dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

水没している街は好きなのであの二人には末永く爆発しておいてほしい

個人的にはね。晴れよりも雨の方が好きなんですよ。ていうか、晴れって雨が明けるからこそ価値があるわけで。この映画はともかく、普段は晴れていることにそこまで思いをはせないでしょ、みんな。実際、雨→晴れるという一瞬で移り変わるところにセンスオブワンダーがあるわけで。

 

特に観る予定はなかった「天気の子」を観てきたんですけど、いやぁ予告編が青春系のアニメが多くて参りますね。

ありゃ一人で観に行くぶんにはいいのだけど、今回は一人じゃなくてね。予告が流れている間嫌な汗をかいていましたよ、ええ。

新海監督の映画ってほとんど観たことないんであんまり書けることがないんですよね。あそこの作画担当したのってやっぱり〇〇さんなのかなぁ~とかそういう、いかにもにわかな感想しか出てこないんですよ。そのくせレイトショーで観たせいで眠気に屈服しクレジットで寝落ちするという始末。

この観賞態度からもわかるように、新海監督は別にそんなに好きってわけでもずっと追っている、というわけでもない。

ないのですが、それでもまあ、面白かったですよ。

 

さすがに猫に喋るかけるのとか、ああいうのを面と向かって見せられるとこっぱずかしくなったりするんだけど。あれってなんでなんでしょうね。なんとなく思うのは、こういう動物の描かれ方って、基本的にその動物に語りかけている話者の感情やら思考やらを否定するにせよ肯定するにせよ、それが自問自答でしかないからなのかな、と。

 

 

曰く「要するに、恋愛って、それおっぱじめると構築してきたすべてが崩壊し、展開していたすべてが凍りつき、ただ恋愛が圧倒的に物語を支配して~後略」であると。

この甘言に乗っかるのであれば、新海監督の映画というの漏れなく上記のように構築してきたすべてが崩壊し展開していたryとなるわけです。でも、彼の創作物って最初から恋愛をフルスロットルでおっぱじめる体勢にあるわけで。彼女彼らの恋愛のためにあの世界は構築され崩壊しすべてがデイアフタートゥモローとなり物語を支配していくわけで。

というか、すべての恋愛映画がもれなくそういう世界観を持っているんじゃないのかしら。恋愛ものをとんと観ないので、こういう受け売りを引用する以外に私の中に語り口がないのでアレなのですが。

恋愛ものって、印象としては特定の人物(まあ大半が主人公とヒロインなのだろうけど)にそこまで費やされたすべてが収斂していくわけで。セカイ系というなら恋愛映画ってほぼすべてセカイ系でしょ。いや、セカイ系の定義がいまいち自分の中で定まってないんですけど、巷間で話される場合のセカイ系のイメージとして。

 

何物でもない田舎(穂高)少年は、小栗旬(キャラ名忘れた)の下で社員という形を得ることで穂高(少年)となる。思い違いでなければ、穂高穂高と名前で呼ばれるのは、彼が職を得たところからだったはずだし。

そこで彼は「穂高」という自分を獲得する。凍えるに狂うと書いてTOKYO(うすた京介)の厳しさ(ネットを使えるのにあのムービングは彼自身の情弱っぷりからくる自業自得とも取れなくもないのですが、正直あの辺の感覚は当事者でないとわからない)にまいっていた彼がそのTOKYOで居場所を得ることで、すでに予感としてあった恋愛にエンジンキーが差し込まれる。

恋を予感させる最たるものにバーガーをもらうくだりがあるんですけど、ここで穂高くんはこのバーガーを今まで手一番美味しい夕食だったとかなんとか言ってましたよね。

いや、確かに美味しいし、その言葉のニュアンスも読みとれるのですけど、本当にあのバーガーが一番美味しい夕食だったとしたら、相当なメシマズ家庭だったのか、それとも機能不全家庭だったのか、そもそも島だし食べられるものに本土と比べて制約があるのか、と考えてしまうのです。しかし、機能不全家庭の下で育った少年があんな真っ当に(人に銃を向けるのも、あれはあれで真っ当でせう)振舞えるはずがない。だとすると、あのモノローグはポーズではないかとも取れてしまう。

ポーズというか、自己欺瞞に近い。恋愛をブーストさせるため。初恋などという、恋に恋している者しか口にしえない、口にした途端羞恥心に爆死するような台詞を恥ずかしげもなく言えるのは、恋愛という魔法のスパイス(自分で書いてて悶死しそう)によるブーストがあってこそだ。

 

で、そこからはエンジン全開!フルスロットルでぶっ飛ばすからねぇ!と言わんばかりに穂高くんと陽菜の恋愛模様が展開されていく。あれってそもそも恋愛模様なのかしら。あんまり恋愛って感じがしないのはなんでだろう。特に陽菜の方から穂高に対しての恋、というのがあまり感じ取れないんですよね。

それはまあ、陽菜が天気の子というみんなの(もちろん穂高くんのも含め)願いの担い手であり、劇中で指摘されるとおりの人身供物として非人間(化していくから)であり、クライマックスにて穂高が陽菜をようやく人間にしていくからなのかな、と。陽菜の視点から描かれないのって、多分描けないからでしょ、構造的に。

 

話は変わりますが、CGの東京の街並みを観て私が思ったのは「うわぁー壊れなさそうな街並みだなぁ」ということだった。

まあなんで私がこういうことを思ったのかというか、ああいう街並みが出るとその街が破壊されることを予想というか期待する自分がいるからですね。

で、まあその願望というのは主に特撮とか庵野さんとか樋口さんとかあの辺による調教を受けてきたからなわけですけど。彼らの作品の街というものはいかにも壊れやすい。それはまあ、彼らの作る街というか世界って「壊すために在る」から。

庵野さんとか樋口監督みたいに「街ですか? そりゃ壊すためのものでしょ」(偏見)みたいな欲望のカタチに私の場合は近いので、ああいうただ「在るために在る」という背景にそんな感覚を抱いた、というわけで。庵野監督たちみたいに「壊すために在る」という欲望の方向性と全く違っていて、そういう自分の欲望と異なる風景を観るというのが割と珍しいことだったのでなんとなくそんなことを書いてしまった。

 

あの落雷にしたって、せいぜい車一つだししかも彼女の落雷だ。徹頭徹尾それは二人のセカイ。庵野さんみたいにゴジラエヴァ使徒といった絶対的な他者によって破壊される世界はない。実のところ、シンジ君自身が街破壊したことってないのではないか。使徒を撃滅する際に生じる爆発にしたって、あれは彼というよりも使徒という絶対他者による破壊だし、初号機が町を破壊するときって基本的に彼のママンという圧倒的他者が出張ってくるときだし。

 

そうなんす、この映画で描かれる街って壊れることはないんですよね。水に没したところで、そこにはずっと在り続ける。まったく壊れる気がしない。

セカイ系と言われるのって、そういう風に意固地なまでに世界を維持しようとするところからきてるのかなぁ、と。

 

でも、滝君のおばあちゃんみたいに引っ越すことのできない、あの姉弟のような人たちは二人の選択によってあの水の中に沈んでいったのだろうなぁ、と考えるとそういう隙間者の恋愛が同様に隙間者たちを搾取した上に成り立つという恐ろしく恐ろしい世界観だなぁとも思ったり。

 

うーん、でもまあ、みんなが言うように「天気」という概念に対するような普遍性を見出していないんですよね。

 

なんか書き足りない部分がなくもないんだけど、なんだかそんなにモチベーションがないのでとりあえずこんなところで。

また書き足すかも。しないかも。

退屈でごわす

ワイスピ新作ってことで一応観に行ったんですけど、シリーズで一番退屈でした。

いや、もう特に書くことはないんですけどね。これに関しては。

「デッド・プール2」「アトミック・ブロンド」のデヴィッド・リーチだったんですね、これ。

ライアン・レイノルズ起用はそこの繋がりなのかな。ただ、デップー2があくまでデッドプールというキャラクターありきで成立していた面白さであったのに対し、今回のレイノルズは本当に酷い。いや、もしかしたらあのブロックネタとか私が知らないだけで向こうの文化圏では笑えるネタなのかもしれませんけど。

今回のワイスピが退屈なのはひとえに会話がダレ過ぎているというところに尽きます。今までのワイスピではキャラクターももっと多かったので喋っているシーンでもそれなりに退屈しませんでしたし、何より会話のシーンはできる限り長引かせないで「知るかバカ!そんなことよりカーアクションだ!」といった具合にバカバカしいことをやってくれてたんですけど、今回はよりキャラ萌えを重視したのかドウェインとステイサムの掛け合いやポッと出の新キャラであるステイサムの妹との退屈な会話にかなり尺が咲かれています。その会話の掛け合いも退屈な上におバカすぎるしで、かなりキツい。そのくせ、というかその冗長な会話のせいで二時間超えるという暴挙。

それでも笑ってるおば様がいらっしゃったのでファンなら楽しめるのかも。

私はキツかったけど。

そんなわけで退屈な会話とマイケル・ベイ以下のカーアクションがちょっと途中で入ったりはするんだけれど、すんません、いや本当に退屈で途中でちょっと寝ちゃいました。

なので、どうしてハワイ―に行ってるのかよくわからないんですけど、あのあたりの取ってつけたようなルーツ表現とかファミリー描写もキツかったです・・・。ワイスピシリーズは確かにワンピース的なファミリー感を売りにしてはいるんだけど、あそこはちょっとこう、押し売りがすぎて・・・。

ただ、あの戦闘前の儀式?を観て高揚できない私の知見が不足しているという部分は大いにあるので、あそこで燃え上がる人がうらやましくもあったり。

 

こうして観るとマイケル・ベイのハチャメチャなカメラって疲れたりわけわからなくなったりはするけど退屈はしないんだなぁ、というのがよくわかる。

どっちがいいか、と言われると、まあ私はマイケル・ベイの方が良かったりするんだけれど。

まあぶっちゃけここら辺は脚本と製作の問題のような気もします。

今さらツッコミどころをワイスピ相手に指摘するのはもはや馬鹿の領域なのでそんなことはしませんけど、もうちょい退屈にせずにしてくれないかと。

ただですね、終盤の車両連結綱引きのバカバカしくも燃えるアクションとか2対1の殴りあいはかなり良かったので、無駄に間延びして退屈な掛け合い(飛行機のシーンとか、あそこ丸々カットしても問題ないですからね)を削りに削って100分くらいで収めればかなり良くなると思ったんです。

キャラ萌え映画でキャラの掛け合いがつまらないってかなり致命的なんで。

あとタイリース・ギブソンが欲しかった。あの人の顔とか歯の白さとか、良い感じに陽キャなところが好きなんですけど、ワイスピシリーズとトランスフォーマーシリーズ(ダークサイドムーン以降出てないですけど)くらいにしか出てこないので、2年に一回くらいはタイリース・ギブソン成分が欲しかったりするので、スピンオフにも出してほしかったなぁ。

 

ステイサム邸宅の駐車場にあるミニクーパーを使って「ミニミニ大作戦」の小ネタは「そこを拾うんかい」という感じに笑えたりはしたんですけど、それだけ。

 

ワイスピとしてはワースト。あの綱引きがすごい良かっただけにもったいないなぁと。

南北リターンズ 再開の時 ~「北風」小デブの金正日~

韓国映画を劇場で観るのは久しぶり。

そんなわけで「工作 黒金星と呼ばれた男」。

 

 

いやぁ政治をメインに扱った映画としては抜群の楽しさでございますよ、これ。

史実ベースということもあり、主要5科目において赤点ないし限りなくそれに近い点数を取り続け、中でも歴史の知識に乏しい私は二の足を踏んでいたのですが、そんな私でも不足なく観ることができたので、最低限南北朝鮮が争っているということと北朝鮮共産主義国家であるということを理解しておけばなんとかなる。はず。

ま、それでも不安かつ自分で調べるのが面倒という怠惰な人(わたし)はパンフレットを買えば時代背景についての解説なども載っているのでより理解の促進につながるかと。

たとえば、劇中で当選する金大中があそこに至るまでに辿っていた経緯などは、映画を観た後で改めて知るとあの当選の感慨も大きくなりますし、何より(まあ本編でも散々描かれますが)体制側というのはどの国であろうとイデオロギーに関わらず本質的には五十歩百歩でしかないことなどもわかります。
他にも本編の舞台である92年以前の大統領選挙における北朝鮮という巨大なファクターが及ぼした影響についても仔細に記されていますし。
あとはやはりあくまで史実ベースということで、実際にはなかったことを別のことに置き換えていたり、というアレンジがされていることなどなど。まあ、そのおかげでエンタメとして面白楽しく観れるというのが韓国映画の優れた部分でありましょう。


それにしても、つい20年とちょっと前までこんなことが、というか今もだけどあるのだと考えると末恐ろしい反面やっぱりちょっとわくわくしてしまう。そういう響きが「スパイ」とか「間諜」といった言葉にはあると思うのです。

して、そのスパイとして韓国から北朝鮮に潜り込むパク・ソギョンことコードネーム黒金星(ブラック・ヴィーナス)を演じるのが「ベテラン」「コクソン」「アシュラ」など何故か数少ない私が観ている韓国映画にピンポイントで出てくるファン・ジョンミン。

そのほかのメインキャストの映画は観たことないんですけど、保衛部の課長は「アシュラ」にも出ておまんしたか。ここ数日はいいおっさんが出てくる映画ばかり観ていて非常に嬉しい限り。

パク・ソギョンを演じたファン・ジョンミンもいいんだけど、北朝鮮の対外経済委員会所長リ・ミョンウンを演じたイ・ソンミンさんもすんごい良し。よろし。この人の、感情をセーブしようとしてるときに体が小刻みに震えるのとか、なんならそのまま泡吹いて昏倒してしまうんじゃないかってくらい迫真で。割と小奇麗な顔立ちなのに見るからにおっさん顔で良い感じにひげをたたえてるのもグッド。


で、政治を描いた映画ではあるんですけど、実のところこの映画はこの二人のロミオとジュリエット、もといロミオとロミオなお話でもございまして。いや、恋愛要素はないんだけど。
国家同士のぶつかり合いというよりは、それに対して相対化される個を描いた映画ですのでね。

この二人が何回も食事をするシーンが出てきますけど、その場所・口にするもの・どう口にするか、それによって関係性の変化が描かれておりまして、世に跳梁跋扈する恋愛映画などはこういう細かい描写でもって描いてたりすると萌えるので、ぜひ取り込んでいってもらいたいものでげす。

あ、それとこの映画でタバコを吸う人は例外なく悪人です。あとお酒もそうかな? お酒に関してはお酒そのものというよりはその「飲み方」によって善と悪(あくまで通俗的な正義にとっての善悪)が区別されている、といった方がよろしいでしょうか。というかよく考えれば伏線としての機能も持ち合わせていますね、これ。凄まじい。

この辺の描写は先に述べたパクさんとリさんの関係性の変化にも密接にかかわってくるあたりなので、彼らのタバコのやりとりと酒の酌み交わし方(こっちは割と露骨だけど)を前半と後半で注視しながら観ると萌えます。

そうなんです。前述したとおり、この映画、政治劇としての面白さもありつつ関係性萌えの映画でもあるのです。特にお腐れの女史は垂涎ものではございませんでしょうか。私がロミジュリにたとえたのはその辺でございます。
だからこそ、ラストカットが最高なんですよね。あえて遠目からという粋の良さというかね。
もう一度書きますが、だからこそあのラストカットに代表される二人のシーンというのが胸に来るわけです。

関係性萌えのスパイスとしてもう一つ重要なことが。それは同じ国、同じ組織、そして同じ作戦に従事していた同志であっても思想の違い・状況の変化により相対しなければならなくなることを描いていることでしょうか。

それが決定的となるシーン。味方である室長のチェ・ハクソンが北側と接触する際に、パクさんを欺こうとする際に流れる(というかチェがレコードでかける)のがシューベルト「魔王」というのも意味深ですが、この裏切りを知ってしまい敵地で孤独となったパクさんの味方になるのが何を隠そうリ所長なわけで。

こんな萌え燃えな展開が史実ベースのことだなんて、普段は肩身の狭い(それは悪いおっさんどもの悪行のせいなのですが)おっさんがこんなに綺麗に輝くなんて、まだまだおっさんも捨てたものではありません。

某おっさんドラマで描かれた飯事ホモセクシャル(いや別にあれに恨みがあるというわけではないんですが)なんかよりも、よっぽどこっちのブロマンス(というとかなり語弊がありますが)の方が美しく尊い・・・のでございます。私的には。

 

そんな二人の物語は、不穏な空気から始まる。冒頭、屋内の釣り堀での一連のシークエンスなんですけど、あそこで黒服さんたちがちらりと一瞬だけ銃を突き付けてることを示すショットの素っ気なさ。ことさらに強調せず、しかし普通に画面に集中していれば確実に見逃すことのない、あの塩梅。強調されることがない、つまりあくまで日常の陰影にすぎないという恐怖でもあるわけで、いかにスパイという名称を担う存在が危ういものなのかを見せつけてくれます。

そこからパク・ソギョンが黒金星になるまでの経緯なんですけど、ここらへんはほとんど説明的なシーンが続きます。というかまさに説明のシーンなので当然っちゃ当然なんですけど。じゃあダレるか、というとそういうことでもない。割とパパっと済まされるし、というかその辺は手早く済ませてちゃちゃっと本題に入っていくので。

それゆえに彼の家族について削られてしまった部分などもありますが、この映画はラスカットに代表されるように「映さないこと」と「映すこと」(あるいはどう「映さない」「映す」)のかについてかなり意識的でありますから、そこも仕込みのうちでしょう。実際、私は違和感なく観れましたし。

「映すこと」でいえば北朝鮮の、あの貧民市場で用いられるある視点からのワンカット。永六輔は「知らない横丁の角を曲がったら、それはもう旅」とか言っておりましたが、まさに地獄旅でございます。
あの子どもがあの場所で口にしてたのって・・・と考えると、そしてあの場所で北朝鮮側の体制側に属しているあの人が吐露する内心を考えるとやりきれませぬ。

それにしても、北朝鮮の世界観が冗談抜きでジョージ・オーウェルな世界。資本主義社会の日本(というか世界の大半)においては、ここまでわかりやすい支配の仕方ではなく消費行動に結びついて気づかないうちに支配とか操作が成されているという余計に質の悪いものではあるんですけど、共産圏だとこういう支配の仕方が有効だったのだなぁ、と思ったり思わなかったり。確かに支配の仕方としてはこっちの方が単純ではありますし、統治者からすればこっちの方がいいのかもですね。
 

そんなディストピア世界を描いているこの映画にあって、白眉となるのはやっぱり例のあの人の登場シーンでせう。

もちろん、例のあの人が登場するあの空間、あのアングルの切り取り方など、それだけでも十分に異なる存在として際立っているわけですが、それ以上にあの異界とその空間を支配する異物を、異物として観ることができるのは、あの人物が誰かを観客は知っているからです。
しかし、ヒトラーなどと違ってあの人物が直接的に、あそこまで大胆に、あそこまで近接して描かれたことを寡聞にして私は知らなかった。まるで悪魔が顕現する前兆のように(あるいは加耶子と俊夫のような)とてとて歩くシーズーといい、この一連のシークエンスは黒金星たちの顔の表情や固まった姿勢なども相まって特段に際立ったシーンとなっていて、ここを観るためだけでもこの映画を観てもいい。

だからこそ、あの二人で二度目に異界へと「冒険」に出るときの、あの駆け引きの緊張感と高揚感に観客は燃えるのです。

 

もう一つ、何気に個人的に気になったのは、得票や投票を直接操作しなかったこと。これって、公文書が改ざんされていることが明らかになっているどこかの国だと、もはや感覚が麻痺してそうなんですけど、この一線が守られているということは何気になけなしながら理性が残っているということでは。

だって、市民の不安を煽って投票行動に影響を与えるために北朝鮮に自国を攻撃させるなんて回りくどい方法をしなきゃ、投票の数値に影響を与えることができないってことですからね。もしも投票に関する数値を安企部が直接改ざんできるのであれば、わざわざあんな危険を冒してまで北と接触する必要もないわけですし。
それはだから、まあギリギリではありますが理性の残滓でもあり希望でもあるわけで。


政治劇・関係性萌え・ディストピア。こういうのが好物な人は観て損はないでしょう。

南北問題とか史実ベースってとこで肩肘張ってしまいがちで(まあ、わたしなんですけど)、観るのに疲れそうだから(まあ、わたry)という人はあまりそういうことは気にしないでいいかもしれんです。

いや、本当に。

第七間隔

「2つの頭脳を持つ男」

色々とぶっ飛んでる。

やってることはバカ殿様と大差ないんだけど、倫理観とかガン無視してマッドな方向に突き進むのは面白い。

下ネタだらけだし、細かいボケの感じとかほんとにコント番組のコントそのものなので、あまり映画を観ているという感じはしないけど。

ジェームズ・クロムウェルが出ているあたりとかも笑えてくる。

 

影の軍隊

ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映画。

にしても重い。

ナチス政権下を舞台に繰り広げられる映画はたくさんありますでしょうが、この映画は本当に暗くて重苦しい。空は映っても灰色の雲海ばかりだし。

カッコつけた表現だけど、メルヴィル監督のカット割りってすごい静謐だから、余計に無情感が滲むんですよね。

「サムライ」から続けてみてみると、プロフェッショナルな人間たちが理性的に動いているのに、その目的自体がともすれば夢や理想といった彼ら彼女らの冷静沈着な行動の裏を行くようにすら見えて、その、矛盾はしないのだけれど相反するものを背負っていてやるせなくなってくる。

矜持に生きる人間って、こんなに侘しいものなんですねぇ。

 

バトルフィールド TOKYO」

低予算なつくりバリバリなんですけど、時期的に「クローバーフィールド」のパロというかエピゴーネンとして作られてる感じ。

ノイズのバリエーションが無駄に多くて編集であることが丸わかりだったり、明らかに救急車じゃないものを救急車に見立てたり、まあ色々とアレな出来ではありますが、なんだかんだて怪物がチラリと映るシーンは好きだったりする。

ミズチとかいうネタのチョイスはよくわかりませんが。

まあクローバーフィールドより白石監督の路線こそがこの映画の目指すところだったのではないかという気がする。

 

X-men アポカリプス」

今さら見る。

外連味あるシーンはたくさんあるのに気の抜けたシーンが多いのがいかんともしがたい。

ブライアン・シンガーも飽きてたんじゃなかろうか、これ。

 

「トラッシュ この街が輝く日まで」

「ものすごくるさくて、ありえないほど〜」の監督だったんですね、これ。

この人の作風ってどうも独善性というか、欺瞞じみているというか。

いや、「ものすごく~」に比べれば遥かに観ていて楽しいんですけどね。それはまあ題材が題材だからでもあるんですけど。

基本的なフォーマットは少年の冒険譚ですし、そのフォーマットにブラジルはリオデジャネイロのゴミ山のスラム?を当てはめるというのは中々ないですから、異化効果を生んでいますし。

序盤は良かったんですけどね、これから何が起こるのかという緊張感をもたらしてくれてましたし。「コースター」の暴力表現も生々しくてエグいし、その辺までは良かった。このあとでラファエルが殺されない理由のあまりにもおざなりな部分から予定調和・欺瞞さ・独善みたいなものが全面に出てき始める。

ビデオもさ、あんだけ殴られて顔面傷だらけだったのにいつの間にか傷治ってるし、むしろ傷がある状態でカメラに収めることこそが現実のグロテスクさを誠実に伝えるということを劇中劇的に描出できたはずだと思うんですけどね。

そういう不誠実さ・欺瞞さの極北がラストの銭ゲバシーンとそれに続く綺麗な海辺でワイワイする少年少女たちでしょう。

なんだか別の監督がやればもっとうまい具合に行ったと思うんですけど。

でも終盤の、夜が明けかけている空をバックにトタン屋根の上にいる彼らのシーンは結構グッときましたよ。

 

モンスター上司

ケビンスペイシーが1人だけガチトーンの演技をしている箇所があって笑う。

 色々あるけど、歯科医の件に関してはあれは最大限の異化効果が発揮されている部分だと思いますですけど、制作側にはその辺の問題意識がないというのが惜しいところ。

 

アルビン/歌うシマリス3兄弟

チップとデール+1。原作あったんかいこれ。しかも半世紀以上前の作品が元ですと・・・?

なんだけど、なんかこう、メジャーデビューしたバンドあるあるみたいなものなのかなぁ。デヴィッド・クロスが出てることになんか笑う。

 

「サーチ」

 監督まだ20代半ばですか。卓越した編集力と脚本の構成力で画面がもう才気煥発している。

これは大きな画面で観ないと細かいディティール、というか画面中に散りばめられた伏線を確認しづらいので劇場で観ておきたかったなぁ。

死んだと分かるやお通夜モードになる友人未満の学友たちとか、tumblrをtumblerとスペルミスするお父さんとか、文言を送信をするかしないかの逡巡をタイピングの画面だけで表現する演出などなど、映像で映える描写が細かい。この辺のリアリティ、最近も観た気がするんだけど、なんだっけな。

まあ、ヴィックが家に訪れたときにフェイスチャット(?)を起動しているのはよくわからないというか、なんか説明的すぎる気はしましたけど、それ以外はほぼ設定したルールを守っているし。

あとはどこまでが本当にあるものなのか知らないんですけど、住所がわかるサービスとかって本当にあるんですかね? 日本で言う電話帳みたいなガバガバさな気がするんですけど。もっとも、ああいうサービスが実際になかったとしてもあるように思わせる細部の作りが説得力を持たせているので、ご都合主義という感じはない。

むしろ、趣としては一種のシミュレーション映画のようにも思える(ソダーバーグ監督の「コンテイジョン」をちょっと思わせる)。それくらい、父親がハイスペックというか探偵じみた操作能力を発揮する。

これを「できすぎ」と取る人もいなくもないでしょうが、まあそこは親子愛ということでご愛嬌。

いやこれ、かなりウェルメイドな作品だと思います。

今後の活躍が楽しみな若手監督の一人です、アニーシュ・チャガンティ監督。

 

 

スクール・オブ・ロック

観ててニヤニヤ、ほっこりする。そしてジャック・ブラックの動きが面白すぎる、地味に長回しだだったりするし。

一見するとジャック・ブラックがロックを押し付けているという学校と同じような構造のように見えつつ、しかしその活動の中で生徒たちが(おそらくは発散できず)抱えている怒りを拾い上げてロックの中に昇華させている。

吹き替えで観たんですけど「大物」って原語だとどういう言葉になってるんだろうか。

ともかく、ロックの敵として「大物」という言葉を使っているわけですが、生徒の一人に「大物ですね」と校長先生に向かって言うわけですが、その直後に実は校長先生も・・・というあたりも上手い具合。

実際、校長先生が実のところ一番の『大物』だったわけで。

しかも特定の人物にフォーカスしつつも、ちゃんとバンドメンバー以外の部分もバンドを構成する一員としてのロールを与える目くばせ。ギャグめかしているバランスも絶妙。

ちょっとした部分で笑わせてくる芸コマ描写も秀逸。黒板にE=mc2を書いておきながら即興の算数の歌はへなちょこだったり。とかとか。

演奏シーンは最後の最後までお預け、というのも結構珍しいパターンな気がする。途中で一回失敗を挟みそうなものなのに。

教わる側だった生徒がジャック・ブラックを奮い立たせるという展開も、ベタではありますがやぱり燃える。真面目っぽいローレンスがフレディと小競り合うのもスキでございます。

何よりジャック・ブラックが下手くそを自覚して、それでもなお好きであるということを拠り所にするのも泣ける。

制服で演奏する、とりわけジャック・ブラックが制服を着ることの意味。抑圧され幼稚な殻に包まれながらも熱唱するその様。

個々の才能を発揮しそれぞれのオンステージを飾りながらも、才能のない彼のためにその才能を発揮するワンフォーオール・オールフォアワンの体現。

 

大きな成功はしなかった。けれど小さな勝利を収めた。ああいう塩梅のエンディングも最高。

流石リンクレイター。

 

「ゾンビ・サファリパーク」

モチベーションが「パージ」的というかヒャッハーというか。

 「ジュラシック・パーク」なんかもそうですけど、こういう生命をアミューズメント化する施設を舞台にした作品では人間側のエゴが相対化されて見えてくるわけですけど、相手がゾンビ=人の姿をしているという点では中々にグロテスクな映画ではある。

「ウェストワールド」なんかはさらに逆転の構造があったりしますが。

しかし心理的な医療目的のためにゾンビを射殺、というのは大丈夫なのだろうかこれ。逆にトラウマになると思いますけど。

女子二人のキャンプの会話で死者が云々とかって話をしているあたり、功利主義というか損得勘定と倫理観の葛藤みたいなものはやはり意識しているだろうし(そもそもリゾートという施設がまさにそ表象だし)、躊躇していた彼女がゾンビを撃つという行為そのものが彼女自身のトラウマの克服という意図を持たせているのだろう。

と思いきや特にそんなことはなさそうである。しかし彼ピっぴも主人公の女性ももうちょっとムービングをどうにかできないものだったろうか。

最後まで不殺を貫くのは立派なことです、ええ。そのために彼ピっぴがとうとつに嫌なキャラクターに変化し、彼女の不殺という責任を帳消しにしようとするのは流石に笑いましたし、挙句彼に自殺させてその銃を持ち去るというあたりの「俺は嫌な思いしたくないから」精神の徹底ぷりは逆に新鮮ですらある。

そんな彼女が「人類の責任が~」というのは浮薄では。

 

あの最後の終わり方を観るに、おっさんが生存しているあたり、あのおっさんが黒幕だったりするのだろうか。まあオチとしてはB級精神にあふれているので嫌いではないのですが、妙にお金かかってこれはうーん・・・。

アニオタくんのシャツのせいで悲壮感が笑いに転じてしまうよー。

難民の扱いは予定調和ではあるし、まあそんなもんだよね、といったところ。

 

 

エニイ・ギブン・サンデー

オリバー・ストーン監督作。控えめに言って傑作。

選手の痛みから始まり、屋内での選手の姿を忙しない手持ちのカメラが追っていく。それを口火にアメリカンフットボールの世界の病理・マチズモをこれでもかと暴き出しながら、それでいて劇映画としての情動を喚起させ感動的な着地を見せるという極めて歪な作劇になっている。

オリバー・ストーンはアメフトの、ひいてはスポーツ界隈の陰部を含めたあらゆるものを晒そうとしたのではなかろうか。それを表象するかのようにロッカールームで選手たちはスッポンポンだ。モザイクはあるけど。

はっきり言って、ラストの試合に至るまでに描かれていることはフットボール界のあるあるな汚わいばかり。

ラストの試合のようにエモーショナルに徹することはせず、極めてグロテスクなシーンをインサートしてくる。ちょっとあの眼球が転がっているカットは本当に唖然としましたですよ。

でも、全てということは、そこに含まれるのは抗いようのない熱狂や感動もだ。だから、それこそあまりにマッチョでホモソーシャル(しかも、男性ではなくその価値観に支配されてしまったキャップの妻とキャップの関係性のような多層性も含んでいるという周到さ)で極めて醜悪なシステムを描きながら、最後には感動をもたらす。

それはとどのつまり、歪な構造を含めてこの感動がもたらされているという、やはりどこまでいっても歪なフットボール世界の構造を弁証法的に明らかにしてしまったのだ。オリバー・ストーンは。

わたしもまがりなりにチームスポーツを嗜んでいたからわかる。あの熱狂、あの熱量、チームという多数の意思が単一の目的に収斂し動くこと。それが達成されたときの巨大な感動。

そして、そこにはやはりロッカールームで繰り広げられたようなチームメイト間のパワー関係もあり、決してワンフォーオール・オールフォアワンなんかではない。けれど、試合になるとそういった感情は排されてゴールを狙うための群体と化す(※強豪チームなどであれば)。

ただ何度も書いてしまいますけど、本質的にあるのは歪んだこの世界への視線だと思う。キャメロン・ディアスがママンとの会話の中で「変化していく云々」と言っている画面の横には、カウントが表示されている。彼女はカメラの前であることを意識した発言しかしていない。

そういった、チーム自体の外での歪みも決して欺瞞に覆い隠さない。

選手の意思肉体家庭、マネージャー、コーチ、オーナー、ドクター、資本主義、黒人差別・・・あらゆる要素が複雑に絡み合い、それらが歪みを生じさせて、最終的に感動をもたらす。

あまりにグロテスクで残酷な情動を体験したいのであれば、この映画は最高の一本になりえる。

 

「ツイスター」

むかーし、ちょろっと観た記憶があったんですけど、こんなに面白い映画でしたっけ?

スピルバーグ製作、というのが納得できすぎるくらい納得できる。

モンスターパニックやディザスター映画で重要なのって、実のところモンスターや災害の描写ではなくキャラクターが描かれているかどうか、というところが極めて比重としては大きいと思うのですが(実際、「ジョーズ」においてサメが出てくるシーンは本当にわずかだし)その点で言えばこの映画のキャラは最高である。

ヘレン・ハントってロビン・ライトと似てるなーと思ってたんですけど、この映画だとジョディ・フォスターにも似てるな、と。何気に「フェリス~」のアラン・ラックが出ていたりするし。

しかし今見ると故人が多くて悲しくなってくる。当時は意識して観てなかったけれど、今見るとビル・パクストンにフィリップ・シーモアホフマンとか、良い役者ばっかりですねぇ。「トレマーズ」のベーコンしかり、こういうジャンル映画においてもキラリと光るものを残していくのは流石というか。よく考えたらマイケル・クライトンも亡くなってましたね。いやぁ、なんか諸行無常

で、スピルバーグが手掛けるということでやっぱりゴアな描写があったりするあたりもご愛嬌でありんす。

いいですねぇ、この映画。金ローでたまたまテレビつけて偶発的に観たりしたときの「なんだこの映画楽しい!」といった類のわくわく感を思い出させてくれる映画でござい。

家の中を突っ切る車とか、竜巻の中とか、最後の最後にカメラが離れていって竜巻の爪痕を見せてくれるあの抜けの良さといい、良い映画ですた。

 

「アンフレンデッド」

これもPC画面のみで展開する映画なんですが、ホラーという点でサーチとは異なりますん。

結構楽しかったです。

しかしまあ、チャット系のアプリあんま使わないので若干UIとかに戸惑う。

作劇上の制限とはいえ、1人目の犠牲者が出た時点で誰も家に向かわないあたりの(正確には向かおうとしたキャラはいましたが)行動の制限が、時代性を垣間見ることができる。

しかしあんだけ友人死んでるのに音量は調節しようたしてたり、錯乱状態で変に細かいところを気にしてるキャラに笑いがこみ上げる。

あとなんというか山田悠介の罰ゲーム的というかなんというか。

プロムパーティの話をしてたってことは高校生なんですよね。妊娠させて堕胎させたとか、親友が彼女とヤッてたとか、それが原因で仲間割れ起こすとか、良い感じに年相応の馬鹿っぽさが演出されていて大変よろしい。

タイトル的にはチャット仲間の繋がりと脱糞娘と主人公の関係性の二重の意味があったり、結構気が利いている映画ではありました。

続編もあるらしいし、結構ヒットしたんでしょうね。

 

「5パーセントの奇跡~嘘から始まる素敵な人生~」

こういうの本当に苦手なんですよね。障害を持った人が頑張って人生を成功させた、みたいなバラエティ番組でありがちなタイプの映画って。

 ていうか、この映画に関して言えば詐称しているわけでありますし。もちろん、それを開示していたらそもそも研修にすら参加できなかったであろう、ということはわかりますけども。

見えづらい、という描写も時たま思い出したようにぶつかったりする程度ですし。まあ、その程度だったと言われればそれまでですけど。

 

 

冒険者たち」

Q.満を辞して開いた個展の批評が最悪でした。どうすればいいでしょうか?

A.とりあえずはしゃぎましょう。

この場面のヤケクソなんだけど決してネガティブではないのが好きすぎて。

そのまま打楽器音楽を垂れ流しながらコンゴでのバカンスシーンに繋ぐのとか、とりあえず楽しむ精神につらぬかれていて大変よろしい。

前半の賑やかさから打って変わって後半のノワール調に転じる落差に驚き桃の木山椒の木。

ともかく最後のカットの悲壮さが美しすぎてアレだけでお腹いっぱい。

あれどこロケ使なんだろ。

 

おみおくりの作法」

寡黙な映画でございます。彩度も少し弱い。しかしそれは多くを語らないことを意味しない。

外を歩くとき、少し引いた位置からネイサンを捉える。一方で、黙々と作業をしているとき(=身寄りなき亡者の過去に触れ、彼らを知ろうとする過程でもある)、カメラは外にいる時よりも近い位置にある。

そして何より、彼が無縁仏の死者について(誰かと・誰かに)語る(伝える)ときに,

より一層近づいていく。

 

白くて質素な部屋で壁に向かって食事を取る。事程左様に、ネイサンが言葉を尽くす相手は一方的なディスコミュニケーションしか成立しない身元の分からない遺体だけ。

それにもかかわらず、社会のシステム上彼らを効率的に事務的に扱わなければならない。だからこそ毎日毎日の彼の仕事場は、書類の棚で囲まれている。そしてその事務的なシステムに従わなければならない以上、彼のように誠実に死者に向き合う方法は排他されてしまう。

 

いや、ディスコミュニケーションなのは死者とだけではないのかもしれない。彼が死者に対して誠実であろうとすればするほどに、その死者との縁を持った人を説得するのは困難になる。

何故なら死者はその時点で時の止まってしまった人であるのに対して、メイが説得しなければならない人々は時(いま)を生きる人であり、それらの人にとって無縁仏は過去の人でしかない。死者に寄り添うメイとの間でかみ合わないものがあるのは当然だ。

でも、ストークのような場合もある。それまで一人で何かを口にしていたメイは、しかし彼を知る物乞いとだけは、口にするものを共にする。

黙って寄り添えるのが理想なのだと物乞いの一人は言う。

 

誰かの死を伝えてきた彼の死を伝える者はないという、あのラストは確かに一抹の無情さはある。でも驚きはない。それまで嫌というほど、この無情なシステムについては描かれてきたし、彼はその中で生きていたのだから。

冷酷ではあるもののプラチェットの言葉は偽りない事実でもあるわけで。けれどそれは、メイにとっての真実ではない。だからこそ誠実に向き合い続けたからこそのあのラストなのだし。

それに何より、あの終わり方はアイロニカルでもなければシニカルでもない。それまで彼が看取った人々が集まってくるまでもなく、彼の行いが報われた、これとないハッピー・エンドだから。

誰かが「生きる」に似ていると言ってたけど、「生きる」とは正反対の終わり方だと思う。そもそも描かれていることは似てはいるけどピントがだいぶ違うし。

 

どうでもいいけど斎藤工の「Blank13」ってこの映画にインスパイアされている部分がある気がする。

 

なんかすごいしみったれたこと書いてきたけれど、結構愛嬌のある場面もあるんですよ。犬との見つめあいとか落ちたアイスを窃盗したり(ここは侘しいシーンでもあるんですが)ケリーが来ると分かると滅茶苦茶嬉しそうに葬儀について話し始めるメイちゃんかわいいし。

このケリーさん、どっかで観たことあると思えば「ボブ猫」のヒロインのジョアンヌ・フロガットさんだったんですね。

日本語版ウィキ作られていてもおかしくないくらいには作品に出てる気がするけど、まあつくられない理由もわからないでもないというのがちょっとモヤモヤする。

 

 「孤独の暗殺者/スナイパー」

なんか重苦しい。画面の明度といい、のっぺりしたカメラワークといい。

しかし全体的に中短編っぽい趣。

父親がもう少し死ぬの早ければああはならなかったのだろうとか、まあそういうたらレバを想像したりするのは楽しいものですけど。

疑心暗鬼にかられる様とかは良いですけど、全体的には自分の体調も相まって印象に残りづらい映画ではありました。

というか、多分ほとんど体調がすぐれないせいなんですけど。

 

「リバー・ランズ・スルー・イット 」

リリカル回顧。

お爺さんの昔話を聞かされている感覚。というかそういう作りであるわけなので、当然なのかもしれませんが。不在の中心を語るという意味では霧島にも似てるかな。

なんというかジョンカーニーのhurtを思い出す。

 

ニューヨーク東8番街の奇跡

なんこれ・・・。なんかほのぼの路線だけど明らかにねじが一本抜けてますよね。

まあUFOを妖精とかもっと有機的なものに変えればより受け入れやすい感じになるのかもしれませんが、あれはむしろCGの特性を生かすためにあえて無機物を選んだのでは、とも思う。

デモン・シードもびっくりでしょう、機械が機械と小作りなんて。

まあ表情は豊かですから、小動物的な可愛さがあるのはわかりますけど。

いやあこういう珍妙なものも面白い。

 

「ベテラン」

やっぱり韓国映画(少なくとも日本に入ってくるのは)にハズレはないんじゃなかろうか。

最初は結構コミカル風だったのと、アクションの感じが一昔前の香港映画みたいで、軽い感じなのかと思いきやまっくろくろすけでございました。

公開時期のナッツ姫事件の時勢の一致もあって大ヒットということらしいのですが、そういうのを差し引いても普通に面白いじゃありませんか。

何気に脚本も凝っているし、ぺさんが階段から落下していくシーンの違和感の無さといい(アシュラでもありましあけど、こういうシームレスな編集方法)、すごいっす。

アクションシーンも何かやたら豊富で、車にはねられるシーンとか、あれスタントの人相当危なかったんじゃないかしら? 

車もどんどん壊していくし、そういえば冒頭の刑事側の車の運転ですら日中の公道で結構危ない運転の撮影していましたし、この辺がフレキシブルなのはすごくうらやましいというか、そういう規制の無さみたいなものも含めてかつての邦画の良かったところみたいなものも時折垣間見える気がする。

ちょいちょい入るギャグだけが何故かコントみたいになっているのも、あそこだけ妙な空気になるのも含めてちょっとシュールで面白い味わいだったりする。

いや、良作良作。 

 

「クイーン・コング」

吹き替えで遊びすぎていてもはやビースト・ウォーズなんて目じゃないくらいで。

いや、チープとか言われますけどそれなりに特撮は観れますよ。何故なら作品そのものが極めて卑俗的だから。

いや、まあ、そういう意地悪な言い方はせずとも、結構観れると思うんですよこの特撮。だって日本に入ってきたのは21世紀でしょうけど製作年は76年ですから。違和感がないのは、画面の質感がそのまんま70年代だからであり、そこで用いられる特撮技術と合致しているからなのです。

「阿吽」と真逆のアプローチである、というような視線で観れるというか。

ていうか、今見てもそりゃまあ多少はチープかもしれませんけど全然観れるレベルの特撮だと思いますです。

 

また、この映画は計算されて作られているあたりの賢しさも見える。

ホットパンツの女性のドアップだったり、ともかく序盤は女性の露出度の高い姿で(男性)観客の興味を誘引するような仕掛けになっていて、しかしコングが登場してからはそういうのはなりを潜めてくる、というあたりは結構用意周到だと思いますです。

オリジナルの製作は76年なんですけど、吹き替え声優の挟んでくる小ネタが90年代のものがあったりするので、すごいタイム・パラドックスがあるなーと思ったら日本に入ってきたのが2001年。

うん、まあ吹き替えのテンションで観ないと厳しいかもしれないとは思いますけど。

しかし吹き替え、というのはやはり映画の観賞方法の一つとして重要なのだな、と改めて想ったりする。

 

それにしても前述のような女性のエロで釣っている(クイーン・コングの乳房と乳首にだけ毛が生えていないのは腹が立つんですけど)くせに、まるでフェミニズムを掲げているような展開になる(一応、冒頭から女性の力をアピールしていたりするんだけど)あたりの倒錯っぷりもなんか癖になる。

いやもちろん、フェミニズムに対するアンチテーゼだと解釈するのがまっとうな見方なのだと思いますが・・・わからない。

60年代後半から70年代前半にかけてのウーマン・リブに影響を受けた部分もあるのかもしれませんが・・・とかそれっぽくガチっぽく語るよりもやはり一本のおバカなカルト映画として語るのがこの映画にとっても観る方にとっても幸せなのではなかろうか。

広川さんだけでなくほかの声優陣の小ネタまで拾っているときりがないので、百聞は一見に如かずということで吹き替えを見ることをオヌヌメします。

いや、結構好きですこの映画。

 

「バイバイマン」

「リング」の口伝バージョン、というか。あちらはまさに「映像」を観ることによって感染するという映画に忠実な映画(なんだこの言い回し)だったような気がするのですが「バイバイマン」はその情報伝達が言語であるというのがかなり興味深い。

 

こと「伝える」ということに関しては人間は言葉に大部分を依拠していて、なおかつ情報を伝える(あるいは伝えない)ということは社会性動物である人間にとっては生存において重要な役割を持っているはずで。

本質的に、人間は言葉によって情報を伝える生物であり、それがこの映画の燃料になっていると思う。そこにあるのは能動性、というか「観る」という行為は相対的に受動的であるというか。

えーともかくそういうアクティブな伝えたいという欲求(不満の解消)の発露。恐怖を一人で抱え込むことへの不安、それを共有したいという願望。4人が手をつなぐシーンなんて、まさにそれそのものでしょう。

そういう、人間の持っているシステムを巧みに使っているのがバイバイマンというクリーチャー。

これ、たとえばブキミちゃん的な話だと思えばわかりやすいと思うんですよね。それが危ない情報だと分かっていても(あるいは逆に分かっていないから)伝えずにはいられない。好奇心であれ恐怖心であれ、そうやって致死性の情報が拡散していき被害者が増えていく。

あとはバイバイマンの殺し方。ここでまた「視覚」的な演出を取り入れているのもグッド。それが、逆説的に目に見えるものだけを信じるしかない人間の脆弱性を暴いているのも、まあ別にこの作品がトレイルカッターというわけではないですが、こうはっきりとした一つのモチーフとして使ってくれるのは珍しい気がする。この辺はちょっと「スパイダーマンFFH」のミステリオ戦を思い浮かべたりするあたりだったりしました。

 

あとはそう、昨今の情報社会(この言葉も懐かしい響きを帯びているなぁ)における真偽のわからない情報に踊らされる現代人のメタファーとして捉えるのもアリっちゃアリなのかも。

ほかで気になったのは、黒人が疑われ・(幻覚において)たぶらかし・殺人をおかし・襲われる対象に終始しているという点が、すごく意図的なものに思えたんですよね。

そして、そこに口伝という語りが加わることで人種問題みたいなものをそこはかとなく盛り込んでいるのでは・・・というのはさすがに考えすぎだろうか。

 

まあ、ナイトテーブルのくだりとか、特にラスト方面の姪っ子のどっきりのためだけに粗雑に処理した印象は否めませんし、手放しでほめられるものではないと思いますけど。

 

あの幕引きの仕方はB級にありがちではあるものの、よく考えればバイバイマンのロジックとしては至極当然なのですよね。自己(という概念がバイバイマンにあるのか不明ですけど)の存続・拡散のためにはそのコミュニティ内を全滅させてしまっては不可能になってしまいますから。

そういう意味で、極めてウィルスとかの感染プロセスみたいなものを踏襲しているんですよね。そういう意味でも貞子的というか。

 

個人的にはバイバイマンはむしろあそこまでクリーチャーっぽくせずに徹底的に(それこそ貞子みたいな)霊的な存在であった方がより生理的な恐怖を掻き立てることができたんじゃないか、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。

 

「ミラクル・ニール!」

まさかの犬映画で犬エンド。「少年と犬」並みの犬エンド。

てっきり「宇宙人ポール」みたいなポンコツナードのお話かと思いきや、なんか所々にブラックジョークが散りばめられていたり作風が全然違ってたので調べてみたらモンティ・パイソンテリー・ジョーンズだったんですね。んでもってロビン・ウィリアムズの遺作と。

 

力を与える人間のリストの中にリベラル気どりの福音派であるサラ・ペイリン州知事だったり、まあ露骨なアメリカンマッチョとかはそれらしい。

あと妙に下ネタが多いですね、メタファーとしてだけど。ストレートなうんこネタとかもありますけど、くだらなすぎて面白いと捉えるかやっぱりそのままくだらないと捉えるか、分かれそうではあります。わたしは前者ですが。

あの宇宙人たちの倫理観が実は、ってとこらへんなんかも星新一的で面白い。

ちらっとブライアン・コックスが出てるのもお笑いポイント。

まあ犬の扱いが良かったのでOKです。

 

「エイリアン・スナッチャーズ」

こういうどうしようもない映画をVHS画質で観るとノスタルジーに浸れる。

しかしこの映画のどうしようもなさったら本当にない。

この映画ときたら「戦争で人類滅亡しちゃいました。別の銀河(数光年先らしいんですけど、それって同じ銀河内なのでは?)の宇宙人も病(吹き替えなので、原語はもっとちゃんとしたワード使ってるのかもですが)で滅亡寸前なので人類との異種交配で存続しようぜ。そのために人類にセックスさせようぜ」

どうですかこれ。中学生並みの設定でしょう。そこで描かれる交尾の様子ときたらやたら長くて3,4回にわたって描かれる割に腰は動いてなかったりカメラアングルにしたってAVの方がよっぽど凝ってるしそのくせやたらと乳首だけは出そうとするし洋ピン特有の糞ダサいずっこけBGMが流れ出すし、中学生並みのエロ妄想と中学生並みのアダルトビデオ知識で出来上がっている始末です。

そんな映画に何故か登場しているアダム・ボールドウィン、というのも笑いどころとしてカウントできる。

 

そういうどうしようもない映画なのですが何故か宇宙船の模型だけやたらと凝っていて、なんかの作品の流用なんじゃないかとか思うんですよね。船内のセットはバカ殿並みなので。

いやもうね、ツッコミ出したらキリがないというか、そういうツッコミどころを笑ってあげることがむしろこの映画を楽しむためのスタンスなのではと思うわけですね。

編集とかセットとかカット割りとかサウンドエフェクトとか、そういうものの良しあしを知るための反面教師の素材としては優秀であると言えるでしょう。

冒頭のモンタージュの説明不足っぷりやジャナさんの笑ってしまう死体のポーズを何故かカメラに収め続ける謎アングル。

生殖器に遺伝子コードを移植したと言う割に、手術の映像では横隔膜付近にメスを入れているというちぐはぐっぷり。

やたらと一の高いベッド。

何故かジャナとトリットが起き掛けで不自然に仲が悪いし、躊躇なく瓶のようなものでトリットを殴打する勢いとか、機嫌が悪かった理由も特に説明されずに仲直りしていたり、誰がエイリアンに化けているかわからない状況で自分でも「ジャナと行動する」とか言っておいてさっそく彼女を放置しておいて彼女は殺されちゃうし。

 等々、笑える要素は結構詰まっています。

 

だけどまあ、敵側(一応)にも反乱分子がいて、それが誰なのかわからならいというツイストは上手く描けば面白くなりそうだったり、無駄に長くて無駄なシーンが多かったりするので、それこそトワイライトゾーン的に尺を1時間程度にして上手く編集すればそれなりに見れるものにはなりそうではあります。

それはそれで退屈なものに仕上がってしまいそうではありますが。

 

しかし4人のうち3人が反乱分子ってそれもはやお前が反乱分子だろ。

 

「落としもの」

 

絵本作家ショーン・タンが自らの絵本を原作に、共同監督としてアンドリュー・ラーマンを据えて自ら短編アニメーションとして映画化したもの。

ちひろ美術館で開催されていた「ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ」の展示の一つとしてリピート上映されていたのを観賞。

そもそもがこの展覧会で彼のことを知ったのですが、中々どうして素晴らしい展示ございました。

「落としもの」とは別ですが「アライバル」の絵コンテやスクラップでコラージュしたものなどなど、見所盛沢山でござんした。油絵でメルヴィル通りを描いた作品などの小品も良いのがたくさんありまして。

展示を見るまで、人間ではない生き物をメインに描く、それこそファンタジックな作風なのかと思いきや、この「落としもの」もそうですが「アライバル」を筆頭に社会的な、そこから帰納される生き方のようなミニマルな問題を表出させる人なのだなという印象を受けました。


して「落としもの」なのですが。
えー何というか、わたしはとてもテリー・ギリアムちっくなビジュアルの世界だな、と思いました。

たとえば大きなタンスのような引き出しから大量の書類を渡されるシーンは「未来世紀ブラジル」(よりはまあ、「うえきの法則+」のモップをゲットする場所に似てるんですけど)ですし、いくつもの標識が組み合わさった標識の集合体のビジュアルは「ゼロの未来」で観たものでもある。いや、あっちほど理路整然としているわけでもないし、時系列的には「落としもの」の方が先なんですけど。共通するものがある、ということで。

あるいは、冒頭の浜辺で主人公とあの奇妙な生物の真後ろに屹立するダムのような巨大な壁(に見立てられているもの)や、彼らが戯れの中で使っていたビーチボールをゴミとして黙々と処理していく白服の男たち。

ギリアムっぽいとは言いつつも、展示されている原作のロスト・シングからはそこまで感じなかったんですよね。が(それとは別にこのロスト・シングは日本の絵本に慣れている身からすると構図とかコマ割りとかバキバキに凝っていて滅茶苦茶楽しいです。絵本というよりは漫画的な技法に近いかも)、それをアニメーションにする過程でより緩いディストピアなイメージが盛り込まれているような印象。

それは多分、絵本では省略されざるを得ないコマとコマの過程をアニメーションという動きをくわえて描出することで立ち現れてくる空気感とも呼べるようなものだと思う。

ディストピアといってもわかりやすく完全統御されたガチガチの世界観ではないのですよね。むしろ個人の生活と密接に繋がっているがゆえに気づくことのない緩やかな、それこそ環境管理型権力が蔓延した(つまり私たちが生きる現実と全く同じわけですが)社会。

たとえば主人公の暮らす家。その家と全く同じ形の家々が立ち並ぶあのサバービア的な気持ち悪さ。あるいは見た目が均質化された町中を往来する人々の「顔」のなさ、その顔のない人々の行列が主人公と不思議な生き物の二者以外は前へ倣えで一方向に進んでいく様。

そんな社会の隙間、路地の間隙にある華やかなイマジネーションに溢れた世界。あれが、この緩慢なセクショナリズムに覆われた社会にあって唯一彩に満ちた空間であり本来持っている創造性なのでせう。

けれど、その不思議な生き物を見ることができていた主人公が最後にその緩やかな社会の中にじんわりと溶け込んでしまうことになるあのラスト。

カメラを引いていくと、主人公を乗せた列車と同じような車両が無数にレールの上を、あの町の中を走っていく様。

彼が落としてしまったもの、ロスト・シングとは何か。それを言葉にしてしまうとあまりに陳腐でチープなのでわざわざ書くことはしませんけれど、後生大事に抱えていきたいものであります。

本編とは別のことで一つ。
ストップ・モーション・アニメーションやセルアニメでの表現を期待する人がいるというのもわからなくはない。
ないのですが、9年かけて製作したということは(もちろん9年間それにのみ注力していたというわけではないことは承知の上で)、そのプロセスの中で手法についても十分に考える時間があったわけで。

「アライバル」の映像化の話のエピソードから考えれば、彼はコストパフォーマンスというものよりも「表現として」の部分を重視している気もしますし、であれば観客として考えるのは「なぜ●●じゃないのか?」よりも「なぜCGだったのか」ということなのではないかと思うのです。

 とはいってもバジェットの制約というものとは逃れがたいので、種々の都合の兼ね合いでCGにしたのでしょうけど。

けれどほぼ全工程でショーン・タン自身が関わっていることで、彼の絵で描かれる非実在のオブジェクトの質感は、むしろ実物として存在するものを動かすストップモーションよりも適しているとは思います。

とはいえ展示されていた立体物を見るとストップモーションでの表現というのもかなり期待してしまうのも禿同と言った感じなのですが。

 

「ジョニー・イングリッシュ」

かなーり前にちょろっと観た記憶があったんですけど、頭空っぽにして観ると今でも笑えますな。というか「007」のパロディだと分かってなかった以前よりももっと好意的に観ている自分がいる。

しかしぐっさんの吹き替えが思った以上に男前で笑ってしまいました。

あとマルコビッチがこんなにメインで出ているとは思わなんだ。

 

 

突入せよ!「あさま山荘」事件

 そういえば原田監督の作品ってほとんど観たことなかった。「クライマーズ・ハイ」くらいじゃなかろうか。

そんなわけで観たんですけど、いやはや「シン・ゴジラ」よりも先にやってたんですね、ああいうこと。

序盤のハイテンポに進んでいく警察側の動向の描き方ってあんまりない気がする。原田監督のリメイクした「日本の一番長い日」の批判を聞くに、なんとなくこっちでもうサンプリングは済ませちゃっているから、なのかなと。

あさま山荘事件を扱ったものなのに連合赤軍側の顔は確保の瞬間まで一切映さないという徹底ぶり。

その代わりに描かれるのは警察側の内情。徹底して警察の内部の動きだけを追っていき、それがずっこけまくる様はまるで警察側の独り相撲のようですらあり、自壊にも近い様相である。

くだらない縄張り意識からくる内輪揉め、トップの無能っぷり、衆愚の厄介さなどなど、まあ観ていて滑稽で笑えてきます。

その滑稽さが極に達するのが連合赤軍を確保する際に高らかに鳴り響く勇壮なBGM。あれの阿保っぷりたるや。

けれど、ずっと警察側のゴタゴタを見せられた観客は嫌でも感動を励起させられる、という恐ろしさ。どことなく「エニィ・ギブン・サンデー」ぽいというか。

そういえば山路さんがこれだけメインで出てるのってブレイドの他では観たことないかも。いや、あの人は声優でもあるけど舞台でも結構活躍してる人なので私が観てないだけなのだろうけど。

 

スリープレス・ナイト

フランス映画のハリウッドリメイク、ということらしい。オリジナルは知りませんがこっちの出来はうーん…。

まず冒頭のアクションシーンがカット割り、カメラワークの見せ方が下手っぴい過ぎていきなり気を削がれてしまいます。

ほかにもアクションシーンはあるものの、カメラマンのやる気がないのかゼロ年代初期のアクションのようなモッサリ感が…。

野球場でのアレはオリジナルからあるのかアウトレイジオマージュなのかわかりませんが、やるならしっかりやれと。いやあそこをしっかりやられてもそれはそれで困惑するんだけど。

思い出したように腹部の傷を労わりはじめるジェイミーフォックスに笑ったりしつつ、まあなんというか午後ロー送りにしておくのが一番いいのかな、と。上映時間的にも。

 

 

玩具物語EP4:ウッディの解放

そういうわけでここ最近やたらと続編製作意欲を見せ始めたディズニー・ピクサーの新作を観てきましたよ。

トイ・ストーリー4」を。

 

 

トイ・ストーリーにはそんなに思い入れがあるわけではない。これまでのシリーズにしても、一作たりとも劇場で観てないし。

もとからそんなにお熱だったわけではないことに加え、少し前に一部界隈で盛り上がったウッディ玩具にまつわるエトセトラのせいで、ウッディというキャラクターに「変態」というラベリングが私の中で施されてしまい、トイ・ストーリーという作品とは別の次元で半笑いになってしまっていたりもしたのですが。

ともかく、キャラクターは知っているけどトイ・ストーリーというコンテンツにはそれほど関心がなかった、という極めて一般庶民的感覚。 
3,4年前に地上波で放送された「トイ・ストーリー3」を観て「うわ、ナニコレ超面白い」となり、「トイ・ストーリー4」がアナウンスされたので「あの傑作の続編なら観てみようかな」と思った次第でございます。とはいえ、3以外はほとんど内容を覚えていない。ついでに言えば3についても細かいところは覚えていない、という始末なんですけど。

なので、ほぼ「トイ・ストーリー4」だけの印象で書きますので、盛大な間違いを犯しているかもだぜ(なっち)。
 

そういう軽い気持ちではあったんですけど、私のような軽薄な者も熱心なファンにも少なからず共通する認識はあったと思う。

「え、トイ・ストーリー3の続編やるの・・・? だって、あれだけ綺麗にシリーズを完結させたんだよ?」という。

私のような一般観客は、というか普段から熱心にトイ・ストーリーに思いをはせているわけではない一般観客こそが、むしろそう思っていたと思う。

けれど、今回「トイ・ストーリー4」を観て気づかされた。もしかしたらトイ・ストーリークラスタの間では昔から言われていたのかもしれないけれど、少なくとも私は今回の「トイ・ストーリー4」を観てから気づかされた。

そう。正にタイトルの通り、トイ・ストーリーというのは「『トイ』・『ストーリー』」なのだと。まかり間違っても、アンディのストーリーでもなければボニーのストーリーでもないのだと。
これは、アンディら玩具こそが主体の物語なのでせう。
そこに「おぉ」となる反面、後述しますが、だからこその落胆もあったりするんですよね。結局、描かれていることは人形の皮を被った人間の話という、至極真っ当なメタファーに回収されてしまうので。
 

それに加えて、ちょろっとネット上の感想を観て「自立」というワードが出てきたりするのを眼にして、少し自分との齟齬を感じたのもそのあたりにあるのかも。(後述するような私の考えと同じような考えを持つ人もいましたけんど)
もちろん、そういうメタファーを含んでいるのだろうけれど、私からすればそれは些か人間側の論理に引き寄せすぎているような、傲慢さのようにも受け取れてしまうし、あまりに物語が矮小化されはしないか、と思うのです。
だって、ウッディたち玩具は人間じゃないし、人間や他の動物のように親という概念は知っていても彼らは持ちえない概念なわけですし。

いや、自由とかアイデンティティとか、そういう極めてあいまいで普遍的なワードとして人間と玩具をくくることはできるのでしょうし、それは作り手の意図でもあったのだろうけど。

未だに玩具で戯れる私は、そんな風に思ってしまう。まあ、すでに述べたようにトイ・ストーリーシリーズは3を除いてほとんど記憶がないので、もしかすると1と2でそういう描かれ方をしたのだろうけど。

ただやっぱり、私はそれよりも自立とか巣立ちとか空の巣症候群とか、そういう話というよりも、もっとこう「玩具」という、生物とは異なりつつも魂を持った者たちの「自由(意思)」についての、もっと言えばレゾンデートルについての話だと思うわけで、そこに人間を重ね合わせてしまうこことに抵抗を感じなくもなくもない。
いや私がぎゃーぎゃー言っても監督がはっきり「エンプティ・ネスト」って明言してたんですけどね。レゾンデートルに関しては少なからず作り手の意図と一致している部分はあるでしょうけど、でもやっぱりそれについても人間のメタファーでしかないのが辛いところ。

しかしやはり、既述のような難癖を別にしても、結局のところ自由意思なる概念が脳みの電気信号でしかない以上、有機物ではない無機物であるところの玩具の自由意思ひいては魂みたいなものを並列してしまうことには安易さを感じてしまう。
かといってわかりやすい理由付け(魔術とかオーバーテクノロジーとか)が欲しいかというとそういうわけでもないし、ていうかその辺は突き詰めてしまうと世界観が崩壊してしまうので語り得ない場所ではあるんでしょうけど。

これって、まあ程度の問題ではあるけど擬人化しただけであって(それでも玩具が意思を持って動くことのアクションは視覚的に面白いので映画的にはよろしいのですが)、玩具の意義とか、ひいては玩具のもたらす「遊び」そのものについての語り口がないのが、悶々とする原因なのかも。つまり私の悪癖である「ないものねだり」です。

生命ではない。魂はあるけど。そんな言い回しになるけど、そういう考察を深めるタイプではありません、というのが口惜しい。何度も書きますけど、これは作品の瑕疵なんかではまったくなくて、私個人のないものねだりなんですけど。


 えーここいらで切り上げないと本編に辿り着かないので、この辺はまあ気になる書籍とかもあるのでそこらへんでセルフカバーすることにします。

それになんだかんだ言って、面白いからいいんですけど。

 
で、本題。
今回の物語が動き出すの導入としてあるイベントがボニーの家族旅行なんですけど、同時にウッディにとってはもっと大きな、旅の話になってるんですよね。

ボニーという人間にとっては旅行であっても(しかし、新しいコミュニティに入るための、一種通過儀礼的な予感を孕むものではある)、ウッディのように人間よりもずっと小さな人形にとっては、世界はより大きく見える。だから、ボニーにとっての旅行も、相対的に世界が拡大されるウッディにとっては、それは旅と呼んで差し支えないものになる。実際、ウッディは大きな変化を遂げる。

で、それに説得力を持たせるのはウッディたちの視点で描かれる世界。
思えば、ピクサーは世界を異化する視点から始まっていた。ピクサーの始まりでありまさに「トイ・ストーリー4」のオリジンでもある「トイ・ストーリー」もそうだし、2作目の「バグズ・ライフ」もそうだった。
その視点自体は「ミクロの決死圏」なり「縮みゆく男」なり昔からある古典的なネタだけれど、それをCGによる最新鋭のテクノロジーでもってそれまでは技術的に不可能だったリアリティを再現したことにピクサーの偉業というのはあるわけで。もちろん、今の技術に比べれば見劣りするものはあるかもしれないけど、すでにこの段階から「トイ・ストーリー4」の種は撒かれていたとも言える。
 
そんなウッディたちにとって拡大された世界で主に描出されるのは、移動遊園地という屋外空間。
これまでのシリーズでも、もちろん屋外は描かれてきた(はず)。でも、基本的にはアンディの部屋だったり、ゲームセンター(超うろ覚え)だったりと、ともかく物事が躍動するのはほとんどが屋内だった(はず)。

何故なら玩具とは往々にして(特にウッディたちのような人形に類する玩具は)屋内で遊ばれるものだし、屋内で邂逅するものだから。

だからこそ、今回は『外』だったのでしょう。
冒頭、屋外でのラジコン救出の話が展開されるんですけど、ここでいきなり屋外=「外」の世界への恐怖をあおるかのように雷が鳴り雨が囂々に降っていて、ウッディの不安を予感として掻き立てつつ、今回のメインであるところのボーとの離別も描かれる。あ、構想の順序としては逆かな。
 

ちょっと本筋からズレるんですけど、気になったことが。
ボーが陶器製(ポリストーン?)なのに滅茶苦茶動くということについて。
他のキャラは素材や構造に合わせた可動域しかないのに(それゆえに楽しい)、彼女(の一味)はそういう法則性を無視してやたら動く。ずいぶんテカった表現がされるていたり、歩く音がちょっと他に比べて高いから素材が気になってはいたんですけど、腕が折れるところでようやく材質に気付き、その材質であんなアクションしてたんですかい、と気になったんですよね。
そもそもアレってオモチャなの?と化色々な疑問も無きにしも非ずな一方で、ボーを筆頭とするスカンク号組の、明らかに可動域や素材に極端な制限が加わりそうなのに、やたらと動く様子を見るにつけ、私はフェミニズム的な視点を見出した。
スカンク号組のキャラクターって全員、性別が女性(雌)ですよね。これって、素材や構造といった自分の意思の介在しない外界からの所与の制約に屈服することのない存在として描かれているのでは。その制約を男尊女卑の社会構造として、それによって不当に貶められ続けてきた女性の軛の破壊の表象として、彼女たちがやたらと動き回っていることの意味合いを導けるのでは、と。

 
本筋にもどりましょう。
過去作でも、もちろん屋外に出ることはあった。と思う。けれど、それはもっぱら屋内の延長としての庭だったり、屋内の場所から場所へ移動する過程としての「道」でしかなかったように思える。

だけども、今回はセカンド・チャンス(意味深)というアンティークショップなる屋内と、上述の移動遊園地という空の下に晒された屋外空間で話は展開される。

この移動遊園地というのがなんとも言い難い塩梅で、明確に囲いこまれた箱庭的空間でありながら、しかしあらゆる場所へと訪れる移動性を兼ね備えているという屋内・屋外の両義性を保持している空間にも見える。これの意味するところは、最後に触れますけど、多分それこそ多様性の担保みたいなことなのではないかと思います。

もちろん、ここでいう屋内は新しい世界としての外界であり、その新世界を知るグルとしてボーが登場し、彼女らの助けと野良玩具という新たな価値観の提示によってウッディは己の(というか玩具の)至上命題だと考えていた持ち主に尽くすという価値観を揺さぶられることになる。

ここで面白いのは、ウッディはボーを助けるつもりでセカンド・チャンスに入ったのに、その実は彼こそが彼女に助けられているという事実。それはフォーキーのこともそうですし、既存の価値観に拘泥するがあまりボニーからの愛情を受け取れない空しさに対する新しい価値観の提示による救い、という意味でも様々な助けになってくれています。

これ何気ないので気づきにくいですけど、ジェンダーロール的な逆転が起きているんですね、実は。従来の女性は助けるべき・助けられるべき無力なプリンセスという謬見を、展開的に極めてシームレスにウッディとボーの立場を逆転させることでイヤミなく描いているんでげす。

ウッディがボーを助けようとしたこと自体は仲間意識への思いやりではあるのだけれど、そこにジェンダーの視点を取り込むことで、それ自体が一種男性が無意識のうちに刷り込まれている誤ったレディ・ファースト精神みたいなものへの一考をくわえさせているようにも捉えられる。

現に、ウッディはボーの現在の暮らしぶりを知らないまま「助けなきゃいけない」と思って先走ってしまったわけで、理解よりまず先に行動に出てしまっていますし。そのせいでフォーキーが囚われてしまうわけで。

まあ観ている間はそういうことを考えていたわけじゃなく、書いているうちにシーンの描かれ方を思い出して解釈を加えただけなんですけど。

 
多分、1~3までは上で書いたような屋内=箱庭的な優しい世界での話が展開されて、今回ウッディはそこから逸脱して外の世界で生きることを選択したので、過去作を否定しているというように受けとって怒っている人がいるんでしょう。なんとなく、怒っている人の反応から察するに。

確かに、これまで描かれたテーゼのアンチになっているのでしょう、過去作全然覚えてないのであくまで憶測ですけど。

だども、ウッディではないもう一体のキャラクターを追っていけば、「トイ・ストーリー4」が過去の3作を全否定するものではないことはわかる。
言うまでもなく、そのキャラクターというのはバズ。だって、一緒に屋外=外の世界を冒険したもう一人の主人公であるバズは、それでもなおボニーの元に留まったんですよ。
それはバズがウッディと違ってボニーに愛されていたからだ、とも言えるわけですけど、別にそれは反論にはなっていないですよね、普通に考えて。

だって、そもそもがこれは今の状態に行き詰まっていたウッディが、思いがけず新しい世界(=価値観とか場所とか仲間とかとかとか)を知ることになるという話ですもの。
ていうか、自分にとって居心地のいい場所があればそちらに行くでしょう、普通。
あまりそういうものと結び付けるのも安直なのでどうかと思うんですけど、日本の観客が4に関して否定的なのと過労死とかの問題とかってすごいリンクする気がするんですよね。日本人の、よく言えば忠義、悪く言えば奴隷根性みたいな、個々の考えよりも既存のコミュニティへの所属(ていうか隷属)と調和(というか逸脱せず右に倣え精神)を優先させようとするところが。

そうやって、ウッディと同じ旅をしたバズが、それでもなおボニーの元に留まったことで、持ち主に遊ばれること、というウッディがこれまで抱いていた価値観(それは、とりもなおさず1~3で描かれたことでしょう)である玩具の幸福を否定せずに、肯定したわけでもあるわけですよ。

既存の価値観に一度疑義を呈し、新たな価値観 と対置させ、それでもなお取捨選択ではなく双方を包含する。

あうふへーべんしますた、ってな具合に落とし込んだのが「トイ・ストーリー4」なのだと思いましたまる

まあ、個人的な見解としてはフォーキー♂とフォーキー♀は遠からずゴミ箱に送られることになると思いますが。子どもって、結構その辺はシビアですし、飽きたらポイですから、ええ。

 

本筋に関しては大体そんな感じです。特にトイストーリーに思い入れはないですけど、面白かったです。


で、以下は本題とは別で思ったこと。

 

・ ブルズアイを正面からとらえたカットがオチョナンさんみたいで怖い。
・3が抜けた青空で終わったのに対して夜の月で終わる、というのもなんだか対比的というか、一筋縄ではいかないものを感じる。
・ボニーを心配するがあまり、思いがけず外の世界に旅をすることになる、というボニーへの忠誠というウッディのキャラクターを生かした物語の導入になっていて感嘆。
ミクロマンサイズくらいのG.Iジョーっぽい3人衆のハイタッチ空振りネタを本編の外のラストで回収してくる笑わせ方など、最後までサービス精神たっぷりでたいへんよろしい。
・もしかしたら過去作で描かれてるのかもしれませんけど、ウッディとかバズって大量生産の商品? だとしたらアイデンティティ・クライシスに陥ったりしないのだろうか、と気になったり。というのもボーをアンディ家にあったボーであると看破したことが不思議だったんで、大量生産されたものだったら、一見しただけじゃ普通わからないよなーと思ったので。

・ギャビーのラストについて。
いきなりあんな人形があんな姿勢で座ってたら私は恐怖で失禁する自信があるんですけど、迷子だったあの女の子は大丈夫? 特にギャビーって結構ホラーテイストな趣ですし。幼いころからメリーさんとか日本人形とかで調教されたせいかもしれませんが。

・吹き替えのプログラム数が圧倒的で吹き替えでしか観てないのですが、ゲスト声優のチョコプラが普通に上手でびっくり。特にダッキーだかバニーだか忘れましたが大きいウサギ?の方の声は、加瀬さんぽい声質でありながらコミカルな感じでよござんした。
あと戸田さんはまあ、ジョディ・フォスターとかシガニー・ウィーバーとか(大体テレビ放送版なんですけど、わたくしは金ローやら午後ローやらで吹き替え調教されていますので)やってますので、毅然とした芯のある女性の演技はぴか一なんですけど、今回はもうちょっと優しさもあるキャラなんで、そこもイヤミなくハマっていたのが素晴らしかったです。ギャビーの新木優子さんも、あのキャラの哀愁が声質とマッチしててよかったどす。
原語版のデュークがキアヌというのが気になるのですが、いかんせん字幕版のプログラム数が極端に少ないのでタイミングががが。

・追悼されてたアニメーターのアダム・バークさん、「アイアン・ジャイアント」にも参加してたんですねーと後から惜しむ。まだ40代だったのに残念。


とまあこんな感じで。

美しき兄弟愛(ただし当人たちにのみ理解可能)

 

ずっと気になってた(といってもここ数ヶ月だけど)「カニバ/パリ人肉事件38年目の真実」を観てきましたですよ。

 

アルバトロスでもトランスフォーマーでも配給できなかったらしい、というくらいなのですが、まあわからないでもない。
東京ですら1館でしか上映していないという小規模公開で一日一回の上映というキツイ上映プログラムになっております。


映画とは別でロフト?でトークショーもあって、私は現地には行けず生放送のタイムシフトで観たんですが、和やかなムードの中でまさかの流血沙汰があったり、こちらも色々と衝撃でした。
ライブ配信の映像にボカしがかかって、まさか映画とのリンクをするという「奇跡」まで起こる。まあ流血というのは、佐川純さんが映画で見せた「アレ」のその先をさらに開花させたせいであって……ともかく色々と凄まじいことになっていました。

このトークショーでは色々と映画では知れない情報が登壇者の口から飛び出すのですが、中でも根本敬さんの、佐川一政のあの姿はあの時期だからこそ撮影できたものであり、あの奇跡的なハッピーエンドも、今では無理なのだろうということも暗に言及されていたり、ほかにも佐川純さんが事件当時のことを話すときに涙ながらに嗚咽したりせき込んだりと感情の発露が観られたりする、貴重な場面ばかりでございました。

とまあトークショーの話を延々と垂れ流すのも面白いのですが、それだけでもかなり量を使うことになってしまうので早々に本編について書いていきましょう。

 
 これ、海外ではドキュメンタリー映画の賞を獲得していたりするのでドキュメンタリー映画として観るのが正統なのかもしれませんが、しかし画面に現出する(柳下氏が言うところの)異形さはほとんど劇映画的なフィクションの領域にも踏みこんでいるような気がする。私が寡聞なだけといえばそれまでのことではありますが。
けれど同時に、その異形さが明確に映し出される瞬間はやはり劇映画(=作りもの)を観る時に担保される観る者の理性的なセーフティを、ドキュメンタリーでありまさにカメラの前で嘘偽りなく行われているがゆえに容易に超越してくる。

この映画は、二人プラス一人の顔以外を映したりはしない。これは比喩とか誇張ではなく、始まった瞬間から終わりの瞬間まで登場人物の顔のドアップだけしか映し出さない。佐川兄弟の幼少期のホームビデオや佐川一政が出演したアダルトビデオの映像がインサートされたりはするのだけれど(そして、それのみがほぼほぼ私たちがシンパシーを感じることのできる僅かなものである)、ほとんどは佐川兄弟の顔面のクローズアップのみだ。

ところがぎっちょんてれすくてん、この映画の特徴的なところは、顔のドアップだけではない。むしろ、その顔にフォーカスが合わないことにこそある。
それが意味するものとは。端的に言って、理解不能性ではないだろうか。あるいはその不能性から逆算的に導かれる些少な理解可能性というか。

多分、監督は最初から佐川兄弟を理解しようとなんてしていないのではないか。じゃなきゃあんなにソフトフォーカスしっぱなしにならない。

もちろん実際のところはわからない。当初はその正体をあばこうとして、その過程で方向転換せざるを得なくなったのかもしれない。理解の外にあると。それでも、わからないなりにもときたま監督が解釈を加えようとしているのではないかと思う場面がある。

たとえば、佐川一政が何かを「口にする」場面がいくつかある。ほとんど常時ソフトフォーカスなこの映画にあっても、その瞬間はどれも恣意的なソフトフォーカスでボカされる。そして、最初の何かを食したシーンの後に佐川一政の唇を観ると黒ずんだものが付着していることがわかる。

フォーカスがかかっているとはいえ、会話などからチョコレートを食べたことやお茶を飲んでいるということはわかる。しかし、フォーカスが合わないことによって誰もが意識することなく生きるために行う「食す」という行為が、まるで観てはいけない不可解なもののように切り取られる。

人間はおろか動物であればだれもが生存のために平然と行う営みであり、それ自体は理解可能なもであるにもかかわらず、「佐川一政が」「食す」となると不穏な意味が付与される。もちろん、その理由は明白で、だからこそ監督はこのように描いたに違いない。

 
それでも、時にカメラがそうするように観客が佐川に近接する瞬間はある。
兄弟愛を捉えた場面、佐川純が「まんがサガワさん」(佐川一政が自ら事件当初のことを描いた漫画)について倫理(にもとること)を語る場面がそうだ。

そこに映し出されるのは我々にも共感可能なものだ。しかし、カメラが、佐川に寄り添い観ている側が彼(ら)を解きほぐそうとすると、近づきすぎるがゆえにそのフォーカスはテクスチャを、顔の表象を失い抽象的な絵画然としたものに変容していくように、近づくこと=理解可能性が高まるがゆえに、より彼らの理解不能なその異形さが際立つ。

完全に理解を拒むものであれば、むしろここまで複雑なものにはならない。しかし、どれだけ異形であろうと佐川兄弟は人間であり、シンパシーを抱く余地がある。それがより二人を不可解な存在へと押し上げている。


本作を撮った二人の監督は、インタビューでこんな風に答えている。

ラヴェル:前略~映像の焦点を合わせたり、あるいはボカしたりしているのは、我々がその撮影現場に居ながらも、日本語がわからないことで”不在”であることを示しています。この手法こそ(観客)が佐川氏の世界に入り込んだり、抜け出したりする感覚に思っています。

キャスティーヌ=テイラー:前略~もしも私たちがこの映画をミディアムショットや典型的なドキュメンタリーのスタイルで撮影していたら、観客は主人公との距離を感じてしまうと思ったのです。カメラを物理的に近づけることで、精神的にも密着して不快感を生じさせている。つまり、観客は主人公との間に快適な距離感を保てないことで、強制的に佐川氏のアイデンティティーと自分との区別を強いられることになるのです。

佐川兄弟の顔だけでない。彼らの言葉すらベールの向こう側に追いやられる。そして、画面を通してしか佐川兄弟を観聞きすることができない我々観客も当然同じレイヤーに留まることしかできず、理解から遠のいていく。
そう。だからこそ、この映画の画面には佐川兄弟と、兄にその存在を認められる里見瑤子の顔(と彼女の胸)しか映らない。なぜなら、この二人と一人の共有する世界観に他者の入り込む余地はないから。

だとしたら、それは異邦人である二人の監督だけの話では決してない。なぜなら、先に述べたようにこの映画は佐川兄弟の世界(とそこに寄り添うことを許された一人の女優)の話であり、兄弟のような異形という言語を持ちえない我々にも理解できないものであり、やはり監督と同じように観客も不在になってしまうから。


さて、ここまでカニバリズムを実行した佐川一政のみならず、かいがいしく彼の介護をする弟の佐川純を佐川兄弟として一緒くたにして語ってきたのだけれど、では佐川純はカニバリズムを実行したり人を殺したりといった犯罪を犯したりしたのかというと、別段そういうわけではない。

が、間違いなく弟の佐川純も異形である。むしろ、この映画はそれを白日の下にさらすことこそが目的だったのではないかとすら思える。

もしかすると、監督も当初は想定していなかったんじゃないか。撮影を進めていく中で「アレ」を目撃してしまい、弟にも関心が向いたのではないか。(トークショーで里見さんが言うには、監督が「アレ」を目撃したとき、凄いものが撮れたと興奮してたらしいですし)
それで兄を撒き餌に、カニバという異形性ゆえに隠れていた弟の異形性を白日の下に晒そうとしたのではないか。化物の正体を掴みに行ったら別の化物に遭遇したのだと。

それを示すかのように、この映画は佐川一政ではなく弟の佐川純の顔から始まる。ところが、「アレ」が明らかになるまで、佐川純の存在は佐川一政の陰に隠匿されている。それは演出上も明らかで、たとえば佐川純が喋っているにもかかわらず当人の顔は映らずに佐川一政にフォーカスされていたり、あるいは佐川一政の頭によってその奥で話す佐川純の顔が覆い隠されたりする。

 中盤、佐川兄弟のホームビデオが数分に渡ってインサートされる。70近い佐川兄弟の幼少のホームビデオだから、60年以上も前の映像だ。

そのビデオに映っているのは無邪気に、そして同じ服で戯れる佐川兄弟。ブランコを漕いだり相撲を取ったり、ともかく仲がよさそうだ。「右腕」に注射をされる佐川兄弟の反応の違いも、ともすると予兆だったのかとも思えてしまう。針を刺された瞬間ちょっとだけ顔を歪めるだけで特に関心はなさそうな佐川一政少年に対し、針を刺されることに過剰に反応していた佐川純少年。

二人が違うのはその反応くらいで、それ以外のほとんどはまるで双子のように同じ装いで仲睦まじい様子だけが延々と流れる。まるで二人が同質の存在であるかのように。

そして、ホームビデオの場面から暗転すると、兄の影に隠されていた弟の肉体がクローズアップで映し出される。有刺鉄線(鉄条網?)を自らの右腕に巻き始める姿が。

明らかな自傷行為はそれにとどまらず、包丁を3本ほど束ねたものをやはり自らの右腕に刺し始める。佐川純は自分の右腕から流れる血を頬張って啜り始める。射精まではしないが、性的な興奮を覚えるのだとカメラの前で事も無げに述べて見せる。

そして、そういう欲求を満たしたいがために、それを満たしてくれる女性との絡みを求めて自傷行為を捉えた映像を何回か送っていたことも明らかになる。
その映像は、目をそむけたくなるものばかりで、やばいです。千枚通しのようなもので腕を突いたり有刺鉄線を巻いてその上から仏壇用の熱い蝋燭で熱していたり、この辺は直視できない映像ばかりで配給会社が避けた理由もわかりすぎるくらいないわかってしまう。

そう、嗜好が違うだけでやはり二人は同じ異形を有している。ホームビデオはその伏線として機能しているのでせう。

それを補強するように、佐川兄弟と親交の深い根本敬の寄稿に、映画では描かれないが重要な佐川兄弟のやりとりがある。

佐川純と根本敬の誕生日をとんかつ屋で祝っている席で佐川一政が「悪かったな、俺のためにお前の人生だいなしにして」と言ったらしい。それに対して佐川純は「兄ちゃん、それは言わないでくれ、あのことは俺ちっとも気にしていない」と本気できっぱり言い切った(ように根本敬の目には写った)と。

映画本編を観た今、その言葉に偽りがないことは明々白々だ。

さもありなん。既述のように、表出する形は違えど兄と同じ異形である弟は、自身が内包していたものと同じものを感じていたはずだからだ。

いや、佐川純の言葉が本当ならば、それが明確な形で発現したのはむしろ佐川純の方だろう。なにせ、3歳のときには内なる異形を自覚し60年以上にわたって「刻み」続けてきたのだから。

そうして弟の異形性を暴き、ともすれば彼が主役にも思える中で、しかしやはりこの映画は佐川一政を主に据えていることが、里見瑤子の登場によって思い返される。

献身的に佐川一政に寄り添う彼女の挙動言動は、まるですべてを佐川一政に貢献しているかのようにすら思えてくる。彼女が「人を食うゾンビ」を演じた話を語る場面などは、まるでカニバを佐川一政と里見瑤子の共通言語化しているかのようにも見えてくる。

彼女が「メイド服を着ていなければ話の内容も変わっていただろう」と述べている。そしてメイド服を着た理由も考えると、それは偶然の積み重ねによって生じた奇跡的なやりとりなのだということを思い知らされる。まさに佐川一政自身が「奇跡以外のなにものでもない」とつぶやくように。


確かに奇跡だとは思う。そんなことを言い出すと、事件当時の誤訳によって不起訴処分になり国内外で裁かれることがなかったことも奇跡なのだけれど。

まあ、そもそも佐川兄弟に限らず他者を理解すること自体が不可能なのだとわたすは愚劣なシニカルさでもって考えるわけですが。

蜷川ファミリー劇場に迷い込んだ大馬鹿な子

平山夢明原作と聞いて観に行ってきました「ダイナ―」。

まああの変な人の作品は実のところ一作しか読んでなくて、それが滅茶苦茶面白かったのと、過去の作品の書評を読んでるとずっと同じタイプの小説を書いてきたのかと思ったので「ダイナ―」もそういうタイプなのかと思ったんですけどね。

 

なんだよファミリー映画じゃないかよー。期待したものと違うものだったよこれ。

 

で、まあ、例のごとく「ダイナ―」原作は読んでないけど、コミカライズされているのを最初の数話だけ読んだ感じだと、導入部分とかの展開はほぼ同じだしこりゃ原作も同じ感じなのでしょうかね。

原作もオチ同じなのだろうか。だとしたら、なんかこっちが勝手に平山夢明を勘違いしている可能性が高いんだけど。

なんかモヤモヤするものがたあったから、映画観た帰りに図書館寄って借りようと思ったら貸し出ししてましたよ、ガッデム。

ウィキも「ダイナ―」と「テラフォーマーズ」のノベライズしかページ作られていないあたり、なんか色々モヤモヤするんですが。

 

というのもこの「ダイナ―」、なんかもう中二病患者が考えたような設定だからなんですよ。で、そういうたぐいの作品だけウィキの記事がある、というのがモヤモヤするのですね。

ま、一作しか読んでいない私があれこれ言うのもアレなんですけど、「ヤギより上、猿より下」を読んだ人間からすると、あの人間の底辺の底辺のどぶ底をさらったようなものを見せてもらえるかと思ったので、そういう意味で期待してたものと違ったというわけなんですね。

平山夢明にしてはかなりメジャーな作風であるから、ここまでメディアミックス展開ができたのかもしれないし。本人も本人で変人狂人の類のくせして「ゴッド・ファーザー」フリークなので、王道みたいなものはちゃんと外さない人なのだろう。

 

前置きはこの辺にして、映画本編について吐き出していきますか。

原作読んでないので何とも言い難いのですが、ウィキ読んだ感じだとキャラクターの設定はだいぶ弄られている気はする。

監督は蜷川実花ってことで、わたくしは沢尻エリカの「ヘルタースケルター」は観たけど「さくらん」は観ておらず。ただ、本質的にやってることはそこまで変わってはないのかな、と。

てか蜷川監督9月にも映画公開するんですね。しかも太宰治の女性関係の話。まあ普通に「人間失格」と同じような話になりそうですが、どうなんだろう。「人間失格」は結構前に生田斗真主演で浦沢義雄が脚本に参加したものがありましたっけ。観てないけど。生田斗真小栗旬を並べるとイケメンパラダイスを思い出しますね~。

 

ちょっと脱線した。

まず言えるのは、この映画は映画というよりは舞台みたいなんですよね、全体的に。

一つは俳優たちのオーバーアクト合戦。藤原竜也を主演に据えている時点で予想はできていましたし、ヒロイン役の王城ティナ(なんかこの人の名前ってAV女優っぽい)も繊細な演技ができるタイプではないし。

窪田くんはどっちもイケるタイプですが、今回はクールな立ち振る舞いのときもどこか戯画化されたような演技でしたし、後半で自殺しようとするあたりのハイテンションぶりも明らかに過剰。

本郷くんとか斎藤工とかも言わずもがな。あとは真矢みきとかも、繊細さとか器用な演技をするタイプというよりは、やっぱり舞台向きの演技をするタイプでっしゃろ。

あとはライティングとか。すごい露骨だし、冒頭のカナコのモノローグで本当に舞台に立たせていたり、人込みの動きを過剰に演出してみせたり、ああいうのってあまり映画ではやらないでしょう。

セット(だよね? あの店の内装とか)のけばけばしさも、ほとんどリアリティを欠いていると言っていい。それこそ「ヘルタースケルター」みたいに。

あとはそう、カナコのモノローグもそうだけど全体的にCMみたいな絵作りというか編集が多い。そういう意味では中島哲也監督あたりとも割と同タイプな気がするので、好き嫌いははっきり分かれるだろうなぁ、というのは想像に難くない。

 

ただ、あの世界観を邦画のライブアクションで表現するには、これくらい画面全体を過剰にしてカリカチュアしないと無理だろうな、というのはわかる。中途半端にこの世界観から逸脱するようなリアリティを持ち出してこないあたり、監督もその辺のバランスはわかってるんだと思います。

 

しかし楽屋落ちというか身内ネタというか、あの辺とかもすごい賛否分かれそうですよね、あからさますぎて。すでに死んでいる大ボスに蜷川幸雄をあてがったり、藤原竜也に「ボス(蜷川幸雄)が俺を拾って育ててくれた」云々を言わせるくだりなんか、あからさまでしたし。小栗旬がしょーもない死に方する(というか、しょーもない死に方をする役に小栗を当てたんだろうけど)のとか、あのあたりも身内のノリを感じる。

蜷川ファミリーのことに大して関心がないけど事情は知っている、という程度の自分は割と「あはは、バッカだなぁ」と笑えるバランスではありましたけど。

 

クライマックスの二人でお料理は突拍子もないように見えますけど、あからさまなセックスのメタファーなので、命の危機に瀕した二人が性交渉云々という理屈としては一郎成立するんですよね。これ年齢制限もないみたいですし。いや、原作でも料理してるのかもしれないけれど、コミカライズ見る限りだと普通に性的な表現もあるっぽいので。

話自体は大人よりはむしろ中高生男子あたりが好きそうな題材ですし、全年齢向けという狙いはわからなくもないのですが、そのおかげでエロさやグロさというものが脱色されてしまい、代わりに導入されたのがポップでキッチュな蜷川節なので、本来あるはずのものが挿げ替えられているという点でどう足掻いても賛否分かれるような作りになっているのだなぁ、と。

 

全体としては、私はどちらかと言えば好きではある。

假屋崎省吾みたいな小栗旬とか、三下雑魚の武田真治とか、斎藤工キタエリの馬鹿っぷりバカップルとか、身体合成された本郷奏多とか、そういうバカバカしい笑っちゃうキッチュさがある一方で、真矢ミキと土屋アンナがすんごいちゃんとかっこいい人がいるんですよ、これ。

正直、真矢ミキをここまでカッコよく思えたのは初めてかも。さすがは宝塚といったところでしょうか。ていうか、上司とかお母さん役よりもこういう役の方が真矢さんの本領だと思うんですけど、むしろ今までなぜこういうのが私のような情弱の目にも触れるような場所に出てこなかったのが謎。

あと土屋アンナ。この人の劇中での言動とか立ち振る舞い自体ははっきり言って「どこの三流ラノベから持ってきたので?」と思うくらいなんですけど、黒ブラに花魁っぽい服装の土屋アンナがキマりすぎている。

超カッコエロいいんす。元から土屋アンナは黒髪の方が良いとは思ってたんですけど、今回はまさに我が意を得たりといった感じ。

正直カッコイイこの二人が観れただけで個人的には元取った感じ。

あと菊千代。見張り役という名の番犬でちゃっかり最後まで生き残る菊千代萌え。

何気にかなり違和感のないCGで驚き。

 

 

どうでもいいんですけど「あるてぃなんちゃらかんちゃら」とかいう色々な肉のパテを使ったハンバーガー滅茶苦茶美味そう。

あとはバカップルとカナコが吊るされる工場みたいなところ、あそこの雰囲気もいいなーと。あれセットなのかロケなのか、どっちなんでしょう。

 

でもやっぱり、これはかなり嫌いな人がいてもおかしくないだろうなぁ。

私の場合は一周回って面白いと思いましたけど。