去っていく終盤近いシーンでタクシーが中央線の上をさも当然のように走っていく様とかですね、なんというかこれアニメーションとしてはどうなのか、というのが多々散見されるんですよね。

いや、それが「ダイナミックコード」とか「チャージマン研」とかああいうレベルまで突き抜ければそれこそ一つの魅力としての愛嬌を持たせることはできるのでしょうが、この映画が目指しているのは(というか今あげた名前も決してそこを目指していたわけではないのでしょうが)もっと意識高いところだと思うんですよね。

んが、その意識の高さ、というかこういう日常の悩みみたいなものを描くのであればそれこそアニメーションの細部に注力しないといけないわけで。

 

なんか本編の始まり方もすごい唐突でスタジオロゴからの動きのある俯瞰ショットという呼吸の荒さで、こっちが驚いている間にいきなり現実と空想(回想)が右往左往し始め混乱しまくるわけです。

んじゃそれが今敏的なシームレスさがあったり、混然一体となったダイナミズムが快楽に繋がっているかというと別にそういうことでもなく、むしろ混乱させられるということの方が多かったりするわけです。

 

お祖母ちゃんの扱い方もなんだか絶妙におろそかなのがすごい気になる。一応、お祖母ちゃんが死んだから一時帰国してきたという体なのに、中盤でお祖母ちゃんは何だったのかというレベルで出てこなくなりますし、なんか最後に諭した言葉を残していくだけですし。第一、あの台詞は原語のニュアンスが上手く翻訳されてるのかわかりませんが、なんか最後に残す言葉としては温かみにかける極めて現実的な、それこそ皮肉なんじゃないかと思えるくらいなんですが、あれは文化的な違いか何かなのだろうか。

いや本当、祖母ちゃんちょっとひどくないですか、それは。というか全体的にお祖母ちゃんの扱いが謎で、ある出来事からチーちゃんがお祖母ちゃんに不信というかまあ疑いを持ってしまって、チーの悪夢の中でお祖母ちゃんは恐ろしい龍として登場してしまうわけなんですが、それをお祖母ちゃん自身が清めるという極めてマッチポンプなこの描かれ方がなんだかよく分からない。いや、意図は分かるんですけど、演出としてはどうなのでしょう、これ。

 

ただお祖母ちゃん関連では日本版の吹き替え(試写会では字幕)がLiLiCoだというので、エリック以外のLiLiCo吹き替えはちょっと食指が動くというのはあるんですが。

 

この映画の特徴としては「サニー/永遠の仲間たち」のように回想の中で、チーの歩んできた人生と80年代から90年代の台湾における社会情勢がリンク・・・というか背景的に描かれるというのがあるんですけど、「サニー~」が当時を共にした友人の末期という時代性と他者との係わりが密接に結びついていたのに対し、「幸福路のチー」においては小学生時代の友人とはその学年内で別離を経験することになり、もっぱら学生運動とかそういう時代を共に経験するわけでもなくチーちゃん一人の個人的な体験に終始することになってしまってるんです。

だからチャンちゃんとの回想が本当にただの過去話としてしか機能せず、「チャンも大変だったんだね・・・それで?」といった具合にチーちゃんとのリンクがミッシングしている。

あのガッチャマン小僧が二人を繋いでくれるのかと思いきや別にそういうこともなく、本当にただ被災してしまうというだけ。

あのガッチャマンはもうちょっと丁寧に扱えばもっとうまくいった気がするんですけどね。

 

とまあこれまで書いてきたように基本的には「窓辺系」の映画であり、じゃあその日常描写を支えられるほどのアニメーション的な楽しさや細やかさがあるかと言えばそういうわけでもなく、ぶっちゃけると退屈ではあります。

 

場面場面では良いところもあって、チャンがチーにチョコレートをあげるシーンでチャンがさりげなくズレた肩紐を直すところとか、従兄のウェンの写真と自分の写真をトランジッションで対比させて現実と夢のギャップを表現していたりするのとかは好きですし。他にもいいなーと思ったところはあったと思うんですが、忘れた。

 

でもやっぱり、かなり散漫な印象の映画ではありまする。

 

 

で、ターミネーター

いやまあ、ターミネーターにはそこまで思い入れがあるわけではないので、「まあこんなもんでしょう」といった感じで普通に楽しんで観ていたのでこれといって書くこともなかったり。

メインキャストは全員良かったですな。マッケンジー・デイヴィスもリンダ・ハミルトンも。

シュワちゃんは添えるだけ、というバランスも絶妙ではある。

設定的にはかなりチョンボしていますし、やってること自体はこれまでのシリーズと同じです(ていうか同じことしかできない)。

ただ今回のターミネーターは他のターミネーター作品、もっと言えば他のアクション映画では中々観られないものが観られます。そして、それこそが個人的には一番の萌え燃えポイントでございます。

もちろんそれは強いババアことリンダ・ハミルトン。これまでのアクション(のある)映画において強いジジイというの大勢登場していましたが、強いババアはそんなにいなかったでしょう? 強い女性であはりません。強いババアです。

強いジジイの台頭(?)というのは、もちろんドゥークー伯爵がそうだったように(クリストファー・リー)CG技術の進歩によって役者の顔を張り付けることができるようになったから、ということとも関係があるのですが、2000年代あたりから目立つようになってきたとは思うのです。マグニートーイアン・マッケランもそうですしイーストウッド(はまあそれ以前から強いジジイでしたけど)もそう。

そもそも強いジジイというのはマンガやアニメにおいては常に登場してきており、それが実写に投入されたというのは技術的な側面が大きいと思うのですが、リンダ・ハミルトンはもはやそういうCG云々ではなく彼女自身の本物の身体でもって強いババアを体現しているあたりが凄まじいのです。

思えば、漫画アニメにおいても強いババアというのはあまりいないような気がします。たとえいたとしてもそこには何かキッチュな要素が投入されていて、ここまで純粋に肉体的なアクションを体現しているのはやはり多くはないでしょう。

 

というわけでこの映画はシュワちゃんでもマッケンジーでもなく、私としてはリンダ・ハミルトンの映画なのであります。

リンダほどストイックにやらなくてもいいので、この映画をきっかけにもっと強いババアが描かれる映画がどんどん出てきてほしいものです。

問題は需要があるのかどうかというところでしょうか。

 

あと三部作構想もあるらしいですけど、別に「ニュー・フェイト」だけで一応収まっているので別に続きはいらないんじゃないでしょうかね?

 

 

スーパーマンならぬスーパーボーイ(邪悪)~I'm a bad guyを添えて~

いやあ「スーパーマン」を、しかもよりによってリチャード・ドナー版の方をあんな最悪なパロディにするとは。

というかまあ、この映画のコンセプト自体がスーパーマンの裏返しなわけなので筋は通ってるんですけど、にしてもあの空中ランデブーの背景との浮き具合といいドナーの「スーパーマン」をあまりに露骨にパロりすぎでっしゃろ。目からビームとかも。
それと飛行機のところは何となく「ドニー・ダーコ」感が。

あとはあの農場の風景と超能力少年の傍若無人というモチーフはナイト・ビジョン(リメイクの方のトワイライトゾーンだったかな?)に同じような話がありましたな。
ていうかオムニバス映画版の方でジョー・ダンテがやってましたっけ。あっちは観てないんですけど、ジョー・ダンテだから面白いはず。


ジェームズ・ガンがプロデュースに回っているというのはこの映画を最後まで観た後だと妙に得心する。

個人主導でバースを作るという試み自体はすでにシャマランという先人の切り開いた轍がありますから、ジェームズ・ガンもその辺の勝算があってのことなのでしょう。
ジェームズ・ガンのやりたいものって要するにグロ・ゴアなユニバースものなのでは。トロマを経てMCUを経て次にジェームズ・ガンが志向するのがそのどっちもの合わせ技でいこうとするのは確かに分かるのだけれど。
確かに色々なバース映画が跋扈していますが確かにその路線はなかったし一定の需要はあるのだろうけれども。だからレーティングが低いのかもですが、配給もRakuten系列というのがちょっと不思議。
脚本周りもかなり身内で固めてるし、今後の展開を見据えてあまり口出しされたくないということなのかしら。

この辺の事情が載ってるのかはわかりませんが、どうあれ、お金なくてパンフ買えなかったのが悔やまれる。

にしてもゴア描写は本当に徹底しています。特にあの目のくだりは本気で目を背けちゃいましたよ。あそこまで本気で描写するのって私程度知識ではそれこそ「アンダルシアの犬」くらいしか思いつかないんですけども、この規模であの描写はちょっとないんでは。

それ以外の部分ではちょいちょい「おいおい」と言いたくなるところもあるのですが、90分というランニングタイムを完走しきるだけの力はあるかと。
さらに言えば、その「おいおい」な部分も「子を授からなかった」ブレイヤー夫妻の親としての気持ちや葛藤といった意をくめば実はそこまで不自然でもなくもなくもないのですよね。

この親としての葛藤は血縁という強固な繋がりを持たないがゆえに(それどころか隕石から出てきた赤子なので)息子を最後まで息子として信じることができなかったのが空中ランデブーなわけで。

この両親の葛藤が一線を越えてしまう二か所のシーンにおける、ブランドン役のジャクソンの顔の「・・・え?」といった困惑と哀愁の表情が実にグッドです。
それ以外のシーンでは割とポンコツな演技も見えるような気がするのですが、両親が一歩踏み越えてしまうところの、それがもたらしてしまう不可逆な結果も相まって(絵面は結構馬鹿っぽいんですけど、行われてることは虐殺なのでやっぱりぐろい)ちょっと悲しくなってしまう。

そう、この映画が最後まで突き抜けられるのは実のところはそのキッチュなヒーロー性の部分ではなく親子の繋がりを、しかし確固たる係累を持たなくとも信じることができるのか、という底意地の悪い問いかけ部分のポテンシャルなのでせう。

これって何気にジェームズ・ガンが「GotG.vol2」で描いていたことでもあるんですよね。
それがひっくり返ってしまったバッド・エンド、ヨンドゥから声をかけられず電池になってしまったスターロードくんの姿なのでせう。

最後まで残るのが母親、というのも上手い。下手にエディプス・コンプレックスに行くのではなく(最初の犠牲者は別の母親だし)、息子にとっての母親(その逆もしかり)の愛が試されるというのは、かなり納得がいく。あそこは父親では成立しえないんですよね。その辺は外さないあたり、やっぱり家族の物語でしかありえないのです、この映画は。

ある母親は言う。「たとえあなたが人を殺したとしても、私はいつまでもあなたの味方だから」と。

けれど、そこに血縁という繋がりがなかったら? そこにエイリアンという隔絶した断絶があるとしたら? その子が自分の最愛の人を殺したのなら? そういう意地悪なWhat ifの集積があの結果なのです。

自明として、所与として与えられている親子という関係性。その関係性を成す変数をひとつずつ微妙にずらしていき、もしもそれがスーパーマンであったら、という一種の思考実験。

この映画の持つポテンシャルは、多分思っているよりも大きなものだと思う。

だから、この映画から広がっていくユニバースがあるのなら、やっぱりちょっと期待したいのです。

 

MAFEXでフィギュア出してくれないかなぁ。

どうでもいいことですがあのノートが予言書みたいな感じ(というか予定表なのだろうか)だとしたら、彼は最終的に地球破壊光線を放つことになると思うのですが。

 

 

 

試写会 だよファイティング・ファミリー

最近は内向きな感じの本ばかり読んでいたのもあって、こういう自分の全く知らない界隈でてらいのないサクセスストーリーが描かれた映画を観ると開放感がある。

WWEは名前だけは知ってましたし、ロック様ことドウェイン・ジョンソンの経歴も知ってはいましたが本当にそれだけだったので、業界ネタとか分からないと楽しめなかったりするのかしら~とやや不安だったのですが全然問題ありませんでした。

後述しますが、むしろ何も知らないからこその(まあ一種の倒錯に近いかもですが)感動がより深まるシーンもあると私は思います。

むしろこの映画を観るうえで求められるのは下ネタへの耐性とちょっとしたグロ耐性でしょうか。
終始笑いに包まれていつつも、私の横で見ていた人はグロ耐性がないのかボーリングの球・蓋のあたりのくだりで「うわ」とか画鋲のくだりで「うぇえ」と声に出していたりしましたし。まあおかげでいい感じに映画館のムードに浸れましたが。とはいえ本当にゴアな描写があるわけではないので大丈夫だとは思いますが。 

それよりはディックとかコックとか、妊娠させて、とかヤらせろとか、イギリス訛りいじりとか歯並びとかその辺の定番ネタが随所にあって、それがまー下層家庭というかプロレスラーゆえなのか低俗で下品なんですね。マチズモ的な力学が過分に作用している業界なのでしょうから、当然と言えば当然なのですが。

個人的に一番笑ったのはそういう下ネタではなく、ヴェヴィス一家にドウェイン・ジョンソンがサラヤのデビュー戦についてのことを電話で報告するシーンだったり。
あそこでヴィン・ディーゼルの名前が出たときは流石に吹き出しました。たぶんここが一番劇場で笑いが起こったんじゃないかなーと。
ああいうネタを許してくれるドウェイン・ジョンソンのふところの広さを見せてもらった気がします。
割と本気で嫌ってるような感じに外野からは見えるので、その度量はさすがロック様と言ったところでしょうか。

あとはまあ、ケン・ローチを引き合いに出すまでもないのですが「キングスマン」でも描かれたイギリス下層階級事情や移民についての問題がそこはかとなく描かれているあたりもブリティッシュフィルムなかほりがします。
 

そんな下ネタ満載の映画を撮った監督、スティーブン・マーチャント。
全く存じ上げない人なんですが、一部ではカルト的人気のゲーム「portal」の続編でAIロボの声を演じていたとか。というかそれ以前にコメディアンでアクター(「ホットファズ」に参加してたんですね)だったり、という経歴のお方。2000年代初頭からキャリアを積み始めた方らしいのでそこそこ場数を踏んでいる人なんですね。一応今作が単独監督作品としては処女作らしいですが。

言われてみれば「ファイティング・ファミリー」はまごうことなきコメディ映画ですので納得。今作には一応ヒューという役どころでも出ています。
ヒューって誰だっけ?と思って調べたらザックのお嫁さんのパパさんでした。あの冴えない感じはコメディアンとしては美味しい風貌でありますな。徹底して受け身な役だし大して重要でもなければ出番もないのですが、画面に出ているシーンは大体笑える場面ばかりというのもコメディアンらしい自意識というかなんというか。

そういうわけで(?)役者はみんな良かったです。

主演のサラヤを演じるフローレンス・ピューさんも今作で初めて知ったのですが、「プラック・ウィドウ」への出演が決まっていたりアリ・アスター監督の新作にも出てるらしく、新進気鋭の女優でございます。

個人的にはクロエ・グレース・モレッツの愛嬌とミシェル・ロドリゲスのタフレディ(ガイ)な圧を感じさせるナイスな役者だと思いました。

裏の主人公であるサラヤの兄ザックを演じるジャック・フローデンは「ダンケルク」にも出ていましたな。この人、どことなくサイモン・ペグを思わせる顔つきをしていて、それなのに生気のない目をしていてそのアンバランスさが面白いです。今作においてはややそれが過剰に過ぎた感じもあるのですが。

個人的にびっくりしたのがニック・フロストがしっかりと怖く見えること。サイモン・ペグとのニコイチでじゃない方と呼ばれがち(?)な彼ですが、ちょっと頭のネジが緩んでるプロレスラーの危なさみたいなものが、これまでの作品では単なる肥満体型としてしか見れなかったその巨漢がしっかりと威圧感に繋がっているのはちょっと驚きました。

このニックやピューを筆頭に、「ファイティング・ファミリー」は肉体にコミットした映画であると言えましょう。

特にクライマックス。ピューのペイジとサラヤのペイジ本人とが一体化したのではないかと思えるリアルとフィクションのボーダーレスを役者の身体と実際の映像を交えたカットアップ編集によって表現されるシーンは、プロレス全く知らないからこそのセンス・オブ・ワンダーでしょうし、先述したプロレスというかWWEど素人の方がエモーショナルに感じられるかも、というのはそこに起因している。ここのデュアルペイジは本当によござんす。
 

全体的には無邪気に楽しめたんですけど、言いたいことがないわけではない。
なんというかですね、色々はぐらかさらてる気がするんですよね。

で、劇中で言われているように、プロレスを描く上でそれ=欺瞞を観客に悟られてしまうことはまずいことだとも思うのですよ。この映画にとっては特に。
アクションシーンで露骨にカット割りが増える、というのもまあ要素の一つとしてあげつらうこともできましょうが、それは些事というかいちゃもんにだとも思いますしそこまで気にしてないんです。

問題は他にある。

それは「予定調和の障壁」とそれによってもたらされる隠蔽されてしまう「過程」だと私は考えまする。

この「予定調和の障壁」は「500ページの夢の束」でも感じたものに近い。いや、あの映画は好きだしこの映画も楽しんではいたんですけど。

最近特に思うんですけど、そこまであざとく描かなくても状況に対する人間の反応ーーもっと言えば生理なんて殊更強調するまでもないことなんだから、ああいう見え透いたのはちょっとなぁ…と。

見え透いた障壁の一つとしてある女子グループとの対立。ここ、その対立の原因が実のところサラヤの他者への無理解と侮蔑というところにあった、というのはこの手の映画におけるクリシェの反転要素を持ち込んできていて、この障壁が立ち現れるという部分自体は良かったんです。

そこが良かっただけに、それを乗り越えるプロセスがおざなりにモンタージュで処理されてしまうのがなんとも。案の定、あっという間に背景化されファンファーレ送るモブになりますし三人組。

とはいえここをくどくど描かれてもこの手の映画でランニングタイムを増やされても困るというのはあるんで、あっちを立てればこっちが~ではあるんですが。

でもやっぱり、女子三人組をあそこまで描いておきながら最終的な帰着がモブ化というのは、この映画が掲げた「陰の功労者への賛美」に対する不誠実さと受け取られても仕方ないのではと思いますですよ。
あのね、そういう「持ってる側」がそうでない人を描くのであれば、そういう人たちを錦の御旗にするような形で使っちゃいけないと思うんですよ。

思い返せばこの辺のモヤモヤは「万引き家族」における池松くんの使い方とちょっと重なる所があって、その点で是枝さんがリスペクトするケン・ローチ監督は当事者性を盛り込んでいるあたりが流石なんですけど。
いかんせん是枝さんは優等生過ぎて逆に是枝さん自身のテーマと矛盾しているところがちょいちょいあるので・・・。

ともかく、そういう、この映画のもう一つの、っていうか真のテーマは「溺れるナイフ」の表立った裏テーマとして描かれたものであり、「太秦ライムライト」や「俳優 亀岡拓次」が面と向かって描いたものでもありましょう(それぞれの出来栄えはともかく)。

何が言いたいかというと、それがないがしろにされている、と言いたいわけです。

でもこの辺はそこまで気になったわけじゃないんですよね。というより、この部分だけなら多分そこまで目立たなかったのではと思う。

問題はザックですよ、ザック。ザックの立ち直り、あれが実は割となあなあになっているんですよ。勢いとサラヤのサクセスストーリーに回収されてしまって騙されてますけど。

サラヤがWWE選抜に選ばれ彼女がトレーニングに励む一方、カットバックで選ばれなかったザックの懊悩がこれでもかと描かれる。
この小刻みなカットバックも「しつこい・・・!」と笑ってしまうくらい(このテンポの感覚ってちょっとコマーシャルっぽいんですよね)なんですけど、ともかくサラヤが壁にぶつかって休暇で家に戻ってきた際にザックと衝突するわけです。

ここまではよござんす。んが、そこまでザックの苦悩を執拗に描いて、その後チョンボですよ!

 よく考えてみてほしいんですけど、サラヤへの家族からのサポートはあったけど、ザックへは何かありましたか?
まさかガレージの前みたいなところでのサラヤとの応酬がそれですか?

いやね、ヴィンス・ボーン演じるハッチ・モーガンこそが持たざるザックの理想形であるわけですけどね、確かに彼の言葉はサラヤを通じてザックに投げかけられるわけですけどね、それはハッチが本人に直接言わなきゃ伝わらないっちゅーの!

スターであるサラヤを経由しちゃうと意味合いが変わるんだよ! 何を言うかじゃなくて誰が言うかが大事なんだよ鈍ちん!
ハッチとドウェイン・ジョンソンのあのやりとりは観客に見せるだけじゃなくてザックにも見せないとダメなんだよ馬鹿ちん!

実際、ザックとハッチの関係性は劇中で描かれる限りではかなりギスギスしたままなんですよ、劇中のやり取りだけ観ると。ザックにとってのハッチは自分を落とした上に直接の(電話だけど)打診を断った相手だし、ハッチからしてみればその力量を認めつつもザックは脱落者の一人でしかない(現に週に数千人の希望者がいると劇中で明言される)。だからこそサラヤを選んだのだから。

結果としてはサラヤの成功のおかげで間接的に認められたような感じになる、そしてザック本人もそう感じている(だからこそ煙に巻かれているように見える)。

だからこそ気味が悪いんですよね。ザックの主体性が、あそこまでの怨嗟がいともたやすくサラヤの中に取り込まれてしまうデウス・エクス・マキナが。

存命中の人を事実ベースで扱ってる以上は大幅に脚色するのも躊躇われはだろうし、そもそもそれをやっちゃうとここまで軽くならないだろうし…といつものように無い物ねだりする自分に嫌気ががが。
 でもウィキさん見るとかなり脚色したり事実を省いているあたり、やはり物語に貢献させるための座組としてザックがああなるようにしているし。

そういうモヤモヤを除けば、描き方の古臭さというかコテコテな感じはバカっぽくてこの映画には合ってると思いますし楽しい映画です。
 

それとこれは映画の問題じゃなくて極めて個人的な倫理観の問題なんだけど、オリバー・ストーンの「エニィ・ギブン・サンデー」を見て以降(実際はもっと色んな要素の積み重ねの末のきっかけですが)マチスモ的業界の内幕が描かれたものを見るとああいうのを見てバランス取りたくなる衝動に駆られる。

ダークナイトを見たあとにバートンバッツを観るのに後ろめたく感じるようなアレなのかも。

 

アクチャブリー

外人部隊フォスター少佐の栄光」

これブラッカイマーってマジですか。

何か今のブラッカイマーの仕事からだとあまり結びつかないタイプですな。最後の戦闘シーンはそれっぽい気もしますけど。

 

「Ainu | 人」

このドキュメンタリーで出てくる差別を受けてきたアイヌの民の人たちの顔を見て思ったのは、その発言の内容を聞いていて思ったのは、「客死」だった。

 

差別は過去の出来事として、記録として残しておくべきことではあっても、恨みはない、と言う。その言葉に嘘はないのだろう。

けれど、アイヌの人たちはかつての習俗を「同和」という略奪行為によって一度はすでに奪われてしまっている。たとえ北海道に住んでいたといたとしても、その奪取された事実は不可逆なものであり、その誇りを汚されてしまったことに変わりない。

彼の土地は、すでにアイヌの人々にとってはよその土地になってしまっているのではないか。

この映画ではむしろ自然の一つとしてその土地を敬いアイヌの伝統儀礼としてその土地に根を下ろしているし、積極的な文化啓蒙活動の営み(だけ)が写し出される。

けれど、少なくとも私には彼らの発言から日本人とアイヌ人との断絶を意識せざるを得なかった。

なぜなら、彼らは(全員ではないにしろ)本土の人間を和人と呼んでいた。

差別の当事者であった彼らにとって、当時の問題の渦中にあった人としてその名称が流通していたからであって、そこに本土人アイヌ人を分断するような他意はないのかもしれない。

それでもこの居心地の悪さは、忘れてはならないものなのだと思う。

 

 

「おっぱいとお月さま」

タイトルが意味の重畳している気がしますが。

 もっとこう、子どもの視点でおっぱいを科学するのかと思ったら結局のところは兄弟と母性を巡る可愛らしい葛藤ではあった。

まあでも、科学しているといえばしているのだけれど。

国柄なのか監督の趣味なのかはわかりませんが、弟を全く描かなかったりおっぱいをてらいなく描くあたりなんかは面白いと思えるんだけど。

ただ、この手の作品にありがちな弟に対する嫉妬とか、そういうものを描くのではなく奪われた母性の象徴としてのおっぱいにひたすらフォーカスし、そこにアダルトやアダルトに向かうヤングを絡めてきたりするバランス感覚はちょっと他になくて楽しかった。

まあおっさんの趣味趣向みたいなものが見え隠れして気持ち悪い、という感覚も無きにしも非ずなのですが、まったくと言っていいほどおっぱいがエロくない(セクシャルなものではなく授乳だし)あたり、やっぱり純粋に少年の視座に立とうとしているのではあるのでしょう。

 

 

「英雄の条件」

 フリードキンなんですねぇ、これ。何気にガイ・ピアース出ているんですが、このころから嫌な役やってますな。嫌な、ってわけじゃないけど。

死に瀕した男たちの見る、彼らに死か見えない極地を法廷劇()で描く。

面白い。

 

 

「6歳のボクが、大人になるまで。」

今さら観賞。リンクレイターはやっぱいいなぁ。

邦題は若干失敗していると思いますが。これ大人になるまでっていうより、ようやく大人への一歩を踏み出したところで終わっているわけだし。句点まで打っちゃってるし。う~ん。

役者の肉体の変化は言わずもがな、画面の質感の変化や取り巻く環境・テクノロジーの変化などなど、その変遷を観るのが楽しい。

ラストカット(あの気まずい空気の中に和みがある感じがたまらない)の「この瞬間」の語りは、ハイティーンにありがちな自我の肥大と他者との表層的な係わり(シーナ周りとか)を通して、分かったようなことを散々うそぶいていたメイソンが、自然の中で二コルという他者に素地を曝した(まさに彼自身の繕わない自然さ)が故であり、その言霊には「重み」こそなくとも「切実さ」がある。

メイソンに、ひいてはエラー・コルトレーンくんに「重さ」を背負わせるには12年では多分足りない。でも、だからこそあの心地よい気まずさというのはあれくらいの「軽さ」がなければ出せるものじゃあない。

 

その軽さの代償と言わんばかりにオリヴィア(パトリシア・アークエット)にしわ寄せが行っていて、彼女に関してはちょっと不憫なまま終わるんですけど。

あとあれはメイクなのかどうか分かりませんけど、体型が結構変わるんですよね。その辺も生々しい。

 

あとエロスね。「ミスターノーバディ」とか、他の映画の感想でも書いた気がするけど、成長可能性を秘めた身体のエロさというのはやっぱり確実にある。

特にローティーンの女性というのはそれが顕著に表れる。だから、中盤あたりはぶっちゃけサマンサ(ローレライ・リンクレイター)にばかり目が行っていた。

決して際立って美人とか可愛いというわけではない。しいて言えばブサカワ系ではありますでしょうが、それが返って生々しかったりする。

リンクレイター、こういうところに自分の娘を配役するのってやっぱり親馬鹿なのだろうか。

とはいえあくまで主役はメイソンくんであることは貫いているので、サマンサの行事は悉くカットしていますね。それでも尺が長いのですけど。その辺はウィル・スミスみたいにならないあたりちゃんとわかっている気もしますけど、線引きを。

 

でもまあ、よく考えたら役者の肉体の年輪をそのままスクリーンに投射するという意味であれば、「ハリーポッター」シリーズって「6歳の~」の先駆け的な映画ではありますね。

まさに劇中でも謎のプリンスの発売シーンが盛り込まれてたりしますが、リンクレイターはやっぱり意識してたんだろうか。

 

マイライフ・アズ・ア・ドッグ

 まさかのおっぱい映画。

しかし北欧とかあっちの映画って何でこうも空気がじめじめしてるのだろうか。

この映画に関していえば最終的な着地も含めてそれほど暗いわけではないのですけれど、前半から中盤までの画面の風景が放つあの鬱屈とした感じはやはりロケーションのなせるものなのだろうか。

ややもすれば「ハート・ストーン」とかあっちの方向に行ってもおかしくはない空気を序盤はかなり孕んでいたような気がするのですけど、それはさすがハリウッドで活躍できるハルストレムといったところだろうか。

うーんやっぱりソフトフォーカスってもしかしてそれをぼかすためにつかってたりするのかしら?

 

しっかし折笠さんと川上さんの吹替えだからかやたらと二人のボーイズ&ガールズがかわいい。だからこそ序盤のあの空気が恐ろしくもあったんですけど。

 

レイジングブル

スコセッシに限らないけど少し古い映画はあまり観なかったり、以前にちょろっと観たけども…というのが多く、ので長らく本作も名前だけは知ってたけど観たことがなかった。

 

あれですね、「道」。

 

 

「ダンス・ウィズ・ウルヴズ」

「レヴェナント」だこれ。

あとリリコがいた。

境界を越境していく人物としての南北戦争の冒頭のあれを白人とネイティブアメリカンとの越境というのはわかりやすいのだけれど。

コスナーって真面目というかなんというか。

 

「フューリー」

戦争映画は数多くあると思いますが、戦車の戦闘をここまでフィーチャーするのはあまりないように思える。

いや、面白いっちゃ面白いし好きな映画ではあるんですけど、いかんせんノリが軽いというか、どことなくブラッカイマー臭がするというか。

音楽の使い方とか、戦争映画にあるまじきアーバンなbgmを多用するし、ブラピのズーム(カメラ本体を近づける)の中途半端さといい、なんか戦争映画を観ているというよりもいわゆるエンタメ大作を観ているような感覚に。

その適度な軽さとスクリーン上で起こるグロテスクな惨状の歯車がかみ合わないとまでは言わずとも妙に軋みを上げているような具合が奇妙な笑いを誘う。

それはドイツ人の女性とマシンがメイクラブした直後のあのブラピたちのニヤニヤした顔つきからも分かるように、ひたすらにシリアスを貫こうとしているわけではないことからも分かる。

 

吹替えで観たんですけど、全体としてはいいけれどいかんせんこの映画のブラピにけんゆーさんを当てるのはちょっと声が優しすぎるかな、と。特に叫ぶところとかは、もっとドスがきいているほうがいいかな、と。

シャイアの小松さんはぴったり。この人、個人的にはシュワちゃんと玄田さん並みのシンクロ率がある気がする。シャイアの咆哮とか同じ言葉を連呼するところとかも、ちゃんと声が低くなるし。

でもシャイアに髭は似合わないかなぁ。

 

「キューブ」

そういえば観てなかったと思い立つ。

そっか、グロというかゴアな趣味は「スプライス」とかを観てると意外と納得するところではある。

あの幾何学模様のデザインの部屋とかは割と好き。

ニコール・デ・ボアがアリータに見えた。

カメラワークとか編集のテンポ優先な感じとかB級(まあ製作費安いし)なテイストが。

この手の映画では実質的なリーダー役がむしろ悪役的な立ち回りを演じるというのも結構以外だったり。

 

モリーズゲーム」

アーロン・ソーキンってこれが初監督作品だったんですな。ちょいちょい名前を耳にするからてっきりベテラン監督かと思っていましたが。

何となく、編集のテンポがアダム・マッケイに通ずるものがある気がする。ただあちらのようにユーモアやアイロニーに彩られた笑いを含むような誘引はなくて、至って真面目なのだけれども。

キャプテン・マーベル」と同じような題材ではありますけど、自叙伝がベースになっているだけあってかなーりリアリティがある。

どれだけ脚色されているのか分からないけど、アーロン・ソーキン的にはやっぱり父親の存在を主軸に据えたかったのだろう、というのはコスナーを配置しているあたりからもわかる。

ジェシカ・チャスティンって「ゼロ・ダーク・サーティ」といい、理不尽な状況とか非日常に適応せざるを得なくなった女性という役柄を当て込まれることが多いですな。

生命の危険と隣り合わせの「ゼロ~」に比べれば危険度で言えばまだ安全圏での話ですが、男性優位社会における彼女の振る舞いは、しかし徹底的に自分に責任を負う自立心を確立しなければならなかった悲哀がある。それを彼女自身は気づいていないのかもしれないところがまた。

まあ、そうやって自分を貫いたからこそのあの判決だったわけだけれど。

もう一つ、すでに触れたような父親の問題もここにはある。その視座は、「大いなる西部」の逆パターンと言えるでしょう。

 

親は子がいて初めて親になる。最低で不義理で不器用な糞親父ではあったけれど、確かに娘への愛情はあった。そして、彼女を追い込んだのは彼であっても、彼女が立ち上がるときにいたのもまた彼「ら」だった。

それは、ともすればDV的なマッチポンプにも見えるかもしれないけれど、果たしてスケート場での二人の無料セラピーを観てそこまで言い切れるのかどうかというと、他人の私には言い切れない。

ただ、アーロン・ソーキンはそこに親子の情を見出した。そこに賛否両論があってしかるべきだとは思うけれど、単純化されていない分、少なくとも誠実だとは思う。

 

ラストカットをどう解釈するか、という部分に関していえば、私はまあ「女性はスタート地点からして足を引っかけられるような軛がある」という、むしろラストに至って問題提起しているのではないかと思いまする。

そういうところも含めてアーロン・ソーキンはやっぱり誠実なのだと思います。

 

「ボーダー」

 やっぱりニコルソンなのだ。

そして「プレデター」のエルピディア・キャリロ出てますな。あの人の顔好きなんですよね~。

ニコルソンのビンタとかBBQ器具をプールに投げ込むところとか、ああいうのを見るにつけ笑いが漏れる。

監督が60年代からの人だからか、あまりカットを割らなかったりそこまでバストサイズを使わなかったりするところがまたニコルソンを客観視させるようで。

本筋とは直接かかわるわけではない、あくまでマリア(というかメキシカンたち)との対置に留まるニコルソンの家庭の風景が、しかしその場面で語られる日常の言葉にやたら重みを感じてしまったりするのであった。大仰に人生をテーマにかかげるようなものより、ああいうサラっと描かれる方が胸に来ることが多い気がする。

それはそれとして悪辣な状況にあるメキシカンたちの行く末が、マリアのラストが、決してハッピーエンドではなく何一つ前進していないあの有様が、まさか40年近く経った今も続いているのをメディア越しに確認しなければならないというのが世知辛いところである。

ロボット2.0 試写会

というわけで「ロボット2.0」の試写会に行ってきました。

 

1作目が確か2010年とかだった気がするので、ほとんど10年ぶりの新作ですか。
お話の内容は細かく覚えていないんですけど、ひたすらCGを使ってあほらしい映像を見せてくれる楽しい映画だったような気がしたので、頭空っぽにして楽しめるタイプとしては割と好きな作品ではあった、と思う。周りの評判も良かったし。
なので本作も割と愉しみにしていた。


本編の前にちょっとしたトークイベントもあったのでそちらについても例のごとく少しふれておきませう。

ゲストは有村崑さんとハリウッド・ザ・コシショウさんでした。ええ。映画の内容が内容だけにゲストも何となく軽さを感じさせますね。

有村さんについては、以前なんかの番組で一度に数本の映画を同時に観賞するとかいう「それどう考えても内容頭にはいってないですよね?」な観賞方法をしている、という話をしていて個人的にはあまり信用していない人ではあったのですが、インド映画の文化的背景についてなどの話はためになりました。さすがに事前のリサーチはしている様子。まあ少なくともおす〇と〇ーコよりは信用していいのかもしれまへんね。

以下内容をさらっと箇条書き

北インド(エリート系)と南インド(庶民派)と大別できて、ボリウッド映画は主に前者だが昨今は南インドからの映画も存在感を放つようになってきている。
南インドカーストの名残がまだ残存しているため、成り上がりが難しい中、「ロボット」シリーズの主演であるラジニカーントは大工やバスの運転手からトップ俳優へと転身した人なのだとか。
 ・人口と経済力ブーストによって年間の映画製作本数が2位の年間800本の中国に大差をつける1800本と異様に供給量がある。ちなみに3位はアメリカで600ちょい、4位は日本で500ちょいだそうです、確か。
・インドは細分化すると言語が600以上あるため、多くの人に理解してもらえるように作るためにシンプルな物語になるのだとか。

と、まあそんな感じでしたでしょうか。

そこからザコシさんが「ボリウッド」Tシャツを着て劇中のあるシーンを再現したコスプレで登場からのネタ披露といった感じ。

気になる人はこの記事を参照
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191016-00000107-natalieo-ent


はい、そんなわけで「ロボット2.0」。ま、前作からこの映画シリーズのやっていること、というか映画的戦略というのは実に分かりやすい。「質より量(数)」ということですね。

今回もその路線を引き継ぎ、続編ということでその量(数)をただブーストしただけというあたり続編としての真っ当な佇まいが見える。

しかし今回はそれが度を越していて、インド映画史上1位の制作費90億円(バーフバリが70億円ちょっと)とのことで、こんな(とか書くと失礼だけど)映画に90億も投じれる国力というものを感じざるを得ない。
とはいえ、ハリウッドの超大作はその2~3倍の予算は軽く出してくるので、あくまでインド国内限定ではありますが、それでも90億円ですから大層なものです。

「ロボット2.0」が面白いところは、ハリウッド映画であれば90億円あれば一つ一つのVFXを丁寧に仕上げていく(質)ことに注力するのに対し、こちらはひたすらに「量(数)」を増し増しにすることに注力するということです。

弱き者の兄弟曰く「中身のないヤツが数を誇る!」
しかしである。それだけの予算をもってしてひたすら量・数を過剰供給することでしか見えてこないものというのも確実にある。

それが顕著に表れるシーン(まあCGのシーンはほぼ全部そうなのだけれど)は、敵であるスマホロボかつバードマン(これ本当に「バードマン あるいは~」のバードマンまんまで笑います)が人間だったころの回想シーンで(この回想シーンも20分くらいありまして、その辺の「どう考えても編集で短くするところですよね?」な部分も盛り込んでくる物量作戦)CGの赤子が大きく映し出されるのですが、この赤子がやばいです。

個々のクオリティではなく全体の量を増やすことに注力したせいで、このCG赤ちゃんが完全に不気味の谷に垂直落下しています。まごうことなき谷底です。なまじCGがよくできているがためにかえって不気味になってしまっていて、超グロテスクです。

このグロテスクさは「アメリカン・スナイパー」におけるCG赤ちゃんを超えてきています。あれも相当でしたが腕だけだったし、その点で言えば「ALWAYS~」のCG人間に近いのかもですが、あちらよりもディティールが凝っているがゆえにそのモーションの不自然さなどが返って際立つという不気味の谷への真っ逆さま具合などは、クオリティ重視のCGでは見られますまい。

またグロテスクで言えば、スマホが体内に侵入して体内から爆殺するという絵面があったりと、なんか予算のないマイケル・ベイがやけを起こしたらこんな感じになるんじゃないかという気がします。派手な爆発もあるし。

と、まあそういうキッチュな楽しさで割と満足していたりするのですが、割と本気で悍ましいシーンもあり、たとえば無数のスマホに部屋を囲われてしまう悪夢的なシーンなどは下手なホラーよりも怖いですし、部分部分での視覚的な楽しさはあるし、それだけで個人的にはOK。

ただ逆にそれ以外のVFXを多用したシーンはしょっぱい(それでも受容されるのでしょうが)戦闘ばかりで、正直なところ怠いです。長いし。

鳥が云々とか、勧善懲悪な構図みたいなものも破綻しており勧悪懲悪と呼んで差し支えない周囲巻き込み型戦闘・人質もとい鳥質作戦を展開しますし、その辺はもうご愛嬌というか突っ込むだけ野暮というか突っ込む方が馬鹿と謗られるレベルですので。
あとは90年代のオカルティズムもあわやといったバードマンの設定(「ムー」あたりの霊はプラズマ並みのアレ)だったり、もう本当にその辺はね。

巨大ロボットバトルが観れたんだからまあいいじゃん、とかそういう心持で観るべき。



あーあとはあまりインド映画を観ないのですが、喫煙シーンにてカット単位で画面左下に「喫煙ダメ絶対!(意訳)」な注意喚起が表示されるのは笑いました。
場面単位ではなくカット単位で喫煙しているカットごとに表示されるこまごまとした編集が。そういえば大河ばかりで喫煙シーンのあるインド映画というのは観たことなかったのだけれど、ああいうのがあるのですね、インドって。



脚本というかお話はまあずさんだし、カット割りのタイミングとか前述したような回想の長さとか、はっきり言って怠い部分は多分にありますし決してウェルメイドな映画とかではないのですが、それでも物量の過剰供給と所々のシーンでそれがもたらす歪なものが見れたりするので、そういう意味ではほかにはあまり見られない映画ではあると言えるのではないかと。


これ、絶対に日本では万人向けとして送り出すのは無理だと思うのですけど、インド本国では2018年の1位のヒットで歴代2位のヒットだというのだから驚き桃の木山椒の木です。