dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

久々に2本連続で観てきました。

久々に時間と金ができたので。

「フォードVSフェラーリ」と「リチャード・ジュエル」の2本を。

 

「フォードVSフェラーリ」はですね、冒頭の真っ暗な、ややもやがかかったコースを車のライトが照らしながら走行するあのシーンからのマット・デイモンの顔アップで涙腺に来た。

なんというかこう、無垢な美しさといえばいいのでしょうか。あの表情とあの路面が観れただけでかなり満足してしまった。

あと、何気にあそこまで空港(?)の発着場を綺麗に描いた映画ってあんまりないんじゃなかろうか、とか考えてしまった。

空港でのアクションは多々あれど、記憶にある限りだとほとんど夜中の真っ暗なシーンだったりあるいは真昼間とまでは行かずともとても明るかったり。

それに対してこの映画でチャンベール親子が寝そべってるシーンの空のコントラストと背景に徹する遠くの建物が放つ丸い光の点。

美しい、というよりも綺麗というべきだろうか。ジェームズ・マンゴールドの映画は「アイデンティティ」と「ナイト&デイ」と「ウルヴァリン」シリーズくらいしか観ていないのだけれど、こんなに綺麗な光景を撮れる人だったかしら。これはむしろ撮影監督のフェドン・パパマイケルの手腕によるところが大きいのかもしれない。

ウルヴァリン」シリーズの撮影監督は別の人らしいし(アイデンティティとナイト&デイはこの人だけど)。

あとバストサイズや顔面のアップが多いのといい、役者の顔を撮ろうとしているところに個を切り取ろうとする意志を感じる。

それは企業VS企業というような分かりやすい二元論に持ってかれそうなところを、しかしそのタイトルに反してこの映画が映しとるのは徹底してチャンベールとデイモン。

だからル・マンの24時間耐久レースで、チャンベール以外にもチームのドライバーがいるはずなのにそのシーンはほぼ全カット。

それくらいこの二人(とその周辺人物)の顔を撮り続ける。そこからラストのコーナー前のチャンベールの横顔が流す涙。

7000回転を超えた者だけがみることのできる光景。それはこの映画の冒頭でデイモンのモノローグが添えられたあの暗闇の道に通じるのだろう。だからのあの光景は綺麗だったのだ、と。

けれどそれをみることができたのはチャンベールだけだ。7000回転を超えた世界で彼が何を観たのかは観客はわからない。だから彼がどうしてフォードの思惑を受け入れたのかを観客に知る由はない。それは彼だけのものだからだ。

 

 

この映画は、そういう光景を描いた(あるいは描かない)映画なのかもしれない。

企業云々とか、友情云々とか、そういう風に語る余地は十分にある映画なのかもしれないけれど、ここまでピュアな「光景」を描いた映画でそういう分かり切ったことを語るのは野暮な気もするのです。

 

 

さて、お次は「リチャード・ジョエル」です。

ゴーンさんによって世界的に明るみになった日本の司法制度の悪辣さといいオリンピックイヤーといい、やけに日本にタイムリーなネタ。

とはいえイーストウッド映画。「運び屋」を未だに観ていないわたくすの不徳はともかくとして、相変わらずの観照者な振る舞いを撮り続けるイーストウッド翁。

リチャードが観ていないのなら爆発の瞬間も映すことはない。彼の背後で、タワーの向こうで淡々と爆発する。過剰に演出するピーター・バーグなど歯牙にもかけない怜悧な視線。

きっちりかっちと適材適所にパーツを当てはめていく。リチャードとバーバラの涙ながらのやりとりのシーンで感動げなBGMを流し二人のやり取りが終わるや否やすたこらさっさとフェードアウトするそのBGMといい、少し笑ってしまうほどです。

だからことさら寄り添ったりはせず、あるいは劇中でのアクションがすべて劇中で必ずしも物語に意味を付与するというわけでもない。

ただ淡々と撮るのみ。ここ数年は実話ベース+英雄と称される人間とそう呼ばれるようになった出来事を撮ってきていたイーストウッドでございますが、今作もそれに連なる部分がある。といってもイーストウッドのスタンスは英雄という存在を反証するために英雄を題材にしている節がありますが。

ほとんどシミュレーション再現映画の様相を呈していたのが「15時~」で極に至った後の本作(「運び屋」どうだったのかわからないのが気になる)で、何かが劇的に変わったような気はしないのだけれど、その不変不動、不滅にして不死のイメージを未だに体現しつづけるイーストウッド

「グラントリノ」で自己清算したにもかかわらず、今なおイーストウッドが最強のジジイであり続ける所以が、この不変不動のまましかし時代に適応しようとする凄まじい姿勢にあるのかもしれない。そう思った一本でした。

 

場外でのことですが女性記者の描き方がステレオタイプであると批判されているようですね。まあイーストウッドだしあそこは多分脚色とかではなくそのまま情報ソースから抽出したのではないかと思のですが、どうなのでしょう。

 

 

ハスラーズの試写会行ってきましたよ

ハスラーズ」の一般向け初号試写会に行ってきました。いくつか試写会に応募していたんですが、一番観たかったのが当たったのは僥倖なり。

しかし朝日ホール使うだけあってかなり人数多かったです。「見えない目撃者」もかなりのもんでしたが。

今回、人もさることながらHUSTLERS MEMBER'S CARDなるグッズ?がもらえたりその場で感想ツイートするとパスケースが全員にもらえるキャンペーンを実施していたり、日本公開にあたってかなり力入れてるようです。なんにせよ試写会でこういうグッズがもらえるのはいいことです。

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内容が内容だからか女性客の比率が圧倒的に多かったです。まあこれ、正直言って男が観たら居心地悪いだろうし、ターゲットも女性だろうから当然っちゃ当然ですけど。

 

当初は本編のみだったらしいのですが、よしひらまさみちさんと山崎まどかさんのトークが追加されさらにお得な気分に。

とはいえ、そこまで中身のあるものでもなく、ジェイローごいすーとか若手ラッパーが出ててーとか、カメオしててーとか、まあそんな感じなんで特に書き起こすほどのものではないかな。あたくしは海外の音楽事情にはかなり疎いので参考になるようであまり参考にならなかったです、申し訳ない。

余談ですがコンスタンス・ウー丸山桂里奈に見えてしょうがなかったです。

もう一つどうでもいいことですがクレジットの頭がジェイローじゃなくて彼女なのもなんか変な感じ。確かにウーさんがメインではありますけど、どっちかというとドラえもんがジェイローで彼女はのび太的な立ち位置な気がしたので。まあそれを言ってしまえば「スーパーマン」でクレジットの頭を飾れなかった主役もいますし、ああいうのは色々と忖度が働いているのでしょうが。

 

それはともかく本編についての感想をば。

製作にアダム・マッケイ(とウィル・フェレル)が参加しているので、なんとなく社会風刺的な色を帯びていますが、彼の監督作ほど露骨ではないというか、あそこまで政治経済を主軸にはしておらず、むしろ「オーシャンズ」シリーズ的な趣がある映画ですので変に気張らず素直に観れます。と、思っていたんですけどね。実はそうでもないんですよねーこれが。

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いやほんと、こんな感じ。

事実ベースであることも含めて色々な意味で(いや本当に色々な意味で)「マネーショート」のB面的な映画でもある気はするので、そういう意味ではやはりアダム・マッケイの存在感は強い。というか彼が描いてきたことの影が、見えない形でこの映画に大きく作用している。とは言えましょう。

あと久々にアス比を意識する映画でした。

登場人物を並列に描くシーンが多かったり、あるいは真正面からふんぞり返る野郎どものシーンの横柄な感じとかシネスコのおかげで憎らしさ倍増。あとやたら人物を中心に据えた長いワンカットがあったので、その撮影方法で背景の情報量を増やしていたのかなーと。

みんながワイワイやってるシーンはシネスコサイズの画面いっぱいが多幸感であふれていて、彼女たちのこれまでの境遇や顛末を思ってうるっと来てしまいました。

そうでなくとも最近は幸せそうな人を観てるだけでなけてきてしまうのですが。

 

 この映画、編集がちょっと特殊というか、かなり「過程」を省いている気がする。いやこれ編集のせいなのかな。脚本レベルなのかな。

おかげでテンポよく進んでいくんですが、一方で何かが欠落しているような印象も受ける。ディステニーに子どもができるまでのシークエンスなんか、ほとんど何かを忌避するかのようですらあった。もしもそれが思っているとおりなら、多分それは男性が絡むシーンを切っているからなのかもしれない。それこそ編集のリズムが奇妙に見えてしまうくらい。

そう思えるほど、徹底して男が敵として描かれている。ほとんど必要悪として。一人だけディステニーが罪悪感を感じる相手も登場してくるんですけど、はっきり言ってそれはほとんどポーズのようなもので、彼女にとっての罪悪感というよりはむしろラモーナとの決別のきっかけの一つに見える。

だから、これは男性が観たらかなり気まずくなるし、人によっては憤慨するかもしれない。でもそれは男性が向き合わなければならない問題を、女性が抱える絶望を描いているからなのでせう。

 

それを象徴する、観ていてぞっとするシーンがある。

リーマンショック後の、ラモーナらが金づると見定めた男に薬を飲ませて「個室」に連れ込んで金を巻き上げるハメるシーン。あそこの一連のシーンはテンポもよくて小気味よい反撃のシーンなので上がる場面ではあるのですが、だけど私はひどくゾッとした。下手なホラーよりもよっぽど恐ろしい場面だと。

何故ならあれはレイプに他ならないから。

あの場面、もしもセックス(性別)が逆転していたらと考えてみてほしい。その瞬間、あの場面は金を巻き上げるのではなくレイプの場面に容易に転化できてしまうでしょう。

それこそが男性と女性という、いかんともしがたい肉体・身体性から導出されるものなのです。ネット上の一部のスラングとして「逆レイプ」というものがある。これは女性が男性を性的に搾取することを指すワード(これ自体、男性側の欲望の投射なのですが)なのですが、わざわざ「逆」などという言葉を付け足していることからも女性が本質的に搾取される側である(と男性が思い込んでいる)という差別意識の表出であるように、それを誰もおかしいと思い込まないくらい、この種の病理はあらゆるところに深く根を下ろしている。

彼女たちは金だけを目的にしていたけれど、性別が逆転していたならばそれだけでは済まなかったでしょう。

そもそもこの映画それ自体が指し示すように、男性特権による搾取の構造を浮き彫りにしている。

その男性特権を異化し表出する装置としてこのシーンは、この映画は存在する。

 

試写会で映画を観終わった後、コメント撮りをしていた。自分は幸いなことに(まあマスクしてたし)コメントを求められることはなかったけれど、おそらくはテレビCMのために言わされたのであろう、「ウーマンパワー!」という言葉を叫んでいた。

果たして彼女たちは気づいているのだろうか。自分たちが、たった今観た映画で描かれているような地獄にいるのだと。スクリーンに映し出されていたのが地獄だということに気づいていたのだろうか。この映画の冒頭で「事実を基にしている」という字幕に気づいていただろうか。その字幕がスクリーンの地獄と現実の地獄を地続きなものにしていることに気づいていただろうか。

この映画に出てくるみんな女性たちは輝いている(ゲロを吐きまくる人もいるけど)。それに煌びやかな衣装を纏い楽しそうにしている。

しかしその輝きはどぶ底で発せられるものだ。汚物の溜まった底の底でしか発せられない、そこでだから発せられる光輝だ。ストリップクラブは確かに女性にとっての一つのヘイブンではあるけれど、そのヘイブンが地獄にあるということを理解しているだろうか。

 

しかしそんな地獄にあっても、犯罪が暴かれ(その犯罪は「万引き家族」のそれと同じだ)警官に囲まれ捉えられても(警官も男性しかいない)、それでも彼女たちは屈服しない。

 

なぜなら画面の中心には、ハスラーズの中心にはラモーナが、ジェイローがいたから。

中心としての男性が、周縁へと追いやり搾取の対象とする女性を、しかしローリーン・スカフィリアはその女性のアイコン/パワーの象徴としてのジェニファー・ロペスを画面の中心に据え、ポールという男根の写し鏡をなぶることで男性を熱狂させ搾取する。搾取の構造を逆転して描いてみせる。

試写会のトークで山崎さんはジェイローの背中の筋肉を翼に例えていた。その意図は私はわからないけれど、確かにあれは翼なのだと強く同意できる。

何故なら彼女は地獄にあって光を指し示す天使に他ならないから。それだけの肉体の力強さをジェニファー・ロペスは体現している。

 

この映画のラストは、彼女たちが輝くストリップのシーンをバックにクレジットが流れ始め幕を閉じる。

ハッピーエンドなどではない。無間地獄のような世界を描きながら、それでも絢爛なまま終わる。女性にとっての絶望と地獄を描きながら、それでもなお力強く輝かんとする女性たちの姿を映して。

 

ハスラーズ」と対置させられるのって、「マネー・ショート」だけじゃなくて「俺たちニュースキャスター」シリーズなんですね。

いやー根深いなー。

 

 

 

「ハスラーズ」の試写会に行ってきたんだけど腹が立ったので「パニック・トレイン」を誉めそやすことにするよ

というわけで勢いそのまま「パニック・トレイン」の感想を単独ポストすることに。

あまりに腹立ったんで二回連続で観たよ!観直したよ!やっぱり良い映画だったよ!

 

超良作。いや、本当に良かったですこれ。いやもうね、パパが最高。

ただ邦題のせいでパニックムービーと思われそう(自分もそう思っていた)ですけど、全然違いますよこれ。いわゆるアクション要素もあまりないですし。とはいえ原題も「LAST PASSENGER」だしひっかける気が皆無とも言い難いような気がしますが、そういうのを求めてこれを観にくる人はちょっと肩透かしを食らうかもしれませんね。
ジャンル云々は抜きにしてこの映画はかなり良いと思うんですけど、そういうのを求めてたのに~って怒る観客って一定数いるので。別に思ったのと違っても良い映画だった良いじゃんと思うのですがね。

で、思いのほかいい映画だったわりにあまり有名どころのキャストもいないし(ダグレイ・スコットは「MI:2」の敵として出てたので言われれば分かる人ですが)監督も名前を耳にしたことがなかった(自分が無知なだけ?)し、製作のスタッフにやたらと日本人の名前(日系?)があったのも気になって検索してみたんです。


 そしたらサジェストで「犯人」が出てくるじゃあ~りませんか。
既述のような懸念とサジェストに登場した不穏なワードへの不安もあって、作品そのものについて調べるつもりがいつのまにかレビューを眺めていて・・・そしたらやっぱりだよ!不安的中だよ!

脚本ガーとか警察ガーとか鉄道関係者ガー犯人の動機ハーとか言っている人もいるし、しまいには「犯人はヤス(自殺志願者)」とか断定している人もネット上で見られましてね、「あ~・・・」という諦念のようなものと「あ”~↑!?」という義憤に駆られ、試写会で観させてもらった「ハスラーズ」の感想をほっぽって(後でちゃんと書きますので、フィルマークスさん)怒りの全肯定でこの映画を誉めそやすことにした次第です。

いやね、冒頭に書いたように、最初から「これ結構良い映画じゃんすか」という肯定的な印象ではあったのですが、なんか映画自体に責任を転嫁する理不尽なけなされ方をしている気がしたので勢いそのまま「これは超いい映画なんです!傑作八作二毛作なんです!」と心にもなくもないことを書き連ねていこうと思う。いや少なくとも良作であることは確定的に明らかなので、それを傑作と言い張っても大罪にはなるまい。

一応、ちゃんと演出の意図を汲み取って褒めている人もいたんですけどね、褒めてる人の中でもなんか褒め方も適当だったり「上質な演出」とか、形としては褒めてる割に星の数は少なかったり(こういうことがあるから点数って信用できないんですよね)という人がいてね。まあ好き嫌いはあるのでそこはとやかく言いませんが。

それにしても、あまりにジャンルにこだわりすぎている人が多かったので、もうはっきり言いきっちゃいますよ!これはサスペンスでもミステリーでもパニックでもアクション映画でもない!そういう「ジャンル」に拘泥するだけの輩は甘えを排除してからもう一度観れ!

これはそういう原因究明の結果としての安直な「結果」を提示することを目的とした映画じゃなくて、映画としての(一応の)結末までの「過程」を微に入り細を穿った演出を堪能する映画なんですよ!

しかも監督一昨年死んでるし!43歳でこれが最初で最後の長編監督作だし!なんかもう褒めるモチベーション上がる要素しかないよこの映画!

てなわけで褒めちぎる。この映画を。


まずですね、「警察は何してるんだー」とか言ってる人、そういう「外部」を描いていないのは外界の描写を排除してることからわかるでしょうが!あんだけ徹底して列車の内部(窓越し)からしか外を映すカットがないんだから!

もちろん外から中を覗くカットはありますけどね、それでも決して外がわかるような撮り方はしてないんですよ。
ヤンくんの決死の骨折り損行為とかのシーンは外からですけど、そこにだってちゃんと意味や根拠はある。そのヤンくんのアクションシーンでは、人物が文字通り列車の外に出ていますし、終盤も終盤になって3人が乗った列車が切り離された後で駅のホームがはっきりと映しだされますけど、観ればわかるようにそれは3人がほとんど確実に助かったとわかる場面です。

電車が車をはねてしまうシーンだって電車の中にいる6人からはそれがどうなったのかほとんどわからないように描かれてるじゃん!それでも衝撃と燃えてる破片が窓の外をよぎっていく演出から何が起こったのかわかるようになってんじゃん!「内部」では何が起こったかよくわからないけど何が起こったのか自体はわかるように描かれてるじゃん!

ていうか望遠からとはいえ、ちゃんと電車が車を撥ねるカットだってあるんだよ!?ここが望遠なのは電車が車を撥ねるという瞬間のディテールを描かないことで6人の体感している「外で何が起こっているのかわからない」という緊張感や不安を観客に同期させるための演出でしょうが!

電車が車を撥ね飛ばすなんて美味しい場面をあえて電車内部から分かりづらく描いているのもそのためでしょうが!(予算の制限の工夫なのか、最初から狙っていたのかまでは断言できないけど)

息子が横に並んだ別の列車の車両の窓から女の子の顔が曇った窓2枚を挟んで見えづらくしてるのだってわざとなんだよ!そうやって6人が乗る列車は外界から切り離されているという「演出」をしているんです!

ていうか最初から最後までそれを徹底しているからこそだし、そもそも警察がどう動いてるかはわからなくても警察が動いていることは窓の内側から確認するシーンがあるじゃん!

この映画はそうやって、徹底して外界を描かないことで6人(5人)の人物に寄り添ってる映画なんです!

だから犯人の類推はしても犯人が誰かなんてことは明かされない。だってそもそも犯人が誰かとかこの映画にとってはどうでもいいことなんだもん。

それを踏まえたうえで「そういうのは興味ないんでドンパチ見せろ」っていう人ならわかる。けど、つまらないとか言ってる人の大半はそうじゃないでしょう?

そういう映画じゃないってことは、序盤であれだけ時間をかけて人物のやり取りを細かく切り取って演出している時点で、なんとなく察せられると思うんですけどね。

あと伏線がどうのこうの言ってる人、細かい伏線もちゃんと映像で見せていたりするんですよ。いや、伏線ではないか。暗示、布石とか、そういうのに近い。でもそっけないシーンで列車の連結部を自然にフォーカスしていたりするし、展開を示す伏線はあるよやっぱり。

 
で、そうやって細かく演出をしながら、この映画はあくまで人物を人物として描くことに徹底する。逆に言えば物語の進行に人物が回収されきってしまうことを拒んでいるともいえるかもしれない。それを嫌う人や「あの設定役に立ってないじゃん」とか言う人もいるだろう。

でもこの映画がいいのはむしろそこ。

それぞれの人物の属性があまり本編の目的となる脱出そのものには関係なかったり、あるいは属性を生かすことのできる場面にもかかわらずそれが機能しない無常さ、というのを描いている部分だと思うのですよ。

ストーリーに貢献するためではなく、ただ人物を人物として生き生きと見せるために付与された属性であるところから、この映画が徹底して人間を描くことに注力していることがわかる。だからマイケルは子どもとして描くために危うくドアから落っこちそうになる。それが何かの伏線になる、というわけではない。伏線になるのかもしれないという空気を漂わせつつもし、しかしそれはただあの子を生き生きとさせるためのシーンでしかない。

あるいは医者であるルイスが最序盤で隣の席の老女から新聞を借りて読むシーン。そこで彼が読んでいるのは陸上競技の見出しだし、そのあとでサラと三人で列車内を移動するシーンのやりとりで何気なくマイケルから発せられる「パパは走らない」というセリフが実は重みをもっているということが後々に判明する。判明はしても、そこをあえて追及することはないスマートさもある。

そういった細かいセリフや場面が彼のキャラクターにも関係してきますし、カップルがイチャイチャしてるのを眺めているのはスケベ心からじゃなくて亡くなった妻(この時点では明かされていない情報)との思いでを回想してるからだってことはダグレイ・スコットの表情が示してくれているでしょうよ!いやここはぶっちゃけ思い込んでるだけかもしれないけど、少なくとも2回目に観たときはそういう風に観えるんですよ!それくらい描かれてるんですよ人間が!

同じく序盤でヤンくんが乗客・車掌と揉める際の過剰なまでの挑発という「パフォーマンス」も、彼が大道芸人である(この時点ではry)からでしょうが!!!!

そういう細かい人物描写を事前にしっかりしているんです。

言っておくけどね!ハリウッドのパニック超大作じゃルイスがマイケルを寝かしつけるために自分のマフラーをたたんで枕代わりにしてコートをかけてあげるシーンをあそこまで優しく描いたりしませんからね!
ちゃんと観ましたか!?ルイスが優しく丁寧にコートをかけ直す描写してるシーンを!?ストーリーライン上はカットしても問題ないところを、そうやって細かな描写を積み上げて人間を作り上げてるんでしょうが!

だから今時恥ずかしい、それこそクリシェと言われてもしょうがない酒を酌み交わして友情が芽生えるようなコテコテのシーンでも感動するんでしょうが!

あっさり死んでしまうエレインにしたって、2つの人形やマイケルを座らせるための講釈、死に際にまで孫のことを口にすることでどれだけ彼女が孫想いの女性だったかが短い登場時間の中で示されている。だから観客と同期しているヤンくんは彼女の死にうろたえるし、それが逆説的に彼のつっけんどんなやさしさ(序盤でマイケルに手品を見せておどけるのもそう)が描出されるし、一方で現状を打破するために(医者であるにもかかわらず命を救えず、それでもなお蘇生を試みる無為無償の行為にふける)ルイスを煽る、薄情で怜悧な部分もあることもわかる。

セリフで説明されないだけで十分すぎるほど細かい描写がされているんですよ!

観ろ!人間を!(意味不明)

あれだけ奮闘する5人6人を観て、あれだけの父子の双方向の愛情(そう、父から子だけでなく子から父への愛も描かれているのです、この映画)を観ていながら「で、犯人て誰なの?」とか言う人はもう何も言わないのでミステリーだけ観ていてください。

 

あとオープニングクレジットが結構イカす気がする。

さよならテレビ観たよ

「さよならテレビ」観てきた。

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そういえばポレポレ東中野行くの初めてだった。東中野駅自体はたまに使うので存在自体は知っていたのですが。

トリウッド下北沢みたいな昔の情緒を残した映画館がチャリ圏内()であるのは灯台下暗しでしたな。にしてもサービスデーだからなのか知りませんが会場前から列ができているとは思わなんだ。

平日朝一番の回を観に行ったんですけど、次の回が立ち見(シネコンじゃありえませんねー)もとい座り観もでていたようで、施設そのものが小さいというのもあるのですがかなり入っていました。

 

この映画、元々は東海テレビ開局60周年で製作・放送された同名のテレビ番組に30分ほどシーンを加えて劇場公開したものだそうで、放送当時は視聴率は振るわなかったものの、業界内で話題になって情報が拡散し映画化までこぎつけた、という代物らしい。

東海テレビ製作のドキュメンタリーは質が高いことで有名らしく、最近でも話題になった「人生フルーツ」もここの製作だったとか。これ公開当初から観よう観ようと思って未だに観れてないんですよね(怠惰)。

 

さて、以前も何かの映画のレビューのときにも似たようなことを書いた気がするのですが、ドキュメンタリーは決して現実を「そのまま」切り取ったものなどではあり得ない。

そこに「何を」「どう」撮るかという作り手の視線が否応なしに介在する以上、劇映画とは違った形ではあっても演出が、大意としてのフィクションが入り込むことは疑いようはないでせう。ましてその対象が人であれば、カメラを向けられる対象は(向ける対象もその反射からは逃れがたい、というのがもろに出ているこの映画は)それを意識するだろうし、その逆もまたしかり。

要するにドキュメンタリーだからといってそれが無条件に客観的で観照的であるということにはならない、ということだす。
この大前提はドキュメンタリーを見るうえで念頭に置かなければなりませぬ。
と、自戒を込めて改めてこんなことを書き下したのは、まさにこの映画でカメラを向けられる人物が劇中でそれを示唆するようなことを言うからなんですね。

projectが「宇宙戦争」について見せること視ることにまとわりつく暴力について語っていたけれど、その暴力という点において質は違えどドキュメンタリーほどそれがあからさまに炸裂する形式もないんじゃないかしら。

劇映画がフィクションゆえに常軌を逸した暴力を発動することができるのならば、ドキュメンタリーは現実の延長として私たちのすぐそばにある些細で危ういものを暴力的に写し取ることができるのではないか。

そんな気がした。

 

でまあ本作に関しての感想なんですけど。

いつもは映画を観終わった後はその映画について帰路で色々考えるのに、何故だか今回はそういうことがなく気づいたら帰宅していた。いや、面白かったは面白かったんですよ間違いなく。

しかしここまで尾を引きそうな題材で思考を促されないのはなんでかなーと思ったんですけど、たぶん、それはこの映画が、内容としては(そして監督の意図としては)テレビ局の内実を世間一般につまびらかにしたいという反面(だから元々はテレビ放送だったわけで)、その意図に反してこの映画はすべてがこの映画の中だけで完結してしまっているからなんだと思ふ。


パンフレットでプロデューサーの阿武野さんが「私は、『さよならテレビ』が巻き起こす波紋を予測できない」と言っているけれど、多分それはよほどのことがなければ杞憂だと思う。阿武野さんの寄稿から読み取れるテレビ界隈の状況を考えると、いかにテレビというものが縮こまっているのかがわかる。「規模が年々300億単位で縮小している」ということではなくて。

自主上映会を呼び掛けているようだしそういう草の根活動が実を結べば何かしらの爆発が起こるかもしれないけれど、テレビの視聴率が振るわなかったのは決して地方だからとかそういう理由じゃないと思う。
というのはさすがに視聴者を信頼しすぎだろうか。

 

そりゃまあ渡邊さんのことから派遣切りの問題(これに関して澤村さんが「卒業」という言葉をくさしてたのは笑う。この人本当に青臭いんだなぁと拍手)を提起することも可能だろうし、テレビが掲げる3つの訓示のうち「困っている人(弱者)を助ける」という部分への痛烈な皮肉として受け取ることもできる。

就活サイトでカテゴリー検索すればこの手のADとかの派遣会社の求人は腐るほど出てくるので、決して珍しいことではないのだろうし、明らかに己に向いていないにも関わらずテレビ業界で働くことを志向しているのがアイドルという同じく彼岸へ向けた憧憬(アジテーテッドな)とモチベーションを直結させてある種のやりがい搾取的な方向にもっていくこともできるだろう。だって36協定で人を働かせられないからって雇った派遣社員があの体たらくでは本末転倒でしょうし。渡邊さんには悪いけれど。

あるいは澤村さんのような真っ当な人が現場で奮闘する様や彼の言葉の重みや疑義を通して「ジャーナリズムはまだ死んでいない」と希望を見出すこともできる。劇中で敗北を喫しているけれど。

組織の顔として矢面に立たされる福島さんの懊悩を通じて共感し、テレビの向こう側ではなくより卑近な個人としてテレビ側の人間を受け止めることもできる。

映画の中でクローズアップされるこの三人から東海テレビ(というかこの界隈)の孕む問題を社会の問題に敷衍することは容易だろうけれど、あのラストの「演出」(映画化にあたって付け加えられたものなのかどうかはわからない)は、この映画の作り手までも俯瞰して見ようというある種の誠実さーーーといって憚られるようなら悪意と呼んでもいいーーーではあるのだろうけれど、しかしその悪意は馴れ合いの悪意でしかない。L.Simpsonが言うところの「ぬるま湯の中の反抗」でしかない。

それはもしかすると、取材最終日に澤村さんに言われた
「現実って何でしょうね? このドキュメンタリーにとって。これまでのテレビの枠内に収まり切ってるんじゃないかって。おんなヌルい結末でいいんですか? テレビが抱える闇って、もっと深いんじゃないですか?」
という言葉を受け止めたうえで取った方法なのだろうけれど、あのしょぼい悪意を提示してしまったおかげでこの映画は自嘲するだけして、結局のところこの映画内で完結してしまった。オープニングとエンディングのカットのカメラの移動が逆だった気がしますが、そういう映画的な演出によって「閉じて」しまっているのもその表れだろう。

つまりですね、何が言いたいかというとですね、テレビ局の人間だってほかの人と何ら変わることはない、感情を持った人間なのだ、と。テレビ局という組織もほかと同じなのだと、この映画は、そこまでいったん立ち返る。テレビの向こう側としてベールに包まれた存在をテレビのこちら側にまで引きずり下ろす。

確かにそれ自体は達成できているのはわかるのです。

わかるのですがーーーそれで?

 テレビの内側の人たちがほかの大多数の人々と同じだというのなら、なぜテレビだけ(ではないと思いますが)がここまで良くも悪くも特別視されるのだろうか。
そこには一般的な通念とは違う特殊な原理が働いているのではないか。社会一般の通り一遍に押し広げ、テレビの内側を描いた≒内部の人々を人間化したところまではいいとしよう。

んが、これがテレビではなく映画として劇場でかかる以上、その程度の敷衍性だけでは足りるはずがない。

それを一般にまで拡張したそのさらに先にテレビ業界が持つほかとは異なる特有の病理原則を見出せるようなものでなければならなかったはずだ(皮肉にも、それが垣間見えたのは映画外のパンフレットで述べられる「君臨」というワードだったりする)。その根幹にあるのは資本主義の競争原理だとか、そういうありきたりなものでもなく。
もちろん一つの真実ということは否定できないけれど。あるいは、敷衍した先で一つの解決策とまではいわずとも光明が見えるような作りでなければ「今更そんな何年も前から言われてることを『テレビ局だから』というだけで言われても周回遅れの問題提起でしかない」のです。

それが私の邪推でしかない、というのであれば、それはそれで一つの結実としてはありだろう。もっとも、だとすればそれはテレビというメディアの力が著しく衰微しているということの証左になりかねず、テレビが作り出してきた綺麗ゴトがまさに綺麗事の幻想でしかなかったということなのだけれど。そんでもってそれがもはや通用していないということでしかないのだけれど。
ただ、そこで終わらせてしまうと新しいメディアとしてのインターネットによって醸成される新たな問題を見落とすことにもなりかねないので、やっぱりこの映画は今一歩足りなくなる。
ていうか責任の放棄だと思いますけどね、私は。

 
だって、これって所詮は許可を取ったものしか流されていないのでしょう?
それで業界がざわつくというのなら、この程度のものが過激なものだと作りてが思い込んでいるのなら、それは単にしょうもない秘匿主義が業界内部に内面化されているというだけ、テレビ業界がその程度のモラルしか持ち合わせていないということでしかない。
阿武野さんはそこに自覚的で「旅人」を自称して、結局は「住人」化されていることに気付いていたからこそこの映画が作れたのだろうけれど、でもやっぱりこれはどこまでいってもテレビでしかないのだ。

パンフレットの寄稿も読む価値があるのは武田砂鉄くらい。テレビ業界とは近接しながらも異なる業界だからこそここまで言えたのだろうけれど、内部者だからこそ語れることがもっとあっただろうに、このパンフレットにもそういうものがない。
森さんは別の媒体で土方さんと対談したりしているけれど、先輩後輩(というか上司と部下?)という関係性だったこの二人のスタンスが割と異なっているというのは面白い。
それは森さんがテレビ側の人間で武田さんとはまた違った立場だからなのかもしれない。
 

で、観ているうちにこの感覚に似たものをつい最近感じたことを思い出す。
年末年始どっちだったか忘れたけど、NHKで芸人やらキャスターやら番組プロデューサーやらがテレビについて振り返りながら今後について話し合う特番がやってたんですけど、あれを見ていたときと同じような白々しさを感じていたんですよね。

その番組が白々しいのは、テレビの内側から、議論するていで遠回しに視聴者へ責任転嫁してるんだけだったからなんです。この人たち見てると、口では時代の変化がどーのこーの言っているけれど、それはもはやノータリンではないですよというクリシェなポーズでしかなくて、内心はどうにもまだ「アイドルがうんちしない世界」に住んでるんじゃないかと思えるんですよねぇ。

あそこに視聴者を交えていたならまだしも、あの場にはそういう人はいなかったし。

それがテレビの内側にいる人々の傲慢の体現なのでせう。そしてその番組がそうだったように、この映画がそうであるように、テレビの内部で完結してしまっている。

だから視聴者である私の思考を働かせる隙間がないのだろう。もちろん、それは完結しているだけであって決して完璧だから付け入るスキがない、というわけではない。
 

といった感じで全体的にテレビに対する諦観が諦観のまま残る映画でした。

場面場面では良い絵を抜いてるなーという場面はあったんですけどね。渡邊さんの表情とか色々、そういう人間の表情が観たい人はいいと思う。澤村さんかっこいいし。

あと土方さんが渡邊さんに金を貸すシーンがすごく意図的に使われていたのだけれど、「ソニータ」に比べればそこまで逸脱したものとは思えなかったかなぁ。「ソニータ」については、あれはあれで当時の私は青臭くも憤慨していたのですが。

またどうでもいいですがPCの横に広辞苑が立ててあったりするのはなんか面白かった。すごい倒錯した感じがあって。まあネットに接続したらダメよーみたいな制限かもしれませんが。

  

うーん・・・。

テレビの向こうとこっちを越境し橋渡しをしてくれる可能性のある中間者として澤村さんと渡邊さん(はまあポテンシャルは限りなく低いが)を見出していたので、東海テレビの社員である土方さんでは、彼が阿武野さんがいうところの東海テレビの住人である以上、越境することはできないはずなんですよね。それはどっかのネット記事の森さんとの対談を読めばありありと伝わってくる。仲間意識、忖度、呼び方は何でもいいけれど。
もしも土方さんがそこを突破してくれていたら、あるいはもっと違っていたかもしれない。

さらに言えば、同じくテレビ業界に身をやつしていた森さんが、「A3」において自身が危惧していた共感の危うさに知らず知らずのうちに近づいているような気が、土方さんとの対談から読み取れるテレビ業界へのシンパシーから感じたりもした。

森さんの言うように内部者だからこそ撮れたものではあるのだろうけれど、それは取りも直さず外部者だから撮りえたもの(が排除された)の可能性も考慮しなければならい。

私は、むしろそちらの可能性、そうでなくとも澤村さんのような内部に居ながら根を下ろしていない「あわい」にいる人の視線から捉えたほうが届いたんじゃないかと思ったり。

 

12月

「ハッド」

理想と道徳主義、享楽と現実主義の相克。

「いとこ同士」の蛇側を描きつつ、「大いなる西部」的でもあるというか。

いやぁ中々骨太な映画じゃないですか。

ま、やっぱ中庸ですな。

 

トレマーズ2」

1ほどではないにせよ登場人物の掛け合いの楽しさはあるし、結構よかったです。

派手さは減ったけどコメディ的なばかばかしさが増えたので、それを許容できるかどうかで評価が分かれそうではありますが。

 

「若い人」

ちょっと待って、吉永小百合ってこんなゲロマブ(死語)だったっけ?

キューポラのときはそこまで可愛いと思わなかったんだけど、この映画の吉永小百合は異様に可愛い…なんで?

押し入れに隠れて靴履いてるシーンの撮りかたとか、そもそもあのシーン自体が漫画的とも言えるあざときシーンゆえ。

あまつさえそのブカブカの靴を履いてボトボト数歩歩いてやんの!何これ萌える。

 

翻って、というか、石原裕次郎はいつ見てもイケメンには見えないんですよね。だからキャーキャー言われるのが(まあ過剰な演出を意図してるとはいえ)イマイチ腑に落ちないというか。好青年だとは思いますですが。

 

あとエロ戦車が登場してましたね。あれ何なんですか、昔はああいう道具が学校にあったのだろうか。

 

アパートの鍵貸します

面白いですけど、なんかソフトに倫理観がずれているのが絶妙に恐ろしいというかそれもまたおかしいというか。

上司に愛人との情事のために部屋を貸して昇進するわ、部屋を貸した主人公も主人公で人妻と一発やろうとするわ、まあ別にことさら球団するようなことではないにせよさも当然のようにそういう不正が行われているというのが。

 いや、それを最後に覆すという話ではあるんですけど。

 

「おかしなおかしな大追跡」

 これ今年のベスト級ですわ。映画で本気で笑えるのって結構少ないんですけど、これは本当に楽しい。

思うに、三谷幸喜が目指してたのってこれなんでしょうね、多分。あの人の場合は結局のところはテレビのコントでしかないわけですけど、「おかしなおかしな大追跡」はその原題「What's Up Doc ?」が指し示す通り(そしてこの映画のラストシーンが指し示すように)バックス・バニーそのものへのオマージュなわけで、まさにそのドタバタを実写に置き換えた作品であるわけで、あのアニメの過剰さを再現しようとするならあそこまでやらなければならないわけであって。

バーブラというのもなんか笑えるというか、正統派美女ではないもののキュートな感じが絶妙な塩梅。

アントマン&ワスプ」とか「ヴェノム」とか最近の(マーベル映画ばかりなのは私の無知ゆえ)映画でもたびたびロケ地にされるあの坂とか、ああいう場所があるというのも強みですよね~。

 

氷の微笑

今更通しで見る。

さすがバーホーベンというか。

マイケルダグラスは危険な〜の流れで観たせいかまた火遊びして死にかけてる…という笑いが。

それはともかく島本須美吹き替えのシャロンストーンが中々良い。

 

月に囚われた男

宇宙船内部のデザインが妙にクラシックというか過去が夢見た未来的デザインでおセンチになる。

しかし月から落ちてきた男の息子が月を舞台にした映画を撮るというのがいかにも過ぎて。確かにアメリカさん的には低予算だしあの予算でここまでの仕事ができるというのは驚くべきことではありますが、しかし500万ドルが低予算扱いになりインディー映画扱いとなるというあたりが邦画がいかに金のないところでやりくりしているのかというのがわかってしまって辛い。

 

面白いのがクローンであるということに対しての葛藤が非常に弱いこと。

アイデンティティの問題よりも強い孤独が2人(一人ですけど)の間に葛藤や軋轢よりも傷を舐め合うことを優先させている。いや、というよりも、のちの展開を見るに最初から予感としてサムの中にあったのかもしれない。

それが顕著なのは事故ったサムの体調の悪化に関して異様なほど二人が言及しないこと。どう見たっておかしいのに、意地でも(そう、自然に振舞っているからこそかえって不自然に見える)触れないのは、直感的に分かっているからだ。

劇中で(まあテレビで見たのでカットされているのかもしれませんが)3年の労働期間について明確に言及されることはないけれど、あれはどう考えたってクローンの寿命であり、期間終了が迫ったことで事故ったサムの身体が崩壊を始めたことが読み取れる。それを観客は察し、そしてもちろんサムたちも明言はしないけれど気づいているはずなのです。

だから、意地でも二人が体調に触れない。

しょーもない現実逃避ではある。気がついたら歯に穴があいていて虫歯と分かっていながら歯医者に行かないガキと同程度の自己欺瞞でしかない。が、それは途方もない切実さを帯びている。

観客は明らかに欺瞞だと気づいているし、それはすなわち当人たちが誰よりも自己欺瞞でしかないことを分かっているということに他ならないのだから。

分かっていながらもどうすることもできない。

美術は80年代だけど、もっとこうポストインダストリーというか「ガタカ」的な命題というか。

ずっと同じ調子のBGMが流れていたと思えばクローンの眠る部屋のシーンでバックに流れる音楽がオルゴールの子守唄じみているのとか嫌な感じがしていいですね。

んで最後の方にちょっと転調するのとかも。

 

最後の最後に至ってなお部屋の向こう側で背景と化した有象無象の他者しか存在しない「HELLO WORLD」に足りなかった第三者を、この映画は第三者の不在を描くことで逆説的に描けているというのも面白い。

 

ラストのあの音声はまあ、ちょっと蛇足だと思いますけど。

にしてもサム・ロックウェル、この後に「アイアンマン2」て差がすごい。「ギャラクシークエスト」あたりから知った口でライトな空気を纏いやすい(ヒューグラント的な)俳優かと思えばこういうのや「スリービルボード」のあの警官役だったりで幅広いですな。

 

「助太刀屋 助六

真田広之ってこんなにコミカルな動きもできたのだなぁ、と改めてこの人の体技に脱帽。しかも仲代達也までいる。この人だけなんかこの作品の色から外れてヤバい眼力を備えているのですが。出る作品間違えてはいませぬか。

 

 

フレンチ・コネクションフレンチ・コネクション2

かなり久しぶりに見返して改めて感じたことがあったので。

連続で観たのが今回初めてだったんですけど、フレンチ・コネクションはともかく2はなんかがここまで観てられないものだったかと訝しんでしまうくらい見てられない。

びっくりするほどジミーがださい。1であれだけの狂犬ぶりを見せていたのがウソのようにダサい。

撮影も人が変わってなんかのっぺりした感じになってるし、BGMもちょっとダサいし。

一応ラストでケリはつけるんですけども、それまでジミーのあのぐだぐだぐでんぐでんぷりはかなり賛否両論な気が。

 

「史上最大のショウ」

 サーカスをそのまま観たくなるというジレンマ。

 

「愛と死の記録」

俯瞰のショットがかなり多いんですけど、あの結末を見るとかなりブラックに感じる。

曰く、本当の愛情は肉体や物質の上限を超えているものじゃないか。愛のためには人は自殺さえ。 なるほど。しかし担架に乗せるときに両腕を結ぶのはなぜ。

 

「ハートビート」

カマし合い映画。何でもかんでもカマしまくる。

これ今年観た映画の中でワン・オブ・ザ・ベストムービー。

安っぽ〜い取ってつけたような恋愛描写が邪魔していたりコマーシャル観てるような演出だったりマイケル・ベイもあわやといったいまやアベンジャーズの代名詞的に使われるぐるぐるカメラを2人でこなす(マイベスト共感性羞恥である鬼武者2のギャラクシーキッス並みに恥ずかしい)とか、観ていて辛いところは結構あるんですがそれを補って余りある音楽と舞踏のアンサンブルがある。

特にパーティでのバイオリン対決。ラストの発表会も上がる部分はあるんですが、明確に両者が対峙する戦いであるにもかかわらず、お互いの攻撃としての音が奏で合い相乗効果を生み出し個と個の戦いという矮小なものを超越したハーモニーが立ち現れてくるところが最高。というかここがこの映画のすべてと言っていいんじゃないかと思う。

いや、音楽も全体的に良くてサントラを即そぉい!するくらいには好きなんですけど(と思って検索かけたらCDねーでやんの!)、上にあげたシーン以外での音楽の使い方がくどかったりうるんですよね。ただでさえくどいシーンにボーカル曲入れるのとかはさすがにどうなの。

キャラクター周りに関してはクリシェとかそういうレベルではない雑さというか帰って邪魔にしかならないような描き方だったり、まるでそれを象徴するかのように蹴飛ばすために置かれたようなゴミ箱の配置だったり、カット割りすぎてもったいない気がしたりするし(いやもちろんダンスはすごいなぁと思うんだけれども)、いまいち人間に魅力を感じないんだけど、映画は物語をつづるものでも人間を描くものでもないと思いうので無問題。

ともかく超越的なものを観れて満足でござんす。

 

続編はどうなるかわかりませんけどやるなら観ますよ。

 

 

ザ・プレデター

ラストは完全に蛇足だと思いますけどそれ以外は最高。

一番楽しいプレデターなんじゃないかしらこれ。変なところで妙なリアリティを盛り込んでくるバランスの危うさなんかもそれはそれで笑えるしOK。

 

「処刑ライダー」

都市伝説にありそう。

殺伐としすぎていて田舎怖い。

しかしポリスメンも言ってましたが、なうなヤングの倫理観はわからんね。

しかしバンブルビーの裏側ではこんなのが跋扈してたというのだから、やっぱりあれは理想化された一種の懐古主義であることは間違いないのではないかと思いますの。

池田秀一は声合ってなさすぎですが、茶風林がやたら迫真の演技で笑う。

 

「ハッピー・デス・デイ」

ループものとしては割と異色なスタイルというか、あまり重々しくならなずに最後まで駆け抜けるのは好感触。

ループの中で今までの自分の売女っぷりを振り返り真面目に生きようと襟を正す、それ自体が実はループから脱却(まあシステムとしては死なずに翌日に至ればいいというだけですが)の糸口になっているというのは上手いつくり。

ビッチのどこがいかんのか、という異議申し立ても可能ですが彼女の家庭環境を鑑みるにあれは自分が望んでやっているというよりはもっと根深いところに原因がある感じでしたし、ビッチ脱却は少なくともこの映画にとっては必要なものなのでせう。

そもそもあれでいいと本人が思っていたのであれば自省することなく延々とループに囚われ残機使い果たしてあぼーんだったでしょうし。メタレベルの話はさておくとして、少なくとも映画内構造としては十全なロジックがある。

いやまあ、わざわざあんな面倒なことしなくてももっと楽に殺す方法あっただろうとか、自分がやったとばれないようにしたいにしては毒を盛るなんてばれやすそうなことしてたりというのはあるんですが。

 

どうして不倫相手の教授が物理学なのか、と若干ひっかかってはいたのですがこの映画続編があってループの原因についての話ということらしいので何となく納得。

なんかループものというとやたら湿っぽくなりがちな中で、カラッと天日干しにしたような明るさを纏いつつも日常の大切さ、みたいな話を語ってくれるし良い感じ。

同年公開の「ホームカミング」のトレイラーでも使われていたDemi lavotoのConfidentが使われてましたな。

この陽気なレリゴー以後の歌を流しても失敗に終わる、というのがまたいい具合にアイロニカルで好ましいというか。

これ続編も観なきゃですな。

 

「十二人の死にたい子どもたち」

例のごとく原作は未読。

テーマ的にはかなり食指をそそられるものではあるのですが、映画としてはというと・・・ちょっと堤さん、役者におんぶにだっこすぎやしませんか。

いくらなんでも画作りが単調すぎますよ。その役者にしたって演技のトーンが統一されてないし。死にたがりの12人を集めて、その中で個々に違うということを印象付けるという意味で類友でありながら千差万別を描かなきゃならないという意味で、ある程度のカリカチュアを要するというのはわかるんですけどね。

たとえば杉咲さんなんかはキャラクターを考慮しても演技過剰に見える。あと肝心なセリフを噛んでるところとかもあったので(よりによってシリアスな雰囲気のところで)、これは役者というよりもそれを統御する監督が悪いよ監督がー。脚本段階のものをそのままセリフに持ってきているようなのもちらほら見えたりするあたり、もうちょっとブラッシュアップできただろう、と。

役者に関しては他にも言いたいことがある。

橋本環奈をあの役にキャスティングしてどや顔してる制作人には悪いですが、あの人にはそういうものを背負えるほどの知性や暗黒面は感じないです。

それこそAKB系列の平手とかいう人を使った方が良かったんじゃないかと思う。あの人のこともそんなに良く知っているわけじゃないですけど、同じアイドルにしても少なくとも別の人の方が良かったと思う。

そういうチョイスもなんか広告屋さん的なんですよねぇ。

あでも高杉くんとまっけんゆーは単体で見ればよかった。拓海くんも抑えた感じでグッド。あとファザコンポンコツ娘の黒島さんもキャラとの相性が良くてすごい楽しかった。

いやね、全体的に設定に対してクリシェな見た目なの気もしなくもないですが、同世代の役者をあれだけ配置しなきゃいけないわけだし分かりやすくするためにも必要だとは思うのでそこまで文句を言うわけではありませんけど、もうちょっとこう、杉咲さんあたりはもうちょっとこう。

 

 

あとまあ、これは自分がそもそもサスペンスとかミステリーに対して抱く根本的な欺瞞性みたいなものへの拒否反応というものが多分にあるということを自覚したうえで、しかし謎解きがそもそも必要ではないというのが。

あの謎解きを通して12人の結束が固まったという風には見えませぬし。いや、観客はそれぞれのナラティブを見せられているのである程度の共感はできるんですけど、劇中の彼らは果たしてそうだったのか、と。

で、一応ネットでちょっとさらった感じ、原作だとセイゴがそれぞれの死にたい理由を聞いていくという展開らしいのですね。まあこれが誰にどの程度なのかわからないので何とも言えませんが、そっちの方が彼らの間である種の絆を作ることができたのだと思うのです。

んが、もちろんそれを映画で表現するとなるとずっと話っぱなしということになるわけで、すでに出来上がった映画の時点でお話に演出が負けているわけで、そんなこと堤さんができるはずもないんですよ。

そう考えると、あの改変というのは苦肉の策でもあったのだろうな、と。(まあおもそもできないならやるでない、というのは無きにしも非ずなのですが、どうせできないと思うならそれこそ中島哲也ぐらいはっちゃけて実験してくれた方ががが)

 

ただ死にたがりを集めるというのは興味深くある。ただこれは「ウィーアーリトルゾンビーズ」とも同じで見え透いた「生」のジャンプ台として「死」が用意されている時点で萎える。

12人の死ぬ理由を提示した、という点は「死の多様性」に少なからず重みを見出しているはずなのでそこは評価したいのですが、それでもやっぱり12人とは絶対的に異なる他者が介在しない時点で振りでしかなく、結局のところエヴァのまごころに未だ引きずられている気がする。まあ冲方さん世代的にエヴァ直撃だろうしなぁ・・・。

劇中で言われているような「死にたいやつじゃなくて殺したいやつ」がミスリードではなく本当に彼らのグループの中に存在していたのならば、あのナラティブが振りでも単なる傷のなめ合いでも終わらないものになったはずなんだけどなぁ。

 

 

しかしどう見ればいいんですかね。

ヘルペスのくだりとかを見るに、「人間失格(原作)」を読むときのような気持ちで観てほしいのだろうか、とも思うのだけれど、それよりも自分で醸成した空気に耐えきれずに「やってしまった」発作的な茶化しのようにも見えるんですよね。まっけんゆーの対応をどう取るか、にもよると思いますが。

いや、相対化させたいという狙い自体はわかるし、まあ自分もああいう感じのことをとある授業で書いたことがあるわけですけど、その時の教授の対応たるや惨憺さるものでございました。

結局のところ、井の中の蛙でしかないということに思い至らない程度の無知の知すら持たない程度の知性の「考えた」とまっけんゆーの「考えた」を等価にするのは無理でしょう。

あれの立場が逆ならまだ語る余地もあったでしょうけれど。(だからあんなカリカチュアすると余計に馬鹿っぷりに拍車がかかってしまうだろうとry)

 

 

これ映画じゃなくて30分ドラマで1クールにして一人につき1話でナラティブを披露していく方がいい気がする。少なくともこの退屈な演出でいくのなら。

それかアニメーション。少なくともここまで役者に依拠させるようなものにはならないはずだし。

 

あとラストもちょっとこう。山田悠介じゃないんだから。

 

しかし、などと書いておきながら尊厳死を巡る各国の動向などを鑑みるに作り手がここまで生に固執する理由が見えなくもないのである。

たしかに、生きることは永続への隷属であると言えるだろうし、死ぬことはそこからの脱却として瞬間の救済だと解釈できなくもない。

んが、やはり、だからこそヘルペスのようなみせかけの、うちに向かうばかりの考えをまっけんゆーのソレと並列して同一視してしまうことは危険なのだと言わざるをえない。

だって相対化できてないし。

こんな理由で死ぬ人たちがいる。オーケー、よしんばその人たちが自分なりに考えたのだとしよう。

しかし。

紋切り型になってはしまうかもしれませんが、本来ならば身体的には健康である彼らが(自分なりに)考えて選んだという死と終末期にある患者の苦しみの末に見出した徹底的な生の残滓としての自死を等価に語れるのだろうか?

前者の棄却した生こそ後者の望んだものであるならば、そこに「同じ」眼差しを向けることは不誠実でしかない。

これが複雑問題なのは社会と密接に結びついているからだ。たとえば、事故で全身麻痺になった人が安楽死をしたとして、それがメディアによって流布され(それは時に感動ポルノと呼ばれうるだろう)、共感的な意見空間が醸成されるとき、生まれたときか全身麻痺の人はどう思うだろうか?自分他者にとっては自死せねばならぬほどの生命しか持ち合わせていないのだろうか、と猜疑心に苛まれはしないだろうか?

まして情報が一足飛びで伝わる現状にあっては、その伝達速度や増幅量は計り知れない。

貴方は貴方以外の誰かによって生かされている。それはつまり、貴方以外の誰かは貴方によって生かされていることでもある。

「よく考えた」という貴方の死は、本当にそこまで考えただろうか?

そも多様性を謳いながら価値(観)を横並びにしようなんて矛盾してないだろうか。

つまりこの映画、思い切り自家撞着しているのだ。

 

 

 

とはいえ、私のこの感情はメディアによってもたらされる疼痛に苦しむ人々のイメージを植え込まれる反面、前者のような人をメディアではあまり見かけないがゆえに偏りが生じているのかもしれない、

だから一概には言えないけれど、少なくとも個人の死ぬ権利を認めることと、それを括ってしまうことは早計に過ぎるとは言えるだろう。

 

しかし優しさによって死ぬって「ハーモニー」の世界まんまになりつつあるなぁ。

 

2019年最後の劇場鑑賞映画

てなわけで久々に劇場に足を運ぶ。

今年の締めくくりに〜とかそういう大層な理由があるわけでもなく、なんとなく気が向いた(あと金ができた)というだけ。

ていうかまあ、自分のことを棚に上げて言うのもあれですが、映画とかゲームとか本とかに救われたとか人生が変わったとか、ああいう言説ばかり目にしていると、いや別にそういう大層な根拠ばかりじゃなくていいでしょ、という思いも最近はあったりして、ゴチャゴチャかんがるうちに映画を観るモチベが維持できなかったのです。

 

その反動なのか、何故今年最後にこれをチョイスしたのかは自分でも分からないのですが「劇場版 シンカリオン」を観てきたんですよ、ええ。どうでもいいけどこれTBS枠だったんですね。テレ朝かテレ東かと思ってました。

 

晦日だからか朝イチだからか、席はまあまあ空いてました。おかげで児童向け映画を劇場で観る際の余計な居心地の悪さを感じずに済みましたが。

大半が親子づれの中、大友の姿がちらほら、というマイノリティレポート。とか思って劇場を後にする人を見送ってたら大友のボッチは私一人でざいました。どう見てもアウェイです本当にありがとうございました。生まれてきてごめんください。

あんまり重いものとか観たくなくて、なんというかこう観た後に風のようにすり抜けていってそれなりの満足感は得ながらもすぐに風化していきそうな映画を観たかったのです。

いやまあ、前述のような理由は別にしてもあんまり重いものとか観たくなくて、なんというかこう観た後に風のようにすり抜けていってそれなりの満足感は得ながらもすぐに風化していきそうな映画を観たかったのです。

 

私はシンカリオンというコンテンツについてはラーンチ前後から存じてはいたもののテレビシリーズも玩具の方もノータッチであり、「この手の児童向けホビーアニメの劇場版ならなんも知らないトーシロが観に行ってもそれなりの戦闘シーンと上がるBGMでそれなりに満足できよう」という失礼にもほどがある態度で臨んでいたわけです、ええ。

それと風のうわさでゴジラが出るというのも聞いていたので、まあ児童向けアニメで奴を使って変なことはしないという安心感(あるいはその真逆にぶっとんだ使い方をしてくれるのでは、という淡い期待)もあった。

 

んが、まさか奴のほかにもう一つぶち込んでくるとは思わなんだ。 
「だってテレビの方でやったじゃん、それ」
・・・ええ。ノータッチといっても一部で話題になったエヴァコラボの回だけ観てたんです、私。そんでもってその回がこの劇場版では割と重要(といっても観てなくとも全く問題ないですが)だったりするので、よく知らないくせに前提は履修済みであったというちぐはぐな鑑賞スタイルの観客であります。

 

しかも奴(ら)とは別に当然のように初音ミクがいるし。黒いアイツと紫のアイツに比べてこいつだけレギュラーキャラのような佇まいなんですけど。いや間違いなくレギュラーか準レギュラー的なキャラであることは間違いない扱い。単発でありながら別の場所で同じ世界で生活しているゲストキャラ的な。その割に劇場版公式サイトのキャラクター欄にはない謎。権利的なアレか。

ネームバリューはあるけどコラボに関して尻軽な連中ばっかなせいであまり特別な感じがしないのは私だけでしょうか。

とまあここまで書いてきたことから察せられるように、事程左様に、この映画はそういったある種のコンテンツの暴力性に満たされております。
ホビーアニメのテンプレ的なお話や設定の整合性などお構いなしに映画という位相から逸脱したコンテンツの暴走・暴力が敷き詰められおり(復唱)、当初の私の怠惰な目算が無事にご破算となりました。

 

本当は「〇〇萌え~」「〇〇燃え~」とかそんな感じで済まそうと思ったのに。

あーでもそう意味じゃ緩く楽しめた部分もありました。

キャラクターは総じて印象に残らないんですけど、唯一「話がまるで見えない」子は、そのクールなライバルっぽい風貌とのギャップがポンコツで良かったと思います。

キャラクターの口癖がそれって(しかも他のキャラに取られてるし)いいのかと思いますけども、まあポンコツカワイイということでいいのか。

あと子どもたちの中に玄武?とかいう黒いオッサンが一緒になって談笑してる絵面がマンソンというかTぞうのようなそこはかとなく怪しくて笑えた。

それと速杉夫妻の名前にくん・ちゃんづけして呼び合うのがそこはかとなくエロいです。
そこにショタ化という要素が加わるので同人ゴロがおば…おねしょたネタとして使いそうではありました。何の話だ。

 

話を戻しましょう。

コンテンツの暴力の全面展開というか暴力装置としてのコンテンツのファンクションをフルバーストしたこの映画に、上記のように緩く楽しんだ部分を認めつつも、それ以上に私は乾いた笑いを自覚しておりました。

 

だって冷静に考えてゴジラエヴァンゲリオンが同一の画面に収まるなんていうのはシン・ゴジラ公開時の売店のグッズぐらいなものでしょう?

そしてそれがあくまでグッズという場外でのみ成立しているのは両者の世界観が全くの別物であり同居不可能であるからであって。
にもかかわらず、この「劇場版 新幹線変形ロボ シンカリオン 未来からきた神速のALFA-X」では当然のように両者が同居している。さしたる理由も根拠も明示されないまま…どころか存在しないままに。

「レディ・プレイヤー・ワン」のような「コンテンツをコンテンツとして扱っている世界」というでもなく。

エヴァはまあ、シンカリオン世界に取り込まれて適応させられているのでそこまでの違和感はないにしても、そこにゴジラをぶち込むという暴挙。
いや、光の量子とか闇の量子とかがあーだーこーだで時空がうんたら、という極めて抽象的な説明はされますが、それ自体は「なぜゴジラなのか」という説明にはなっていません。

 

劇中の登場人物の反応から察するにゴジラという概念を理解しており、そしてその点においてのみ観客と同じ水準の理解力をもっていながら、しかし劇中ではそのゴジラ(雪のゴジラて・・・もっと呼称あったでしょ)について「ゴジラゴジラである」という徹頭徹尾「ゴジラ」という表象の持つ力に依拠しっぱなしで、ゴジラシンカリオン世界に顕現した理由について「だってゴジラだから」という以外の根拠を示してくれない。これ、本当にゴジラを何も知らない小さな子どもが観たらどう思うのだろうか。

コラボぐらいで何をいまさら。そんなもの巷間にありふれてるだろう、という声もありましょう。

 

しかしそのコラボというのは往々にしてグッズやゲーム内のアイテム(そもそもゲームというメディアは映画とは違う)であったり、そうでなかったとしても何か大きな共通認識によるものがあって、少なくともある世界観と異なる世界観の軋轢を薄めるために尽力するはずなのです。

 

たとえば昨今(といってもディケイド以降)の仮面ライダーシリーズにせよ、ディケイドですらリイマジという形でディケイド世界によって客体化されるライダー世界の再構築をしていますし(それでも破綻してると思いますけど)、そもそもそこには観客側と製作側の間に「仮面ライダーだから(それぞれのライダーの世界観が全く違っていても)セーフ」という大きな暗黙の了解となっている根拠(というか甘えでしかないと思うけど)があります。

 

MCUにしたって、あれはむしろ一つの大きな世界観の中にそれぞれのキャラクターが息づいているわけで、その意味において「この世界の(さらにそれぞれの)片隅に」に近いのではないかと私は踏んでいます。

というか、MCUはそもそも全員が同じ会社のキャラクターであり、それ以上にアメコミヒーローという今や巨大な共通認識によって支えられているので問題ないのです。あまり詳しくない人がもしバットマンとアイアンマンが同じ画面上に現出したとしても「アメコミヒーローだし」という認識のもとに違和感を覚えないことが容易に想像できましょう。もっとも、賢明な作り手は何かしらの根拠を提示するはずでしょうが。
それに、それはMCUそれそのものが作り上げてきたものであるので、これ以上の強い根拠はないでしょう。


んが、決定的に異なる世界観を持つフィクション同士が、映画というフィクションの中で違和感なく機能するための拠り所なしに、一つの映画作品内の整合性を完全に無視してその存在を無根拠にここまで大胆不敵に存在させている映画というのは寡聞にして私は知らない。

何故なら映画はゲームと違って物語を必要とする(と思われている)メディアであるからです。そこにゴジラという物語とエヴァンゲリオンという物語が同居するためのものが決定的に欠如している。

エヴァンゲリオンシンカリオン世界に完全に取り込まれているのでゴジラシンカリオンWithエヴァという二元論に落とし込むことは不可能ではないでしょうが、それでもシンカリオンに登場する碇シンジエヴァンゲリオン碇シンジとして観客に認識させようとしている以上は、そこにもノイズが発生する。

 

だって、もう一度書きますけど、ゴジラエヴァですよ奥さん?

この整合性や説明を抜きにするというのは、アニメの中でもさらに抽象度の高いホビーアニメというか児童向けアニメだからこそ許される暴力性のようでもある気がする。

それは子どもが「子どもである」というだけの(しかし確固たる)理由だけで暴力が正当化・・・とまではいかずとも許容されるのと同じ。まあ身もふたもない言い方をすれば幼稚でものを知らない(=それだけの能力がない)と見なされているから、とも言えるわけですが。

だって普通の映画でこんなふわふわした説明してたら小姑みたいな観客から突っ込みが入りますからね。

似たような暴力性でいえばセルアニメ時代のドラゴンボールの映画や仮面ライダーブラックRXなんかまさにその典型で、どれだけ敵に圧倒されてようとランニングタイムの終わりが迫れば「その時不思議なことが起こった!(CV正宗)」で逆転する。あ、あとセガール映画やシュワちゃんの80年代の映画もそうだろう。

そういう、ある種の大雑把さというのは80年代までは許された(というか歓迎されていた?)のだろうけれど、90年代あたりからそれが変わってきていた気がする。90年代のシュワちゃんは死ぬし「マギー」にみられるように老い・涙しさえする。

シュワちゃんで時代を分析するというのもあまりに馬鹿げてはいるけれども、変に納得できるところもありませんでしょうか。え、そんなことない?

 

なぜ80年代まで有効だった大雑把さが90年代以降は通用しなくなったのか。それは世紀末の空気とか、マッチョイムズへの反発とか、そういうもろもろを含めて中心に対する周縁の台頭(「サブ」カルチャーが取りざたされたのもちょうどこの時期のように思えるし、ゼロ年代に入ってからはさらに腐女子の存在感が強まる)とか、そういうもろもろによってリアリティが変容したのかもしれない。

 

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    /   ,i   ,二ニ⊃     |r┬-|
   /    ノ    il゙フ. |      `ー'´}:
      ,イ「ト、  ,!,! .  ヽ        }
     / iトヾヽ_/ィ"   ヽ      ノ

と。今まで気に留めなかったものにも気を配れ、イケイケどんどんじゃイケないのだと、バブル崩壊などによって気づかされたからかもしれない。

まあ、セガールはいまだに(といっても記憶にあるセガール映画はゼロ年代までですが)80年代をやり続けてますし、80年代のその暴力性が楽しいという側面は間違いなくあるということは否定できない。

 

そして、この「劇場版シンカリオン」もそう。いや、もしかすると自分が知らないだけで他のホビー/児童向けアニメも80年代が息づいているのかもしれない。

暴力的なまでの「中心」の力が。

では、観ている間どこか居心地の悪さを感じたこの映画の中で展開するその暴力に、その暴力性をかき消すだけの根拠を提示して太刀打ちできないのだろうか。

ことこの映画に限っていえば、一つだけある気がする。

そのためには、まず、なぜゴジラエヴァだったのかを考える必要がある。
エヴァはわかる。広義にはロボットアニメだし、コラボに尻軽だし「タカラトミーが」という観点からすればすでにトランスフォーマーエヴァンゲリオンのコラボを行っていたからそのツテというか連携のしやすさというのもあるだそうし、何より知名度がある。カラーとしても「シン・エヴァンゲリオン」までの繋ぎの話題を作れるし。
 
が、なぜそこに来てゴジラ

シン・ゴジラの時にカラーとTOHOが交わ利契約がまだ生きていて、タカラトミーがカラー(エヴァ)のついでにTOHO(ゴジラ)の権利を取得しやすかったという大人の事情レベルでの理由かもしれない。

だがそれ以外に、メタはメタでもシンカリオンゴジラエヴァンゲリオンの間に資本主義的・会社主義的なコンテンツとしてのコンテンツ以外の正当性を担保できる何かがあるのではないか。ていうかそうじゃないと責任の所在がシステムそのものに放擲されてしまうのでそれは避けたい。第一、それじゃありきたりすぎてつまらないし。

 
ではそれは何か。いや誰か。
無論、それらを繋ぐことができるミッシングリンク庵野秀明を置いて他にいない。

エヴァンゲリオンの原作者にして監督、シン・ゴジラの総監督にして無類の特撮オタであり、そしてまた鉄道オタでもある。新幹線と鉄道は別区分というかサブカテゴリ―的な違いもありそうですが、まあどうでもいい(爆)。

ここで重要なのはシンカリオンエヴァゴジラを結ぶことができるファクターであるということなので。

何が言いたいのかというと、この80年代的で・説明(細部・周縁・サブetc)を拒む暴力性が全面展開するこの「劇場版シンカリオン」にどうにかして現代的なアップデートを施すためには、劇中に庵野秀明を登場させるしかない、ということである。

逆に言えば、それだけで後は本編をそのままなぞるだけでいい。
 

冒頭から突如として登場するゴジラ。その有無を言わせぬ存在力でもって画面上に顕現した暴力の象徴との対敵によって、速杉親子は時空のねじれに遭遇する。

 その過程でエヴァの世界に飛んだハヤトが目覚めると、横のベッドには9歳の北斗----ではなく庵野秀明が寝ているのである。もちろんCVは釘宮理恵のままで。

そう、これだけでいいのです。ホクト少年をすべて庵野秀明に置き換えるだけですべてのつじつまが合うのです。

90年代後期からゼロ年代前半まで、日本のサブカルチャーシーンにおいて彼の与える影響は大きかった。ゴジラですらエヴァの方向に依っていた(機龍のアレ)くらいだ。

80年代的暴力性を引き連れ、宙ぶらりんにすることで90年代日本を牽引した庵野秀明自身が、この暴力的な「劇場版シンカリオン」の中心となることで自らが生み出した負の遺産(とか書くと怒られそうですが)の清算を行うのです。

 


まあね、こういう悪ふざけはともかく、映画としてのエヴァや映画としてのゴジラという枠を超えて、資本主義経済の枠踏みの中で消費者におもね、企業に利潤をもたらすコンテンツとしての猛威を振るうこの映画の行きつく先というのは、同じ劇場にかかっている別の映画を観ればわかると思うのですよ。

ゴジラはともかくエヴァにその「別の映画」のポテンシャルがあるかというとうーんとなりますが、そういうレベルの話ではなくて、映画存在としてあまりに逸脱して資本主義経済における利益産出の財としてのコンテンツの側面が肥大化してしまうと「別の映画」もといスターウォーズの現状のように自家中毒に陥ってしまうのではないか、と。

 

しかしスターウォーズの後にこの映画を観ることになるとはいやはや。

 
あとはまー親子あるいは祖父母と孫を意識した世代別のパロディが多かったですけど、ああいう古いネタを子どものキャラクターに言わせたりする(それでもって「よくそんな古いネタ知ってるな」という作り手の見え透いたセルフ突っ込み)のってなんかすごい歪な感じがして画面から眼をそむけたくなるんですけど、これって私だけなんですかね。

 

 ※念のため付記しますがこれらはすべて面白半分のこじつけな戯言なのであしからず(こんなこと書いてしまうとボケを説明するような寒々しさがあるのですが、ユニバーサルデザインということで一つ)。

「夜明け」観にいったけどこれ完全にGotGだよね

というわけで「スターウォーズ」観に行ってきた。

何気に劇場で映画見るのは一か月ぶりでたまげる。まあ11月と12月は生活スタイルが変わったことと相まってあまりモチベーションが維持できなかったというのはあるんですが、それにしても大分見てなかったなぁ。というか単純に金がなかったというのはあるんだすが、観たかった映画をかなり見逃している気がする。

 

「最後のジェダイ」のときも書いたけれど、スターウォーズに関してはこれといって思い入れがあるわけではないのですが、そういう界隈にたむろしていると自然と人並みの知識が入ってきたりするのである程度の理解はあるつもりなんで楽しむための下地はあるんですけど・・・どうなんだろう、これ。

それをやるなら「最後のジェダイ」でやっておけ、というような負の遺産清算しなければならなかった部分もありつつ、また方向転換を余儀なくされた(特にレイ)であろう舵取りや、前作に増してフォースがほぼほぼ何でもありになっているあたりは上手く乗っかっているような気もしますし、まあバランスの調整に苦慮した感じはある。

んで、まあ個人的には「最後のジェダイ」で示したテーマに対して「スカイウォーカーの夜明け」はかなりけむに巻いたような着地になっているあたりとかモヤモヤしたものが残っていて、特にスターウォーズファンでもない自分としてはいいっちゃいいけどそれでいいのかという感じが。

「スカイウォーカーの夜明け」における血筋の否定、というのはまあ分かるんですけど、それをすでに2作目でやっていた2017年のGotGと、同じく2017年でそこからさらに敷衍して誰でもないすべての者に開かれていた(ローグ・ワンでも一応、そういうテーマを内包してはいたと思いますが)可能性を提示した「最後のジェダイ」から翻って「スカイウォーカーの夜明け」を観ると、その「スカイウォーカーの夜明け」というファミリーネームが示す通りまた血筋の話に戻ってきてしまっているんですよね、これ。

誰でもないレイ(最後のジェダイ時点で)でもフォースに繋がることができジェダイになることができた、そのラストにおいて名もなき少年に押し広げたことができたはずだったものが、パルパティーンの血筋(スカイウォーカーの夜明け)という係累が与えられてしまった時点で、今作のラストにおけるレイの名乗りというのは結局のところは後退でしかないのである。

まあ、それでもアサインド・セックスからの解放(血筋や身体ではなく個人の意思による選択)だとかそういうジェンダー論とかに結び付けてポリティカリー・コレクトネスの視点から語りなおすこともできるのだろうけれど、二歩進んで三歩退がってしまったのが「スカイウォーカーの夜明け」だったということに変わりはない。

もっとJJとライアンの連携がとれていればこんな中途半端にならずに済んだのではないだろうか、という気がしないでもない。

もし、というか今回の話をもっとスマートに語るのであれば「最後のジェダイ」においてレイの出自が明らかになりダークサイドに傾倒し、ベンくんがライトサイドに転向し三作目で両者が合流するというのがまあ、すでに何度も言われていたけれど一番三幕構成としてはよかったのだろうとは思う。

ただライアンは血筋に拘泥することはしたくなかった、だからこそ脚本レベルから撮影レベルにおいて統御し、スターウォーズをもっと開かれたものにしようとした。スカイウォーカーやましてパルパティーンの話ではなく。

が、その帰着が「スカイウォーカーの夜明け」であり、急ぎ足で血筋の話を語りなおさなければならなかったがゆえに脚本がどうにも上手くはまっていないのではないか、今作は。

 

とはいえ「最後のジェダイ」はさんざん言われつくした通りで、その出来栄えというのはアレだったためにディズニーが修正を図らなければならなかったというのはあるわけで、ライアンジョンソンが描きたかったものをもっと上手くできていればもっと開けたものになってはいただろう、という口惜しさはある。

だからまあ、一応今回でスカイウォーカーのサーガが終わったわけだから、ディズニーがライアン・ジョンソンスターウォーズを考えているというのは実はかなり納得のいくところではあったりするのだけれど、しかし巨大資本であるディズニーがそっちを向くのは(ポリティカリー・コレクトネスへの反応という)大義名分のように受け取られてもしかたないというか、要するに強者の施しに近い倒錯が生じているのではないかと思うわけです。

そういう意味ではライアンすらディズニーの傀儡でしかないという下劣な見方もできるのだけれど、そういうのは抜きにしてディズニーの技術力と資本がなければ到達できないものもあるので、あまりテーマやイデオロギーにこだわりすぎるのも自縄自縛にしかならないので慎重にならなければいけないのですが。

 

なんか「スカイウォーカーの夜明け」の話を全然してない気がする。

というのもぶっちゃけ「スカイウォーカーの夜明け」本編についてはダメなところもあるしそこそこ上がるところもあるよねーという極めてスターウォーズ部外者の視点からしか語りえないからなのですよね。

アダム・ドライバーはよかったよ、うん。特にレイを抱きかかえるときの顔とか、ああいうピュアな顔もできるんだなぁと感心しました。

 

シスの星の在りかを記録しているあの装置とか、そもそもどうして二つもあったのかとか(バックアップ的な意味合いなのかもしれませんが)、クローンの話とか「結局レジェンズからつまんでるじゃん!」という印象だったりレン騎士団の劇中での活躍がベンくんと戦うだけという名前負けというか詐称というか、レイがフォースライトニングを使うんだったら対祖父戦で相殺しあってシスに近づくとかそういうもっと上手い使い方できたんじゃないかとか、まあ考えだすと首をかしげるところは多々ある。

第一パルパティーンの勧誘にしたって、あそこでレイに殺させたところで憎しみによるものというよりは致し方なく、という感情の動きであって、それでシスとしての継承ができるんですかという疑問があったりするわけで。

ていうか皇帝フォース強すぎ。ていうかさっきも書いたけど全体的にフォース何でもありすぎ。

 

それはまあいいとしてもですね、JJ、ベンくんとレイのキスはだめだろー。あそこはダメだろ―。「パシフィック・リム」観てないのかJJ。それともやけくそなのかJJ。あそこはこらえてほしかったよJJ・・・。

フィンくんがレイに言おうとしてたのって絶対ベンくんの役どころに立ちたいからでしょ。その辺なあなあになってませぬか。というかレイはそういう恋愛とか色恋のにおいは完全に断ってほしかったからあのキスは本当に「えー」となりましたねー。

というかベンくんに関しても結構扱いが雑というか、少なくとも前作ではかなりおいしい役だったのに対して今作ではちょっと残念だったですね。パルパティーンに雑に吹っ飛ばされて退場、というのはどうなの。

 

あとシュールな笑いが結構ありましたね。笑わせようとしているシーンでは笑えなかった(劇場でも笑ってる人いなかったです)んですけど、ハックスが撃たれて死ぬシーンでやけに吹っ飛んで地面を滑るのとか、レンくんとレイの引っ張り合いでめちゃくちゃ揺れる船の絵面とか、またしても自分のフォースライトニングで顔を削られるパルパティーンの学習能力のなさとか、そういうのは面白かったです。

 

そんな感じ。