dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2023/11

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

はたしてサッチャーを人間として描くことに意味があるのかどうか、というよりも少しとっ散らかってしまっているような気がする。

たとえばそれが男性社会へコミットするための過剰適応の産物としてのアイアンレディなのかとか。

黒いスーツの中で揉まれるスカイブルーのスーツ。女性の視点から描かれる「異性だらけの空間」の恐ろしさ。そこをもっと突き詰めればあるいはフェミニズム的にもっとうまみのある映画になったのだと思うのだけれど。

カット割りで鏡に写る老いた自分の不意打ち感とか、良い感じの演出はあったのだが。それ自体がまあ、セクシズムとルッキズムの合わせ技一本を内面化させられているという批判もアリだろうが。

幼い息子に対するあの不可思議なノスタルジー描写はなんなのか。娘は普通に出てきてるし、まるで死んだような扱いの息子だが、別に死んでるわけではないらしいのだが。これ、やっぱりサッチャーを母親として描きたかったのかなぁ。デモの人から「母じゃなくてMONSTER」とか言われてたし。まあそれは考えすぎか。

幻聴・幻覚パートってあれサッチャーは晩年そういう感じだったとかってことなのだろうか。存命中に公開したってのがちょっと面白いんだけど、日本に置き換えて考えるとまあこういう映画が作られるということ自体がちょっとうらやましい。

日本で単独の政治家を扱った劇映画ってあっただろうか。しかも存命中に、本人として。ま、それが日本の弱さってことなのだろうけど。

それはそうとサッチャーに必要だったのはウーマンスなのではとこの映画を観て思ったり。それに一番近接していたのは娘だったが、なんか絶妙にサッチャーに作用を及ぼさない距離に留め置かれてるのがすげぇもやもやする。

しかし保守党が女性を、というのが面白いなぁ。

 

蒲田行進曲

なんとなくメタな話だなーと思ったらマジでメタな話だったという。

そう考えると明らかに印象表現(天候の変化とか)なんかも少し見方が変わってくる。ちょいちょいメタなアングルを意識させるカメラワークがあったりしたので「もしかして」という匂わせ自体はあったからびっくりと言うよりは得心。よく考えたら総出で出迎えるというのおかしな話だし。

それはそれとして人情ものとして普通に面白かった。しかし、それをあえてこういう構造で描いたところに作り手の恥ずかしさみたいなものをちょっと感じたのだけれど。それは深作の自意識なのだろうか。

 

「パウパトロール ザ・ムービー」

地上波でたまたまやっていたから観た程度のにわかもにわかでテレビ放送のシリーズの方は追っていないのだけれど、ニコロデオンということで要するにアメリカのアニメだということは先刻承知していた。というか、玩具界隈の情報をそれなりに追っているので玩具方面からはその存在は認知していた。

メリケンらしくでかいものから小さいものまでそろえているあたりの資本力はさすがといえる。

で、本編についてなのだけれど、設定がいまいちピンときていない。まあこういうのに細かい設定を求めるのはお門違いというものなのだろうけど、ケントだけは正直謎なのだ。身寄りないのかなんなのか…レスキューチームの人間は彼一人だけなのが。あと本国版の声優事情はよく分からないのだけど10年で3人が彼を演じているというのがちょっと日本だとない感じで驚いた。

しかしこの辺の余談ばかり拾ってたらあまりにもアレなので少しは真面目に話すが、テレビの方をちょっと確認した感じだとさすがに今回の劇場版ほどのクオリティではなくて安堵したというか。さすがにテレビの方はチャギントンくらいの作りこみだったので、流石に週間であのクオリティだったらやばいよな、と思ったので。

まあ同じCGアニメだとメカアマトとかは頭一つ抜けてるけど。

これがどういうコンセプトで立ち上げられた企画なのかは知らないが、見たまんま受け取るのであれば犬(カワイイ)+ビークル(かっこいい)の超わかりやすい足し算の図式である。メインターゲットはおそらく男児なのだが女児にも訴求したいというころのなのだろうか。

単純だがそれゆえに効果的ではあるかもしれない。なんだかんだで10年選手のアニメだし。

しかし、まあこれはこのアニメに限った話ではないのだが、犬だけが人間と同様の知性を与えられている(なにせ話す上に乗り物を乗りこなしあまつさえ人命救助にあたるのだから)一方で、ほかの動物はその一線を越えはしない。劇中で登場したほかの動物だけで言っても亀と猫がそうだ。どうでもいいけどニコロデオンで亀となるとタートルズを思い出すのだが、まあ関係はないだろうデザイン的にも。

もちろん、犬と人間は進化の過程においてほかの動物にはない双方向的な作用を及ぼしてきたことを考えれば、犬をほかの動物よりも人間側にコミットさせた存在として描くことは理解はできる。犬と見つめ合うとオキシトシンが分泌されるくらいだし。

気にかかるのは本作における猫の扱いである。どう見ても猫派と犬派の対立煽りだろこれ。

パウパトロール面々の、というか市井の人々の民意を蔑ろにして放縦な振る舞いをしてみせる市長が猫をたくさん侍らせ、その猫たちの高飛車もといお高く留まった感じなどは明らかに対比的である。「007」を筆頭に、というかそれとあとはポケモンくらいしか思い浮かばないが悪の組織のボスキャラはイスにふんぞり返って猫を撫でているというイメージがあるのだが、本作はその人口に膾炙した(してるのか?)イメージを明らかに引用している。

日本における猫の扱い、とりわけ女性作家が描く猫とはまた違うというか、なんだか犬と猫を巡る(個人的には猫の取り扱いが凄い気になるのだが)創作における表象というのは一考の余地がある題材なのではないかと思ったり。

話自体は犬の主役であるチェイスがある種のトラウマと乗り越えるという話で、オーソドックスな作りで特筆すべきことはないのだが、犬のくせに嗅覚の性能がオミットされるあたりの擬人化と言う名の作劇の都合に合わされる感じなどは、特権的地位を与えられることでむしろ種としての性能に枷をかけられているというなんだか奇妙な犬たちの描かれ方に面白みを感じてしまうのだが。

これ、テレビシリーズの方だとほかの動物はどうやって描かれているのだろうか。

 

大統領の執事の涙

なんというかこう「それでも夜は明ける」をどうしても想起してしまったのだけれど、これ公開時期見たら同年だったので驚いた。

個人的には「それでも~」の方が好きというか技巧を凝らしている感じがあるのだが、こっちもこっちで悪くはない(何様だ)。

座り込み運動のシーンなどは瀟洒ホワイトハウスに整然と並べられた白いテーブルとカトラリーと白人、そのサイドに立ち並ぶ黒人の執事とファミレスの椅子に横一列に並んで座る黒人のカットバックによる対比は見事だったし。

そこには当事者として白人に殺される恐怖を実体験として知る大人であるセシルと、それを知らないわけではないがそれでもなお蛮勇的に旧態依然とした制度に抗おうとする息子ルイスとの世代的な対比。このあたりの親子の確執というのが後半まで残るのだがお互いを認めるというよりは互いにそれぞれの道を突き進んだ先に合流(まあセシルが折れた感じはあるのだが)し、その合流地点が拘留所というのはクスッと来るあたりである。シーンの切り替えも上手い。

 

ジョンソン大統領の描かれ方のひどさはそのまま評価に直結しているというのはわかるが、それにしてもいいとこなしで笑ってしまう。

あとグロリアの顔をどこかで観たと思ったらオプラだった。

 

「いちご白書」

相変らずNHKの現場スタッフは世相を見ながら作品チョイスしているなぁ、という。

しかし、学生ストを描いたこの映画を日本のウィキではアメリカン・ニューシネマの一つとし位置づけているのだが(編者の主観が多分に含まれていることを前提に)、しかし本当にそうだろうかとかなり疑問を持ちつつ、同時にそれらの映画が本質的に持つモラトリアム(の終点に対する抵抗)の反映と自己陶酔感を浮き彫りにしているような気がする。

それは大雑把に括ってしまうなら青春だろうか。アメリカン・ニューシネマとは成熟を否定し、死によってその青春を永遠に延長することにあるのではないだろうか。

この映画がその政治的主張よりも部活動や恋、それにかかわる人間関係による喜怒哀楽を描いていることでそれが如実に示されている。

冒頭の厭味ったらしい文言にしても、そこにはともかく怒りが先行した文面になっている。事程左様に、これは政治的主張をガワにした青春映画なのだ。カートで坂を下るシーンに象徴されるように。

これに比べれば「旅立ちの時」の方がよほど政治的な映画だろう。