dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

KILL THEM ALL! KILL THEM ALL! 続編ありきの予定であることを知っていた人はもっとアナウンスするべきだったのでは・・・

 あれか、自分が情弱だっただけか。仕方ないでしょう、別に「IT」のファンてわけじゃないんですから。とか愚痴を吐いているのは、本編が終わったあとに「第一章 終」みたいな字幕が出てきたからなんですが(これがヒットを受けて後付け的に足したものなのかは知りませんが)、そういうことをされると困るわけですよねぇ。

 

そんなもやもやした気持ちを抱えたまま劇場を後にしたわけですが、肝心の本編はどうだったのか。リメイク前の「IT」も原作も(そもそもキングを一冊も読んだことがないという)読んでないという体たらくで臨むのもアレな気はするんですが、ジャンル映画にしてはちょっと長いです。あと20分くらい短くしてくれるとよかったかなぁ。

とはいえ、まずはホラー映画であるという前提からもっとも重要なことである「恐怖」はどうかという部分ですが、うん、まあ怖いですよ、ええ。やっぱりピエロって怖いです。笑い声とかも、あの不快な感じはやっぱりいつ聞いてもくるものがある。ジョン・ウェイン・ゲイシーとかもそうですけど・・・第一あのデザイン考えたのは誰なんだと。ホラー映画ということで売り出されているわけで、実際に見てみると予告編にあるところは全体的に怖いです。だから予告編に集めたんでしょうが。

ただ、なんていうか、この作品で描かれている恐怖は何かこう、子どもにとっての敵でありながら大人が相克すべき必要悪的な尊いもののような気がするというか、懐かしさのようなものがあって、そういう意味ではどちらかというと「スタンド・バイ・ミーfeat IT」みたいな感じでせうか。スタンド・バイ・ミーにおける青春を恐怖のレンズを通して見た「大人はわかってくれない、子どもの感覚」というか。だから、この映画でピエロを怖いと思えた人は、たぶん、まだ子どもの心を持っている人なんじゃないかなぁ。

 一緒に見に行った友人も「なんかあれみたい、スタンドバイミー」と言っていましたが、まさにその通りだと自分も思いましたです。よく考えたらあれもキングの作品だし、見終わったあとに思ったことは「ホラーというよりも古めかしいジュブナイル映画だった」という印象でしたし。

 

 もちろんピエロが怖いので一番怖いのは冒頭の弟のシーンで、あとはまあ演出としては似たような(同じというわけではなく)感じなので割と絵ヅラ的に慣れてきてしまうというか鈍化していってしまうのがちょっと難点ではあるやも。といっても、似たようなというのは「子どもの(大人ひいては未知への)恐怖」という根っこを共有しているからそうなるわけで、なんとなく似てしまうのは構造的に仕方のないことなのかも、と擁護に回りたい気持ちもなくもない。

つまり、ビルの父親がわずかワンシーンしか出てこないのにあそこまで理解のない父親のように描かれるのは(ある程度大人な人は父親の気持ちを忖度しちゃいますが)、スタンリーの父親ユダヤ教聖典を朗読できない彼を見下ろすように遠目に映しているのは、マイク(に関してはちょっと違うニュアンスも含まれていそうな気もしますが)の置かれた場所は、ベバリーの父親が風呂場を染め上げる真っ赤な血を認識できないのは、エディの母親の暴力的な庇護は、たぶん、そういうことだろうから。

子どもたちの恐怖と、それと遭遇する場所にも色々と想像が及ぶ。

ヘンリー率いるいじめっ子軍団に関しては、ルーザースの敵対者であると同時に、恐怖による繋がりでしかないグループであり恐怖を克服できなかった子どもたちとしての対比的な存在なのかなーと。

 

ベバリーといえばなぜあの血だらけの浴槽は幻覚ではなく、質量を伴い存在していた(少なくとも子どもたちには)のか。そして、ともすれば「そんな場合じゃないだろ」とツッコミを入れたくなるような風呂場の掃除場面をどうして入れたのか。それは、子どもたちが大人には見えない血を拭うことに意味があるからだ。大人には理解の及ばない子どもの恐怖、まさしくそれ(IT)に彼らが彼らの手だけで打ち勝つための前儀的なものなのではないだろうか。

全体的に、この映画にはどこか作為による牧歌的な部分があるのですが、それは彼らの青春の陽の部分にほかならない。ホラーであり同時にジュブナイルとして作られたこの映画には、あって当然なのだろう。

 

そういえば監督の前作「MAMA」でも子どもから見た母親と同じ母親から見た同位存在としての母親というものを描いていたし、監督は大人というものに何かしら思うところがあるのかもしれない。

 

見た直後はそんなでもないかなー、続編はまあ見に行かなくていいかなーと思っていたりはしたんですけど、こうして思い出しながら書いていると、むしろ続編が待ち遠しい気持ちになってくる。これは、だって、まだ終わっていないから。続編をやるとしたら大人になった彼らをメインにするのだろうなーと漠然と思っていたのですが、読みはあたっていたようです。

話の展開的として続編を作るとしたらそれしかない、という直観だったのですけれど、展開ではなく映画の構造そのものとして、大人になった彼らを描くのは必然なのだと感想を書いていて気づいた。「IT それが見えたら終わり」は未完成の完成品なのだから。続編と合わせることで止揚されるはずだから。

 

各キャラクターについても少し触れておこうかなと。

本作の主役であるビルを演じるジェイデンくんが(主に髪型のせいで)デイン・デハーンに見える。幼少のデイン・デハーンという感じで、その寄る辺なさがまたいい。

ビバリー(ソフィア・リリス演)は父親からの性的虐待を受けているというのがすごくアレなんですが、なんかこうジョン・ヒューズの作品にヒロインとして出てきそうな陽性も持っていていい。

リッチー(フィン・ウルフハード演)。今作のお笑い要素・癒し系担当。こいつの空気の読めないお調子者弁舌に魅了され観客も多いと聞く。唯一、単独での恐怖体験のないおそらくは観客のメタキャラとしての側面もありそう。一番ストレスフリーなキャラだし。

ベンくん(ジェレミー・レイ・テイラー演)。今作のお色気担当(違う)で、一番バストがあるため脱ぎ要員にされ恋模様の当て馬にされたかわいそうなおデブちゃん。でもブレインでもあったりするのでルーザーズクラブには必要不可欠な存在。ていうか彼の擁護派である、わたしは。ポエマーでいいじゃない。

スタンリー(ワイヤット・オレフ)。ラビの父親を持つパーマくん。顔を噛まれたりする割には相対的にスポットを当てられる場面が少なかったり、そのくせ絵画の女という独自の恐怖表現をもらえたりとおいしいのかおいしくないのかよくわからない役どころ。

エディ(ジャック・ディラン・クレイザー演)。骨折したけどギプスに女の子(ビバリーをいじめていた女子)から寄せ書きをしてもらったラッキーボーイ。ただしデブ母のせいで極度の潔癖症であり、その恐怖表現も結構グロイ。

マイク(チョーズン・ジェイコブ演)。ルーザーズのアタック担当。両親が焼死というかなりの恐怖を患っている上にヤギ殺しを生業にしなきゃいけないという劣悪な環境にいる。

 

決してスマートな映画とは思わないし大傑作とも思わないけれど、意外と、それこそ自分が思っていた以上に好きな作品かもしれない。

この記事を読み直したら頭とケツで立場が逆転していて笑えるのですが、こういうことがあるから感想を書き出すというのは意味があるのではないかと思ふ。

 

ただ、一つだけどうしても納得のいかないところがある。

ベンくんの気持ちだよ! ビバリー、お前はそんなんだからビッチって言われるんだよ!しかもラストのキスシーンでベンくんが不在なのもおかしいだろう!

二回も腹に切り傷を受けても頑張ったベンくんに対してそりゃないだろう! おいビル!ビルこのやろう! こうなったらベンくんとリッチーはわたしがもらっていきますからね! 

ソーれでいいのかマイティソー

いやぁ、MCUの中でソーだけパッとしないなーと思っていたんですがーーマーベルもそう思っていたのかはともかくーーだからと言ってソーシリーズの締め(?)をここまで暴力的な「映画」(と言うのは憚れるのですが)だとは思わなかった。

映画としては評価できないけど全然楽しいし笑えるというのが、なんともこう「ちからこそぱわー」というか「まねーいずぱわー」みたいな感じがして複雑な思いだったりする。前2作は映画としての体裁は保っていたけど、そんなに面白いわけでも退屈というわけでもないという微妙なラインではあったので、これくらいはっちゃけたほうが良いというのもわからなくもないんですが。

 

今更すぎることですが、この「マイティソー バトルロイヤル」はMCUという2008年から始まる連綿と続くシリーズの下地がなければ、そしてそのシリーズを持続させる体力と資本とコンテンツ力がなければ、こんな映画ならざる映画を膨大なリソースをかけて作ることはできなかっただろう。

そういう意味で、やはりこれはアメリカはハリウッドでしか作れないモノだったろう。多分、プロダクトプレイスメントテストな中国ではコンテンツ力が足りないし日本は言うまでもなく資本(は一要素ですが)がないし。

図らずもアメリカという国の国力を見せつけられたなぁと。いや、わかっていたことではあるんですがね。

 

MCUは厄介なことに単独シリーズではなく「アベンジャーズ」ラインだったりほかの単独シリーズのラインでの時系列から続いていたりするので結構前回までがどうだったかということがわからなくなってくるわけですが、本作に関しては実にわかりやすい事の経緯が冒頭でソー自身の口からなされます。で、この冒頭がこの作品のすべてを物語っていたりする。

それが何かというと「『マイティ・ソー バトルロイヤル』は説明のための映像作品である」ということであり、要するに「映画」であることを捨ててMCUに貢献するためだけの映像と化すことである。しかし、そのくせ実はMCU全体から見ても「バトルロイヤル」はそこまで必要ないんじゃないかと思えるほどMCU全体からは乖離した次元で話を展開させていたりして、もうよくわからないスタンスなのである。

強いてMCUラインで必要になってきそうな部分といえばドクターストレンジとソーを接触させる点(これもまあ、色々と唐突なわけでそれこそが本作を「映画」ではなく映像集にさせている根幹だったりしそうなのだけど)、ハルクの回収とかかなぁ。といってもハルクの追放がそもそも「バトルロイヤル」のためにあったようなものなのでやっぱり全体としては「MCU作品を作る=金を儲ける」というメタ次元から見なければならなかったりするわけで。

 

本編見ればわかるんですけど、本作には物語と呼べるような物語はなく、ただゴールに向かってイベントとしての場面が連続しているだけなんですよね。ドクターストレンジといいヘラといい、なんの前触れもなく現れるし。ヘラにいたってはオーディーン(ホプキンスじっちゃま)が彼女の存在を告げて死んだ直後に登場しますからね。テンポがいいといえば聞こえはいいですが、それもはやG1TFのレベルだから!ヴヴヴのマリエ要素の回収くらいのテンポだから! 要するに完全にギャグのそれ。

でもそれをやってのけるのが魔術師だったり死の神だったりと規格外の設定を持つ連中なのでそこまで映像的に違和感はないという。説得力を形而上の概念を拠り所にしているというのはちょっと卑怯な気がしなくもないし、逆に安っぽいというかバカっぽくもあるのですが、作品の色がそもそも割とバカっぽいのでそこも気にならないという。

で、全体がまあそんな感じでキャラクターが舞台の背景を一々説明してくれるのでこれまでのシリーズを見ていなくても楽しめるといえば楽しめたりする。というか既存シリーズとの関連ほぼないし。

で、前述のとおり展開のための展開が連続するだけで、血肉の通った骨子のある物語があるわけではないので(伏線ぽいものがなくもないのだけれど)全体としては「割とどうでもいい」というスタンスで観ていた。

しかし、げに恐ろしきは人海戦術+マネーパワーである。一つの映画として映画になりきれていないにもかかわらず画面は色彩豊かだしキャラクターの衣装は変わるしキャストはいっぱい出てくるしCGバリバリ使うし(オーディーンとの会話部分もCGで済ませる強引さ。いや、そっちのほうがロケより安上がりなんだろうけど)で、見ていて楽しいことは楽しいんですな。アイキャンディだけで成り立っているような(だから「映画」ではなく「映像集」とわたしはやや揶揄的に使っているわけですが)作品ですので、後半はまあ割とダレてきたりはするんですけど。

まあともかく「ソーシリーズっていまいちパッとしないからともかく楽しい映像ぶちこんどくか!」と思ったかは知りませんが、完全にはっちゃけた感があってわたしはこれはこれでイイんじゃないかという気はします。いや、映画としてはどうなのよと言いたい気もするんですけど、別に損をしたわけでもないし楽しめたし・・・いやしかし割り切れない自分がいるのも確かではあるので複雑なのですが。

あ、どうでもいいことですけどクインジェットのモニターに映し出されたハルクの顔とバナー(マークラファロ)の顔が重なる演出は結構芸コマでよかったですよ。

 

あとラスト付近の絵ヅラがまんま「モアナ」だった。「ソー バトルロイヤル」の監督であるタイカ・ワイティティが脚本を書いてたから、何かしらああいうのが好きだったりするのだろうか。いや、まったく関係ないと思うけど。

 

あとマット・デイモンがチョイ役で出てて盛大に笑ってしまったのですが、「ジェイソン・ボーン」ではあんなにムキムキだったのに重力の効果とはいえ顎のラインが消えかけていて笑ってしまいました。ジョージ・クルーニーの映画のための逆カラダづくりかもしれんですが。

 

あとBSで「グーニーズ」やってた。

中学のころ理科だったか英語だったかの時間に先生がちょろっと見せてくれたのは覚えてたんだけど、全編を通して見たことはなかったのでよかったどす。

スーパーマンでお馴染み(おなじみか?)リチャード・ドナー監督の代表作。なんですが、思った以上にスピルバーグっぽい要素があって笑えた。

クリス・コロンバスが脚本にいるので、子ども要素ってそこかなぁ。相変わらずスロースとかいう身体的フリークスを登場させるあたりクリコロの根っこが変わらないことが面白い。父親の不在(正確にはちゃんと存在するんですが)とか顔面アップとか、そもそもインディージョーンズでしょとか。

全体的にゆるい作風ではありますが、それゆえに万人ウケしやすいのかなーと思ったり。スーパーマンもそうだけど、ドナーって結構ゆるふわ系な気がする。これをスピルバーグが撮ってたらもっとグロ成分とか強めになってそうだし(笑)。どこまで関わってるのか知りませんけど。

どうでもいいけどリチャード・ドナーって90近いんですね・・・。最近だとXMENのFPのプロデュースしてたみたいですけど、もう映画は撮らないのかな。

 

 

 

直球度ストレートの変化球

ある愛の詩

 やーすごい。なにがすごいって、ベタベタなメロドラマすぎてすごい。公開されたのが70年らしいんですが、大林宣彦曰く当時からしてすでに「時代錯誤の純愛もの」と言っていたくらいですから、今見てもそれはそれはベタベタです。

 何せ偉大な親の七光りに悶々とするハーバード大学生のイケメンが、それなり貧民の女の子との口喧嘩から恋に発展するという。まったくもってどうしようもない。

 その、どうしようもないのだが面白い。父親から勘当されてからジェニファーの死期が近いことが発覚するまでの流れとか、絶妙にプロットが上手い。うんにゃ、とはいいつつ父親とオリバーのディナーのところはもうちょっとうまくできそうな気もしなくもないですが、最初から父親への反感はありましたから、そこはまあいいか。

 恋空と似たような形式ではあるのですが、何がどうしてここまで違ってしまうのか。監督の力量というか原作の力がそもそも段違いなんで、比較するのが間違いなのかもしれない。横書きってことは共通してるか。

 しかし、わたくしめがこの映画で一番楽しめたのは何を隠そうアリ・マッグローの衣装ですよ!ラ・ラ・ランドほどあからさまで原色を押し出す大胆さとは違って(いやあれも好きなんですが)、庶民的なのがいい。それがチェックで統一されているんですがカラバリがあるのとか、すごい庶民はファッションというか俗な感じがたまらん。

あとメガネをつけているほうが可愛いという正真正銘のメガネ女子だということをこの作品で気づいた気がする。アリ・マッグローとかこれまで全然知りませんでしたし澤穂希っぽいし全然好みの顔ではないんですけど、メガネ+図書館の受付がここまでハマる女優もそんなにいないんじゃなかろうか。

イエスマンのズーイーほどではないにしろ、かなりファッション映画としての質は高いような気がする。

ギャレゴジとかクリコロとか愛の渦とか

「愛の渦」

ハゲはなんだかんだで言葉を選んでいる。グラサンハゲは解説において門脇麦の体当たりな演技を賞賛したが、決して「演技が上手い」とは言わなかった。

こどもつかい」で門脇麦の演技があまりにへっぽこだったことを知っていたわたしは、それよりもタイムラインとしては先にあたる「愛の渦」でそこまで達者な演技をしていたのならば、「こどもつかい」におけるあのへっぽこ演技も巧緻さによるものだったのだろうか、と期待したわけであるが。いや、普通にへっぽこでした、門脇麦。だから「こどもつかい」に抜擢されたのだろうけど。

あとハードル上げすぎ、ハゲ。どこがAV並なのか。

とはいえ描いているものは至極単純で、セックスはセックスでありセックス以上のなにものでもないということ。それゆえに「いや、そんなこと百も承知ですが」という自分が常にどこかにいたので、はっきり言ってそこまで楽しめなかった。いや、笑えるところは本当に笑えるので、演出は優れていると思いますが。

意図的なものとはいえ、かなり間延びするのは否めない。1回戦終了後の2回戦に至るあのくだりは、正直どうかと思う。1回ヤったらそのあとはもっとスムーズに進むだろう、なんていうツッコミはそもそも的外れなものであることはわかっているのだけれど、いかんせんストレスが溜まる(それを意図しているのでまんまとハマっているわけですが)。

池松くんは相変わらずセックスしてます。

門脇麦が最終的に閉じてしまう(最後に大学でメガネをかけていた)ラストは、どうなんだろうか。悪いというわけではなく、門脇麦的にはどう感じたのだろうかということ。

 

まー誰もが思うことでしょうか、この作品でもっとも存在感を放ち魅了するのは窪塚洋介である。ともかくこの作品の窪塚はエロい。エロくてかっこいい。オダギリジョーからスノッブさを希釈した感じで、すごい良い。

窪塚洋介はなぜあんなにエロいのか。

おそらく、彼がエロかっこいいのは劇中におけるセックスの外部にいてもっとも傍観者的な立場にいながら、もっともセックスの根源的意味を理解している(だから最後の子どもが占めなのだ)、いわば知的なエロみが多分にあるんじゃなかろうか。

というか、窪塚洋介がエロかっこいいからこの役に選ばれたんだろなぁ。

 

 ギャレゴジ(今となってはレジェゴジか)

ギャレゴジとかギャレス(よく考えたらこの名前からして怪獣っぽい)自体ローグ・ワン騒動のときにも騒がれてたし今更すぎるんだけど、ギャレゴジは劇場で見て以来見返していなかったし、普通に面白いなーと思ってたからそこまで考えて見ていなかったんだけどBSでやってたからざっと見直したのであった。

そしたら、なんというかギャレゴジが怪獣映画というよりはモンスターとしてゴジラたちを描いていたような気がしたので。

まず一つ言えることは、ギャレスはゴジラよりもムートーの方に感情移入していることは間違いない。どちらが好きか、というのではなく。というのも、前作「モンスターズ 地球外生命体」でも同じようにモンスターの生殖とか愛とか、そういうものを描いていたこととすごく連続しているし、卵を爆散させられたときの雌のムートーの表情とかあまりに悲しいものだったのもあきらかに意識しているだろう。

あとこれは完全に邪推なのですが、ギャレスはモンスターに自己性癖のエロスを導き出そうとしているような気がする。モンスターズのモンスターは触手の束のようなデザインだったし、「ゴジラ」においてはすでに大幅な変更のしようがないゴジラをできるかぎり無難なものに落とし込む代わりに、ゴジラシリーズとはあきらかに別ラインの造作として摩擦の少なそうな肌にスラリと角度のついた手足を持った怪獣にムートーを仕立てている。わたしがムートーにエロスを感じたのと同じように。

つまり、ギャレゴジにおけるゴジラ・ムートーは日本的スピリット(荒神)を持った怪獣ではなく、自己の投影としてのモンスターなのではないかということ。それを示すように、「ゴジラ」においてはその登場人物が過剰なくらいに視線でやり取りをするようにムートーは視線でやり取りをするし、あるいはゴジラの目線に立っているカットもある。シン・ゴジラと見比べると、どれだけゴジラが外見的なアイコンが巨大であるかということが伺い知れる。要するに、見た目がゴジラであればその中身はほとんどなんでもOKなのである。もちろん、それはどのゴジラシリーズを見てきたのか・どれだけゴジラを知っているかによって受け取る幅が変わってきますが、昭和シリーズ・平成VSシリーズなど全作品とは言わずともある程度をVHSで観てきた自分にとってはどれもまさしくゴジラなのであった。

実のところ、ゴジラがどこまでゴジラを保つことができるのかは未知数なところであり、シン・ゴジラゴジラが劇中のその先に進み完全にゴジラ的外見をすっとばしたときにゴジラゴジラを保つことができるのか。ゴジラというアイコンが持つ器の真価が問われるんじゃなかろうか。つまり、クリエイターにとってゴジラを作るということは自らの作家性とゴジラとの衝突であり、それを壊すことができたときに初めてゴジラはその先に進めるのではないだろうか。

庵野秀明ゴジラに愛着がないがゆえにゴジラを破壊しようとし、しかし設定にとどまったもののその裏側をジ・アートであきらかにしたことは、ゴジラというアイコンに勝利することはできずとも敗北もしていないという意地なのではないだろうか。

ゴジラの絶対性を維持しつつゴジラを倒す。それがゴジラをさらに先に推し進めることでありクリエイターの力量の測りになるのだろう。それにおいてVSシリーズは完全に商業的なものであり、その終局としてゴジラの自壊という責任転嫁に終わったものの再びゴジラが息を吹き返したことはほかならぬゴジラの勝利にほかならない。

果たして、アニメ版のゴジラゴジラを倒すことができるのだろうか。

 

で、次は「アンドリューNDR114

 アイザックアシモフの(The Bicentennial Man)を原作とした映画で「ピクセル」のクリス・コロンバスが監督を務めた映画。後に同題の短編集(日本語版タイトル『聖者の行進』)に収録された。初訳時の題名は「二百周年を迎えた男」だったとか。

ロビン・ウィリアムズが意外とスタイル悪くないんだなーと思ったり。

クリス・コロンバスフィルモグラフィーを見るとわかりやすすぎるほどわかりやすい。製作まで含めたら多分、ほとんどの人が一度は彼の作品を目にしたことがあるのではなかろうか。監督作品にしたって「ホームアローン」シリーズ「ミセスダウト」はまあ微妙なラインだけど「ハリーポッター」シリーズの成功もなにより彼が監督した賢者の石と秘密の部屋があってこそであろうし。脚本だけとはいえ「グレムリン」「グーニーズ」とくれば、クリス・コロンバスがもはや幼児の心を持つジジイ監督の一人であることは言うまでもない。

彼の監督作品でいえばホームアローンハリーポッターミセス・ダウトピクセルと半分ほどは見ているが、こうして見ると彼がどれだけ映像としての人間の身体性を面白おかしく描こうとしているのかがはっきりする。しかも子ども(へ)のまなざしというものを媒として描くという意地悪さ。

ホームアローンで戯画化された人体へのダメージ(普通に致死レベルだと思いますが)を笑いとして描き、ハリーポッターでは魔法というファクターを通して人体をいじくりまわしたクリスは、ミセス・ダウトでそれを大人の目線から良心的に描き(特殊メイクによる変装という身体性への言及)、この「アンドリュー~」でついに無機物にまで身体性を付与することにまで至った。

クリスの作品が大衆に受けるのは、臆面もなく映像で見せてくれるからだと思う。「アンドリュー」では劇中で200年の年月が、小刻みに描かれる。それによって必然的に生じる人の老いを特殊メイクによって臆面もなく描く。サム・ニール老いていく過程はどこか面白く(それは多分、特殊メイクによって未来のあるべき姿を堂々と見せ付けられることによる可笑しみ)、そのくせに老衰という人間の避けがたい終幕にどこか切なくなるのである。

これまでの作品では外部要因による身体性を描いていたクリスは、ここに来て内在する身体性をやはり面白く、それでいて侘びしく描き出す。

そして、それが死ぬことのないアンドリューというロボットにまで及んだとき、彼がロボットの生よりも人間としての死を選んだとき、そこには言いようのない感動が生じるのである。

ピクセルであれだけ後退したのは一体なぜなのか・・・。 

 

黒人の知性的な復讐

しかしそれでいいのかアメリカよ。

なんというか、黒人て書くと「アフリカ系アメリカ人だろ!」というツッコミを入れてくる日本人が出てくるようになって、ようやくこの映画は日本で語り得るのではないのだろうか、という気後れした気持ちがこの映画に対してあるような、ないような。

黒人白人の間の問題というものは知った上で国内の差別問題に向き合うというのが、正しいスタンスなのかもしれない。

 

人種的偏見と差別をホラーとかけあわせた意欲作である「ゲット・アウト」ですが、これはなんというか、ある種のコンテクストを知っていることが映画の見方としての前提に含まれているため、日本人的にはどうなのだろうか。映画館には割と年配の人が多く、それが理由なのかわからないが、明確に笑っている人は一人だけだった。自分も所々で笑ってはいたが 、確かに大笑いするようなタイプの笑いではないしなぁ。ところで平日の朝一にもかかわらず小学生が大量にいたのですが、近所の学校が記念日とかそんなんだろうか。余談に余談を重ねるが、男子小学生のグループが「えーミックスは絶対にヤダ!」と言い争いをしているのを聞いて笑っていると「斉木楠雄見ようぜー!」という代案が出てきて思わず吹き出した。「少年よ、目糞鼻糞だと思うぞ」なんて見てもない映画を見ようとしている少年を心の中で諭していました。

 

で、本編はどうだったか。

うん、自分が予想していたのとは違う方向に行ったのでそれはいい意味で裏切られた感じもあるんですが、同時に「それでいいのか」と思う部分もあったり。

 作劇はかなり優れていて、冒頭のシーンの布石がそこに繋がってくるのかという部分だったり伏線の回収とか視線演出(なんとなく黒沢清を彷彿)とか、絵画オークションのシーンにおける売買物の意味とか、あるいは握手の仕方の一つ一つを取っても、そこに不和・違和を生じさせる「なんかおかしい」という感覚を生み出すのは抜群にうまい。家に入ってくのをあんなに遠目のショットで撮ることがあれだけ寒々しく余所余所しいとは思わなんだ。しかも徐々に引いていくと使用人ウォルター(マーカス・ヘンダーソン演)の背中が・・・とか。

ただ、少し厄介なのがそのさりげない演出を理解するのにコンテクストの理解が必要だということ。もっとも、役者の表情とか台詞の機微に集中していれば「何かがおかしい」という感覚を共有することは全然可能ではあります。でもこのご時世でこの映画を見に来るような人が、「白人の黒人に対する差別」問題を知らないはずはないので余計なお世話かしら。ただ、やっぱり向こうのスラングとか理解していないと伝わりづらいところはあって、使用人(という表記が正しくないことを最後まで見ればわかるわけですが)のジョージナ(ベッティ・ガブリエル演)とクリス(本作の主演ダニエル・カルーヤ)の会話で「チクる」というスラングが通じないという部分などは、コンテクスト以前に言語の異なる日本においてはそのへんは難しいのやも。

  

 それはさておき、中盤まで描かれたその違和感が、ある時点から表面化します。実はわたすは表面化してもまだどこかで夢オチ的なものに帰着するんじゃないか、ということを半ば願望的に思っておりました。この点に関しては後述しますが。

ジョージナが鏡に写った自分の顔を恍惚の表情で眺めていたわけも、映画を見終わったあとで考えるとかなり意味深・・・というかどストレートである。

完全ネタバレで行くと、ホラー要素はアーミテージ家(白人)による黒人の「ボディスナッチャー」です。そこ自体は確かに予想外ではあったんですが(アイデア自体はともかく)、まあ白人が黒人の肉体を乗っ取ろうとしているという「ボディスナッチャー」とは異なる新たな意味を付与しているという点では着眼点はすごい。

というわけで、秀作であるということは確かに頷ける。

 

えーあと本編観たあとにパンフレットを読むと笑えます。というのも起稿者もキャストインタビューもプロジェクトノートも徹底的にネタバレを回避しており、そのためにローズ(彼女に限りませんが、彼女がもっともその影響を受けているので)というキャラクターが完全に別人な扱いを受けているからです。特にプロダクションノートの「彼女は黒人の彼氏のことを両親がどう思うか不安に感じているが、アーミテージ家に加担しているようには一切思えない。彼女は常にクリスの味方で、彼のことを本当に愛しているように見える」

ってもう完全に欺瞞じゃん!最後の「見える」って部分がなかったら欺瞞どころか虚偽でっしゃろ!

いやまあ、ある瞬間までは確かにローズはそういう人物としてえが変えているので、ただ単に情報を伝えきっていないというだけではあるのですが、それ自体が欺瞞というか不誠実というか・・・ある意味、その構造は本作にも通底しているとも言えますが。

 

この映画は肌の色の違いによって引き起こされる(引き起こされた)問題を、被害を受けた当事者の視点から描いているのは明白です。が、それをこの時代に描くのは実は危険なことなんじゃないだろうか。なんというか、それはトランプと同じとまではいかずとも、近しい視点に立っているのではないか。

劇中で登場する目の見えない白人の男は、てっきりフリークス側としてクリスに同調するキャラクターかと思い、もしそうであれば監督はかなり冷静で希望的(というか、少なくとも人種問題に耽溺するだけでなくその先の可能性を見据えている)な視線を持っているのではないかと思ったりした。

ところが、盲目の白人もクリスの敵対者として描かれる。ことに、これはやはり黒人と白人の軋轢という問題を含んでいるわけだ。最後に助けに来るのが黒人というのもやはり、バランスより黒人としての主張を選んだのではないかと思う。

黒人側から見た白人の黒人に対する意識的に無意識な差別ーー肌の色の違いにかこつけた恐怖心からくる排斥と強烈な羨望ーーを描くことに執着しすぎてしまっているのではないかなー。考え過ぎなのだろうか。

しかし、トランプが大統領である今この時代にこの映画をやることは、つまるところ白人の過去と現在を皮肉的かつ攻撃的に見せつけているわけで、それは差別に対して「黒人同士の結束」という逆説的な排他の原理を内包していはしないだろうか。

だって、白人の攻撃から救ってくれるのは黒人の親友であり、白人の洗脳から脱した黒人の魂であるラストを見せられて、白人と黒人が手を取り合う未来を想像できようか。

 

もちろん、それを描くことがこの映画の目的ではないので、ないものねだりも甚だしいということは重々承知している。

しかしそれは、「毒を以て毒を制し」ているのであり、人種問題という現実に目を向けさせるというよりも強烈に叩きつけているような印象を受ける。白人はこれを見て居心地悪くなったりしないのだろうか、とお国の違うわたしが心配してしまうほど。

実際、監督はホラーやコメディというジャンルの持つ作劇的な攻撃性に言及している。

なんだかこう、被差別側が差別ネタをやるときってどうも視野狭窄に陥っているように思える。もちろん、そう思うのは完全に外部の傍観者として冷淡な観客であるから言えることであって、当事者にその視線を持てというのはどだい無理な話であることはわかっている。そもそも、視界を狭めているのがその白人による差別であるわけで、そうなるとそれは一種のドメスティック・バイオレンスの形でもあるんじゃないかと。だから無理からぬ話なのだと。

よく虐待を受けて育った子供は、その子供にも暴力をふるってしまうということがあるわけですが、この映画の構造はまさにそのへんに通じているものがある気がします。

まあ日本にだって在日外国人への差別や部落差別の問題があるわけで、まずは根っこが通底しているそれらに対して向き合わなければいけないわけですが。幸か不幸か自分はそういった問題に直面したことがないから、こんな物言いになるのだろう。

 

 既述の部分で「夢オチ」じゃないかと希望していたのは、そうすることで、クリスという個人の中に落とし込めばよりバランスを取れたかもしれないと思ったからです。

ただ、見終わったあとで冷静に考えると、夢オチでは至って冷静なクリスがパラノイアであるような印象を持たせてしまうし、そもそも夢にしてしまっては現実にある問題としての事実性が限りなく削ぎ落とされてしまうわけで・・・全然ダメなことに思い至ったり。

 そこでもう少し考えを詰めてみて、もっとより良い、表面的は黒人同士の絆という徹底的に内輪なものでありながら白人という外部への道が開けた終わり方にする方法が見えたような気がした。

それはジョーダン・ピール監督自らが親友のロッド役をやるということ。なぜならそれによって作品への責任を負うことにもなるし、黒人の父と白人の母を持つピールであるからこそ両者の架橋になりえる存在として、「ピールがクリスを助ける」というだけでそこに重要な意味を負わせることができたはずだから。

 

 

 

と、いうわけで

NHK昨日の今日で「ソニータ」を観てきた。九割九分九分九厘無職状態の今でなければこの軽快なフットワークは取れませんでしょうな。

アップリンク渋谷だったのですが、まあなんというか実にミニシアター然として雨の日に似合っていてよろしいかと(適当)

 

で、本編を観てみたのですがNHKBSの「ソニータアフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」(以下BSソニータ)と本質的に異なっているということはありませんでした。とはいえ、昨日の「BSソニータ」は実のところながら見をしていたことも否めないので何か見逃している描写がないかと割と集中して観ていましたが、部分的に勘違いしていた箇所はあれど(まあその勘違いしている部分が結構、今回言いたいことのターニングポイントではあるのでアレなんですが)使っている映像もほとんど同じだった。

ただ、50分の「BSソニータ」にはあって本日観賞した90分の本編「ソニータ」(以下、本編ソニータ)からはカットされた描写もあったので、そのへんの含めて言及していきたいと思う。追加(というか本編的にはカットか)された40分の時間と構成が作品にどう影響するのか、それを確かめたかったわけですから、いつもよりニュートラルな心構えであったことも否めないとはいえ、この作品の歪さが自分にはどうも拍手喝采されるようなものとは思えなかった。

 

 

 

結論を先に書くと、この映画に対する基本的な自分の姿勢は変わらないけれど、その理由は昨日よりもより深く掘削できたと思える。

本編ソニータも「現実を踏み台にした事実」でしかなかった。そして、ドキュメンタリーでも劇映画でもなく、どちらにもなりそこねた・・・語弊を恐れずに書けば「失敗作」だったのではないかという結果に帰着した。叙情と叙事のどちらもレンズに収めておきながら、そのどちらにもなりきれなかった映画として。

 BSソニータの方にはあって本編ソニータの方になかったシーンとして、レコーディングのスタジオを訪れスタジオ側が「職なしになるからできない」と拒否したあとに、ソニータが「自分の職のことばかりでイライラしちゃった(意訳)」と発言した部分があった。

それと、思い違いでなければBSの方にはコンビ(?)組んでいた青年と喧嘩して解散したことが言及されていたはずなのですが、本編にはなかったような気がします。

それ以外は、本編で使っている素材だったかと。というか本編にはなかった素材を使っていることがちょっと不思議。

 

 とりあえず、昨日の時点で勘違いしていた部分を先に訂正しておこう。ここは、かなり重要なところだから。

昨日の記事ではたしか、母親がソニータをダシに2000ドル要求していたことに関して、施設の女性が監督に向かって「干渉するべきではない」という発言をしたと書いていたと思うのだけれど、これを発言したのは同じ制作スタッフ(たぶん撮影の人)であって、施設の人はむしろ監督に向かって「あなた方が払ってはどうですか」といった一種の皮肉めいた挑発とも受け取れる発言をしていた。で、この発言の前に音声・録音のスタッフがソニータの母親の行動を揶揄するような発言をしていた。

 

なぜこの部分が重要なのかといえば、このシーンの前後でこの映画はまるっきり姿を変えてしまうからだ。

基本的な主張は昨日の記事のとおりなのだけれど、このシーンを転換点として捉えたときになぜこの映画が歪に映ったのかがわかった気がしたのです。

 

このシーンの前に、ソニータは監督にお金を貸してくれと頼む場面があった。けれど、監督は「ソニータの真実を捻じ曲げるわけにはいかない、これはドキュメンタリーだから(意訳)」というような発言をする。要するに、ソニータを援助するわけにはいかないと本人に言うのだ。そりゃそうでしょう。ドキュメンタリーはあくまで客観的に被写体を捉える表現形式であって、表現者が手を差し伸べる=手を加えるという作劇はドキュメンタリーではなく劇映画・ドラマのあり方じゃないんですか。違うのかな?

森達也はドキュメンタリーも本質的には劇映画。ドラマなどと本質的には変わりはないという。それはそうだろう、映画であるならば。それでもドキュメンタリーと劇映画が分たれている以上は何かしらのボーダーがあるはずで、この作品において制作側が取った行動はドキュメンタリーを文字通りドラマにしてしまったように思える。

 

つまり、本作はドキュメンタリー作品ではなくソニータという才能ある一人の少女の成り上がり成功譚・英雄譚という事実を描いた叙情のドラマあるいは擬似ドキュメンタリーなのだということ。まかり間違っても、アフガニスタンの社会問題という現実を切り取った叙事のドキュメンタリーではない。それこそが「ソニータ」の歪な構造をあきらかにする。

ロクサレ監督は、先に述べたターニングポイントに至るまでは叙事としてアフガニスタンの社会問題を怜悧に撮るつもりだったのではないか。なぜなら、ターニングポイント(面倒なので以下TP)まではソニータだけではなく彼女と同じ境遇にあるほかの少女を、それこそソニータがいない場面でもちゃんとおさめているからだ。兄に殴られ左目を腫らした少女が映るとき、そこにソニータはおらずその少女だけがレンズを支配する。アフガニスタンの現実を表象する抽象存在として、彼女はソニータと等価であったはずだ。もちろん、彼女だけではなくて30代の男性と結婚させられてしまうかもしれないと笑いながら冗談のように話す少女も、18歳の年上と結婚させられるからまだマシねとやはり談笑する少女もそうだ。

けれど、TP後にソニータ以外の少女たちは「現実」の表象として映されることはなくなる。そして、制作側はTPの直後にどこかに行ってしまったソニータを探している最中にこんなことを言う。

「彼女が見つからなかったら撮影は中止ね」

これの意味するところは明白で、主役であるソニータがいなければ映画が完成しないということだ。もちろん「ソニータ」というタイトルが示すように(といっても最初からこのタイトルだったのかどうかによって、見方が変わってくるのだけれど)本作はソニータという少女を追う映画なのだから至極当然ではある。だってこれはソニータに寄り添った映画なのだから。

思うに、それこそが問題だったのではないだろうか。

昨日の記事にあるように、その問題というのはソニータに注目し感情移入させる構造が逆説的にアフガニスタンの問題を背景に押しやってしまっているということだ。もっとも、これは仕方ないことだと思う。言うなれば、最初から勝ち目のない勝負に挑んでいるようなものだから。

アフガニスタンの「現実」の真っ只中にいるソニータはのラップは、必然として悪習を押しのけ社会正義を歌うものだった(安全で快適な日本にいるわたしがこんなことを書くのは姑息で卑怯だが、彼女のラップが社会正義を歌うものでなければここまで注目されることもなかっただろう)。

そして、ソニータが置かれた状況=「現実」と社会正義を歌う以上、彼女に寄り添うこの「ソニータ」という映画がそれを描かないということはありえない。ソニータを撮ろうとするのならば、必然的に彼女の置かれた境遇を映し出すしかないし、そもそも作り手はその現実をこそ映し出そうとしていたはずだから。それは誠実・不誠実の問題ではない厳然たる事実として。しかし、この映画はソニータに寄り添い彼女に誠実であったがために、社会問題という「現実」を背景に押しやってしまった。だからといって「現実」を完全に度外視することは、ソニータの英雄譚でありながらソニータに対して誠実ではなくなってしまう以上はありえないし、今も述べたように構造としてそれはありえないことだ。つまり、コンセプトの時点ですでにこの作品はちぐはぐになることを避けられなかったのではないだろうか。

 あるいは、真に怜悧に「現実」を真正面から捉えることが当初のコンセプトであったとしたら、仮にソニータが消えてしまったとしても叙事としてのドキュメンタリーを撮ることはできる。なぜなら、ソニータ以外にも「現実」に直面している少女はいるからだ。もしこの推量が正しければ、作り手の意識をソニータの力がねじ曲げたということになるのだけれど。

この仮定に基づけば、監督は現実をありのまま切り取るという当初の怜悧さを持ちつづけることができず、ソニータと彼女の直面する問題という「現実」に屈してしまったのことになる。そして騎手の手綱の乱れによってコントロールを失った「ソニータ」は映画として完走することができずにコースアウトしてしまった。一つの映画作品としては悲劇なことに。

逆に(というかこちらが真実だろうけれど)、最初からソニータ個人をスポットに、彼女の視点からアフガニスタンの女性問題を切り取ろうとしていた場合はどうだろうか。

そうだとしても、この映画が映し出す「ソニータの夢の成就(の途中段階)」という「事実」に「アフガニスタンで不当に扱われる少女たち」という「現実」が霞められているという事実は否定できないはずだ。

さもありなん。たしかにソニータは「現実」を批判する歌を歌うけれど、彼女の夢は歌手になることであって社会問題そのものを根本からどうにかしようとしているわけではない。結果的に社会問題を浮き彫りにし・同じ境遇の少女たちの代弁になるのであって、その歌の真意としては「この窒息死しそうな狭苦しい世界から抜け出したい」という極めて個人的なものでしかない。

もちろん、彼女が「現実」を問われれば「どうにかして変えたい」「わたしの歌をきっかけに変わってほしい」と言うだろう。けれど彼女は「現実」から脱したくて歌うのであって、あるいは歌いたいから「現実」から脱したいのであって、その視座はソーシャルよりもパーソナルな部分が大きい。

だから、彼女をスポットに彼女の視点から「現実」を捉えようということ自体が、そもそも食い合わせの悪いものだったんだじゃないだろうか。

BSソニータにはなかった本編ソニータの40分の大半はソニータの歌手への道のりを描くことだけに費やされ、才能という一点を除いてまったく彼女と同じ境遇にあったほかの少女たちがスクリーンに登場することはない。

彼女が泊まるホテルのテレビで爆弾テロのニュースが流れ、あたかも悲惨な現実として捉えているようでいても、それが彼女と結びつかない以上はただの事実として流れるだけである。

 ソニータのMVがYouTubeに掲載され、コンテストで最優秀賞を取って破竹の勢いでアメリカ留学への道が切り開かれていく。彼女の名誉を少女たちは友として祝福する、明日をも知れぬ我が身を彼女に抱き着かせて。ソニータの成功を祝福する舞台装置として位相を異にする、貶められた背景として収斂させられているとも知らずに。

そしてやはり、BSソニータと同じように本編ソニータでもソニータが舞台の上で歌を歌いながらエンドロールへとつながっていく。観客がその様子を感動的に見守り、スマホで撮影しているカットが挿入されていることくらいでしょうか、違いといえば。

 

けれど、わたしが映画を観ている間に頭を占めていたのは・胸を揺さぶり続けたのはソニータへの思いではなく、兄に殴られた名前も明かされない少女のことでした。

 

ソニータの歌が、彼女の存在がアフガニスタンの悪習を裁ち切る嚆矢になるのだろうか。けれどわたしは、現実に敗北した監督のこの作品からソニータという事実が勝利を勝ち取る姿は想像できない。現実をないがしろにした映画を観せられて、どうして現実を乗り越えられると思えるだろう?

仮に彼女がその矢になったとしても、結局のところは「トゥモローランド」でしかないではありませんか。作り手の意思があろうと物語の要請を必要としないのがドキュメンタリーであり、それゆえに弱者を弱者のまま切り取っても世界に働きかけることができるのが劇映画やドラマとは違うドキュメンタリーが持つ力だと勝手に思っているのですが、これはドキュメンタリーのガワを使って一人の少女のドラマを仕立て上げてしまいました。資金的援助をしてまで。

念の為に書きますが何一つソニータに非はありませんし、同情や賛辞を向けるべき才能ある若者であることに疑いの余地はないでしょう。そして彼女の物語として、本作が多くの人に受け入れられ様々な賞を取ったことも理解できます。

だからこそわたしは、ソニータと同じでありながら才能なき弱者であった少女たちを貶め物語の踏み台にしたこの作品を好きになることはできません。

 

本作が日本で公開される意義は大きい。それは確かでしょう。けれど、一つの作品としてわたしが本作を評価することはできないと思う。少なくとも、有象無象の弱者でありなんの才能を持たないわたしには。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

果たして彼女は感動ポルノとして消費されて終わるのか、それとも

選択というのは些細なときにその重要性が浮き彫りになったりする。

自分の場合は「愛と哀しみの果てに」と「ソニータ」との選択でありました。実は「愛と哀しみの果てに」を観ていたのですが、一時間ほど観てもまったくもって何の感慨もなく、このまま観ていてもいいものかと悩みながら番組表を見ているとBSで面白そうなドキュメンタリーが放送されることを知ってそちらを切り上げて「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」を見ることにしたのですが、もしもダラダラと「愛と哀しみの果てに」を観ていたらどうなっていたのだろうか。「愛と哀しみの果てに」はアカデミー賞を取っているみたいなんですけどね。不思議なこともあったもんだ。

 

さて、それではアカデミー賞作品を蹴ってまで選んだ「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」はどうだったかというと、まあ「愛と~」なんかよりよっぽど有意義な時間だったことは断言できますな。

えー感想の前にいくつか備忘として記述しておくと、わたくしが観ました「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」なんですが、NHKBSでやっていた50分のドキュメンタリーなのですが、どうも21日からクラウドファンディングによる出資で「ソニータ」という題名で劇場公開しているらしい。で、公式サイトと見てみたら本編は91分だった。説明を見る限り内容は一緒みたいなんですが、BSのほうは本編をカットしているのか、それとも何か本編からカットした部分などをよせあつめていたりするのかとか色々気になりだした。でもかかってる映画館1箇所だけだしほかにもみたいのがあるからなぁ・・・。

というわけで、とりあえずBSのほうでやっていた「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」について書いておこうと思う。

 

とりあえず公式サイトから引用しておくと↓のような作品になっちょります。

 

イランで暮らすアフガニスタン難民の少女が、慣習に従って親が決めた結婚を拒否し、ラップ音楽で成功するという夢を追う。サンダンス映画祭審査委員賞などを受賞した作品。

反政府武装勢力タリバンの影響力が強まるアフガニスタンから隣国・イランに逃れ、NGOの支援で暮らす18歳のソニータ。母親は古くからの慣習どおり見ず知らずの男性に娘を嫁がせようとするが、彼女にその意志はない。「なぜ自分の人生を選べないの?」。友だちが次々と結納金と引き換えの結婚を強いられるなか、ソニータアフガニスタンの少女たちが抱える怒りや悲しみをラップ音楽にぶつけ、次第に才能を開花させる。

 

えーそこまでドキュメンタリー映画を見ているわけではないので、これから言及することが果たして異様なことなのかどうかということなんですが、番組(あえて映画とは言いませんが)の途中でですねー撮影スタッフが映し出されるんですよ。一人は音声で、母親がソニータをだしに施設から金をせびろうとしていることをわかているのか、と施設の女性に問い詰めたりディレクター(だったかな、忘れた)とその施設の女性が話し合っている部分が映し出されたり、あるいはソニータが番組スタッフのカメラを使いたがり、そのカメラでディレクターを映しだしたりするのです。

これがまず、自分にとってはひどく不思議な感じがした。というのも、わたしが「ドキュメンタリー」というものに対して抱くものは「一つの記録映像でありレンズに収まる事実をありのままに使うことで制作者の意図や主観を含まぬ事実を描写しつつ、しかしそのフィクションや劇映画に比べて現実としての純度を非常に高く保ったまま監督の意図を重ね合わせるフィクションである」であって、そこに製作者を登場させてしまってはフィクションとして成立しないのではないかと考えていたからだ。

ある意味で「デッドプール」のように第四の壁を破っている、ある種の禁じてとも思える手法を普通に使っていることに驚いてしまった。

さらに驚くことには、スタッフが2000ドルの支援をしたということがでかでかとタイプグラフされることだろう。

映像の中で施設の女性も言っていたが「(番組スタッフたちは)彼女の人生に介入するのはよくない」という旨のことを告げる。そりゃそうだ。一人を救ってしまったら、ほかの子どもたちはどうなる。たまたま(ではなく、もちろんソニータがドキュメンタリーのの対象となった理由は明白なのだけれど)選ばれた一人を救うということは、それはスタッフたちの主観と独善によってソニータ以外の子どもを切り捨てたということの裏返しでしかない。

懸命な監督であればあるいは自らのその行動を「アフガニスタンの抱える社会問題をソニータという個人を通して描きながら、結局のところ製作者も一人の個人であるということから逃れられずソニータ個人にのみ収斂してしまった」というような作品そのものを俯瞰させるメタな構造になるよう選択するかもしれない。

だが、この番組はスタッフが支援した金で難を逃れたソニータが自ら撮影したMVをYouTubeに上げ、それを見たアメリカのスクールが音楽の養成コースに奨学金で通わないかという打診をし、ソニータはそれを受け入れビザを嬉しそうに取得し(おそらくアメリカの)小さなステージの上で歌を歌いながらエンドロールが流れていく。

 

一人の少女の成り上がりの事実としてみれば感動的だろう。否、はたして本当に感動的なのだろうか。少なくともわたしには、ソニータと笑いながら35歳の男と結婚させられてしまうという話をしていた少女の顔がまとわりついていて、その残酷な現実にただ打ちひしがれるしかなかった。

上で述べたように、ソニータにはドキュメンタリーの対象として選ばれるだけの素質がある。それは「大きな夢」とその目標に向かって努力する「行動力」とその行動によって成果を上げることのできる「歌唱力・作詞力・演出力(もっとも、歌唱力に関しては劇中で力量の不足を指摘されている部分もあったけれど)」それらすべてをひっくるめて「才能」があったからだ。

では、番組の中で出てきたほかのソニータたちと同じ境遇の少女はどうなる?

確かに、ソニータの歌は彼女たちの心情や境遇を代弁している。現実を訴えている。だが、それによって救われるのはソニータだけだ。あるいは、この番組を見て・彼女の歌に感化されて動き出す観客や視聴者に波及することを促しているのかもしれない。けれどやはり、触発された人たちが焦点を合わせているのはソニータであって(そうなるように制作側が仕向けているから)「選ばれなかった才能のない少女たち」は排斥されているように思える。結局のところ、ソニータという「才能を持った選ばれし少女」に収斂されてしまいほかの少女たちの影は有耶無耶になっていく。

そしてなにより、こういってしまうと身も蓋もないのだけれど、ソニータが歌を歌ったところで現実問題としてアフガニスタンの少女たちが救われることはないだろう。少なくとも向こう数十年は。そうでなくとも、今現在少女であるカメラに収められた彼女たちが救われることはない。

それはどうしようもな現実だ。才能のないものはソニータのように自ら環境から脱することなく、結局のところは悪しき風習に取り込まれ男尊女卑の世界に飲み込まれていくしかない。

トゥモローランド」よりもよっぽど残酷な現実だ。だが、作り手はその現実を直視させようとすらしていない。それがこの番組の問題点だ。

 

だからこれはまごう事なきドキュメンタリーであり、だからこそ「ソニータ」というタイトルなのだろう。だが、そうなると決して目を背けることができない問題が色濃く浮かび上がってきてしまう。それは「はたしてアフガニスタンの抱える問題を彼女の才能の背景として無遠慮に使ってしまっていいのだろうか」ということだ。

ソニータ」がソニータという一人の才能ある少女のドキュメンタリーであることは間違いない。だが、そのせいでアフガニスタンの社会問題が彼女という物語にとっての乗り越えるべき障害=舞台装置としての悪役として極端に現実の純度が下げられフィクションにされてしまってはいないだろうか。

これを見てソニータに何かしらの情動を覚える人がいても不思議ではない。けれど、これを見てアフガニスタンの現実を痛感させられたなんて言う人がいたら、その人はフィクションを現実として誤認しているにすぎない。もちろん、フィクションは現実背負わされることもあるだろう。けれど、この作品で描き出されるアフガニスタンの問題というものはエンタメ娯楽映画の敵役以上の現実性を持っているとは思えない。

あるいは、その構造を対比的に置くことで選ばれなかった子どもたちに目を向けさせようというのだろうか。いや、もしそれを狙っているのだとしたら尚更エンドロールで流されるべきはソニータではなく選ばれなかった少女たちだろう。どちらにせよ、作品として選択を誤ったように思える。

 

この点において、「ソニータ~」はドキュメンタリーでありながら、どこまでもフィクションな番組だった。

ちょっとね、本編がどうなっているのかかなり気になり出してしまったぞえ。番組ようにかなりの編集を加えていて、実はまったく違う終わり方をしてるのではないかと思うほど。

だからあえて「番組」と書いて、本編を劇場で観るまでは保留にしているのですが、果たしてどうなることやら。