dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

福島はかく語りき

「福島は語る」という映画を観た。土井敏邦というもともと中東を専門に扱う記者だった人が撮ったドキュメンタリー映画

 

土井敏邦さんは記者でありながら2005年から13本の映像を撮ってきた人で、キャリアもかなりある人にもかかわらず私は全く知らなかった。

これ、決定版(と上映会では銘打たれていた)も170分と大尺なのですが、完全版にいたっては330分(5時間半!)という長さなのです。が、多分、もっともっと尺を伸ばすことは可能なつくりになっている。

というのも、この映画はほぼ3.11のときに福島に住んでいた人へのインタビューだけを章立てている単純な形式だから。ちなみに決定版においては第一章から最終章の全八章で構成されている。

そして、この章立ての数字は観た限りでは明確なストーリー(物語という意味ではなく)ラインを描いているわけではなく、個々で完結していると言える。

章立てというこの形式は、そのまま断章であることをも意味している。断章、つまりそれぞれの章に登場する人物(一章に一人というわけではない)はそれぞれに(未)完結した断片なのでせう。
だからこそどれだけ盛り込んでもこの映画は破綻しない。なぜならこの映画に存在するのは各々の「語」りだけだから。

一方で、この映画は「語」りを増やすことをせずとも、この映画の目的とするものを表現できてしまっている側面もあるように思える。

なぜなら、インタビューされる人々の誰もが、自分自身がインタビューされているにもかかわらず自分以外の人たちのことをも語るからだ。

たとえば大河原多津子さんは夫と一緒に農業に従事していた自身たちを語りながら、放射性物質によって汚染された作物を売れなくなり、自殺してしまった、しいたけを栽培していた知人のことを口にする。

たとえば当時双葉町の小学校で教師をしていた小野田陽子さんは劇中に登場しない生徒たちのことを嬉々として(内容自体は必ずしも喜ばしいことばかりではないけれど)「語」る。

その語りはあまりに滑らかで、彼我の区別はあっても自他の区別はないそのナラティブは、ある種「我が事・丸ごと」的な相互扶助の関係性を思わせる。

そのナラティブを引き出す手腕こそが土井さんの力なのだと、同じく中東ジャーナリストの川上泰徳さんは語る。その通りだと私も思う。なぜなら、ドキュメンタリーとしてはあまりないことだけれど、カメラを回す土井さんの声がそのまんま一緒に入ってしまっているから。
それはとりもなおさず彼の声もこの映画の一部分であることの証左として受け取れる。

その判断は、土井さんが己の問いかけをしっかりと背負っているということでもある。いまだに「ソニータ」というドキュメンタリー映画について思うことなのだけれど、あれは被写体であるソニータという少女に制作側が積極的に介入・支援することによって、それ以外へのすべての責を放擲してしまっている点で、あまりにその視線の無自覚さが露わになっていて好きになれず、対置してみるとその自覚の差が露わになる。


話を戻しますと、その、他者たる隣人を「語」る彼女彼らの表情や声、すなわち身体を通じて当時福島に住んでいた人々の「個」が観えてくるのです。

依り代であるその身体のディティールを映すためか、インタビューはすべてアップに近いバストショット(というか杉下さんにいたってはほぼアップなのだけれど)である。それがより「語」りを強くし、強く語られる顔も名前も知らない他者の「個」的なものが浮かび上がってくる。必ずしもポジティブなものではないけれど。

無論、これは錯覚に過ぎない。しかし、それこそが映画ではないだろうかとも思う。

 

3.11という概念には、様々な要素がある。それは原発という極めて人為的なものが招いた問題と津波という自然災害が招来したもの。特に小野田さんの背負ったものは自然災害によるものが大きく、はっきり言ってしまえば「仕方のなかったこと」なのだと思う。そこには人為の介在する余地はなかったのだから。だとしても、彼女の生徒が避難せざるを得なくなったのは原発という人為の介在したものによることであり、それは登場する人たち全員に言えることではある。


ところで、すでに土井さんが中東を専門に扱う記者だったことは述べたのだけれど、そんな彼がどうして福島を題材にしたのか。

その理由を川上さんは、福島の問題も中東の問題もつまるところ「難民」であり、その難民の痛みを伝えることがジャーナリストとしての土井さんの自責なのだと考えているからだという(意訳)。成程、両方ともに人災であることに疑いようはない。

人災が自然災害と違うのはそれが「避けられたかもしれない」ということだし、それがたとえ尋常ならざる力を必要にしたとしても「解決できるかもしれない」問題であるということだ。

けれど、インタビューを受けた元朝日新聞支局の記者であった村田弘さんは水俣病を取材していたときの経験と原発における国家の隠蔽体質の不変さを指摘する。星ひかりさんは、福島の人たちの間に生じた分断を国家による目くらましであると感じている。

現在の政治の状況を見るにつけ、本当にこの人災は「避けられるかもしれない」ことなのだろうかと首をひねりたくなってくる。

多分それはシステムの問題なのだろう。他者を他者として、その痛みを認識しないでいること。あるいは、その痛みを「敵対者」のものとして積極的に圧殺すること。そうして自分だけが甘い汁をすすること。これらの人災はそういった非人間的・・・というか非人道的な原理によって駆動し加速する。

それは資本主義にも言えることだろう。企業経営者にサイコパスが多いというのは知られた話だ(いや、個人的にはリベラル左派もどうかと思ってはいるけれど)。

福島の問題は福島だけの問題ではない。日本の問題であるし、それよりもまず中心としての東京の問題だ。そもそも福島原発と呼ばれるが、それは「東京」電力福島原子力発電所の「東京」を隠蔽している。

それは「福島」という「他者」の問題なのだと。ひいては「中東」という遠い国の「他者」の問題なのだと。それはテクノロジーによって加速している(抗おうとするものも当然いるが)。

だからこそ土井さんは「痛み」を伝えようとするのだろう。臆面もなくいってしまえば、たぶん、平和のために。