dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

魔女萌え(R15)

前作もウォッチリストには入れていたものの結局観ないまま本作の観賞に至った。
のだが、世界観は共有しながらも物語上は前作と直接的に話が連続しているわけではないようです。そういうわけで、なんとなく楽屋落ちというか韓国の俳優事情を知っていた前作を見ていれば分かるような小ネタ自体は入っているものの(それっぽい演出が散見できたので)、基本的には前作を観ていなくても普通に楽しめる映画になっていました。どこからどこまでが前作で説明されている部分なのかわからないけれど、そういうのは無理に追わなくても全然楽しめるし、最悪パンフレットを買えばおさらいできるので(ダイマ)。最後に出てきた人物に関しては、前作を観ていないと「ダレ~?」となりますが。

ユニバース構想があるようで、続編前提の終わり方をしているあたりは10年代以降のハリウッドの超大作映画の流れを韓国でやってやろうという気概なのだろう。しかしここ数年のインド映画といい本作といい、ハリウッドを筆頭とした英語圏のアクション超大作映画よりも個人的には断然ケレンミがあってツボをついてくるものが多い気がする。特にCGの動かし方などは、ハリウッドのリアリズムをベースにしたモデリングやリギングとはまた別の発展を遂げている気がする。その感覚は、極めて特定の日本人的感性の琴線、つまるところある程度特撮に慣れた人ほど刺激されるように思える。
「シン・仮面ライダー」の映画としての体たらくはともかく、ハチオーグ戦に見るあの実写とアニメーションのあわいは、それこそが特撮的空間だと個人的にはとらえているのだが、そのあわいが「The Witch/魔女-増殖-」にも通ずるところがある。

要するに、この映画の世界観やキャラクターというのは極めてマンガ・アニメ的でありますので、そういう意味で下手なハリウッド映画よりも日本人にハマる映画ではなかろうかという気がする。そこにいわゆる韓国ノワール風の殺伐とした空気感や抑えた色調、シュールな笑いなどが織り込まれた、ゼロ年代を継承した10年代以降~20年代の今の韓国映画文化の融合したハイブリッドな映画として観れる。

出てくるキャラクターがみんなもうマンガ的で超楽しい。最低限の匂わせ・説明台詞以外はセリフも少ないのだが、表情やキャラ同士のやりとりだけでその関係性がわかるのも絶妙。あまりにもマンガ的すぎるのでそういう意味では観る人を選ぶかもしれないが、しかし韓国語という異言語を挟んでいることやプロダクションデザイン・演技自体は堅実になされているからそこは無問題である。

ぶっちゃけキャラのやり取りやサイキックアクション自体はマンガ・アニメにそれなりに親しんできた人にとっては「どこかで観た」もののオンパレード(もちろん、そういうものだけではなく脊髄へのダメージが再生を阻害するというアイデアなどは「HEOROES」のクレアを想起させたりするので、日本のサブカルだけに収斂するつもりはないが)ではあるが、それが実写空間で顕現することのある種の異化効果、それもハリウッドの手つきとは違うアジアという一定の共通文化の下のものとしてお出しされるのだから、そこには新鮮な感覚がある。

キャラクター自体は多用だが、能力やアクションそれ自体にそこまで差はなく、ラストバトルも見ごたえがあるとはいえ夜中な上に能力者連中はみんなダークな服装だし土偶に至っては黒いマスクしてるしカットをめっちゃ割ってくるので結構混乱するのだけれど、それを差し引いても楽しいことは楽しいので映画にドライブできている間は少なくとも問題はなかろうでしょう。
そんな感じで、「わ~楽しい~」「萌え~」とか思いながら普通に観てしまっていたのだけれど、一方で「The Witch」というタイトルがまさにという感じだが、否が応でも昨今のフェミニズムの潮流をも想起せざるを得ない、そういった社会問題のようなものも見出せるポテンシャルがある。

ここ数年、魔女が熱い。といいつつも体系的に追っているわけではないのだが、思えば10年代前半のまどマギあたりからその辺を意識するようになってきたいたような気がするし、「水星の魔女」なんかまさにモロであり、サブカル界隈での近接は近年特に目立っている気がする。ネオペイガニズムなどの運動もそうだが、それらは常に周縁化された者たちのカウンターの運動としてあった。

無論「キャリー」などの顕著な例を挙げるまでもなく少女×超能力≒魔女という図式は以前からあったわけだが、タイトルの「魔女」と劇中のワードや設定をつぶさに見ていくことで、韓国におけるリプロダクティブ・ヘルス・ライツの問題を見出すことも不可能ではない。とりわけ、本作の冒頭でミヨンなる女性(おそらく彼女が培養器の中の「母」だろうが)が子どもを宿していることが示唆され、その子どもというのが前作と本作の主人公たる「魔女」であるということは、韓国フェミニズムによるバイオレンスな逆襲および彼女たちの「母」=大意としての主語たる「女性」の解放を目指す物語として見立てられる。
もう20年近く前になるが、韓国ではクローン技術を巡る巨大なスキャンダル、いわゆる黄禹錫(ファン・ウソク)事件があり、要するに本旨としては論文の捏造であったわけだが、その実験で使用された大量の卵子の提供のプロセスが極めてリプロダクティブ・ヘルス・ライツを軽視しており、女性のモノ化とナショナリズムとメディアの在り方の結託した歪な様相を呈した事件だった。

詳細は省く(というか忘れた)が、そこには韓国社会に根付いていた、そして今もなお残っているであろう女性蔑視の視線、それを意識せざるを得ない問題意識がこの映画にもある。とか書いてはいるものの監督が意識しているのかどうかというのはわからない。が、しかし2021年に当時の問題を振り返る「黄禹錫白書」が出されているあたり、今もなお本国では社会的問題として俎上に載せされていることはあきらかであろう。

そして、そういった韓国フェミニズムの逆襲という見立てによるとするならば、この映画の向かう先は旧態依然とした体制の破壊以外にありえない。本作の魔女を創り出した直接のリーダーはペク統括という女性(≒大意としての「母」であり、ミヨンという代理母の疑似的な母)である。劇中の会話で出てくる本社という単語などから察するに、魔女プロジェクトそれ自体がペクの上の体制側=家父長制に対するカウンターであるはずだ。本作ではむしろペクが黒幕のように描かれているが、それはむしろミスリードでありチャンもしくはその背後の権力者こそが諸悪の根源なのではないかと私自身は勘繰っている。
彼女の率いる派閥が「ユニオン」と呼ばれ、チャンを筆頭とする派閥が「超人間主義」という呼称なのも意味深ではないだろうか。もちろん韓国語は私にはわからないので、日本語字幕の表記は翻訳者の匙加減に大きく依拠しているのでどこまでの意味を含んでいるのかという問題はあるだろうが、少なくとも日本語訳における「超人間主義」という言葉はニーチェの「超人」を思い起こすのに難しくない。そして歴史的にみてニーチェの「超人思想」はナチズムに影響を与え、優性思想と容易に結託する。

そのようなパターナリズムと差別思想に風穴を開ける力を持っているのがフェミニズムだと私は思うが、一方で無際限の母性の陥穽を解決する手立てを提出できるのかどうか、という問題も同時に内在しており、それをどのような回答を提示してくるのか非常に気になるところである。

この映画の先に何があるにせよ、早く続編が観たい。

あーだけど一つだけめちゃ不満なところがありますね。それは弟くんの存在。アレに関しては私と監督の間で完全に解釈の不一致がありまして、そもそも弟いらないだろ、姉だけで充分だろ、そのせいで若干鈍重になってるし、とか色々言いたいことはあるが、ともかくあれは「百合の間に挟まる男」案件である。許すまじ。