dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

パラサイトと1917観てきた

うーん・・・ちょっと前までは3本連続で観てもここまで疲れなかったんですけど、今日は2本連続で観ただけでかなり疲れてしまった。まあインターバルなしなのとカロリーの高い映画を観たから、というのもあるのでしょうが。

パンフレット買うのも忘れちゃうし、入場前にチケット紛失するし、今日はさんざんでございました。んでもってそこに「パラサイト~」ですよ。

のっけから余談で申し訳ないのですが「パラサイト」と言えばロバート・ロドリゲス監督イライジャ・ウッド主演のSFホラーの方を思い出す人も多いのではなかろうか。
今見ると「ワイルド・スピード」でおなじみジョーダナ・ブリュースターや旧X-menジーン役でおなじみのファムケ・ヤンセンとか出てるし純粋に映画として面白いんですけど(ロドリゲス監督なのでオマージュ多めだし)、「パラサイト半地下の家族」との題名かぶりで検索汚染されてしまうのではないかとちょっと不安になったりならなかったり。まあ「イライジャウッド」でサーチエンジンに入力するとサジェストで「パラサイト」が出るくらいなので大丈夫かとは思いますが。

 
もう十分に語りつくされた後なので言いたいことは他の人がほとんど言ってくれているんですが、まあポン・ジュノは本当に欺瞞を暴き出す監督だなぁ、と。「母なる証明」でも書いたけど、その欺瞞の炙り出し方が容赦ない上に表現として本当に優れている。

格差の描き方としてのいくつかのモチーフ。今回で言えば階段(や坂道を使った「上下」の表現)や、「母なる~」でも重要だった窓ガラスはとりわけ分かりやすいものでした。
階段は、まあ明確に階梯=階級を想起させるものでありますし。実は宮崎駿もその上下のモチーフをかなり取り入れている人(「未来少年コナン」「天空の城ラピュタ」などはかなり分かりやすい)なので、宮崎アニメに慣れている人なんかは直感的に感じ取りやすいのではないでしょうか。

その上下(というか高低差)モチーフは、本作においては明確なヒエラルキーを映し出す。それはキム一家とパク一家という別々の家族の中だけでなく、キム一家のあの半地下の家の中にさえも存在する。

冒頭のWi-Fiのくだりを見れば一目瞭然ですが、あの半地下の家の中でWi-Fiが繋がる唯一の空間は、「階段」を「上った」ところにある。その空間がトイレ、というのが容赦ないポン・ジュノクオリティ。唯一の救いの場所が汚わいの溜まり場て。

そんでもってパク一家の中にも見える形の上下と見えない形の上下が存在する。
実はさらに下があった、ということもそうなのですが、見えない差別の形というのはもちろん女性差別の構造でございます。まあ見えないというと語弊はあるわけですが、パク・ドンイクと妻()の間にある明らかなヒエラルキーはトロフィーワイフとしての関係性以上のものを見出すことは不可能だろう。

金持ち一家の家は坂を「上った」ところにあるのも露骨なのですが、その格差が実は思っていたよりも大きいものだったというのがわかる、キム一家全員が寄生に成功してパク家のリビングで騒ぎ始めたあのシーンの直後。

どうにかこうにか脱出したキム一家の三人が豪雨の中家に戻る道程。彼らはひたすらに道を下っていく。ほとんど地面と平行に走っているカットはないくらいにひたすら道を下っていく。
何度も何度もそういった階段による高低差を横からの分かりやすいアングルで捉えたりするわけですが、後述するように実はこの階段を撮るアングルというのも結構重要なのではないかと思いまする。


ポン・ジュノ映画における窓(ガラス)の使い方は相変わらず。
窓ガラスの向こう側とこっち側。向こう側が見えない壁とは違い、対岸をありありとみることのできる窓ガラスという透明な障壁はむこうとこっちが連綿と繋がっていることを嫌でも意識させる。

それは「ガラスの天井」や「ガラスの地下室」と呼ばれるスラング(?)があることからもよくわかる。
そして、映画におけるアクションとして粉々に割られることの多いガラスは、しかしこの映画においてはその匂いすら付け入るスキがない。まあ、単純にそういう風に見せるアクション映画ではないというだけではあるのですが。

あとインディアン、というのもかなり意味深(というか露骨すぎるきらいはありますが)で、その歴史性を考えればギテクがインディアンの格好をすることや同じくドンイクがインディアンの格好をするということのまったく異なる意味合いが生じる対比的多層性は、窓ガラスによって敷居られるレイヤーの違いという描写と一体である。

そうやっていくつもの対比を執拗に重ねることで、むしろ両者が同質化していくように見える。

で、ここでさっきの階段のアングルという話が出てくるわけなんです。

というのもキム・ギテクがドンイクを刺殺した直後に階段を下って逃げていくカット。あそこは真上からのアングルで撮られているんですよね。

それがもたらす視覚効果というのは何か、と考えたときに「上下」感覚の消失なのです。階段(というか段差、高低差)というのは横から見るからこそそこに上下の関係が見えるわけで、それを真上から撮ればそんなものは消失する。

だからあの瞬間のキム・ギテクには上下も何もなかったのではないか。「上」であるパク・ドンイクを殺し「下」であるグンセが死んだ今、もはや上下など何もないのだと。相対化されるべき他者が喪失されれば、そこには上下なんてものはない。

だけれど、それはとても荒涼とした景色だ。

そこで終わらず、わずかばかりの救いのようなものを提示して終わるわけだけれど、果たしてあんな「三人でやる大富豪の都落ち」を観ているような奇妙なループの感覚を抱いたままの救いを救いと言っていいのか。チェ・ウンクの顔も彼がいる空間の暗さも、あまり希望に繋がっているとは思えないのだけれど。


と、ここまで書いたところでもう一つ重要なモチーフとして「におい」があることを忘れていた。なので書く。

観ればわかるとおりキム一家の「におい」と彼らよりもさらに「下」の臭いを発するムングァンの「におい」、そしてそれに対するドンイクの反応。それがどういう帰結をもたらすのか。

それにしても、なぜポン・ジュノは「におい」を選んだのか?
におい、というのは映画というメディアにおいて観客には到達しない情報である。4DXならば、という人もいるかもしれませんがあれは広告で「Scent」と謡っていることからもわかるように地下の住人のようなにおいを造り出そうとはしていない。
そりゃそうです。わざわざ映画を観に来て金払って不快な臭いを嗅ぎたい人はそうはいない。

それこそが、ポン・ジュノが観客の中の欺瞞を抉り出そうとしていることの証左にほかならない。キム・ギテクがドンイクを殺すに至ったその大きな撃鉄を引いたのは、ほかならぬ「におい」によるものだった。

けれど、どれだけ観客がキム(一家)・ギテクに感情移入したところで、殺害に至る大きなきっかけである「におい」を感じることは決してない。そしてその「におい」がわからなければそこに向けられるドンイクの侮蔑的な態度に本気で憤ることはできない。
いや、憤ったところでそれは欺瞞でしかない、それらをまるごとひっくるめて理解できなければどうあがいたところでキム・ギテクに感情移入することは許されない。そんなことはない、などと言える人はそれが自己欺瞞だと気づいていないだけだ。

もちろん、この映画内において、というか映画というメディアでは少なくとも今のところは観客がギテクと同化するための術を持たない。だから、のうのうと映画館に来て映画を観ることのできるような「裕福」な人間がキム一家に、グンセらに感情移入することはそれ自体が大きな欺瞞なのだとポン・ジュノは突きつける。

だから私は、グンセがついに動き出したときに、暴れまわったときのその「真っ当な怒り」を原動力に暴れまわる姿に感動したにもかかわらず、それが欺瞞であることを突きつけられて居心地がとても悪かった。

それは、映画の持つの力を最大限に使って映画の持つ力を否定しているようなものなのではないかと思うのだけれど、そんな映画がアカデミー賞を獲得するというのもなんだか凄まじくアイロニカルな状況である。

とはいえそれこそがポン・ジュノの尖鋭さなわけで。劇中の倫理や論理を超えて私たち観客の中に潜在する認識という現実を通じて映画という虚構とリンクさせて地続きの欺瞞を暴きだす。

ムァングンが便器にゲロを吐いた直後にギジョンの便器の中から汚物が噴出するカットバック演出とか、思わず(引きながらも)笑ってしまうクオリティがたくさんあって確かにブラック・コメディではあるのだろうけれど、しかしこれを笑うことはやはり自分の浮薄さを笑うことのような気がする。
そして、キム・ギウの「笑い」を考えるとポン・ジュノ的にはそこまで織り込み済みなのではないかと考えてしまう。

 

相変わらずポン・ジュノは恐ろしい映画を作る人だなぁ、と。
世界が欺瞞の上にあるということ。それを描いた映画がここまで大きく取り沙汰されてなお、そのことに大衆が無自覚であること。
そこまで含めて、ポン・ジュノの映画は「炙り出し」なのでせう。

 

 

さて続いて「1917 命をかけた伝令」(サブタイ・・・)。

全編ワンカットということを前面に押し出すことにした東宝東和の広報戦略がどの程度効いているのかわかりませんが、初日ということもあって結構客が入っておりました。
「前代未聞の全編ワンカット」という触れ込みもありますが、全編ワンカットの先行事例として「バードマン」という作品があるのにそれでいいのかと思わなくもない。この映画自体あまり話題に上ることは少ないから前代未聞をつけてもいいだろう、ということなのだろうか。一応アカデミー賞も取ってるんだけれども、「バードマン」。とはいえ5年前のアカデミー賞の映画のいくつを覚えているか、ということを言われるとまあ意外と印象に残らなかったりします。

あと全編ワンカット(風)というには明らかに一か所ぶった切ったというか文字通りブラックアウトする場面があるので、ちょんぼな気がしなくもないですが、まあ時間経過を表現するための苦肉の策だったのでしょう。

 
サム・メンデスはなぜ第一次世界大戦を舞台に選んだのだろう? 祖父の話からインスピレーションを受けたから、ということでそれ以上のことは特に何も言ってはいないのだけれど、でも第一次世界大戦でなければならなかった理由はわかる。

だってこの映画は「伝える」ことの大切さを伝えようとしているのだから。

しかし、「伝える」ことがこれほどまでに手軽に気軽にできるようになった現代を舞台にそれを誠実に描くことなんて不可能だ。それこそパロディになってしまう。

だからサム・メンデスは人の身体それ自体をメディア(媒体)とする状況を作り出すために第一次世界大戦を選んだのだろう。

何故なら情報伝達技術がまだ発達していないからこそ、人の身体それ自体を情報伝達のメディア(媒体)として違和感なく描くことができるのだから。
そうでなくとも、ミステリー界隈では携帯電話というメディアの登場でトリックの作り方が劇的に変わってしまったというのはよく知られた話であるのだから。

戦争は描きたいが、戦闘は描きたくない。そういう宮崎駿的な二律背反がサム・メンデスの中にあったのかはわからないけれど、この映画はヒロイックな戦闘が存在しない。さもありなん。再三書いたように、これは第一次世界大戦という戦争を舞台にしてはいても戦闘を描く映画ではなく、「伝える」ことそのものを描いているのだから。

人が、人に、人の身体を通じて情報を、言葉を届けるというその重み。

「指先で送る君へのメッセージ」なんて歌詞が氾濫するような、携帯電話が普及して以降の恋愛ソングなどでは考えもつかないような(いやYUIは嫌いじゃないですが)、情報を伝えることが命がけだった時代までさかのぼることで「伝える」ことそれそのものがいかに重要なことなのか、ポスト・トゥルースの今だからこそこの映画の「伝え」ようとするものが価値を持っている。

誰もかれもがスマホやらパソコンやらから気軽に情報を発信できるおかげで、「伝える」ことが本来はどれだけの力が必要なものなのかということを忘れてしまっている。

だからこそデマゴーグがこうもやすやすと垂れ流される。それがどうやって他者に届き痛みを植え付けるのかという想像力を欠いたまま。


だからカメラは徹底的に一人(二人)だけを追い続ける。一つの情報を一人の人間が届けることの重みを、絶えず、線として、膨大な情報を膨大なまま、デジタルな点の連続としてではなくアナログな線の連綿として描き続ける。そのためのワンカットだ。

それはすさまじくアナログ(連続の量としての線)な技法だ。しかしそれを達成するためにはデジタル撮影による編集技術が必要だった。この、手法と技術の間に介在する二律背反がなければ到達しえなかった極致。

そうでもしなければウィリアムという個人に寄り添い続けることができない。多分サム・メンデスはそう考えたのだろう。誠実というか馬鹿正直というか。


おかげで、この映画は他にはないものを、それこそ「バードマン」にもないものを見せてくれる。それはワンカットで映し出される戦場。

まず冒頭からしてかなりガツンとくる。二人をとらえていたカメラが回り込むと塹壕が目の前に広がっている、恐ろしいまでの現実。どこか牧歌的な(それでいて寒々としている)草原の風景から少し歩いたところにある塹壕という戦場の局地。それをカットを割ることなくシームレスに写し取ること。それがここまで暴力的な驚きになるとはちょっとびっくらしました。

そうやってカメラは彼らを捉え続ける。捉え続けるしかない。なぜならこれは「人の身体が伝える」映画なのだから。

そして、それが逆説的にある事実を提示する。カメラが命綱だということを。
この映画ではカメラに切り取られた部分だけが存在を許される。そういう、きわめてゲーム的なルールがそこはかとなく立ち込めている。

思えば、ある特定の人物にのみカメラが寄り添い続けるというのは、いかにもゲーム的ではないだろうか? そうやって、これはロジャー・ディーキンスのカメラというインターフェースと一体化した観客の視線が存在を画面内に括り付けるのだ。

逆に言えば、カメラのフレームから外れた者は死ぬかもしれないということだ。思い出してほしい。明らかに主人公として配置されていたはずの「彼」が、二人に注がれていたカメラの視線が、二人がばらけたことでウィリアムにのみそのカメラが向けられたことで、何が起こったのか。

カメラの外にこそ「死」が立ち込めている。一つのカメラ=綱で永らえることのできる命は一つだけ。この映画がゲーム的システムを採用している(せざるを得ない)以上、それは必然。プレイヤーが操作できるキャラクターは一度に一つのみなのと同じ原理だ。

そしてカメラの視線を一身に負うことで彼は、「1917」という映画をウィリアム・スコフィールドという個人の物語に収斂させることで生存の権利を得る。

だからカメラがウィリアムとともにあり続ける限り、ウィリアムがカメラと在り続ける限り彼は死なず、それどころか死をも切り取ることができる。

だからこそ最後の300メートルの激走にかたずをのみ心の中でウィルに声援を送るのだ。「足を止めるな、カメラから離れるな、さもなくば死んでしまう」と。カメラのレンズが捉える光から外れた瞬間に、これは彼の物語ではなくなってしまい、彼に死をもたらすことになる。だから、カメラから彼が遠のいてしまう瞬間に恐ろしくなり、彼が再び走り出し始めたときに安堵する。

そうしてカメラは、軍人としてのメディアの役目を果たしたーーもう一つ、戦友のメディアの役目を果たしたーー彼の顔を捉えて終わる。

それにしてもジョージ・マッケイの顔の変貌ぶりが凄まじい。ほとんどこの映画は彼の独壇場なわけですが、それを破綻なく成立させる彼の表情の機微は本当に良い。

脇にベテランを配置するのもグッド。しかしコリン・ファースが最初どの役だったのか全く分からなかったんですけど、あんな最初の方に出てたとは・・・あんなロヴィン・ウィリアムスみたいな顔だったっけ、コリン・ファース

あとマーク・ストロング最高。

一つのカメラで捉えられるのは一人の物語のみ。その極北として「1917」の手法がある。それはゲームというニューメディアがなければ気づけなかったシステムではないだろうか、とメディアというものいついて考えたり。

そしてマーク・ストロング最高。

 

 

 

 

 

 

 

Awsome ! Shiaaaaaaaa! LaBoeuuuuuuuuuf!

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「ザ・ピーナツバター・ファルコン」観てきました。

いやー困った。いや、ここまで作り手が気持ちいいだけで観客としては反応に困る映画だとは思わなんだ。と、観た直後は思ったんですけど、思ったよりもいい映画なんじゃないかと、反芻しているうちに思い直した次第です。

 

いや、シャイア目当てで観に行ったのでシャイアが気持ちよさそうというか満足気なオナニープレイングをしているのは別に構わないのですけどね。まあ、あんだけ顔面アップで撮ってもらったりすればそりゃ気持ちよかとよ。というか、ほとんど彼にとってのセラピー懺悔映画としての佇まいを備えているゆえ、彼にとって心地よい映画であることは間違いないのでせう。

だってあなた、泥酔で事故ったりとかそもそも彼が演じるタイラーのキャラクターがシャイア本人とリンクしてしょうがないわけで。

実際、タイラー・ニルソン監督はパンフで「~前略~彼が演じることで観客はある種の先入観を持ってタイラーを見ることができる。そして彼が他人の幸せのため犠牲になるほど成長したら、きっと感動的だろうと考えました。シャイアはこの作品で過去の過ちを捨て、カタルシスを得たかったんだと思います。」なんて言ってるし。実際、私はシャイアを目的にこの映画を観に行ったわけですし、この映画がザック在りきに見えてその実はそれと同じくらいシャイア在りきだということです。

 私が彼を好きな理由は躁的な部分が役どころや私生活において前面に押し出される中で、しかしその躁的な部分にかなりのグラデーションがあって(それこそ「トランスフォーマー」シリーズのやりすぎなぶっとんだ感じから「フューリー」の戦場におけるレイジとか色々)、その私生活の落ち着きのなさも含めて滲み出る「弱さ」という魅力を感じるからなのです。弱い犬ほどよく吠える、その遠吠えを愛おしく思ってしまうのです。こう、「大いなる西部」的な愛おしさ、というか。いや、実際にかかわったら面倒な人なのかもしれませんけど。

そして、シャイアはこの映画で一つのみそぎを終えた。クレジットの名前の順番の謙虚っぷりも、やっぱりそういうことなんじゃないかと。

それはそうと躊躇なくガキんちょを殴り飛ばすシャイア最高。

 

他の役者もみんな楽しそうではある。ザック・ゴッツァーゲンも(ある意味で当然ではあるのだろうけれど)自然な演技ですし、ダコタ・ジョンソンもみんな気持ちよさそうに演技をしている。

即興の掛け合いもあったようだし、役者は楽しめたのだろう。ブルース・ダーンとか、ちょい役に上手い人を配置しているおかげで少々首をひねる展開とかがあっても比較的安心して観れる。ウェイン・ディハートとか、私はこの人のこと全く知らなかったんですけどその佇まいだけでもはや十分でしょうし。

共同監督のマイケル・シュワルツがドキュメンタリー出身ということでところどころドキュメンタリータッチ、ライティングを使ってないような自然さも見受けられたりとかもその辺の統制があったのかしら。それが即興とマッチしているのかもしれない。

ザックに関しては馴染みすぎて逆に目立っていないような気すらしますよ、シャイアスキーからすると。が、さもありなん。むしろこの映画は、シャイアがザックの夢の手助けをする、という構造を逆照射することでシャイアこそを輝かせる作品なのだから。

 

そんなわけでシャイアファンにとっては至高の一本ではある。

ともすれば、色々と問題を孕んでいる気がしなくもないこの映画。ハックルベリーフィンに重ねるのもそうだけれど、マイノリティ側の視線とマジョリティ側の視線にはやっぱり注意を向けなければいけない。

パンフレットの渡辺さんのレビューは一読の価値はあるけれど、しかしその無垢をマイノリティに投射するマジョリティの視線というのが、果たして同じ位置にあるのかどうか、ということを考えなければならない。

じゃあこの映画はどうなのか? そういう意味ではこの映画はしっかりと明示してはいるだろう。望遠でテレンスとザックを平行に(彼らの足は海の浅瀬を通じて繋がっている)描いていることからも、そこにあらゆる差異を取り除いて同地させようとする意識はあるはずだ。

まあ、正直渡辺さんの言うようなアメリカ的価値観の「無垢(innocence)」なんていうのは欺瞞で、それこそ押井の「イノセンス」くらいじゃないと私は納得などしません(そもそも「子ども」という概念自体が近代の発明という見方もあるくらいだし)し、そういう無垢さという名の下に障碍者を非人間化してきたことの問題だってあるわけですから。

ただ、このこの映画に関してはシャイアとザック、それを繋ぐダコタがそういう境界を取り去ってくれている。

すでに述べたようにシャイアがザックを助けるという行為の裏返しにシャイアがザックに助けられるもといザックがシャイアを救うという逆転構造が浮かび上がっているのは自明なわけで、そこの垣根は取り払われているのではないか、と少なくとも私は思ったりする。

 

ただまあ、それにしてもラストの数カットはいらないかなーとは思いますけど。せっかくあそこまで現実を超克するザックの超パワーを見せつけるのであれば、持ち上げたサムをそのままダンカンとラットボーイに投げつけて一網打尽にしちゃうくらいでも良かったかなぁ、と。

エンディングの「RUNNNING FOR SO LONG」でちょっとウルっと来たので多めに見てやりますが、ええ(何様)。

 

とはいえ、タイラーもといシャイアの劇中での振る舞いに腹を立てる人もいるでしょうし、それはぶっちゃけますとシャイア・ラブーフありきで、そのどうしようもなさを背負うシャイアという人間なればこその感動でもあるわけなので、シャイアファン以外がこれを観てどう思うのかはちょっとわからない。

でも、人の弱さを認めることができる人なら、シャイアを知らなくても大丈夫だと思う。

 

 

1月に観た映画とその中で印象に残った映画

今までは備忘録としてまとめて書いていたのだけれど、あとで振り返るときのために今年からはどれが印象に残ったのかも書き記しておくことにしますた。

てなわけで先に書いておく。

順位とかは特にない。

カジュアリティーズ

ザ・クリーナー 消された殺人

・パニック・トレイン

・マチネー/土曜の午後はキッスで始まる

ザ・ウォーク(街並み、特にラスト)

・舞踏会の手帖

 

 

「ラスト・ワールド」

一言でいえば盛大な逆張り映画。

思考実験としては楽しいけど映画としては・・・思考実験という設定じゃなくて、それこそループにすればまだ観れたのではないかと。2013年だし。ありふれてはいるけれど。

んでもって倫理的にどうよ、という場面が多い。特に無理やりゲイをアウティングさせてる(それを同じゲイが強要させているというのがまた酷い)シーンとか、あの子が自分のセクシャリティについてどう考えていたのかを明示しないことで都合よく使ったんだろうけど。

合理的・論理的な思考()に対するカウンターというか異議申し立てとしてあの展開にしたのだろうけれど、あまりにオプティミズムが強すぎるし、まあ最初からそうなんですけど言ったもん勝ちすぎて。

あれが偽善的に見えてしまうのは日本人的に精神論や根性論への反発があるからなのかもしれないけれど。アメリカはむしろ合理性()によって突き進んで弱者を排他するからこそ勘定的価値ではなく感情的価値による成功パターンを見出したかったのかしら。

 

しかし、あの選択はある種哲学への問いかけでもあって、最初に生徒が言っていたように哲学とは自慰行為なのだろうか、であればあの思考実験の空間に哲学者がいた場合、果たして選ばれるだろうか?ということがあるわけですが、まあそこまでは行かず。

詩人は即そぉい!の天丼は面白かったです。

 

 

カジュアリティーズ

年始から嫌な映画を観てしまった。

斜めのカメラワークやスロー、一人称視点のカメラワークなどなどデ・パルマックスな画面。印象的な画面が多い。

ベトナム戦争を題材にしたものであり戦争犯罪を描いてはいるのですが、その精神性は「野火」にとても近接している。

おそらく戦場における個を描こうとするのならばどうしてもああなってしまうのでしょう。そこにおいてマイケル・J・フォックスもといエリクソンが理性を保ち続けたことにスポットを当てるのはさすが。

が、これは一つの絶望でもある。なぜなら、エリクソンが正気を保たなければ告発はできなかったのは事実ではあるけれど、そうやって理性を保ち続けたがゆえに彼女を逃がすことができなかったのだから。あそこで一緒に逃げていれば、あるいは救うことはできたかもしれない。もちろん、あそこで救ったとして生き延びることができたかどうかはわからない。ただあそこで何もかもなげうって一緒に逃げていればあるいは、という可能性はあった。しかし何もかもなげうつということは理性を捨てるということだ。

脱走兵になってしまうという軍規への従属は、理性のなせる業であるがゆえに彼女を救うことはできなかったということでもある。

しかし盲従することはすなわちアイヒマンへの道でもあるわけで、その葛藤の中での最善策があれだったのかもしれない、と考えるとなんともやるせない。

 

「ラスト・ターゲット」

ヒットマンのジョージクルーニーというより助平ジジイにしか見えないんですが。

ていうか監督も狙ってるよね?ブロンド美女のケツ(やや望遠とはいえスカート透けてるし)カットからの凝視クルーニーのアップである。

原付でのカーチェイスで確信する。これわざとだと。

だからこそクルーニーだったのだ。

どれだけ大真面目に取り組んでも老体故に生じるおかしみ。そしてその苦悩。

若い女性と並ばされるのも、その相手が情婦であるというのもまさにその証左。

これは当人にとっては辛いことだ。どれだけ大真面目にシリアスに徹底しようとしても、それが可笑しさにしかならないのだから。

ことによると、これは「ラッキー」におけるハリーの描かれ方にも近いのではないだろうか。無論、あそこまで老いた肉体にコミットはしていないし、クルーニーごとき(失礼)若造ではアレだけのものを発することはできないにしても。

ある種の中年の危機映画なのかもしれない。

この当時でまだ50行ってないのに年齢より老けて見えるし…。

 

 

ザ・クリーナー 消された殺人

どうしてこうなった…どうしてこうなった?最後までは良かったのに!

娘も含めてみんな良い演技して演出も良かったのに、どうして最後にああなった!?

ひょんなことから大きな陰謀に巻き込まれるのかと思いきや、むしろその真逆の真相というのは中々よかったし、スケールダウンしていたとしてもその人物たちの説得力も十二分に役者が担ってくれていたし、終盤までは人物の描き方自体も良かった。なのにラストがあれ!

エディの二面性の表現としてサミューに壁ドンするシーンの鏡の使い方とかもそうですし、回想をインサートしてもおかしくないところを徹底して切っているし。

そうやって回想を入れないで写真だけで端的に示すスマートさは、単にスマートなだけでなく過去に囚われる人々の、その過去(身近な人間が殺されたこと)との決定的な断絶を浮き彫りにしてくれているし、だからこそ死者を引きずる人々の顔の演技がなおさら光る。サミュエル・L・ジャクソンの中でもここまで落ち着いて重厚感のある顔はそうは見れますまい。

そこにエド・ハリスとかもいるし、娘さんも達者だしみんないいんですよ、本当に。

なのにラストのあれはどういうつもりなのか!?

 

もう一度書きますけどラスト以外は最高だったのにラストで台無しだよ!全米ライフル協会ステマですかこれは?!

いや、あれを狙ってやってるならブラックジョークとかいうレベルじゃないんですが、しかしここまで演出レベルで手際よくやってるのにあのラストに違和感を持たないのはちょっと信じがたい…。狙ってるのだとしたらかなり意地悪ですけお。

 

だって母親の死体を目撃してあれなのに、家族同然で自分の名付け親を射殺するのはそこまで気にかけないどころか映画上の締めとしてとはいえレポートの中に刻むというのはヤバいですよ。

 いや、このラストはこのラストで嫌いではないというか、完全に虚を突かれたとはいえそれがかえって新鮮だったりはするんですが。

 

ユリシーズ

告白すると半世紀以上前の叙事詩系の映画や西部劇映画はあまり好きではないというか、単純に慣れてないからなのだろうけどいまいちドライブできないことが多かったりするのですが、これは面白かった。

よく考えたらオデッセイだしソード&サンダルなのでああいう怪物系が出てくるのも当然なんですけど、ちょっと意表を突かれた。

一つ目の巨人ポリフェーモも足だけとか手だけとはいえ、しっかし等身大の人間と一緒に映していたりしますし。

この年代の叙事詩系の映画では一番純粋に楽しめた気がする。

 

「マチネー/土曜の午後はキッスで始まる」

2階のスペースが崩落して座席が吹っ飛ぶショットが最高。 

さすがはジョー・ダンテ。無邪気な楽しさを全開にしつつもその背景あるいは背後に忍び寄る不穏を滲ませる。ラストのヘリコプターのショットなんてぞっとしない。

ていうかこの人もう73歳なんですね。なんとなくまだ60代くらいの印象だったのですがスピルバーグと同年代とは。

思うに、この人って割とタランティーノと似たような精神の監督なんじゃないだろうか。目指す方向性はちょっと違うけれど、無邪気な楽しさとそこはかとないポリティカルなにほひも持ち合わせている。

グレムリン」ですらクリスマスに対するあてつけ(笑)のようなものがあり、ある種の中心に対するカウンターのようですらありますし。

 

あと劇中劇のクオリティが半端ない。これ自体が独立した作品として特典映像として観れたりするらしいので最初からそのつもりだったのでしょうけど。

 

ターミネーター2」の後、というのもちょっと勘ぐってしまう。CGが違和感のないものになった直後として、いわゆる特撮の遺物にさせないための手法として劇中劇にしたのではないか。60年代という時代を使って当時の人々を再生させ、彼らの視点を通じて特撮を観るのだと。だって60年代の特撮映画を完全再現してるわけじゃないでしょ、MANT!って。明らかに60年代の特撮よりもアップデートされてるじゃんすか。そんなに60年代の特撮映画を観ているわけではないですが。

少なくともジョー・ダンテはそういう技術に関しては意識的なはずですし。スクリーンの使い方がとても示唆的だし。

劇中の出来事はそれこそ現実のパロディ(興行としての映画の歴史というか)ではあるのだけれど、MANT!も含めスクリーン内と現実を並置させ拮抗させることで、ある種の弁証法的な手法でもって何かを見出そうとしているんじゃないかなーと。特にこの映画はそれが顕著な気がする。

いやー面白い。

 

ウルヴァリン サムライ」

 いや面白いですこれ。

マンゴールドのウェスタンをサムライに置き換えた感じというか、義というか。

 

遊星からの物体X ファーストコンタクト

うーん?まあ面白いと言えば面白いんだけど下手に過敏すぎてホラーというよりはモンスターパニックに寄ってしまっている感じ。

ラストの繋げ方はリメイクかと思わせてからの〜ってことなんでしょうけど、原題ならともかく邦題はネタバレしちゃってるのでなんだかなぁ。

 

バルカン超特急

初めて通して観る。なんかすごいパラノイアなんですけど。

やたらと人があっさり死ぬわりにコミカルな描写が多かったりするし、妙に倒錯しているように見える。

こんなんだったっけ・・・? あまりに軽い人の死、それ自体がギャグになっているというような見せ方でもなくて(手を撃たれた時のリアクションなんかはギャグですが)、なんかすごい恐ろしい悪夢を見ているような感覚。

 

それでも夜は明ける

きつい。痛みで泣きそうなったの久々ですよ、本当。

否が応でもその場に、視線を括りつけようとする長回し。カメラを移動させながらのものもあればフィックスによるものもある。そのあまりにも残酷な世界を提示し続けようとするマックイーン監督の意思が見える。

そして製作のブラピが「良い」白人の役を持っていくというせこさ。ブラピは冗談にしても、やっぱりハンス・ジマーはこの手の映画に合わなすぎてちょっとどうなんですかね。「ザ・ロック」のノリで書いてませんかこれ。

ラスト周辺はまだしも中盤の「ザ・ハリウッド大作」然としたBGMはさすがに空気読めてない感じがするんですけど、どうなのよジマー御代。

あらゆるものが間違っている狂った世界。人間がモノとして扱われる世界。その極限が戦争・戦場であるとすれば、この時代は戦場そのものだった。

なんてことはない、南北戦争が始まる前からアメリカはすでに戦場だったのだ。

「カラー・パープル」や「青い目が欲しい」といった抒情として描かれる黒人差別とも異なり、叙事としての怜悧な視線がそこにはある。それを象徴するようなカメラワークが随所に散見できる。

とはいえ監督は同じく黒人である。徹底した叙事として描くには当事者性が強すぎたのだろう。その語り口は観察者の、もっと言えば傍観者のそれだからだ。「デトロイト」とは真逆に。だからこそ、ハンス・ジマーのこてこてな劇映画じみたBGMを入れて抒情に寄り添ったのではないだろうか。というか、入れざるを得なかったのではないだろうか、と勘繰ってしまう。

 

ザ・ウォーク

ジョセフ・ゴードン・レビット、映画のたびに顔が少し変わっている気がするんですけど。いつも彼を見かけると「あれ、これゴードン・・・? でも微妙に違うような・・・あ、やっぱりゴードンだ」という風になるのですが、わたくしだけでしょうか。

ゼメキスに関しては「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズや「永遠に美しく」といったかつての日曜洋画劇場でやっていたような映画とか「コンタクト」とか「フォレストガンプ」とかの話題作くらいしか観ていないにわかな私。

ルーカスに似て映画の技術的な方面に対しての興味関心が強い人で、大衆を満足させることはできるんだけどよく考えると首をひねりたくなるようなディテールも散見できる良くも悪くも技術志向な人、という印象が強かったんですけれど、不覚にも今回は泣かされてしまった。

もちろん、それはゴードンにではない。彼を通じて描かれる「ワールドトレードセンタービル」にだ。

もしゴードンが魅力的に見えるのであれば、それは彼が生きながらにして彼岸を、というか彼岸「で」遊歩するブリッジャーとして向こう側の世界と同期しつつ同時に此岸に足を置くバランサーでもあるからだろう。

ゼメキスは「フォレストガンプ」においてモノローグによる回想を採用し、その手法は北野武などのようなシネフィル回りの人間からはその手法を批判され(まあ予算の多さに対するやっかみも含めてなのでしょうが)がちではあるのですが、今回もその手法を採用している。「フォレスト~」からこの「ザ・ウォーク」の間に同じようにモノローグを採用していたのかどうかは観ていないのでわからないのだけれど(白目)、ことこの映画に関してはその手法によって、回想という「誰かを通して過去を見る」行為によってもたらされる感動がある。

ではこの映画はフィリップを通じて何を見せてくれたのか。それは今は無き・・・今は亡き「ワールドトレードセンタービル」だ。

 

正直なところ、前半は退屈だった。記号的なキャラはいてもそれぞれのキャラのかけあいはアンサンブルなんてものは感じられないし、とりあえず描いといた感じがぬぐえないからだ。

んが、中盤になってワールドトレードセンタービルが登場してから本格的にこの映画は動き出す。なぜならこの映画の主役はワールドトレードセンタービルであり、そのワールドトレードセンタービルという無機物を追悼する回顧映画として観れるから。

前半が退屈なのは当然で、それはすべてこのビルを美しく飾り立てるおぜん立てでしかないからだ。

この映画で力が一番入っているのは、CGをふんだんに使って様々なアングルから描き出されるワールドトレードセンタービルに他ならない。

だから主役が登場してから加速度的に映画はテンポアップしていくのだ。ケイパーもののように。

この映画の主役は決してジョセフ・ゴードン・レビットなどではない。登場の時点から常に彼の背後にたたずんでいたワールドトレードセンタービルである。だからこそ最後の最後にカメラは彼ではなくワールドトレードセンタービルにフォーカスしていき、美しく黄昏の中に輝いて有終の美を飾るのであります。

この映画のすべては、このラストカットの美しさのためだけにあると言ってもいいんじゃないでしょうか。それくらい、陶然としてしまった。

まるでタワーが、タワーそれ自体のためのモニュメントであるかのように黄金色に輝く様に。周囲が暗くなって一層輝かせようとするゼメキスの心入れに。

 

物を思うということ。それをここまでの技術を投入して美しく見せてくれる映画はそうはないんじゃないだろうか。

特に、人間中心主義にある昨今では。そうでなくとも人間中心主義というのは行き過ぎてしまうとピーター・シンガーを筆頭とするパーソン論に行きついてしまうわけですが、この映画はそういうレベルですらもはやない。

なにせ扱っているのが人ではない、それどころが生き物ですらないのだから。

 

カーヤン曰く「前略~そりゃ危険だからないにこしたことはないしリスク背負うのも怖いし。でも・・・原発に対して・・・みんな難しいこと叫ぶ前に言うことがあると思うんっすよね。今までお世話になってありがとう。」

 

そう、この映画の視線はカーヤンのそれと同じなのだ。

人々の欲望によって生み落とされ、身勝手な象徴を投射され散々利用された最後には表象として破壊される、あるいは指弾される物々。

もちろん原発とワールドトレードセンタービルを同じ文脈として語ることはできないけれど、でも産み落とされてしまったアーティファクトを思う気持ちに偽りはないはずだ。

廃墟に向ける退廃的なものへの憧憬とも違う、その物を優しく見る視線。すでにこの世からは崩壊してなくなってしまったものをコンピューターグラフィックスによって再現し美しく仕立てる。

不思議なのは(とか書いておきながら別に不思議でもなんでもないんだけれど)、それを人間に対して行うと途端に倫理問題に発展させられることだ。

 

「コングレス/未来会議」によって表面化させられたCGと役者の問題は「スターウォーズ」という史上最大規模の実写映画(を主軸にするコンテンツ)において「死者の再現」や「生者の時間回帰」において率先して使われ、それを批判的に観る人もいた。

だがその批判はあまりに人間が中心的に過ぎやしないだろうか。その批判をするなら、この映画においても、いや、いまは当然となったあらゆる映画の背景として構築されるCGモデルに対しても同じような批判をするべきだ。

故人を再現するのに他者を使っても許される人間とは違って、CGにせよ実際に作るにせよ、代替不可能性で言えば本来なら人間以外の物の方がはるかに再現が困難だと思えるのに。

というのは極端にしても、どこかそういう違和感を拭えずにいる。

擬人化、などという言葉を使うのも躊躇われる。

別に人に寄せているわけではなくて、「それ」を「それとして」悼んでいるにすぎないのだから。

アニミズムやガイア論への揺り戻しが必要なんじゃないかと、この映画で描かれるワールドトレードセンタービルの美しさ(とそれに投射される眼差し)を観て思う今日この頃。

 

「ワン チャンス」

R.I.P リック…

リボウスキーなあの友人最高。

あえて決勝を省くのも良い。

まあ天才(というか秀才?)の話でしかないのでアレですが。

 

「巴里の屋根の下」

ファーストカットの町の風景が最高。

画面の制約(アス比)のせいでみんな距離が近い。それが返って関係性に浮薄さをもたらす。そして画面内で人物が密着すると声(言葉)が世界に取り戻されるのですが、頼りない!

なんというか、トムとジェリーやウォルト存命中のディズニーアニメーションの運動力学(?)って音楽の力がかなり強いような気がする、とこれを見て思ったり。

 

 

「フィルムフィルムフィルム」「黄金のカモシカ」「チェブラーシカシャパクリャク」」

ロシアのアニメ特集ということで3本立てを観てきた。

・フィルムフィルムフィルムは大学の講義で断片的に観た記憶があるのですが、映画製作の過程を面白おかしくセリフなしで20分で凝縮していて楽しい。

あの役者が死んだと思わせてからのただのシーンだった、というのもミスリードが効いていますし。

脚本が出来上がってから撮影に至るまでの加筆修正のくだりとかもそうですけど、全体的にテンポが良くて一番楽しめた。

 

・黄金のカモシカはインドのフォークロアを原作にしたもの、らしい。

半世紀以上前のものなので完璧な修復はできておらずちょいちょいカットの繋ぎがおかしいところがありましたな。

ディズニーの黄金期を観ているようなアニメーションですが、多分撮影のミスなのかもしれませんが奥にいるはずの人物の影がそれよりも手前にある石ころと重なっていたりする。

 

チェブラーシカ シャパクリャク

背景とかが意外と簡素だったりする、そういう隙(ていうかこれそもそも劇場公開用だったのだろうか?)も含めてチェブラーシカの「豚がシッタカブッタ」的な緩さがたまらない。

 

 

「海外特派員」

うん。ようやく確信した。私はヒッチコックが合わないと。「裏窓」はそこそこ楽しめたし「鳥」もインパクトあってそれなりに楽しめたんですけど、イマイチ集中力が続かないんですよね。男女の部分がタルいのだろうか。嘘臭いというかウザったいというか。うーむ、よくわからない。

とはいえ全部観たわけでもないし実のところ「サイコ」とか「めまい」といった有名どころすらカバーしていないのだけれど。

この辺観てダメだったらどうしようかとガグブルなのですが。

 

「ヴァイラス」

鉄男のエピゴーネン、というにはあまりにB級なジャンル映画な佇まいではあるのですが、しかしそのグロテスクに関してはかなりのもので、そこだけで十分ではあるともいえる。

それにしてもジェイミー・リー・カーティスのタフネスの異常さが際立っている。近距離で爆発くらい過ぎてるのに。

 

 

アイ・フィールプリティ! 人生最高のハプニング

最初の方は特種メイクを施したエイミー・アダムスかと思いましたよ。

まあ、なんていうか、はい。吹き替えに渡辺直美を起用した文脈はわかりすぎるくらいにわかるのですけれど、メインに据えるとやや他の声優と浮いている感じはある。下手、というわけではないのですが。まあ中盤からはだいぶ馴染んできましたけど。

本編に関してはそこそこ笑えましたけど、モラルの中で水遊びしているに過ぎないし、ある意味では「まごころを君に」(なんか都度都度引用していますが、別に特別好きっていうわけではなくてあくまで共通言語としてわかりやすいために引用しているだけであります)の対局でありながら、その実はやっぱり同じことだったりするのでありんす。

 

 「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」

インタビュー画面、みんながみんな真正面から撮られているのに、誰一人として誠実さを感じられない。それは画面の余白ならぬ余黒のせいでもあるし、それぞれの姿勢やインタビュー場所の背景にあるのかもしれない。というか発言の直後にその言葉と真逆の行動が提示されるからなんですけど。

しかしラヴォナの不遜な態度は明らかに自己中心的なものだし、「真実」を作り出し「ウソッぱち」を造り出すマスメディア側の人間である「ハードコピー」のレポーターは顔をカメラに向けてはいても体は常に横を向いている。

ジェフに至ってはその発言がすでにからして韜晦である。隠すほどのものでもなければ隠し通せてすらいない下劣さであるにもかかわらず。

もちろん、マーゴット・ロビーが演じるトーニャにも余白ならぬ余黒はあるのだけれど、しかし唯一、トーニャにだけはまだ信じるにたるものがあると(作り手は)信じている。というか、それこそがこの映画のレーゾンデートルであるわけで。

ではトーニャの信じるに足るものとは何か。言うまでもなくそれはフィギュアスケートだ。

フィギュアスケートだけがこの映画において純粋なものとして描かれる。たとえそのきっかけがトーニャの言うようなラヴォナによる洗脳だったとしても。や、だからこそフィギュアスケートという本来それ自体は純粋なものであるものが、資本主義やメディアの耽美なストーリー志向などによって穢れを纏わざるをえなかった、という話なのだろう。まあ、人間がピースとして組み込まれている以上はそこに完全な純粋なものなどあり得ないと私は思いますが、こういうのはスポーツをやったことない人は結構幻想を抱きがちな気がする。

ともかく、監督はフィギュアを純なるものとして描いている以上、この映画の中では少なくともそうある。

 

DV母とDV夫によって穢されていくトーニャとフィギュアの在り方というか顛末というのは、彼女がフィギュアとかかわるようになったその起点がDV母であるという時点でほとんど決定していたようなものだったのでせう。

あの劣悪な環境に加えてジェフとの運命的な(無論Fate的な)出会いが決定づけてしまった。

そうして見ると、逆説的にトーニャにとってのキーパーソン(に成りえた)人物が浮かび上がってくる。それはトーニャのコーチであるダイアン。

なぜなら彼女はフィギュアを通じてのみ描かれ、フィギュアを通じてのみトーニャとの関わりを有している。

前述のようにフィギュアとはこの映画において唯一の純なものであり、それのみを媒介してトーニャと通じている彼女は純粋な存在だった。

だからこそ、もしトーニャを救いだせるとしたら彼女だけだったのかもしれないけれど、しかしトーニャを救い出すには畢竟、その汚わいを引き受けなければならず純粋なままではいられなくなる。

そんなわけでダイアンはほとんどこの映画において出番を与えられず、だからこそ純なる存在として在り続けることができた。ま、程度問題でしょうけど。

 

それ自体は純なるものであっても、それがこの資本主義社会のシステムに組み込まれることでどうにかなってしまう、というのは「エニー・ギブン・サンデー」にも通じるものですが、まあどうなんでしょうかね。

 

あと個人的には劇中のラスト近くでOJシンプソンの話題がテレビから流れる場面がありまして、非常にこの映画の主張するものと対比的で嫌な笑いというか諦念のようなもので胸がいっぱいになりました。

しかし「リチャード・ジュエル」を観た後だとほとんど姉妹作と言って相違ないレベルですね、これ。「リチャード・ジュエル」と「アイ、トーニャ」をブリッジする存在としてのポール・ウォルター・ハウザーの存在は、ほとんど楽屋オチじみてすらいるのですが、リチャードとショーンというプロファイリングだけで観れば似たような人間である両者の彼我と、それを取り巻くマスメディア(とそれに連関する拝金主義・男根崇拝思想)を一考するにはいい映画でした。

 

でもこの手の病理ってスポーツに限らずどこにでも巣食っているのだろうなぁ、と思うと気が滅入りますね。

 

んで、実はこの映画のほかに「氷上の疑惑」っていうNBCのテレビ映画があるらしいのですが、これはもっとノーサイド的に描いているとかいないとか。

 

 

「カウボーイ&エイリアン」

エイリアンの感じとかハリソンとか父親問題とか、レイダースというかスピルバーグっぽいなーと思ったら製作にロン・ハワードと一緒にいるし。

ファブローもユダヤ系ではあるし、この人の映画も思い返せばファザコンな問題を抱えているものが多い気がするので、その辺の親和性があったのだろうか。

しかしスピルバーグのような死者の国としてのエイリアンというよりは、ジョン・ファブローは分かりやすい天国と地獄、贖罪、天使と悪魔などなど、キリスト教的モチーフとしてエイリアンを使っているように見える。

良くも悪くもファブローはスピルバーグほど尖っていないので、これくらい分かりやすいバランスで良いのかもしれない。

 

にしてもあの雲の感じ、まるでマットペイントみたいに質量感があったのだけれど、なんですかあれ。

 

スカイライン-奪還-

1作目は観てないのですが、なんか予算が倍になったおかげかすごくいい意味でバカバカしい映画でした。

前半は悪い意味でバカっぽい映画だなーと思っていたんですけど、後半のための前振りというか溜めだったのだな、と。

一言で「これがやりたかっただけだろ」という。エンディングの余韻ぶち壊しなNGシーンも含めて。

予算のせいなのかエイリアンがかなりがっつりスーツなのに全然違和感なく見れたりするあたりは何気に巧み。

展開そのものが楽屋オチというか役者ネタに走るのですが、「ザ・レイド」組だから仕方ない。とはいえ唐突なグロ描写(あれもオマージュかもしれませんが)といい遊びすぎです。いやもっとやれ、と思いますけど。

怪獣バトルといいアベンジャーズなカメラワークといいふざげすぎです。いいぞもっとやれ。

とりあえずインドネシアの格闘技は宇宙人にも通用するということでFA。

 

「その女諜報員アレックス」

どちらがより相手を下回れるか、勝負。

なんか全体的にダサいんですけど、終わり方と言いテレビ映画かなにかなのかしらこれ。

 

嘘八百

中井貴一佐々木蔵之介が中年の危機を乗り越えてイチャコラする映画。需要はニッチだけれど刺さる人にはっ去りそうな映画。

 

「舞踏会の手帖」

なんというか、なんなんだろうかこれ。いや、いい映画なんだけれど、なんだろうこのファム・ファタールな後味の悪さは。

どうにも一筋縄ではいかない。それにしても役者がそろいもそろっていい顔していやがります。

個人的にはティエリーの部分がカメラの明らかな斜傾ぷりといいインダストリアルなカットの挿入といいオチと言い、ぞわぞわしてすごい良かったです。

 

忘れてた映画を観に行く

最初に日本で情報出てから2、3年経ってるような気がするのですが。

公開までだいぶ時間かかったせいですっかり失念していました。

だって日本で昨年末に公開した映画の予告編に同スタジオが今年公開する映画の予告編が流れてましたよ。と思ったら18年にネットフリックスで公開してたんですね。

「生きのびるために」から劇場公開にあたって「ブレッドウィナー」にタイトル変更されてたのもあって、全く気付かなかった。ややこしや。

というわけで「ブレッドウィナー」観てきました。同時上映で「レイト・アフタヌーン」という短編もありました。

何気に日本で公開しているサルーンの映画は全部観ているのですが(まあ2本だけだし)、いかんせんそれほど記憶には残っていないしどの映画を観ていてもまどろんでしまう(今回もそうだった)というのに、なぜか懲りずにまた観に来ているのは、単にタイミングの問題でしかないのだと思いたい。

とはいえ、今回はちょっとこれまでのに比べると毛色が違いました。

「おとぎ話とナラティブ」という部分では通底していますけれど、実質「アクアマン」だった「ソング・オブ・ザ・シー」や牧歌的な児童小説然としたたたずまいの「ブレンダン~」と比べるとずいぶんバイオレンスでございますし。まあ同じシステムを使っていても監督が違うので当然と言えば当然なのでしょうが。

とはいえあまりに直接的な描写はありませんが、しかし流血はあるあたり、インタビューでも答えていますがその辺のバランスは結構気にかけているのは伝わってきた。

児童小説が原作ということですが、割と生々しい描写があるんですけどこれは原作から持ってきたものなのだろうか。いや、あったにせよなかったにせよ、それを投入してきたということは描かざるを得なかったのだろう。

そんでもって原作の出版が2000年というのにも驚く。20年経ってもまだこの映画で描かれるような世界が厳然とあるというのがなんともはや。

これは結構重要な問題で、要するに原作は9.11以前のアフガンを切り取っていたわけですが、この映画は否応なく以後の話でしかありえなくなった以上、どうしても影を落とさないわけにはいかなかったのだろう。そのような欺瞞で誤魔化せるようなものではないのだから。

戦争、飢餓、女性だからというだけで抑圧を受ける(あそこまでひどくなったのはここ数十年らしいですが)差別構造。それらを寓意するおとぎ話も、その本質は死者の慰めにほかならない。

希望、などとはおいそれと口にできない。なんだか気の滅入る一本だった。

 

これ、短編の方を後に流してくれたらもうちょっとすっきりしたのに(笑)。

短編の「レイト・アフタヌーン」は色彩といい身につける強い色の物体の線の脈動といい、ボケた母親の心象というモチーフとは真逆の生に溢れた優しい映画でございましたから。

とはいえ、こっちもこっちで結構アレで、徹底して少ない線で描いていたと思いきやおばあちゃん(というかお母さん)が一瞬、我に返った瞬間の彼女の両手の皺の数がめちゃんこ多い。そういうジェットコースター的な落差による絶望もありつつ、最後には優しく抱き留めてくれるそんな短編。

まあ、あれくらいなら全然軽度だから見れますけど、観る人が見たら「欺瞞だ欺瞞!」と言われても文句は言えない。それくらいまごころに満ち溢れている。

 

 

 

 

久々に2本連続で観てきました。

久々に時間と金ができたので。

「フォードVSフェラーリ」と「リチャード・ジュエル」の2本を。

 

「フォードVSフェラーリ」はですね、冒頭の真っ暗な、ややもやがかかったコースを車のライトが照らしながら走行するあのシーンからのマット・デイモンの顔アップで涙腺に来た。

なんというかこう、無垢な美しさといえばいいのでしょうか。あの表情とあの路面が観れただけでかなり満足してしまった。

あと、何気にあそこまで空港(?)の発着場を綺麗に描いた映画ってあんまりないんじゃなかろうか、とか考えてしまった。

空港でのアクションは多々あれど、記憶にある限りだとほとんど夜中の真っ暗なシーンだったりあるいは真昼間とまでは行かずともとても明るかったり。

それに対してこの映画でチャンベール親子が寝そべってるシーンの空のコントラストと背景に徹する遠くの建物が放つ丸い光の点。

美しい、というよりも綺麗というべきだろうか。ジェームズ・マンゴールドの映画は「アイデンティティ」と「ナイト&デイ」と「ウルヴァリン」シリーズくらいしか観ていないのだけれど、こんなに綺麗な光景を撮れる人だったかしら。これはむしろ撮影監督のフェドン・パパマイケルの手腕によるところが大きいのかもしれない。

ウルヴァリン」シリーズの撮影監督は別の人らしいし(アイデンティティとナイト&デイはこの人だけど)。

あとバストサイズや顔面のアップが多いのといい、役者の顔を撮ろうとしているところに個を切り取ろうとする意志を感じる。

それは企業VS企業というような分かりやすい二元論に持ってかれそうなところを、しかしそのタイトルに反してこの映画が映しとるのは徹底してチャンベールとデイモン。

だからル・マンの24時間耐久レースで、チャンベール以外にもチームのドライバーがいるはずなのにそのシーンはほぼ全カット。

それくらいこの二人(とその周辺人物)の顔を撮り続ける。そこからラストのコーナー前のチャンベールの横顔が流す涙。

7000回転を超えた者だけがみることのできる光景。それはこの映画の冒頭でデイモンのモノローグが添えられたあの暗闇の道に通じるのだろう。だからのあの光景は綺麗だったのだ、と。

けれどそれをみることができたのはチャンベールだけだ。7000回転を超えた世界で彼が何を観たのかは観客はわからない。だから彼がどうしてフォードの思惑を受け入れたのかを観客に知る由はない。それは彼だけのものだからだ。

 

 

この映画は、そういう光景を描いた(あるいは描かない)映画なのかもしれない。

企業云々とか、友情云々とか、そういう風に語る余地は十分にある映画なのかもしれないけれど、ここまでピュアな「光景」を描いた映画でそういう分かり切ったことを語るのは野暮な気もするのです。

 

 

さて、お次は「リチャード・ジョエル」です。

ゴーンさんによって世界的に明るみになった日本の司法制度の悪辣さといいオリンピックイヤーといい、やけに日本にタイムリーなネタ。

とはいえイーストウッド映画。「運び屋」を未だに観ていないわたくすの不徳はともかくとして、相変わらずの観照者な振る舞いを撮り続けるイーストウッド翁。

リチャードが観ていないのなら爆発の瞬間も映すことはない。彼の背後で、タワーの向こうで淡々と爆発する。過剰に演出するピーター・バーグなど歯牙にもかけない怜悧な視線。

きっちりかっちと適材適所にパーツを当てはめていく。リチャードとバーバラの涙ながらのやりとりのシーンで感動げなBGMを流し二人のやり取りが終わるや否やすたこらさっさとフェードアウトするそのBGMといい、少し笑ってしまうほどです。

だからことさら寄り添ったりはせず、あるいは劇中でのアクションがすべて劇中で必ずしも物語に意味を付与するというわけでもない。

ただ淡々と撮るのみ。ここ数年は実話ベース+英雄と称される人間とそう呼ばれるようになった出来事を撮ってきていたイーストウッドでございますが、今作もそれに連なる部分がある。といってもイーストウッドのスタンスは英雄という存在を反証するために英雄を題材にしている節がありますが。

ほとんどシミュレーション再現映画の様相を呈していたのが「15時~」で極に至った後の本作(「運び屋」どうだったのかわからないのが気になる)で、何かが劇的に変わったような気はしないのだけれど、その不変不動、不滅にして不死のイメージを未だに体現しつづけるイーストウッド

「グラントリノ」で自己清算したにもかかわらず、今なおイーストウッドが最強のジジイであり続ける所以が、この不変不動のまましかし時代に適応しようとする凄まじい姿勢にあるのかもしれない。そう思った一本でした。

 

場外でのことですが女性記者の描き方がステレオタイプであると批判されているようですね。まあイーストウッドだしあそこは多分脚色とかではなくそのまま情報ソースから抽出したのではないかと思のですが、どうなのでしょう。

 

 

ハスラーズの試写会行ってきましたよ

ハスラーズ」の一般向け初号試写会に行ってきました。いくつか試写会に応募していたんですが、一番観たかったのが当たったのは僥倖なり。

しかし朝日ホール使うだけあってかなり人数多かったです。「見えない目撃者」もかなりのもんでしたが。

今回、人もさることながらHUSTLERS MEMBER'S CARDなるグッズ?がもらえたりその場で感想ツイートするとパスケースが全員にもらえるキャンペーンを実施していたり、日本公開にあたってかなり力入れてるようです。なんにせよ試写会でこういうグッズがもらえるのはいいことです。

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内容が内容だからか女性客の比率が圧倒的に多かったです。まあこれ、正直言って男が観たら居心地悪いだろうし、ターゲットも女性だろうから当然っちゃ当然ですけど。

 

当初は本編のみだったらしいのですが、よしひらまさみちさんと山崎まどかさんのトークが追加されさらにお得な気分に。

とはいえ、そこまで中身のあるものでもなく、ジェイローごいすーとか若手ラッパーが出ててーとか、カメオしててーとか、まあそんな感じなんで特に書き起こすほどのものではないかな。あたくしは海外の音楽事情にはかなり疎いので参考になるようであまり参考にならなかったです、申し訳ない。

余談ですがコンスタンス・ウー丸山桂里奈に見えてしょうがなかったです。

もう一つどうでもいいことですがクレジットの頭がジェイローじゃなくて彼女なのもなんか変な感じ。確かにウーさんがメインではありますけど、どっちかというとドラえもんがジェイローで彼女はのび太的な立ち位置な気がしたので。まあそれを言ってしまえば「スーパーマン」でクレジットの頭を飾れなかった主役もいますし、ああいうのは色々と忖度が働いているのでしょうが。

 

それはともかく本編についての感想をば。

製作にアダム・マッケイ(とウィル・フェレル)が参加しているので、なんとなく社会風刺的な色を帯びていますが、彼の監督作ほど露骨ではないというか、あそこまで政治経済を主軸にはしておらず、むしろ「オーシャンズ」シリーズ的な趣がある映画ですので変に気張らず素直に観れます。と、思っていたんですけどね。実はそうでもないんですよねーこれが。

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いやほんと、こんな感じ。

事実ベースであることも含めて色々な意味で(いや本当に色々な意味で)「マネーショート」のB面的な映画でもある気はするので、そういう意味ではやはりアダム・マッケイの存在感は強い。というか彼が描いてきたことの影が、見えない形でこの映画に大きく作用している。とは言えましょう。

あと久々にアス比を意識する映画でした。

登場人物を並列に描くシーンが多かったり、あるいは真正面からふんぞり返る野郎どものシーンの横柄な感じとかシネスコのおかげで憎らしさ倍増。あとやたら人物を中心に据えた長いワンカットがあったので、その撮影方法で背景の情報量を増やしていたのかなーと。

みんながワイワイやってるシーンはシネスコサイズの画面いっぱいが多幸感であふれていて、彼女たちのこれまでの境遇や顛末を思ってうるっと来てしまいました。

そうでなくとも最近は幸せそうな人を観てるだけでなけてきてしまうのですが。

 

 この映画、編集がちょっと特殊というか、かなり「過程」を省いている気がする。いやこれ編集のせいなのかな。脚本レベルなのかな。

おかげでテンポよく進んでいくんですが、一方で何かが欠落しているような印象も受ける。ディステニーに子どもができるまでのシークエンスなんか、ほとんど何かを忌避するかのようですらあった。もしもそれが思っているとおりなら、多分それは男性が絡むシーンを切っているからなのかもしれない。それこそ編集のリズムが奇妙に見えてしまうくらい。

そう思えるほど、徹底して男が敵として描かれている。ほとんど必要悪として。一人だけディステニーが罪悪感を感じる相手も登場してくるんですけど、はっきり言ってそれはほとんどポーズのようなもので、彼女にとっての罪悪感というよりはむしろラモーナとの決別のきっかけの一つに見える。

だから、これは男性が観たらかなり気まずくなるし、人によっては憤慨するかもしれない。でもそれは男性が向き合わなければならない問題を、女性が抱える絶望を描いているからなのでせう。

 

それを象徴する、観ていてぞっとするシーンがある。

リーマンショック後の、ラモーナらが金づると見定めた男に薬を飲ませて「個室」に連れ込んで金を巻き上げるハメるシーン。あそこの一連のシーンはテンポもよくて小気味よい反撃のシーンなので上がる場面ではあるのですが、だけど私はひどくゾッとした。下手なホラーよりもよっぽど恐ろしい場面だと。

何故ならあれはレイプに他ならないから。

あの場面、もしもセックス(性別)が逆転していたらと考えてみてほしい。その瞬間、あの場面は金を巻き上げるのではなくレイプの場面に容易に転化できてしまうでしょう。

それこそが男性と女性という、いかんともしがたい肉体・身体性から導出されるものなのです。ネット上の一部のスラングとして「逆レイプ」というものがある。これは女性が男性を性的に搾取することを指すワード(これ自体、男性側の欲望の投射なのですが)なのですが、わざわざ「逆」などという言葉を付け足していることからも女性が本質的に搾取される側である(と男性が思い込んでいる)という差別意識の表出であるように、それを誰もおかしいと思い込まないくらい、この種の病理はあらゆるところに深く根を下ろしている。

彼女たちは金だけを目的にしていたけれど、性別が逆転していたならばそれだけでは済まなかったでしょう。

そもそもこの映画それ自体が指し示すように、男性特権による搾取の構造を浮き彫りにしている。

その男性特権を異化し表出する装置としてこのシーンは、この映画は存在する。

 

試写会で映画を観終わった後、コメント撮りをしていた。自分は幸いなことに(まあマスクしてたし)コメントを求められることはなかったけれど、おそらくはテレビCMのために言わされたのであろう、「ウーマンパワー!」という言葉を叫んでいた。

果たして彼女たちは気づいているのだろうか。自分たちが、たった今観た映画で描かれているような地獄にいるのだと。スクリーンに映し出されていたのが地獄だということに気づいていたのだろうか。この映画の冒頭で「事実を基にしている」という字幕に気づいていただろうか。その字幕がスクリーンの地獄と現実の地獄を地続きなものにしていることに気づいていただろうか。

この映画に出てくるみんな女性たちは輝いている(ゲロを吐きまくる人もいるけど)。それに煌びやかな衣装を纏い楽しそうにしている。

しかしその輝きはどぶ底で発せられるものだ。汚物の溜まった底の底でしか発せられない、そこでだから発せられる光輝だ。ストリップクラブは確かに女性にとっての一つのヘイブンではあるけれど、そのヘイブンが地獄にあるということを理解しているだろうか。

 

しかしそんな地獄にあっても、犯罪が暴かれ(その犯罪は「万引き家族」のそれと同じだ)警官に囲まれ捉えられても(警官も男性しかいない)、それでも彼女たちは屈服しない。

 

なぜなら画面の中心には、ハスラーズの中心にはラモーナが、ジェイローがいたから。

中心としての男性が、周縁へと追いやり搾取の対象とする女性を、しかしローリーン・スカフィリアはその女性のアイコン/パワーの象徴としてのジェニファー・ロペスを画面の中心に据え、ポールという男根の写し鏡をなぶることで男性を熱狂させ搾取する。搾取の構造を逆転して描いてみせる。

試写会のトークで山崎さんはジェイローの背中の筋肉を翼に例えていた。その意図は私はわからないけれど、確かにあれは翼なのだと強く同意できる。

何故なら彼女は地獄にあって光を指し示す天使に他ならないから。それだけの肉体の力強さをジェニファー・ロペスは体現している。

 

この映画のラストは、彼女たちが輝くストリップのシーンをバックにクレジットが流れ始め幕を閉じる。

ハッピーエンドなどではない。無間地獄のような世界を描きながら、それでも絢爛なまま終わる。女性にとっての絶望と地獄を描きながら、それでもなお力強く輝かんとする女性たちの姿を映して。

 

ハスラーズ」と対置させられるのって、「マネー・ショート」だけじゃなくて「俺たちニュースキャスター」シリーズなんですね。

いやー根深いなー。

 

 

 

「ハスラーズ」の試写会に行ってきたんだけど腹が立ったので「パニック・トレイン」を誉めそやすことにするよ

というわけで勢いそのまま「パニック・トレイン」の感想を単独ポストすることに。

あまりに腹立ったんで二回連続で観たよ!観直したよ!やっぱり良い映画だったよ!

 

超良作。いや、本当に良かったですこれ。いやもうね、パパが最高。

ただ邦題のせいでパニックムービーと思われそう(自分もそう思っていた)ですけど、全然違いますよこれ。いわゆるアクション要素もあまりないですし。とはいえ原題も「LAST PASSENGER」だしひっかける気が皆無とも言い難いような気がしますが、そういうのを求めてこれを観にくる人はちょっと肩透かしを食らうかもしれませんね。
ジャンル云々は抜きにしてこの映画はかなり良いと思うんですけど、そういうのを求めてたのに~って怒る観客って一定数いるので。別に思ったのと違っても良い映画だった良いじゃんと思うのですがね。

で、思いのほかいい映画だったわりにあまり有名どころのキャストもいないし(ダグレイ・スコットは「MI:2」の敵として出てたので言われれば分かる人ですが)監督も名前を耳にしたことがなかった(自分が無知なだけ?)し、製作のスタッフにやたらと日本人の名前(日系?)があったのも気になって検索してみたんです。


 そしたらサジェストで「犯人」が出てくるじゃあ~りませんか。
既述のような懸念とサジェストに登場した不穏なワードへの不安もあって、作品そのものについて調べるつもりがいつのまにかレビューを眺めていて・・・そしたらやっぱりだよ!不安的中だよ!

脚本ガーとか警察ガーとか鉄道関係者ガー犯人の動機ハーとか言っている人もいるし、しまいには「犯人はヤス(自殺志願者)」とか断定している人もネット上で見られましてね、「あ~・・・」という諦念のようなものと「あ”~↑!?」という義憤に駆られ、試写会で観させてもらった「ハスラーズ」の感想をほっぽって(後でちゃんと書きますので、フィルマークスさん)怒りの全肯定でこの映画を誉めそやすことにした次第です。

いやね、冒頭に書いたように、最初から「これ結構良い映画じゃんすか」という肯定的な印象ではあったのですが、なんか映画自体に責任を転嫁する理不尽なけなされ方をしている気がしたので勢いそのまま「これは超いい映画なんです!傑作八作二毛作なんです!」と心にもなくもないことを書き連ねていこうと思う。いや少なくとも良作であることは確定的に明らかなので、それを傑作と言い張っても大罪にはなるまい。

一応、ちゃんと演出の意図を汲み取って褒めている人もいたんですけどね、褒めてる人の中でもなんか褒め方も適当だったり「上質な演出」とか、形としては褒めてる割に星の数は少なかったり(こういうことがあるから点数って信用できないんですよね)という人がいてね。まあ好き嫌いはあるのでそこはとやかく言いませんが。

それにしても、あまりにジャンルにこだわりすぎている人が多かったので、もうはっきり言いきっちゃいますよ!これはサスペンスでもミステリーでもパニックでもアクション映画でもない!そういう「ジャンル」に拘泥するだけの輩は甘えを排除してからもう一度観れ!

これはそういう原因究明の結果としての安直な「結果」を提示することを目的とした映画じゃなくて、映画としての(一応の)結末までの「過程」を微に入り細を穿った演出を堪能する映画なんですよ!

しかも監督一昨年死んでるし!43歳でこれが最初で最後の長編監督作だし!なんかもう褒めるモチベーション上がる要素しかないよこの映画!

てなわけで褒めちぎる。この映画を。


まずですね、「警察は何してるんだー」とか言ってる人、そういう「外部」を描いていないのは外界の描写を排除してることからわかるでしょうが!あんだけ徹底して列車の内部(窓越し)からしか外を映すカットがないんだから!

もちろん外から中を覗くカットはありますけどね、それでも決して外がわかるような撮り方はしてないんですよ。
ヤンくんの決死の骨折り損行為とかのシーンは外からですけど、そこにだってちゃんと意味や根拠はある。そのヤンくんのアクションシーンでは、人物が文字通り列車の外に出ていますし、終盤も終盤になって3人が乗った列車が切り離された後で駅のホームがはっきりと映しだされますけど、観ればわかるようにそれは3人がほとんど確実に助かったとわかる場面です。

電車が車をはねてしまうシーンだって電車の中にいる6人からはそれがどうなったのかほとんどわからないように描かれてるじゃん!それでも衝撃と燃えてる破片が窓の外をよぎっていく演出から何が起こったのかわかるようになってんじゃん!「内部」では何が起こったかよくわからないけど何が起こったのか自体はわかるように描かれてるじゃん!

ていうか望遠からとはいえ、ちゃんと電車が車を撥ねるカットだってあるんだよ!?ここが望遠なのは電車が車を撥ねるという瞬間のディテールを描かないことで6人の体感している「外で何が起こっているのかわからない」という緊張感や不安を観客に同期させるための演出でしょうが!

電車が車を撥ね飛ばすなんて美味しい場面をあえて電車内部から分かりづらく描いているのもそのためでしょうが!(予算の制限の工夫なのか、最初から狙っていたのかまでは断言できないけど)

息子が横に並んだ別の列車の車両の窓から女の子の顔が曇った窓2枚を挟んで見えづらくしてるのだってわざとなんだよ!そうやって6人が乗る列車は外界から切り離されているという「演出」をしているんです!

ていうか最初から最後までそれを徹底しているからこそだし、そもそも警察がどう動いてるかはわからなくても警察が動いていることは窓の内側から確認するシーンがあるじゃん!

この映画はそうやって、徹底して外界を描かないことで6人(5人)の人物に寄り添ってる映画なんです!

だから犯人の類推はしても犯人が誰かなんてことは明かされない。だってそもそも犯人が誰かとかこの映画にとってはどうでもいいことなんだもん。

それを踏まえたうえで「そういうのは興味ないんでドンパチ見せろ」っていう人ならわかる。けど、つまらないとか言ってる人の大半はそうじゃないでしょう?

そういう映画じゃないってことは、序盤であれだけ時間をかけて人物のやり取りを細かく切り取って演出している時点で、なんとなく察せられると思うんですけどね。

あと伏線がどうのこうの言ってる人、細かい伏線もちゃんと映像で見せていたりするんですよ。いや、伏線ではないか。暗示、布石とか、そういうのに近い。でもそっけないシーンで列車の連結部を自然にフォーカスしていたりするし、展開を示す伏線はあるよやっぱり。

 
で、そうやって細かく演出をしながら、この映画はあくまで人物を人物として描くことに徹底する。逆に言えば物語の進行に人物が回収されきってしまうことを拒んでいるともいえるかもしれない。それを嫌う人や「あの設定役に立ってないじゃん」とか言う人もいるだろう。

でもこの映画がいいのはむしろそこ。

それぞれの人物の属性があまり本編の目的となる脱出そのものには関係なかったり、あるいは属性を生かすことのできる場面にもかかわらずそれが機能しない無常さ、というのを描いている部分だと思うのですよ。

ストーリーに貢献するためではなく、ただ人物を人物として生き生きと見せるために付与された属性であるところから、この映画が徹底して人間を描くことに注力していることがわかる。だからマイケルは子どもとして描くために危うくドアから落っこちそうになる。それが何かの伏線になる、というわけではない。伏線になるのかもしれないという空気を漂わせつつもし、しかしそれはただあの子を生き生きとさせるためのシーンでしかない。

あるいは医者であるルイスが最序盤で隣の席の老女から新聞を借りて読むシーン。そこで彼が読んでいるのは陸上競技の見出しだし、そのあとでサラと三人で列車内を移動するシーンのやりとりで何気なくマイケルから発せられる「パパは走らない」というセリフが実は重みをもっているということが後々に判明する。判明はしても、そこをあえて追及することはないスマートさもある。

そういった細かいセリフや場面が彼のキャラクターにも関係してきますし、カップルがイチャイチャしてるのを眺めているのはスケベ心からじゃなくて亡くなった妻(この時点では明かされていない情報)との思いでを回想してるからだってことはダグレイ・スコットの表情が示してくれているでしょうよ!いやここはぶっちゃけ思い込んでるだけかもしれないけど、少なくとも2回目に観たときはそういう風に観えるんですよ!それくらい描かれてるんですよ人間が!

同じく序盤でヤンくんが乗客・車掌と揉める際の過剰なまでの挑発という「パフォーマンス」も、彼が大道芸人である(この時点ではry)からでしょうが!!!!

そういう細かい人物描写を事前にしっかりしているんです。

言っておくけどね!ハリウッドのパニック超大作じゃルイスがマイケルを寝かしつけるために自分のマフラーをたたんで枕代わりにしてコートをかけてあげるシーンをあそこまで優しく描いたりしませんからね!
ちゃんと観ましたか!?ルイスが優しく丁寧にコートをかけ直す描写してるシーンを!?ストーリーライン上はカットしても問題ないところを、そうやって細かな描写を積み上げて人間を作り上げてるんでしょうが!

だから今時恥ずかしい、それこそクリシェと言われてもしょうがない酒を酌み交わして友情が芽生えるようなコテコテのシーンでも感動するんでしょうが!

あっさり死んでしまうエレインにしたって、2つの人形やマイケルを座らせるための講釈、死に際にまで孫のことを口にすることでどれだけ彼女が孫想いの女性だったかが短い登場時間の中で示されている。だから観客と同期しているヤンくんは彼女の死にうろたえるし、それが逆説的に彼のつっけんどんなやさしさ(序盤でマイケルに手品を見せておどけるのもそう)が描出されるし、一方で現状を打破するために(医者であるにもかかわらず命を救えず、それでもなお蘇生を試みる無為無償の行為にふける)ルイスを煽る、薄情で怜悧な部分もあることもわかる。

セリフで説明されないだけで十分すぎるほど細かい描写がされているんですよ!

観ろ!人間を!(意味不明)

あれだけ奮闘する5人6人を観て、あれだけの父子の双方向の愛情(そう、父から子だけでなく子から父への愛も描かれているのです、この映画)を観ていながら「で、犯人て誰なの?」とか言う人はもう何も言わないのでミステリーだけ観ていてください。

 

あとオープニングクレジットが結構イカす気がする。