dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

12月に観たよ

下書きのまま忘れてました・・・

 

アウト・オブ・サイト

ソダーバーグって脱獄とかチーム犯罪ものとか意外と多いのだなぁ、と。

個人的には「コンテイジョン」と「マジックマイク」が好きで、オーシャンズシリーズはみんなほど熱はないのですよね。

ただ彼は色々とテクノロジーを導入したり自分で撮影を務めたり、ポール・良い方・アンダーソンみたいなこだわりを感じて好感を抱いていたりはするんですが。

コメディ色が強いって意味ではオーシャンズとも似ている(クルーニー出てるし)んですが、ラブロマンス要素が強いですね、こちらは。ジェニファー・ロペス主演とダブル主演というのがなんだか時代を感じる。

 

レザボア・ドッグス

タランティーノ映画で有名どころなのですが、よく考えたらアバンしか観たことないなぁと思い改めて観てみることに。

いやまあ、なんというかギャグ日の「アンラッキー」シリーズよね。ピンクが生き残るっていうのが何気に好きなんだけど、特にタランティーノの映画が好きってわけではないのでかなり平熱ではある。

やってることは「パルプ・フィクション」的だし、つまらなくはないんだけどどうでもいい話がすごく長いのよね。あれは映画館で集中して見ないとかなりキツイ、個人的に。

あ、でもラストのカットは好きかな。

 

ワーキング・ガール

露骨すぎるきらいはあるけれど、まあ今これを放送する理由はわかりすぎるくらいにわかる。

最初はウーマンス路線かと思ったんですが、まさか本編開始35分以上が経過してからようやく顔を出すハリソン・フォードとのヘテロなロマンスだったとは。

シガニー・ウィーバーが陰険というか狡猾な敵キャラというのも中々斬新ではありましたし、そういう意味ではやっぱり彼女の配役というのはいい感じなのかもしれない。

まあ個人的にはハリソンとシガニーを逆にしてもいい気はするけんど。

何気に若き日のケヴィン・スペイシーが出ていたりする。

 

 

「デビルズ・バックボーン」

ホラーというよりは三宅監督が言うところの心霊映画である。

なんというか、「パンズラビリンス」をより分かりやすく解釈したパターンというか。

それにしてもデルトロの美術は毎回良いですよね。小道具もそうですけど、異界表現がGood。何気にクライマックスのあの場所も最初の方のシーンとの対比になっていたり、意趣返しとしても気が利いている。

あと、デルトロは割と自分の経験とか情念みたいなものを作品に直接投影させているきらいがある。

 

 「リトル・バード 154マイルの恋」

悪くはないんだけど抒情的すぎて乗れなかったかな。音楽の使い方なんかも、あまりに説明的すぎるし。そこへくると、GOTGなんかのセンスというのがやはりずば抜けていることがわかるんですが。

ジュノー・テンプルの「どこかで観たことはあるんだけどどれだったか思い出せない」感じが最後までついてまわったのもあったかもしれない。ていうか最初エレン・ペイジかと思った。

決して悪い映画というわけではなく、かといって特別良い映画というわけでもなく。個人的には「ハートストーン」の方が田舎の閉そく感やいたたまれなさがあっていいんですけどね。

ああでも、湖というのはかなり良いと思う。劇中での湖の状態も含めて。

 

 「オクトパス」

「スパイダーパニック」のスタッフが作ったということで割と期待してたんですけど、だいぶダメでそ、これ。

あの客船の伏線とは言いたくない(布石としてすら機能していない)状態とか、主人公たちのセリフから窺える艦長の人格と劇中で描写されるキャラクターの乖離とか(あれは意図的にやってるのか?)、いろいろ酷い。

脱ぎ要因の脱ぎも中途半端なうえにタイミングが謎だし。そもそもの話、犯罪者を連れ込む理由ががが。

まあよく考えたら「スパイダーパニック」もそこまで面白いわけではなかったような気もしますし・・・あっちはエメリッヒが制作にかかわっていたのもあるし、その辺の関係とかあるのかもしれない。

 

 

 

「ハードウェイ」

なんだかメタい。スピルバーグとかメル・ギブソンとかの名前が出てくるのとかも笑えますし、割と好感触。

「スター俳優がシリアスな役を求めて~」というのはありがちではあると思うんですが、最後にかかる映画の感じはそんなにシリアスには見えないような。

でもやっぱり、劇中劇と映画本編が最後の最後で同一化するああいう演出は好きなんですよねー。ある意味では「VS現実」という側面もあるし。

 

「戦争と冒険」

役者として「大脱走」や「そして誰もいなくなった(未見)」などに出演していたリチャード・アッテンボローが監督を務めたウィンストン・チャーチルの伝記映画。

アカデミー賞を取った「ガンジー」は見てないんですが、今回のとそれだけを取り上げると実在の人物へのアプローチをするのが好きなのかなーと。

ウィンストン・チャーチルといえば、今年は「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」がやっていたり

新年度一発目 - dadalizerの映画雑文

とはいえ、あちらは本当に第二次大戦の部分だけをしたもので、半生を描くとかは別にしていないんですよね。「戦争と冒険」はむしろ政治家に至るまでのウィンストンの人生を描いている。

父権的な家庭での生い立ちや戦場での立ち振る舞いなど、共感しつつもそこまでノリノリではなかった。なんか「アラビアのロレンス」を思い出したんですけど、あちらほどのスペクタクルがあるというわけではない(そもそもそういう映画ではない)し、チャーチルって大変なんだぁ、という感慨しか出てこなかったり。

しかし、「ヒトラーから世界を救った男」を見た後にみると、SWにおけるEP1~3的な視点で見れてウィンストンにさらなる共感をすることはできる。

 

 「戦争と平和

原作の名前は知っていたし映画になっていることも知ってはいたのですが、まさかヘップバーンが出ているとは思わなんだ。

原作は名前だけ知っている程度なのですがかなりの長編であることは知っていて、まあ200分あっても全部を映像化することはかなわなかったようで、三人のキャラクターに絞っている。おかげで見やすくはある。この時期の大作はセットとか衣装とか小道具とか、ぶっちゃけそれを見るだけでいいという部分もあるわけで、衣装を変えるわ場面は変わるわ戦闘は描くはでどれだけ金かけてんだと。や、別に今のハリウッドでもやっていることではありますが。

 

 

2月に観た

 

ドリームハウス

どことなくシャマラン風味な気がするのは私だけでしょうか。

冒頭20分くらいでほぼほぼ重要な仕掛けが読めてしまう展開かと思いきや、その仕掛けが中盤であっさり開示されてしまうので、この先どうなるのかと思っていたんですが・・・。

アザーズ」+「シックス・センス」を「サイン」で割ったような感じ、といえばわかりやすいかも。「サイン」で割る、というのは要するに「あ、それマジだったの?」というタイプのアレ。

ダニエル・クレイグの髪の毛が意外とサラサラしていて驚いた。

 

交響詩エウレカ ハイエボリューション1」

えーオリジナルは観たことなくてですね、なぜかAOだけは全部観たという極めて不健全な観賞をしたのでいまいち内容はわからないんですが、板野サーカスは有名なのでその辺は知っております。

一応、リブートという位置づけではあるこの映画ですがオリジナル版を知らないと正直よくわからないというのが本音です。

タイポグラフィーのあの情報量とか表示の仕方なんかは割と好きですけど、おそらく冒頭以外はほとんどがテレビ版の再編集なのでしょう。確か公開当時はそれが結構不評だった気が。

エウレカと主人公のおじいさん?ぽい人が無重力空間で壁に着地するとこのアニメーションとか、引きですが意外としっかり描いていて良かったです。

あと音楽もまあまあ好きだけど、あんま印象に残らないというかBGMというよりはSEに近い感覚だからかしら。

 

「バラバ」

この時代の美術とかセットって異様に豪奢でびっくりしますな、毎度のことながら。

正直なところ話自体は悪人を使ったキリスト教的な救いを描いているというわけで、そういう意味では前半の前半でバラバが疑心暗鬼になって一種パラノイア的になっていくのは好きなんですけどね。最終的に神に収斂されていくので、まあ予定調和すぎてね。

ともかくセットですよね。屋内もそうですが労役場とかしゅごい。

 

 「裏窓」

 この映画を前編通して観たの初めてだったんですけど、星新一の「殺し屋ですのよ」ってこの映画に出てくるステラの科白からそのまま持ってきてたんですね。丸パクリでビビりました。

さて、映画そのものに関して言えば変態・天才・性暴力加害者と様々な一面を持つヒッチコックの映画でありますので言うまでもなく面白いんですけど、いやぁやっぱり歪んでるなぁこの人。歪んでるというか女性蔑視が過ぎるというか。

ていうかあの流れで最後までその真犯人がいないで突き抜けそのままハッピーエンドを迎えるというのは今だとちょっと無理な気もする。いろんな意味で。いやほんと、オチを知らずに見たら主人公のパラノイア映画としていけますよ。ていうか世にも奇妙な物語とかでなかったかしら、こういうの。

キャラクターの関係性や説明を冒頭の描写一発で見せる手腕はさすが。主人公がカメラマンであること、あるいは恋人のリザとの経緯を連想させる巧みさ等々。まあこれ見よがしすぎるかもしれませんが、あれくらいはっきりしていた方がわかりやすいですしね。あとセットが豪華。すごくないですか、あれ。

ちなみに吹替で観たんですけど、やっぱり大川さんは良い声している。いい声すぎてちょっとあのサスペンスの犯人としてはやりすぎな気もしますが。

 

「クロノス」

 最初なんの情報もなしに観ていて、なんだかデルトロが撮りそうな映画だなぁロン・パールマン出てるし、なんて思ってたら本当にデルトロだった。

色彩感覚や美術・セットのセンスなんかはこの後の「ミミック」とかなり地続きな気がします。なんだかこう、絶妙にB級な風味もあるんだけどガジェットというか、アイテムの作りこみなんかがしっかりしているあたりとかね。フリークスの悲哀的な側面なんかは「シェイプ~」にもありますし、鼻を折られるくだりなんかのユーモアセンスなんかも垣間見られる。

アウロラ役のタマラ・サナスちゃんが可愛い。どことなく中性的な雰囲気があって。2006年にアートディレクタ―をやっていたりする以降はフィルモグラフィーに記述がないのがちょっと残念。

 

八甲田山

BSフジで観たんですが、なぜか創価学会が提供だったんですけどどういうことだったんでしょうかね。

禿とか春日さんがなんかでプッシュしていたので観てみたんですけど、よく第二次大戦の日本軍の無能っぷりが話題になる、その前兆というか前振りみたいな映画でしたな。

前も使った気がしますが「頭が無能だと苦労するのは我々手足なのだ」とバキさんもおっしゃっている通りでございます。

行き過ぎた虚栄心をあのような極限状態・極寒の環境下でも誇示しなければならなくなる権力という力の持つ魔なのでしょうか。などと、政権を観ていると思いますな。

個人的な掘り出し物は神田を演じる北大路欣也がどちゃくそカッコイイということです。あの憮然とした態度、声、ルックス。あれはちょっと惚れてもおかしくないんじゃないかしら。

 

アポロ13

たぶん、ロバート・ゼメキスがまじめにとったら(?)こんな感じになるんじゃないかなぁ、っていう映画。

「スペース・カウボーイ」が俳優だけで脳汁ブッシャ―だったんですけど、ミーハーな私はベーコンとハンクス、それにエド・ハリスやらビル・パクストンが出てるだけでもう十分。話自体はまあ、ストレートなので。

 

「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」

アンビリーバボー劇場版。

 

 「悪魔の追跡」

すさまじく午後ロー臭のする映画。ピーター・フォンダが出ているB級映画なんですが、比較的最近に「マンディ」を観たせいで色々とダブる。

バッドエンドだったりするあたりが実にB級感が出ていてよろしい。まあオチに持っていくのが雑というか、バッドエンドを際立たせるための一安心がちょっと短絡的すぎるんですけど、90分以内にまとめてくれているのでOK。むしろこういう映画で無駄に長ったらしくやられても困るし。

 

「Mr.タスク」

トレーラーで前から気になっていたのですが、それから2年ほど経ってようやく観ました。とてもB級感があふれるB級スピリットな映画で、会話のシーンが長いこと長いこと。しかしこの監督、「ドグマ」の監督だったんですね。どことなく着ぐるみへの手触りの愛着というか、おバカなんだけど哀愁のあるキャラクターとか、おバカなりに思考を巡らせるというか批評的精神を含んでいる部分なんか、今思うと共通している部分がありますね。

あとビッグバジェットではないけれどちょいちょい大物俳優を起用しているのも、地味に戦略性を感じたりする。今回だとデップ親子とかね。親父の方は親ばかスピリットだったりするのだろうか。

あとハーレイ・ジョエル・オスメントを久しぶりに観た。

 

 

「コンビニ・ウォーズ コンビニJK VS ミニナチ軍団」

 えー親ばか映画なんですが、正直こういうノリの映画は実は嫌いじゃないんですよね。ウィル・スミスの「ベスト・キッド」みたいな主張の仕方はちょっとアレではあるんですが、ここまで潔くやってくれると結構清々しい。

いや、邦画だと色々とクッションがないからとか、色々あると思うんですが、ほぼアイドル映画じみたこの映画の低俗さというか、制作陣が楽しんでいる(であろう)映画を観るというのがほっこりする。

あと今回はオタク的な小ネタが多かったり、監督の主張みたいなものが垣間見えたりする。あと再利用なのかわからないけどまた着ぐるみを作ってきてくれるあたり趣味が前回である。JK二人のバットマン物まね・デップの突っ込み、アダム・ウェストへの言及、ケヴィン・コンロイ(アニメ版バットマンの声優)を起用するなどなど。

あとMrタスクの方の出演陣が別の役で出ていたりするのもありがたみを感じる。

 

 

ヤング≒アダルト

ジェイソン・ライトマンって意外と若いのですね。

それにしてもアバンから過去のリピートの演出とか、細かな部分にも表れている。

いや、傑作であると思う。マットの妹への捨て台詞(あれは捨て台詞でしょう)とか、いや普通に主人公が屑であるわけなんですが、周囲の連中もあれなんですが。

しかしパーティでの発散は見ていられない。ああいうのきついんですよね。でもあそこでの彼女の過去を知ると、赤ちゃんの画像を印刷したところであの雑な印刷にもすごい意味を見出したくなる。

我々の日常と地続きの痛々しい傑作。

あと「アクアマン」観たばかりだったのでパトリック・ウィルソンに目がいった。この人ちょっとクリス・プラットに似てる気がするんですが。いや、輪郭とかは違うんですけど。

 

第十七捕虜収容所

名前からは想像しにくいながらコメディ色が強い、ビリー・ワイルダー監督の映画。

53年の時点でヒトラーはすでにいじってもいい対象だったんだなぁと。

でもたぶん、必要以上に笑わせようとしているんだろうなぁ。どんな時でも笑って見せる、絶望に屈しないために。そういう「がんばり」みたいなものがあるから逆に悲壮感が漂ってもいるのかもしれない。しかし妻からの手紙のくだりとか、普通に笑ってしまうのが困る。

水男

すさまじい馬鹿映画でしたね。

いや、ほんとそんな感じ。以上。

ジェームズ・ワンだからなのか知らないけれど、めっちゃ場所移動する割にその過程とかは特に描かなかったりするのは「スカイ・ミッション」なんかでもよあったけれど。

いや、ほんと基本的に馬鹿映画なので「わー戦ってるなー」という感じ。

龍騎の爆発で次回に引くくらいの頻度で壁とかの爆発でムードぶち壊して強引にアクションに入ってくし、かと思いきや鬼武者2の恥ずかしすぎるおゆうと十兵衛のキスシーン並みに背後の爆発(地味に音ハメしてたきがするんですが)で盛り上げてたり、全体的に勢いだけで突き進んでいます。

まあ予算の都合とか撮影期間とか色々あるのでしょうが、港の背景とかかなり合成感出てたり、そのあたりは「アクアマン」がというよりはDCだと明るいシーンだと結構目立ちますね。

あと全体的にゲーム的すぎますね。マミーが何回もトライできてたのとか、よくわからないし、いやもう全体的におバカ。

ただ個人的にはクライマックスに大怪獣バトルが観れたのは良かったです。しかも「お前がそいつの指揮するんかい!」という絵面に笑いながら興奮してました。

あとデフォーがこういう明らかな馬鹿映画に出るのって珍しい気がするし、コミカルな衣装のデフォーが比較的良い役どころ(クレジットもかなり最初の方だったし)で良い感じに役立っててそれだけで結構わたしは満足。

まあライミのスパイダーでヴィランやってたし、そもそもあの人の顔は割と人外なのでこういうの合ってるとは思ってましたけど演技派だけにあまりこういう機会がなかた気がしますし。「ジョン・ウィック」は割と現実的だし。

 

まあ展開的には同じことの繰り返しなので正直面白いけれど退屈しないでもないという感じの映画でしょうか。

イタリアの屋根アクション(なんかのトレーラーで観ちゃってたから、劇場で初見だったらもっと興奮できたかも)とか観ててわくわくするしね。

いちいち壮大なBGMをかけてきたり、テロップの「~のどこか」とか、制作陣は明らかに意図して馬鹿映画を作っているので、それに乗れるか乗れないかがこの映画を楽しめるかどうかの境目かと。いやまあ、まさか感情移入の余地が少ないあのヴィランのおやじのシーンで感動げなBGMを流し始めたときは本当に笑っちゃったんですが。

 

で個人的にはこれくらいがヒーロー映画の塩梅としてはいいんじゃないかと思うんですよね。MCUMCUでしっかりと作りこみすぎているしフェーズが変わってからはほぼ一見さんお断りですので、その点でこのアクアマンは本当に何も考えずにボケーっと観れる映画です。

此度のゲーム、勝者なし!

まあ、あえて言えばアン女王は最悪の結果の中でもベターな選択をしたのかもしれない。あの恍惚の表情を見るに。

 

そんなわけで「女王陛下のお気に入り」をば。

いやぁ、まさかこんなに面白い映画だとは思いませんでした。

ゲーム・オブ・ラブの亜種、というか反意的な意味合いすらもった邪流なのではないかと思うのですが、ともかく傑作でした。

愛を巡る物語かつ権力争いを描くパワーゲームものでもあるんですが、この映画が一癖あるところは、それが純粋なパワーゲームではないところでしょう。

この映画で描かれるパワーゲームが純粋でないのは、そのゲーム自体がある種の破綻をきたしているからです。

ここで私の書く「純粋な」というのは、その先に大なり小なり目的があることを前提とはしていても、おおむね「権力を得ること」がほぼ目的となるパワーゲームのことです。その担い手が女性であるという点で「大奥」とかなり似ているかと。そこに権力闘争を伴わない純粋なゲーム・オブ・ラブとしての「ビガイルド」(を筆頭とした昼ドラ)をマッチングさせたもの、と書けば「女王陛下のお気に入り」がどういう映画なのかというのがわかりやすいでしょうか。この視点を組織そのものに向けた場合は大島渚の「御法度」になるのでしょうね。

この映画で描かれるパワーゲームが純粋なものではないと書いたのは、劇中でサラ(レイチェル・ワイズ演)が述べるとおり、ゲームを繰り広げるプレイヤー/ゲームマスターの目的というか、プレイングが違うからです。たしかに、同じ空間で対立しあう者が「あるもの」――この映画においては「女王のお気に入り」という座。女王自身にとっても――を奪取/死守しようと奮闘してはいる(簒奪ではないのがまたややこしくさせている)。

しかし、それはあくまでプレイヤーの第一義的な目的の遂行のための過程でしかなく、プレイヤー各々のその目的というのが別々であるために、勝負の体は成しているのに実質的には勝敗は決しない、というかそれぞれの思惑が異なっているがために勝ちの目が出ないのです。だから、最初からこのゲームは破綻していたのではないか。

 

もっと砕けた表現をするのなら、三者三様に愛をむさぼり合っている、というか。愛を貪るということは、何も愛に対して誠実である必要はない。何か別のことのために愛を利用することもそうでしょうし、愛そのものを求めることもそうでしょう、あるいは両方を等価に重んじることもまたしかり。 

だから、このゲームの破綻の理由は三人の女の愛の貪り方を明らかにすることでわかってくる、と思う。

 

このゲームのジャッジ的立ち位置にいるアン女王(オリヴィア・コールマン演)はどうだろうか。彼女のわがままっぷりは餓鬼そのもので、怠惰で通風持ちなせいで移動にも手間がかかり国政を左右する立場にありながら権力には無頓着。そのくせ傲慢で権力をふりかざし酒池肉林な放蕩をする、国のトップとしては最低な部類の人間です。

しかし、彼女は他のプレイヤーとは異なり愛(とりわけ肉欲)に対してだけは純粋であり、求めるものもそれだけであり、それこそが彼女の最も望んでやまないものなのです。その理由は17匹のウサギの通りです。

実の子を17回に渡って死なせ、その代替としてのウサギに子どもの名前を付けるほど。しかもほとんどが流産・死産であり、生きて生まれた5人のうち4人も幼児期に亡くなり唯一生き延びた王子も生涯病気がちで11歳のときに亡くなっている(パンフレットのトリビア参照)という、想像を絶する体験をした彼女が人並み以上に愛を求めるのも致し方ないというものでしょう。

だから、幼馴染であり恋仲でもあるサラが宴の場で男と踊っているのを見せつけられてガチギレしてサラと即ベッドインにもっていくのも納得はできる。理解は別として。

アンが求めるのは都合良く自分を愛してくれる存在で、おそらくそれ以外はどうでもよかったのでしょう。

 

サラはどうだろうか。彼女は女官長であり王室歳費管理官であり女王付き政治顧問でもあり実質的な政治の運営を担っている。

そして、彼女の最優先事項はそれだ。特に、劇中ではフランスとの戦争で勝利こそ収めたものの予断を許さない情勢であり、対立するトーリー党とのやりとりもあって、ことさらに国を気にかければならない状況に置かれている。

幼馴染でもあるサラとアンは、いじめられていたアンを助けたときからの付き合いでありお互いを信頼し真に愛し合っている。それはおそらく真実だ。けれど、そこに打算がないというわけではないし、権力をかさにわがまま放題のアンに対して辟易してもいる。いや、それは問題ではない。問題なのは、サラにとってアンへの愛と国家運営がほぼ等価であるということだ。

だから、アビゲイルに嵌められ娼館から舞い戻った彼女が取る行動は、あるいはアンへの愛情よりも国を優先しているのであれば非常に徹することで、アンを蹴落とすことでサラにとっての最悪の結果を変えることができたかもしれない。

 

最後に、今回のパワーゲームを引き起こしたアビゲイルエマ・ストーン演)。

彼女の目的は、実は当初はわからないんですよね。というのも、女王を助ける行為など、それが純粋に親切心からきているものであると思える(少なくとも私には)振る舞いだから。まあ、思い返せば言動のやや粗野なところだったり、危険を冒してまで女王に近づいたのはやはり彼女に「女王陛下のお気に入り」になるためだったからか、と後になればわかるわけですが。

序盤ではまだアビゲイルの本位が絶妙に読み取れないのですが、2回目の鴨撃ち(?)におけるあるカットで、アビゲイルが銃をサラに向けているようにも思えるアングルで撮っていて敵対の予感を孕んでいたりするのが芸コマである。

しかしそう考えると、マシャム(ジョー・アルウィン演)という上流階級の大佐との出会いなども、あるいは作為的なものなのではと思ってしまう。

彼女が女王に近づいた理由は、中盤のチャプターあたりから明確になっていく。それは権力を得ること・・・ではなく、かつての上流階級並みの生活を取り戻すことにある。権力を得るというのは、そのための手段でしかないし、別に国をどうこうしたいというわけではない。そして、そのためであれば女王にクン二だってするし、好きでもない男と結婚だってする(積極的に)。

ただ、やはりというか手段を問わない彼女にも譲れない一線がある。それは男に屈することだ。元々上流階級だったアビゲイルは父親の賭け事によって身を売られてしまい、屈辱的な扱いを受けてきた。だから、男に屈するということはすなわち忌まわしい過去の再演に他ならない。そこには極めてセックス・ジェンダー的なものがある。

だから、形式的であり立場を得るためであり徹頭徹尾そこに愛は皆無とはいえマシャムと結婚した。にもかかわらず、新婚初夜では彼の顔を見ることもせずに手抜きな手ヌキで済ませる始末。このシーンはエマ・ストーンの顔芸もあって最高に笑えます。

邪魔なサラを蹴落とすために目的が一致したハーリー(ニコラス・ホルト演)と共同戦線を張るものの、決して彼の下になることをよしとはせずあくまで対等なパートナーシップであることを強調する(それでも演技として女性の涙を見せたりする狡猾さはある)。

しかし、それを考えると自ら仕込んだ毒によってサラが落馬するシーンと宮廷で男たちが毛むくじゃらのデブおっさん(全裸)に向かってオレンジ(?)を投げつけているシーンをカットバックで見せるというのは、何やら意味深ではある。

ともかく、女王に取り入り同衾し一介の召使いから女王の寝室付き女官にまで上り詰め、さらには邪魔者であるサラに毒を盛り、サラの登場によって幼馴染の間に生じた亀裂は決定的なものに近づいていく。彼女のいない間に確固たる地位を手に入れたアビゲイルにはもはや恐れるものはないように思えた。

 

ゴドルフィンがサラとアンの仲裁をはかるべくサラに手紙を書かせるも、そこはしたたかなアビゲイル。女王の手に渡る前にサラの書簡を焼き払い、完全にサラとアンの仲を裂くことに成功する。

後手に回ったサラはアビゲイルとハーリー率いるトーリー党を失墜させるべくアン(と自ら)の愛の結晶を使ってアンに脅迫まがいのことをするが、結局はそれが裏目に出てしまう。

敵がいなくなったアビゲイルは、しかし最後の最後に自らの腹黒さを、よりにもよって女王が最も大切にしているウサギに対して発露してしまい、それをアンに見られてしまうという始末。

そして、ラストシーンに至って観客は気づかされる。

「これ全員バッドエンドじゃん・・・」と。

アンにしてみれば、最も望んでやまない愛を唯一注いでくれていたサラを自らの手で追放する形になり、その代わりになると思っていたアビゲイルが実は子どもを文字通り足蹴にする奸佞邪知の徒輩であることが判明してしまうわけであるし、サラにしてみれば一番守りたかった王国から、よりにもよって愛し愛されていたはずのアンから追放されるという最悪の形に落ち着いてしまう。

そして、勝者たりえたはずのアビゲイルも、最後に詰めの甘さを見せてしまい過去の再演をする形になってしまう。

否、元よりアビゲイルに自由はなかったのだ。アンという女王がいる限り、真に自由に振舞うことはできない。それは映画のラストでアビゲイルがやらかさずとも、遠からず明らかになることである。

だから、結局のところ支配者が変わっただけでしかないのだ、彼女にとっては。小汚い男から醜い女王にすり替わっただけでしかない。最後の長いカット。あれは明らかにアビゲイルが女王に対して口淫をしているように思わせる配置になっています。口淫とは服従にほかならず、行為としては足をさすってもらっているだけのはずのアン女王がどこか恍惚とした表情をしているのもそのためだ。面白いが、編集で両者の顔を重ねているところなんですが、このまま終わってくれたら最高だなーと思ったところにどんぴしゃりでエンドクレジットに入ってくれたのも最高。

 

それぞれが同じフィールドにいたにもかかわらず、三者三様に異なる独自ルールでゲームをしていたがためにゲーム自体が破綻してしまい、みんなが不幸になってしまった。

ボクシングの審判(アン)の前でちゃんとグローブ使って殴るんだけどキック・締め技上等(サラ)だったり、刃物持ちだして審判に見えないように相手を刺しまくってたらリング上に散らばった血でバレて反則負け(アビゲイル)してしまったりと。そのような映画なのでせう。

 

ただね、観客はそれでも観ていて面白いんですよね。

 

冒頭にいくつか作品名を挙げましたが、この映画のすさまじいところは「フォックス・キャッチャー」的なシュールな笑いや(ブラックな)ユーモアをも含んでいるところです。「フォックス・キャッチャー」的なというのは、ユーモアセンスだけではありません。「フォックス~」においてジョン・デュポンがマーク・シュルツを(レスリングの練習の場面でもあるにもかかわらず)明らかに後背位でシュルツが攻められているかのような性的モチーフを使っての主従関係の描出していたような表現がこの映画にもあるからです。

もっとも、「女王陛下のお気に入り」はあちらのようにあくまで観客にそう思わせる程度のレベルではなく、もっと露骨ではあります。

再序盤ですら男の自慰行為が描かれるくらいですから、そこでもう性に対してあけっぴろげであることはわかりますが。特にアビゲイル(エマ・ストーン演)周り。というか、この男の自慰行為のシーンの起点がアビゲイルであるわけですし。

普通に観ていればわかりますが、性愛・愛情を使って(決してソレそのものを巡っているわけではない、というのが凡百の昼ドラとは違うところです)権力闘争を繰り広げるこの映画が性的なモチーフを使うのは必然なんでしょう。

 

個人的にはアビゲイルの小芝居(という名のアピール)はあまりに露骨すぎて、終始笑えてしまいニヤニヤしながら観ていました。

が、しかし返り咲くために彼女は至って本気であり、その本気さというのは没落した父親に見捨てられドイツ人の粗チン(byアビゲイル)によるトラウマ的体験から来ているし、アン女王にしたって、彼女の無知蒙昧さや放蕩っぷり、愚かしさや幼児のようなわがままっぷりの裏側には17人の子どもを亡くしている(その代替としてのウサギという痛々しさ)という想像を絶する苦悩を持ち合わせている。宮廷内の乳母(?)から子どもを取り上げて抱きあやすシーンも、怒りよりも先に悲哀がくる。

そもそもが前述したように全員がバッドエンドを迎えるという意味では確かに悲しい話でもありますが、今回この映画のスチール写真を担当したNISHIJIMAさんが言うようにこの映画ははっきりとコメディでもあります。

そこがまた「フォックス・キャッチャー」的でもあるところなんですよね、傑作度的にも。

やっぱりアビゲイルまわりの描写は露骨にユーモア成分が最後までたっぷり。前述した「手抜き」をする場面や、彼女の周りにハエがたかる場面、森の中でのマシャム的にはガチ目なキャッキャウフフ的なバトルなんだけどアビゲイルは笑いながら本気であしらっている奇妙な齟齬がもたらすシュールな笑いとか。

 

 

猛烈に面白いんです、ともかく。

 

今回の撮影は 自然光がほとんどだったらしいのですが、「ウィッチ」みたいな何やってるか本気でわからない暗い場面はなく、不自然さなどなく安心して観れました。

セットじゃなくてロケ撮影を行ったらしいのでですが、そのロケーションをフルに使うために頭上から・人と人との間といったあまりほかの映画では見ないアングルからの撮影や、広角レンズや360度のウィップ・パンを多用していたり、その撮影方法自体があどことなくユーモアが伝わってくるようでもありまする。

 

それとダンディ・パウエルの衣装もいいです。

特に実写ではあまりお目にかけない初期更木剣八タイプの眼帯が見れたりとか、色の数を抑えたクールな佇まいだったり男装みの強いサラの衣装とか、特にレイチェル・ワイズは色々と衣替えをしてくれる映画でもあるので私としてはウハウハです。衣装好きが見ても楽しい映画かなと。

 

いやほんと面白いです、この映画。今年の私の「FAVORITE」の一本です。

 

 

その昔…幼き頃…テレビでこの映画を観ていたとしよう…

でもあのときと同じ感じかたをするわけじゃあないんですよね。

 

本当は2月に観た映画のまとめにしちゃおうと思ってたんですけど、やっぱり個別にエントリ書くことにしますた。

ノスタルジーじゃないとは思うんです。ただ、テレビで初めて、事故的に観たときは途中からだったし、まだ小さいときだったからちゃんとした話は知らなかった。

それでも強烈にその場面のことは覚えていたし、何より観たときには心底恐ろしかった。今はもう、色々と擦れた人間になってしまっているし、当時のように心の底から原初的な言いようのない恐ろしさ・・・畏怖に近い何かを感じることはできていなかったのだろうけれど、それでもやっぱり、今見ても彼の映画は美しいし楽しいし愛おしいし愛らしいのだ。

や、それ以外にもクリスティーナ・リッチがクロエに似ているなーとか、どうでもいいことまで気になったりもするんだけれど(笑)。

でもね、そんなのどうでもいいくらいにティム・バートンの「スリーピー・ホロウ」は美しい映画なんですよ。

彼の映画は毎回毎回、冒頭で遠景で街並みを見せてくれるのですが、今回は新世紀を迎えようとするNY。黒くて鬱蒼とした世界から始まり、終わりでは真っ白な世界に様変わりする憎い演出。そこに美女が加わってついでに従者も加わっているのだから、本当にバートンというやつはファンタジスタだなぁと。

血を思わせるシーリングスタンプからクレジットの表出まで、あの予感を孕む演出。

この色彩感覚のエピゴーネンとして紀里谷監督の作品があるのかもしれないと思うと、彼の挑戦も生暖かい目線で観れるようになりますな。

首無し騎士も今見ると恐怖以上にカッコよさが際立ちますし、死人の木の美術や風車のセット、スリーピー・ホロウの風景。こと世界の構築においてバートンのセンスはやはり卓抜していると言わざるを得ない。

悪夢のシーンでのあのセット感をしっかりと異質な世界へと昇華する能力。本当にあこがれまする。

何気に話はしっかりと筋が通っていて、ホラー・ミステリー・ファンタジーが同居しているかなりバランスの良い映画でもあります。他のバートン作品だとファンタジー路線強めですからね。

デップのコミカル演技も相変わらず良いですし、何気に殺陣が多めというのもバットマンを除くと珍しい気もする。

ダンボもトレーラーが公開されましたし、そろそろバートンのリバイバル(ってそもそも死んではないか)があってもいいのではなかろうか。

そんなことを思う今日この頃。

パンフレット売ってないんですかー?!

ほとんど一か月ぶりの更新と相成りました、ええ。

2月はちょっとやることがあってほとんど劇場に足を運べず、おかげで何本か映画を見逃してしまいました。しかし、これは逃すまいと観てきましたよ、パンフがない映画を。

劇場でパンフの販売がなかったのは「海底47m」くらいで、あれはまあ理由はわかるのですがシャマラン映画でなぜ?

それはともかく、相変わらず変なんだけど面白い映画を撮る人ではある。カメラワークも今回は特に独特だし(これはシャマランというより撮影のマイケル・ジオラキスの仕事かな)。

この映画のラストは

???「世界が暴かれた!?」

です。はい。

いや、今更あんなアニメの話をしようとは思わないんですが(放送中はその不出来さを肴に楽しんでいましたが)、「ミスターガラス」のラストはそういうことであるのではないかと。

ともすると、あのラスト、三人が手をつないで世界が暴かれる瞬間(劇中では、ある人物が叔父通り世界を隠蔽しようとしていたわけで)のシーンは、カメラがどんどん引いていくように観客のココロも離れていってポカーンとしてしまうかもしれない。

というか、自分も正直に言えば野暮だとは分かっていても「あの程度の動画の編集なんて今じゃアマチュアでもできることだろうし、いったいどれだけの人が彼ら「スーパーヒーロー」の存在を信じるのだろうか」と思わなくもない。

けれど、その疑問こそが「ミスターガラス」の問いかけている者でもある。

超常たる存在、ひいてはファンタジーを、それこそシャマラン本人的には自らに宿る世界を変える力を肯定し信じぬくことができるのか、と。

そういう意味では、シャマランの思想は「惑星のさみだれ」における東雲兄に近いと言えるかも。「(天才としての自分の才能の)絶対的工程」として。

天才とは!!無限の肯定!!“ラッキーパンチを千回決めるすげー自分“の直感を!!
 ありえねーと否定せずそれもアリだと千回肯定する者!!
 直感を肯定するうちラッキーパンチを千回実現するすげー自分!!
 それが天才!!技なんてオマケ!!おれすげーの瞬間を!!すげーおれの存在を!!
 肯定し肯定し肯定に肯定を重ねろ!!
 考えるな!!直感し続け肯定し続け確定し続けろ!!

ということなのでせう。(どうでもいいことなんですけど、サブカル的名言集Wikiなるものがあるんですね・・・今回初めて知りました。)

シャマランの唯我独尊ぷりはこの精神に非常に近いと私は思うのですよ。で、それを観客自身にも問いかけているのがこの「ミスターガラス」なわけで。まあ、この思想を問いかけるのではなく押し付ける形になってしまったパターンが「トゥモロー・ランド」なのでしょうな。

しかし自己肯定感という側面から考えると「スプリット」の虐待を受けたマカヴォイが自己肯定感を揺さぶられるというのは面白いつくりである。面白いというか、符節が合うというか。

 それを示すように、劇中で超人たる三人がまさに自身の超人性を否定されロジカルに説き伏せられそうになるわけだけれど、それによって観客も同じ心理状態になるわけです。彼らは本当に超人などではなく、単なる力の強い/頭脳に秀でた人間でしかないのだと。

そうやってシャマランは一度自らが作り上げったファンタジーを自ら(観客にそうなるよう)揺さぶってくる。超人などいないのではないか、と。

しかし、ミスターガラス・群れ・監視者のそれぞれの再度キックたる相棒たちがコミック(あるいはその言辞の引用によって)彼らの存在を肯定するように観客にもチャンスが与えられている。

確かに超人の死によって始まる物語ではあるけれど、ヒーローとかヴィラんとか、そういう矮小な二元論などではなく双方を呑み込むもっと大きな、枠を超える存在の審議を問いかける映画だ。映画それ自体が、というよりも映画で表現されるものによって問いかけられる、と書いた方がいいかも。

この映画を観た人は己のファンタジーへの信心深さと相対しなければならない、一種の踏み絵的映画でもある。

だから、この映画を観て口あんぐりになる人がいたっておかしくはない。そういう人は単にファンタジーに耽溺するよりも現実を見つめる怜悧な視点を持っているにすぎないから。ただ、もしもあの三人と三人の境遇に涙しその存在を信じぬき肯定することができたのなら、きっとこの映画は素晴らしいものであると感じられるでしょう。

そんな自分は疑念を挟みつつも肯定派である。

あとまあ、マカヴォイの演技の凄まじさだったりテイラー・ジョイの相変わらずの両目の離れ具合とか胸元のきわどい衣装だったりとかブルース・ウィルスのちょうどいい風体とか役者のポイントも高いですな。ブルースの息子役のあの人もすっかり大きくなっててねぇ。音楽も結構良かったし。

あと一つ。原語だとSuperHeroって言ってるんですけど字幕だと時数の制限なのでしょうが「ヒーロー」と訳されている部分が結構あって、ただそうするとこの映画はやはり「スーパー」な存在の真偽と疑義を扱う話でもあるので、そこはぜひ意識して観た方がいいかな、と。

人間を超えるからこそ、現実を超克するからこそ「超(スーパー)」なわけですし。