dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2021/9

「ミッドナイト・スペシャル」

なんかこう…シャマランみたいなバランスというか。映像の小奇麗さはなんとなく「シグナル」っぽさもあって、この辺は世代的なセンスなのかもしれないのだけれど、なんだか妙な感じ。

とはいえアバンからタイトルがの出し方(主人公たちの車が深夜の闇夜の中に溶け込んでいきながらのMIDNIGHT SPECIAL)とか洒脱だし、マイケル・シャノンやジョエル・エジャトンといった風格漂う俳優陣の緊迫した表情からのテレビの情報の演出など冒頭からサスペンディングしてくれて、いったいどうなるのか。

と思ってからのまさかのSF路線。いや、まさかそっち方面に行くとは思わなかった。それが悪いというわけではないのだけれど、目から光線というのは色々と絵面的にアホっぽくないかな。まあ序盤のアメコミの演出とか牧場の信徒の話から「ジェノサイド」路線とかガンツみたいなあれなのだろうかと勝手に期待したこっちが悪いのですが、まあそれはいい。

あそこまで露骨に目が光るのってて「光る眼」のオマージュだったりするのだろうか。衛星のくだりとか観ている側が実は観られていたという逆転の構図なんかもそれっぽいし。全体的にはそういう話ではないんだけれど。

個人的には超常存在の位相をあそこまで視覚的に表現するのであればもっとデザインを凝ってみても良かったような気はする。空間そのものを現出させるというアイデアは良かったけれど。

あとダンストはかなりいい感じに年を重ねてきていると思う。メイクの違いもあるのだろうけど「ビガイルド」よりも先に作られているであろうこっちの方が老けて見えて、その老け方はかなり地に足付いている感じで良かった。いや、「ビガイルド」のダンストも好きですけど。

 

「フィフス・ウェイブ」

序盤のディザスター描写がクライマックスでしたね。

なんというか、ヤングアダルトのポストアポカリプスor体制管理下のデスゲームというのは日本でいう異世界転生とかおっさん美少女化とか、もはやああいうフォーマットとしてあるのでしょうか。

クロエはまあ別にそんなに巷間でいわれるほど私は好きでも嫌いでもない(ヒットガールすら別にそこまで)ですが、それにしてもまあ映画自体がぶっちゃけしょっぱいので彼女の魅力もいまいち引き出せてない気がする。ていうか沢城みゆきでいいのか?

 

 

「アリー/スター誕生」

54年版しか観てないのですが概ねストーリーはなぞっている感じでしたね。

こういう言い方をするとアレですが、色使い(というかその主張の強さ)が「パシフィック・リム」並みにバキバキな気がする。と思えばライティングを排しているかのような質感の画面も多い。

基本的に赤色はジャックのカラーでブルーはアリーのカラーであり、それによって両者の距離感などが図られる。最初のどらぁぐバーの方もそうだし、最後のジャックの家の中に溢れる赤色が、消え入るように画面がトランジッションしていくのもそう。

また、決定的な出来事を映すことを排し、シーンとシーンの間で起きたのだと、次のシーンによって描き出す。ジャックの父親の墓の件や、それこそジャックの自殺のシーンなど。それらはすべて、それまでのプロセスによって、画面内を流れる空気のようなものによって伝えられる。

ただし、決定的な出来事を時間をかけてたっぷりと描き出すシーンもある(が、そこに過剰な演出があるわけでもない)。それは二人の出会いのシーンだ。言うまでもなく、それは絶対的な肯定を以て迎えられるものであり、それゆえにその部分だけは最序盤であるにもかかわらずたっぷりと描かれる。ちなみにこのシーンもやはり赤色・青色で満たされている。

そしてジャックの死によって二人の関係は永遠になる。否定も肯定も善悪の二元的な感覚もあまりこの映画にはない(アリーの作曲スタイルに関して、二人の関係性のこじれ以外には機能していないし、音楽プロデューサーの結果的な自殺教唆的発言に関しての物語的なカタルシスのようなものもない)。どちらかを否定し悪と断定することを避けている。そんな映画にあって、二人の出会いだけは絶対的な肯定がなされる。その結果がジャックの自殺だとしても。

だから、悲哀もあるしアリーはそのジャックというくびきに括られてしまうラストではあるのだけれど、それでも出会ったことそれ自体は否定されるものではないのだと。

 

鬼滅の刃 無限列車編」

原作完全未読・アニメも観てない。風聞の情報くらいしか知らずに観てたのですが、いや全然いいですよこれ。公開当時に煉獄さん(敬称つき)煉獄さん(敬称つき)とコールされていた理由もよくわかる。

演出についてはこれは監督というより撮影の寺尾さんの手腕が大きいんじゃないか、というのはまあufoの特にタイプムーン作品を観てる人はみんな思うことだと思うのでその辺は割愛。

あとキャラクターの輪郭線の強弱(太細)がかなりメリハリつけられていてビビった。それ以上に元から線が太いもんでこのままコミカル調でいくのかとちょっと怖かったんですけど、さすがにそれはなくて良かったというか。

涙のでかさがジブリに負けず劣らずだったり、ともかくカリカチュアが割と強く、かなり情動に訴えかける作りになっている。それだけで十分なのに過剰に説明的なセリフが加えられることや善逸と猪の夢のギャグ描写のアンバランスさはもう少しどうにかならんかったのかとは思う。

んが、これはまあメディアのとのかかわりゆえなのだろう(塚越的に)ということなんだけれど、でもこれ原作でもこの通りの説明的なセリフが多いのだとしたら音に関係しているのかと思わんでもない。タツキの「ルックバック」と対置させる形で言及されていたのだけれど、やはりどっちがと言われれば後者の方がスマートではあるのだろう。

メディアとのかかわり方の問題は映画というメディアを語る上ではかなり難しい問題なのでここではできませんが。

アニメの質は良いし、煉獄さんだけでまあ御釣りがくるので全然いいんですけど、フジテレビの地上波放送で見るとCMの挟み方がひどい。特に煉獄さんが死んだ直後のCMがパワプロコラボのコマーシャルて。相変わらずズレてるフジテレビ。

煉獄さんは本当いいです。

 

「ロストバケーション」

良い感じのサメ映画。なんというかこう見やすさ優先する感じで変にお高くとまってないというか。まあサメ映画でお高くってどんなんじゃ、という話ではあるんですけど。

スマホ画面の演出とかね。

ダニー・ボイルの「127時間」+サメ、といったところでしょうか。あっちほどエッジの効いた表現があるというわけではないかもしれませんが90分未満のランニングタイムも含めジャンル映画としては十分の面白さかと。

 

「カジノ・ハウス」

町内会の合議という文化が向こうでまだ残っていることの希望というか、日本の絶望というか、こんなしょうもない映画で思い知らされるとは思わなんだ。

西洋的想像力を越えて

「シャン・チー/テン・リングスの伝説」観てきた。

MCUの映画の中ではまず間違いなく屈指の作品だということ。「アベンジャーズ」を除く単体キャラ映画の中なら一番好きだと思う、これ。

「黒い司法」の監督ということで期待しつつ、アクション要素とかどうなるのやらと戦々恐々しながた見始めたものの全然問題ナッシング!

と、いうかですね、これ、何気に画期的な映画ではないかと思うのですよ。MCUでここまでやれるのか、と思いつつもやはり「これがMCUでなければなぁ…」と思う部分もあり、しかしMCUアベンジャーズ)という「大きな物語」に対するレジストも垣間見え、なかなかどうして気概のある映画ではないかと結構テンションがあがっております。

 

まず一つ言えることは、この映画は西洋的価値観の越境を志向しているということ。それは中心に対する周縁をすくいとるということであり、それゆえにデスティン監督の起用だったのだろう(いや順序逆か?)。しかしこれは「ブラック・パンサー」のそれともまた違う。たりめぇのことですが、我々エイジアンとアフリカンは違うのであって。

そもそも、「ブラックパンサー」のアフロフューチャリズムの描写とは、現代的な科学の延長以外の何かであっただろうか?ワカンダを貫くあの貨物輸送列車、あの鈍色・金色に輝く鋼鉄の都市にアフリカ的な意匠こそ盛り込まれてはいても、システムそのものは現代の科学=西洋的価値観によって構築されたシステムでしかなかった。それはアフリカンアメリカンの歴史を踏襲したからであり、アメリカの歴史と分かちがたいが故の当然の帰結ではあったのだろうが。

思うに、アフロフューチャリズムのイマジネーションの源泉の一つであるアース・ウィンド・アンド・ファイアーにもっと依っていれば、また違ったのだろうけれど、しかしあのダサさ(誉め言葉)をMCUの中に取り入れることは難しいというのもわかる。いや、西洋的な近代社会に対する強烈なカウンターとして「ブラック・パンサー」があることは事実なのだろうが、やはりワカンダのデザインというのはオーガニック的なものとの調和というよりも人工都市に人為的に埋められた木々に見えてしまう。

 

対して「シャン・チー」は既存の西洋近代的テクノロジーに基づいたデザインを排しているように見える。テン・リングスという今作の主人公たちの敵対組織にはそれらのテクノロジーを織り込んだ武器が取り入れられているのですが、それらがある段階で「無効化」されるという展開からも明らかなように、西洋近代的価値観(既存のテクノロジー)の一つのデッドエンドを描くという意図があるのではないか。

西洋的価値ーーもっと幅を広げて人工知能的な価値観にまで持っていていいかもしれないーーに対するカウンターとしての描写は徹底している。

たとえば、同じく「俗世から秘匿された秘境」を描いた「ブラック・パンサー」のワカンダは、それ自体も、そこに至る道程までもがテクノロジーによる組み立てがなされていた。一方でター・ロー村へのそれに既存のテクノロジーの入り込む余地はない。むしろ非科学的な(あるいは魔術的な)アンチテクノロジー的な案内によっている。二つのペンダントを龍の石像の目にはめ込むとスローモーションな水が噴き出しそれが動的な地図を形成する、顔のない虹色の羽の生えた小動物が人間に道を語りかけるなどである。

それはシャン・チーの身体動作の変化にも表れている。当初、彼のアクションは点から点へ移動するようなきっちかっちりとした格闘であるのだけれど、後半の叔母との修練あたりからはむしろ線的な流麗なものへと変化している。これはもちろん、(西洋近代的価値観に取り込まれた)父による殺し屋へ仕立て上げるための修行に対置されるアクション動作であり、東洋的自然調和の体現者である母イン・リーのそれを継承したものである。カメラワークの違いも、多分ALSとかしっかり計測したら違いが現れると思うのだけれど、一回しか観てないのでわからん(思考放棄)。

叔母とのちょっとした組手で体得できるんかい!と思いきや回想で母親からもその心得を教授されていたという周到さ(?)もあって、まあそれが説明的であるともいえるのだけれど、ここはともかく、ほかでも説明的なシーンが結構多い。特に導入部となる前半は結構多くて、カットバックによる回想をちょくちょく挟んでくるのが少しくどい気はする。それでもクライマックスシーンとかにそういう野暮はせず、前半で固めた描写を想起させるようにしてくれている。テンリングスをウェン・ウーから奪取しての流麗なポージングのとこは母親の太極拳的流麗なポージングを思い起こして涙目になり鳥肌が立ちましたよ、ええ。ここ超よかったです。

 

おまえさんさっきから西洋批判ばっかじゃん、と謗られかねないのだが、ではではこの映画は、これまでの西洋近代的価値観を徹底的にこき下ろし否定するものであるのか。もちろんそうではない。そも、そんなことをしたところで、そのテクノロジーにおんぶにだっこかつ価値観を埋め込まれた今の私たちの否定にしかならない。

「シャン・チー」の素晴らしいところはそこにこそある。決して打倒ではない、西洋的想像力の越境にこそ。

それは映画のアートデザインにも及んでいる(徹底しているかというと、そうではなく、やはりそこにはMCUという軛に囚われている部分はあるだろうと思う)が、それが映画的構造にまで届いているかというと、ちょっと判断がつかない。

特に幻獣の描写!そんなに映画を観ているわけではないのですが、このバジェットの大作映画において、ここまで東洋的想像力に基づいたモンスターもとい幻獣の類がスクリーン上に顕現したことはあっただろうか?

特に龍!竜(ドラゴン)ではなくしっかりと龍である、というところはかなり重要だし、それ以外の白面九尾(いや、尾が九本あったか数え切れなかったんですが、モチーフはそれだろう)や麒麟狛犬(シーサー?)、モーリスに至っては4枚の翼と6本の脚を持ち、顔がないという外見から明らかに中国神話の神(怪物)である「渾沌」だろうし、ともかくそういった東洋(というか中国?)的な幻獣がこの予算規模のCGとして登場するというのは、私の知る限りではないのです。まあ単に龍的なドラゴンでいえば「ネバーエンディングストーリー」のアレは近い気もしますが。

そういう東洋的想像力が画面に横溢しているというだけでもう元を取った感じがするのですが、なんと!この映画!それだけでなく怪獣バトルにまで発展するのですよ!

んで、ここもまたデザイン的に重要なのですが、シャン・チーたちを手助けする守護者たる龍に対峙する別世界からの侵略者(コンキスタドール!)である悪魔(ダークディメンジョンあたりにつなげるのかしら)のデザインが、クゥトゥルフ的意匠を持ち込んだ怪物なんですね。

クゥトゥルフといえば、20世紀にラブクラフトが創作した、歴史を持たない(=神話を持たない)アメリカが作り出した、西洋近代的価値観に根差した神話でありますね。しかもその怪物は人々の魂を吸い上げ力をつける。これが西洋社会の指向する、貧富を拡大させシステムそのものの構造がよりそのシステムを強固にしていく近代資本主義のメタファーでなくてなんだろうか。

そして、その怪物の囁きに導かれ、解き放ってしまった西洋近代的価値観の傀儡のウェン・ウーはヒーローによって倒されるのではなく、しかし自分の過ちを悟り、自らの意思によって自死を選ぶ(というように見える)。だからこれは西洋的な価値観の否定を示すものではない。というよりも、罪を憎んで人を憎まずの精神といった方が通りがいいだろうか。

そしてこの父親を超えるのではなく止めるということ。これは、何気に今までの男性主人公のMCU作品で象徴的だったヴィランの末路とも違う。これまでのヴィランは主人公の鏡像であり、それは超えるべき父親(のダークサイド)というダブルであることが多かった。それは父殺しという世界の神話に見られる定型ともまた違う。父殺しとはつまるところ既存の権威に対する革命、あるいは体制の破壊である。しかし、すでに書いたようにシャン・チーは父殺しをしない。拒みこそすれ否定はしない。というよりも、母親の喪失という悲しみを共有する彼に父の思い=人間性を否定することなどできるはずもない。

だからこそ戦いの最中に息子に母親を見出した父は人間性を回復させ、それゆえに父親は自らの死を受け入れる(行き過ぎた現代の価値観・主義の自壊)。叔母がシャン・チーに投げかけたさりげない「あなたは母親に似ている」というセリフもここで効いてくる。

 

「シャン・チー」はこれまでの剛よく柔を断つ西洋近代的価値観を転倒させ、柔よく剛を制す東洋的想像力に立ち返らせようとしている。無論、すでに述べた通り前者を否定するのではなく、あくまでも越境というところが肝でせう。でなければ剛柔一体とはなりませぬゆえ。

この点において、西洋近代的価値観へのカウンターとしては「ブラック・パンサー」よりも、デザインのレイヤーでまで作りこまれた「シャン・チー」のラジカルさは更に一歩進んだドラスティックさであると言えるのでは。

まあオリエンタリズムだろ、と言われると真っ向から否定することは難しいかもしれないし、下手を打ってバランスを間違えるとスピ方面に飛んでしまうので危ないのだけれど。というかそういう気配はしていなくもない。しかしそれをうまく拒んでいるというのは、シャンチーの父が死んだ妻の声に導かれ(スピってるなぁ~)彼女の故郷を襲うという描写からも読み取れる。絵面としてのスピ方向はあんまないし、うん。

 

MCUでこれをやったのはすごいと思う反面、やはりMCUじゃなければもっと描きこみ出来た部分もあるだろうなぁと思わなくもない。

の、ですが、ポストクレジットで溜飲が下がった。というのも、MCUという「大きな物語」に取り込まれることを寸でのところでささやかな抵抗を示してくれたので。カラオケ!

その辺も相まってこの映画の気概はスバラシッ!いや、本当に。

 

とはいえ、言いたいこともある。ケイティの扱いが雑。雑に強いという、ある種の割り切りではあるのだろうし、ラストにウォンが二人一緒に連れてったことを考えると彼女も今後の戦力としてみなされているのだろうけれど、そういうアベンジャーズMCUという大きな物語の駒としての戦闘要員的な位置に配するのはやめてほしいんのですよな。

彼女はショーンの日常の象徴なわけで、それを戦闘に介入させてしまうのはウーン。

 

あと両陣営が衝突するシーンは「スケール小さ」と思わなくもないのですが、あそこで「ブラック・パンサー」とか「インフィニティ・ウォー」とか「エンドゲーム」みたいな大群VS大群をやられてもなぁ、という気もするし、冒頭で似たような絵面はウェン・ウーが見せてくれたし、そういう「大きなもの」(我ながら抽象的すぎるが)に取り込まれないことこそがこの映画の枢要なところなので、無問題!

 

ところでこの映画、どことなくカプコンゲーのにほひがそこかしこに充満してはおらなんだか?

ペンダント二つを合わせると道が開く(DMC3)、スタイリッシュなアクション、幻想的な獣の素材を用いた武器や防具の鍛練(モンスターハンター)、神秘的な植生に囲まれた中での演武(鬼武者)などなど。まあこれはひとえに私がゲーム脳なだけなのですが。ただ、そういうゲーム的なイマジネーションが盛り込まれているというのはあると思う。

 

あとバッキー&翼で仏壇にルシャナ仏置いてる日系人が出てきてるような詰めの甘さがあったりするので、中国ネイティブの人が見たらおかしなとこがあったりするのかもしれない。

でも超良かったですよこの映画。ベン・キングスレーもサービスとしては良い塩梅だったかと。

2021/8

今月、劇場以外で観た映画が1本!マジか・・・

「暗くなるまで待って」

脚本と演出が何気に凝っている。

冷蔵庫のこととか、そもそも盲目の人を主人公にすることで空間を限定させる(んまあ、なんというかこれは非常に社会抑圧的なあれこれもあるのかもしれないと邪推できなくもないが)予算管理。

見ることのできないスージーが一方的に敵対者に見られるという関係性が、グロリアという少女の助けを得て一方的な被虐(といってよいでしょう)の関係性を対等にまで持ち込み、さらにホーム(文字通り)であることの優位性を最大限活用し(排水管、配線などなど)、クライマックスには見る・見られるの立場を逆転させ、スージーこそが一方的に敵対者を見る(感じる)構図に至り、窮地を脱するという。

ラストの方のわちゃわちゃしたシーンはちょっと笑っちゃうような気もしますし、オードリー・ヘプバーンの演技がくどいというのはあるのだけれど、それでも巧みな映画だと思います。

新生自殺部隊

「ザ・スーサイドスクワッド」(以下「ザ」観てきた。前作(というかリブート前)やハーレクイン単体の映画とのつながりはどうなっているのか、とか考えだすより先に映画にドライブさせてくれた時点この映画の勝ちである、ということは言っておいた方がいいかもしれない。

実際、この「ザ」は今挙げたようなマーゴット・ロビーasハーレクイン映画のように、いわゆる(キャラクター)を前面に押し出すつくりの映画にはなっていない。冒頭のDIEジェストを観てもらえばわかるように、むしろそれらの(キャラクター)を前面に押し出し喧伝するような映画に対する悪意的とも取れるようなアバンをジェームズ・ガンは披露してくる。

ジェームズ・ガンはそもそも、キャラクターを立てるのにキャラクターを個として独立的に=記号として描くような作劇はしない。むしろ、各キャラクターを引き合わせることでこそ、それぞれのキャラクターの内面(とか書くとアレだけど)を引き出しキャラ立ちさせる。

 

だから、「ザ」のハーレクインとこれまでのハーレクインとのつながりだとかいうのはどうだっていいのだ。この映画に出てくるキャラクターは彼女も含め全員がそのやり取りの中で十全にキャラクターを発揮できているのだから。冷静に考えてみればわかると思うけれど、今回の「ザ」の部隊にははっきりとした異能的な能力を持っているのはポルカドットマン(以下「泡男」)とラットキャッチャー、見た目としてはっきりわかるナナウエ以外にはいない。

残りの四人に関しては徒手・刃物と銃と、そのスタイルがもろ被りしているのである。もちろん、細かい部分に差異はあるし、だからこそそれぞれのキャラクターが立つというものではあるけれど、雷が出たり魔術が使えたりとかそういう、花形の能力を持った奴らはいない。ルック自体はカラフルであっても、決して泡男の能力は「あんなこといいな、できたらいいな」とはならないし、ナナウエですら(あの見た目だからこそ)派手な能力を持ち合わせていたりはしない。ただ丸のみするのみ。多分、ナナウエが見た目に反してほかの連中よりもキャラが薄い(と感じた)のはほかのキャラクターとのやり取りが少なく、また自身のそのキャラクター設定的な部分にコミュニケーションが取りづらいというのもあるのだろう。言うまでもなく、彼が抱えるディスコミュニケーション性それ自体が彼の孤独を引き出させキャラ立ちさせてはいるのだけれど。

まあ、言ってしまえば、ジェームズ・ガンはそういった「異能」を他愛のないものだと感じている(GotG2)。けれど、そういった「異能」がどうでもいいものだからこそジェームズ・ガンはそういった輝かしい異能者も他愛のない異能者も、ヒーローもフリークスもないまぜにして、つまはじきにされるような外れ者を魅力的に描き出そうと腐心する。主にグロとゴアによって。

そういうのと、彼の中にあるコミカルな悪意が抽出されたのが「ブライト・バーン」だったのだと思う。あれはあれで結構好きだったんだけど、あまり当たらなかったのかその後の情報が出てこないのが惜しい。

 

前置きが長くなったが、この映画が素晴らしかったのは何もキャラクターが優れているからではない。いや、もちろんそれも一つの理由ではあるのだけれど、それも含めて「楽しく」て「正しい」からだと思う。ここでいう「正しい」というのは、ポリティカリーコレクトネスなんてものじゃない。為念。

この手の映画でちゃんと観ていて楽しいというのは、まずもって大事なことだと思う。ジェームズ・ガンはとにかく色彩豊かでドラッギーな描写をしてくれるし(ハーレクインの無双シーンにおける出血、泡男の能力それ自体、スターロなどなど)、大爆笑するような爆発力はないけれど、つい噴き出してしまうような場面はいくつもあってギャグセンスも高い。GotG2がくどく感じたのは、ゴア(による笑い)描写などを抑えられていたからだったりするのかもしれない。人があっけなく物体と化す可笑しみ、というのは確実にあるわけだし、それによるばかばかしさ(を反転して描くと反戦映画になったりするのだろう)というのもあるはずだ。

あるいは、これがヒーロー映画ではないからこそできるブラックジョーク。単なる勘違いで反政府組織の、味方を救ってくれた人たちを強襲してほぼ全滅させてしまうシーンなど、そもそもあそこまで周到に殺害シーンを描くことすらディズニー下では無理だっただろうし。

 

にもかかわらず、この映画の佇まいは「正しく」、それでいてイヤミったらしくもなく、だからといってド直球ストレートすぎるわけでもない。それはおそらく、これがヒーロー映画ではないことからくる、「なのだから」という押し付けがましい気負い(ヒーローの規範、と言っても過言ではないかもしれない)がなく、なればこそ「あの決断」が輝くのだと。

なんというか、ヒーロー(として形象される者)がヒーロー的な行動をすることの退屈さに対するアンチ、とでも言えばいいのだろうか。

ゼロ年代は、ヒーローのヒーロー的行動への問いかけというか、ポストヒーローともいえるような空気が漂っていた。それは理詰めによって「善意」や「良心」が無効化される世界観をノーランの「ダークナイト」が呼び起こし(マイケル・サンデルの『「これからの「正義」の話をしよう』がトロッコ問題を引き合いに出したのもそれだろう)、「ウォッチメン」もそれに追従するような形となった。それらがフランク・ミラーアラン・ムーアという80年代に起こったヒーロ―に対する問いかけ(闇への誘因)をした作家たちの原作を下敷きにしているのは偶然ではありますまい。出来栄えはともかく。これが両方ともDCコミックであり、「ザ」もそうだ、というのを考えるに、マーベルの示す方向性はやはり明確に異なっているように思える。

 

ゼロ年代のヒーローとは、「ダークナイト」のバットマン的なうしろめたさを抱えていたはず。しかしそれに対してマーベルは「アイアンマン」を筆頭とする陽気を放つ、「ヒーロー映画」群を作り「アベンジャーズ」においてそれをより肥大化させるに至った。この流れを、誰とは言わんが特定の映画ファンたちは称揚した。曰く、「ヒーローは人を助けてなんぼ(意訳)」、「DCはじめじめしすぎている(意訳)」などなど。ゆえに彼らは「スーパーマン リターンズ」には肯定的だ。

しかしProjectが、当の「スーパーマン リターンズ」に対して9.11以後のこの世界でスーパーマンを描くことは実質的に無理な話であると喝破したうえで、しかしジョン・ウィリアムスのあの曲をかけることによってのみ(その暴力的なまでの音楽の力によって)スーパーマンを顕現させた、と言ったように、本来はマーベルのようなヒーロー像(嚆矢であるアイアンマン筆頭)というのは、それが希望であるということは承知しつつも、やはりどこか欺瞞的ではあった。そもそも、「アイアンマン」公開当時からしてその欺瞞性(トニー・スタークのマッチポンプ、ひいてはつい最近のアフガニスタンの件におけるアメリカの立場にも直結するだろうし、「ヴェノム」すらあの体たらくだった)は指摘されてはいたわけで。

たしかにザック・スナイダーの一連のヒーロー映画はどうかと思うし、というか本質的にはあの人は絵面重視の人だと思うので、ああいう形になってしまったのではないかと思うけれど、かといってそれぞれのマーベル映画を、マーベルの放つ映画として全肯定することは、今振り返ると難しい。

 

だからこそヒーローではない存在として、ヒーローによって定義されるヴィランの映画である「ザ」は素晴らしい。

実際、ヒーロー映画がヒーロー映画たるためには、そのフォーマットにおいてヴィランが登場しなくては成り立たない。だが、ヴィランヴィランであるためにはヒーローは必要ないのではないか。現に、この映画にヒーローは登場しない。

これは、かなりラディカルに見える。なぜなら、この映画はとりもなおさず、ヒーローとは必ずしも必要ではないのではないか、ということを示しうるからだ。ヒーローなどいなくとも、それが人間の悪性=ヴィランであっても善良を引き出しうるのだと。

枢要なのは、スーサイドスクワッドがヒーローではなく、そして(喧伝のされ方がどうであれ)これがヒーロー映画ではないということだ。無論、前提としてのヒーローの存在は必要だったのだろうけれど。

ただそもそもからして、スーサイドスクワッドの面々が着任したのは善意のためではなく自分の命あるいは身内の命が惜しいからだ。もっとも、それ自体はきっかけに過ぎず、各々に行動の動機はあるのだけれど。

ともかく、ヒーローが「ヒーローであるから」と「必然的」に、宿痾がごとき規範、半ば機械的脳死的に行動を起こすのとは違う。

ヴィラン、ひいては人間は、その行動のために不断に思考し続け、一方で内発的な動機・レスポンシビリティーに応じなければならず、その葛藤の中にこそ真に善良なることを見出さなければならないのだと思う。

かたや、ヒーローとはヒーローである時点でそういった葛藤が生まれるより前に定義されてしまっている。ヒーローがヒーロー的な行動をとることの退屈さとは、そういうことだ。そのくびきに囚われないのは、マーベル映画の中では親愛なる隣人であるスパイダーマンだろうけど、「エンドゲーム」で没人格化した気がして、そのあとの「ファーフロムホーム」にはあまり乗れなかったのだけれど。そういう意味では「アメスパ2」は、エレクトロの誕生経緯なども含めてかなり自覚的だった気がするが・・・まあ続編が作られることはないだろうから仕方ない。

 

泡男が死んだ理由、なぜクライマックスのとどめがラットの大群だったのか。それもこれも、ヒーローに対するアンチにほかならない。と思う。

そもそもなぜラットだったのか。ラットという存在は、大量の日陰者、サイレントマジョリティーの周縁者の表象として機能する(翻って数の暴力にもなることは忘れてはならないだろう)。つまり有象無象。それがラットであり、それを統べる(というと語弊があるけど)人物にタイカ・ワイティティという大物を持ってきたのだろう。とはいえ、その配役に関しては「万引き家族」の池松壮亮の使い方に似た拒否感もなくはないのだけれど、ともかくその狙いは果たされている。と思う。

「エンドゲーム」のヒーロー大集結に対する一つのアンサーとして見てもいいかもしれない。

こう書くとティム・バートン的なフリークス愛の称揚というか、「ダークナイト以後」で「それはちょっと・・・」と思いかねないのだけれど、かといって、バートンのようなフリークス愛(それは自己愛に容易に転化しうる)に戯れるだけではない。

それを示すのが泡男の末路だ。彼はなぜ、あそこまで来て死んでしまったのか。それは「仮面ライダー竜騎」における東條悟の死に方(その直前のゾルダとのやりとり含め)の対極なのだ、といえばいいだろうか。

泡男は自分をヒーローだと、そう喜び勇んで自称した次の瞬間にあっけなく死んでしまった。さもありなん。この映画にヒーローはいらない。ヒーローとは欺瞞であり、そのようなものを排除し、それでもなお人は人として「正しさ」を成しうるのだと示さなければならにのだから。

 

「ヒーロー」という大きすぎる希望(それが虚構であれ)を拠り所にしてしまうと、人々はそれなしでは生きていけないのだと思い込んでしまう。その意味で、「ヒーロー」という概念はドラッグに近いのかもしれない。

だから、「ウィンターソルジャー」におけるキャップの演説=扇動によってシールドの面々が決起する場面のように、絶対強者=ヒーローの存在を必要とせず、バックヤードの住人がただ「胸糞悪い」という理由で上司の悪行(=政府の意志)を食い止める。

そのヒーロー不要の「正しさ」がこの映画にあり、それゆえにこのシーンにウルっと来てしまった。

 

こんなにふざけていて、かっこつけていないのに、こんなに楽しいのにラディカルで、かつ正しい映画というのは、なかなかないのではないだろうか。

 

どうでもいいけれど、ウィーゼルの挙動とかそもそものスタイルとかシェーンが演じてそうだなーと思ったら案の定で笑う。しかし、このウィーゼルが子どもを27人も襲って殺したという逸話やハーレクインと大統領の会話の「子ども」に対する「地雷発言」のことなどは、ジェームズ・ガンの例の一件の後と考えると妙に告解めいて聞こえてしまうのだけれど。どうなんだ、ジェームズ・ガン!?

あとマイケル・ルーカ―ほんとに好きだな!?

 

 

 

フリーガイ

観てきた。「スーサイド~」とかほかにも観たいものはあったのだけれど、夏休みもあってか平日にもかかわらず人が結構いたので連続で観るのは止めておきました。

というか、座席数が半減しているので朝に座席を確認した時点でほとんど埋まっていただけなのですが。

知らなかったんですけど、これディズニー映画なのですね。アベンジャーズのネタの部分はそれかーと納得。でもディズニーが権利持ってるコンテンツのギャグを使ったところで、という気はしなくもない。シンプソンズにおけるFOX批判とかディズニーディスならともかく。

てかパンフレット作ってないんかい!あと観てないけど「竜とそばかすの姫」とも見比べたら面白いことになるのかなーと思ったり。観てないけど。

 

本題。予告編だけだと、どうも手垢まみれの内容なんじゃないかと邪推し、「ピクセル」みたいにダダ滑りするようなアレじゃないのかと思っていたのですが、思っていたよりは面白かったような気もする。どうでもいいことに気を取られすぎて楽しみ切れなかったような気もしますが。

まあ仮想世界のNPC(モブキャラ・・・モブキャラ?)が自分の存在とセカイそのものへの真実に気づく、というフォーマットや仮想世界(≒電脳世界)内の一存在である(でしかない)という設定自体はそれこそ「マトリックス」とか、近年でいえばアニメだけど日本でも「Hello World」とか色々あるわけですが、個人的にはそういった類のSF映画より、もっとこの映画に近く、かつ決定的に違っている映画として「トゥルーマン・ショー」があるのではないかと思ったりします。

それは「孤島を囲う海を渡る」というクライマックスシーンの共通点だとか、前述したSF映画のようなSF的知的好奇心をそそるセンス・オブ・ワンダーがあるわけではないから、というのもあるかもしれません。実際、「GUY」のAIに関するプログラミングに関するディテールは一切語られませんし(この映画においてそこは必要ないから)、細かい部分を気にしだすとキリがありませんし(どうでもいいけど「シムシティ」とかあるし自生するのを観察するゲームというのは普通に需要あるよね)。それこそ世界五分前仮説だとか、涼宮ハルヒ的な世界観を想起してしまうようなこともあるやもしれないですが、ぶっちゃけそういう話ではないわけで。

 

ただ、この映画の持つある種の楽観主義的(といいつつ、主人公のGUYはこの世界が偽物であるということに気づいてショックを受けて、作劇的には一瞬ですが自暴自棄になりかける過程はある)と言ってもいいような身体性への無言及は、イーガン的というかブロムガンプ的なような気もして、なんとなく存在論的な悲観とかがまったくないし、即自存在・対自存在への越境となるきっかけも、はっきり言ってしまえばキーズによる仕込みであるわけで(というかこの辺はスキンの問題なのか?)すが、ある意味では彼のデザイナーベイビーでもあるはずの「GUY」から彼への直接的な応答はなく、むしろ最後にはキーズとミリーのブリッジャーと化しているようにもみえる。にもかかわらず、「GUY」はあっけらかんとしているし、悪く言えばなあなあになっている。「GUY」自身がモロトフ・ガール(ミリー)との色恋に耽溺しない、というのはむしろ好ましいことである。キーズの存在がなければ。

そう、問題はキーズである。彼とミリーの恋愛は「GUY」とモロトフ・ガールのそれと重ねられている部分がある。それは演出だけでなく物語的な根幹にも関わっている。

それは言ってしまえば、「外部」の排除であるともいえる。その点において、この映画はセカイ系的であり、極めて人工知能的な世界観の(まあ主人公がAIなので正しいのでしょうが)映画でもあるといえるかもしれない。

ここでいう「外部」とは「真の世界」としての外界ではありませぬ。というよりはむしろ、絶対他者としての「外部」、「三体問題」における三つ目の天体、といった方がいいでしょうか。為念。

ラスボス(といっていいかどうか不明)がああいう姿だったのも、「Hello World」もそうだけれど、極めて納得のいく形であったと言える。

変転への兆しがキーズでなければなぁ・・・。

 

トゥルーマン・ショー」と違う点はそこだろう。「トゥルーマン・ショー」にとっての外部は、「フリーガイ」や、あるいはそういった電脳・仮想空間の外部としての現実世界ではないために、そこに神や真理といった期待・祈りを見出すことは事実上不可能なのです。無論、統御された現実という意味でシーヘブンを(MGS2的な)仮想現実と見なすことは可能でしょうが、繋がりつつも隔絶している=宙ぶらりんであるという点で、「フリーガイ」とそれに類する完全に分かたれている世界としての外部を描く作品群とは異なっている。

だからこそ様々な点で共通点を見出すことができるものの(海を渡るモチーフ、観る/観られる関係、メタフィクション構造など)、その結末が異なり、かたや実存主義を語るのではなく、かたや徹底して実存主義的な映画になっているのでせう。

 

ルーティーンを逸脱しようとするとほかのNPC被写界深度の浅い背景の戦車まで砲身を向けてくるシーンとか、ワイティティの韻を踏んだ喋りをする痛いおやじ(字幕だと全然ライミング拾えてませんが)とか、連続で二回轢かれるところとか、ふふっと笑えるシーンは結構ありましたし、「ゼイリブ」的な眼鏡使いとか、全体的には楽しめましたかね。

フィクションにおいて間諜はいくら持ってもよろしいものとする

忍者(NINJA)しかりセクターほにゃららしかり。まあ今更すぎるんだけれど。

てなわけで「ブラック・ウィドウ」

 

全体的にエモい、この映画。

エモい。この言葉を使ったが最後、あらゆるディティールは精彩を欠き本来内在していたであろう意味をはぎ取り「なんとなく」の「感じ」という、この言葉を投げかける相手への「共感」だけを頼りにしなければならず、なんとなく敗北感を覚えてしまうために、何かしらを相手に伝えたいときに使うのはなるべく避けているワードではあるのですが、それでもこの映画はなんかこう、エモい(敗北)。

オープニングクレジットの、映像だけでいえばポリティカリーサスペンス風味なのに、そこにボーカル付きの音楽を持ってくるのとか、なんかすごい食い合わせが悪いような気もする。
まあポリティカリーサスペンスというよりはスパイアクションなのだろうけれど。特にモロッコのセーフハウス(?)などの初期「ボーン」シリーズを思わせる空気感は多分意識していると思う。この手の馬鹿げたスパイアクション映画において、「ブラック・ウィドウ」の湿度と似通っているのはこれくらいだろうし。

しかしその狙いどころは分かりやすいというか、単純な足し算としてはさもありなんというところではある。のかもしれない。

つまり、エモさ。共感可能性。

フローレンス・ピューなんて、どう見てもエージェントには見えますまい。そう強く思ったのは演技力とかそういうことではなくて、まず彼女の苦悶の声というのは必死しぎるのである。これは多分、声質とかもあるのだろうけれど、スカヨハの平静を装った表情の中に堪えた何かを思わせる(スパイとしてはそう思わせてはいけないのかもだけど)二重性に比べ、ピューは感情が全面展開されている。表情にせよ声にせよ。まあ、物語上で洗脳が解かれているから、というのもあるのだろう。

で、ピューがその内面を惜しげもなく披露するため、観客は容易に感情移入をさせられ、「エモ」くなるのである。それがある種のラディカルさに繋がっていれば面白かったのだけれど、別にそういうわけではない。もちろんフェミニズムと人間の「非人間化」というお題目は正しいのだろうけれど、だったらキャスリン・ビグロージェシカ・チャスティンの組み合わせの方がよっぽど過剰に思える。

でも多分、それよりもまずこの映画が語りたいのは(というかこの映画を語りたい人?)家族についてなのだろう。

MCUが家族云々というものを掲げ始めたのはいつごろだろうか。映画シリーズだけしか追っていないし、何度も見返しているわけではないのだけれど、なんとなく「シビル・ウォー」あたりからだと思う。「アントマン」も家族を描いているとはいえ、それは大文字の「家族」ではなかった。
ではなぜ、「シビル・ウォー」からなのだろうか。それは多分、ドナルド・トランプの当選と、それに関連したアメリカの分断に、アメコミ原作であり、ファミリー向けハリウッド大作というマスとしてその内情と共振したからのではないかと今にして考えると思う。

「シビル・ウォー」からのMCUの大文字の家族押しというのは「GotG vol2」しかり「ラグナロク」しかり。アメリカという大文字の家族≒国家を再結合するために、大文字で家族を語らざるをえなかったのだろう。政治的正しさを錦の御旗として掲げざるをえなくなったMCU当然の帰結ではあったのかもしれない。
それでもこのころまでは「~とはかくあるべき」という規範性を壊そうという気概はあったと思う。

しかし、その大文字の「家族」を掲げてしまったがために、掲げざるをえなかったがために、「ブラック・ウィドウ」は「家族とは何か」という疑義を呈しそれに対する答えを提示してしまったがためにその多様性を失っているように見える。

だから男女や米露、白黒という単純な二項対立の図式にハマってしまっているように見えたのかもしれない。

この映画において、男は露悪的に描かれるか、囚人か、顔すらも出てこないモブ敵として描かれ、徹底的なマチヅモを担わされ、しかもそれが解消されることはない。

味方であるレッド・ガーディアンすら、エージェントであるにもかかわらず、デリカシーもなく知能指数が低そうな言動ばかりで、その上パワーキャラであるにもかかわらずそのパワーを発揮させてもらえるシーンはほとんどない。なぜならマチヅモ的なものはこの映画においては否定されているから。

それはかえって弁明にも見えてしまう。「男性=敵ではない」という弁明のためだけに味方サイドに配置されたような。ナターシャに物資を提供する彼にせよ。
それは「家族とは何か」と同じで、フレームを用意することはあってもそこから逸脱する何かをもたらすことはない。結局は規範の押し付けでしかない。いや、もっとラディカルで徹底していて、それこそバレリー・ソラナスくらいの極端さがあるならともかく。

あとこの映画のセルフツッコミスタイルはあまり好きじゃない。なぜならそれは、もはや免罪符としてしか機能しえないように思えてしまうから。

茶化せば許されるとか、もはやそういうレベルの推移ではないのではないか、今の社会というのは。

なんか批判的言葉が並んでいるようだけれど、アクション映画としてはランニングタイム中は割と楽しんだ気はするので、そこまで悪い映画ってわけじゃないと思います。

ゴジラVSゴリラ

主は言われた。「KOM」を楽しめた者だけがこの映画を楽しみなさい、と・・・。ていうか「KOM」にネガティブ評価してた人って「ゴジラVSコング」観てどう思ったんでしょうね。

今回はIMAX3Dで観たのだけれど、アトラクションを意識したカメラワークが結構あるため、実は4DXが一番楽しめる観賞型式なのではないかと思ったり。というか、そうやってある程度の体感を持って行ってもらわないと余計に頭を働かせてしまい粗に気づいてしまうので・・・。

 

ところで、このモンスターバースにおける一番の垂涎ポイントは実のところアバンクレジットの白塗り&記録(ニュース)映像なのではないかと思う。それが一番良かったのはもちろんギャレゴジのアバンなのだけれど。しかし今となってはこのアバンも日本の行政文書におけるのり弁のアレを思い出してしまったり。ともかく、「ゴジラVSコング」におけるアバンもそんな感じで、タイトルがデデーンと出るところは平成VSシリーズのようなバカっぽい派手さで「いいじゃんいいじゃん」となったのですが、中身まで平成VSシリーズのバカッぷりを踏襲しなくてもよろしいのではないか。

人間の描写ははっきり言って「KOM」におけるドハティのぶっとび怪獣フリークっぷりがない分、余計に「おいおい」な部分が目立つし一つ一つ言及してたら枚挙にいとまがないのでここで書くことはしませんが、ゴジラがそこそこ好きな日本人としてこの「ゴジラVSコング」(というかモンスターバース)に言いたいことがあるとするならば、リスペクトのつもりなのか知りませんが「芹沢」とか「オキシジェンデストロイヤー」は持て余すくらいなら出さんでよろしい。

あと小栗旬の扱いですが、まあぶっちゃけ予想はしてたけれど、ほとんどセリフはもらえず、そのセリフもどうでもいいものばかりな上に、あそこまでおぜん立てしてもらってメカゴジ操作させてもらえねーでやんの!邪推するのならば、小栗旬のセリフが、主に彼の英語の発音のせいでがっつり減らされてしまった結果が完成品なのかもしれない。だとしたら彼にこそ手話を使わせるべきだったのかもしれない。

とまあ、そんな失礼な邪推はともかく、この映画にはひどいクリシェが散見されるのだけれど、メカゴジラパートは素直に最初は小栗旬が操作してたものの彼のゴジラへの憎しみ(といってもそういう描写もないので、前作の渡辺謙とのつながりをこっちが忖度しなきゃならんのですが)がギドラと共鳴して暴走して~とかって感じにすりゃいいのに。あとメカゴジラのデザインがターミネーターすぎますね。ソフビの情報が出回った時点で知ってはいましたけど、思った以上にガリガリだしターミネーターだしで、「レディプレイヤー1」のメカゴジラがいかに良い塩梅でリファインしていたか再認しました。ていうか、メカゴジラのデザインとかゴジラがやたらと前のめりに俊敏な動きを見せるのとか、マグロ食ってるやつにインスパイアされてませんかね、アダム監督。

ゴジラでいえば、なんか知能が低下しているように見える。なんで動力切っただけで「死亡確認!」扱いなのかとか、思いっきり正面(やや上だけれど)にコングがいるのに不意打ち食らったりするし。

いやまあ、「ゴジラドミニオン」を読んでいれば、ゴジラはあくまで調停者であってむやみやたらに怪獣を殺しまわってるわけではない(だからラストでも特にひと悶着もなく帰っていく)というのは忖度できるのですが、それでもなんだかなぁ。

ミリー・ボビー・ブラウンもなぁ・・・前作ではいい具合の表情を撮ってもらえてたりしたのだけれど、今回はおそろしいほど凡俗な見た目かつ陰謀論者めいたムーブしかしてなくて残念。

 

怪獣プロレスはまあ楽しめましたけど、ほかを帳消しにするほどかと言われると首をひねらざるを得ない。

期待値以上のものを求めると肩透かしくらうかも。