dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2020 7月

クォ・ヴァディス

この時期の叙事詩映画ってどれもこれも似たようなものに見えてしまうんですけど。

いや、かなり豪華なんで話自体はぶっちゃけ退屈でもともかく金をかけているので釘付けにはなるんですよね。これに関してはスタントにしもて危ないシーンがありますし。

ペトロとヘラクレスを除くと男連中はそろいもそろってうざすぎるし(将軍はまあ)、ああいう価値観をよしとしていたという時点でまあどうなの、と思わなくもないのですが。

でも画面は豪華なんですよねー。

 

「ハリーの災難」

いや、これ「サイコ」より登場人物がサイコ(ネットスラング的に)っぽいんですが。

まあ音楽の調子といいやたらもカラフルな画面といい、明らかにコミカルに描いているわけですが、にしてもである。

衣装がいいなーと思ったらイーディス・ヘッド。いいですねぇ。

 

炎のランナー

通して観るのは初めて(こういうの多いなぁ)ですが、なんか期待値あげすぎたのは否めない。

冒頭とラストの繋ぎは泣けるんですけど、それは間違いなく史実を知らされたことによるものであるからして…。

 

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

相変わらずだっさいサブタイトルな邦画センスでございますが、内容はとても素晴らしい。今年観た中でトップクラス。

というか、やはりNHKBSプレミアムはある程度テーマを組んで流す映画決めていますな、これ。「グラン・プリ」も同じような映画だったし。

もっと言えば、テニス版「聖の青春」と言うべきでしょうか。つまるところ、その世界の頂にいる二人にしかわからない二人だけの世界。

ことこの「二人だけの世界」を描く映画というのは、実世界の人物しかも勝敗を決するアスリート/プロフェッショナルばかりがモチーフとされている気がする。

この手のタイプの映画が好物なのとシャイアが好きというだけでもう私としては万々歳なんですけど、この映画かなりストイックというか、とても抑えた演出を貫くんですよね。もっと盛り上げてもいいような場面でも静かな音楽で抑制しますし、決して説明的にしない。

ただ氷の男と炎の男(ほんとださい、これ)という両極端な選手という世評に対し、二人の過去の出来事を描くことそれだけで実は二人が同じ性質な人間であることをあらわにしてしまう。

だからマッケンローは決勝で、ボルグとの試合では試合にだけ集中することができたのだ。なぜならそれは、ようやく分かり合える相手と巡り合うことができたから。

二人は孤独である。それはほかのプレイヤーにもいえることで、コートに立ってしまえば頼れるのは己だけ。

けれど、この二人の抱くそれは、その才能・実績ゆえに他の選手よりも遥かに重いものなのです。以前、「エニー・ギブン・サンデー」についてチームスポーツゆえの高揚感があると書いたのだけど、もちろんそれがあるということは個人スポーツにしかない、彼らにしか感じえない世界も確実にあるのであります。

それを如実に表現しているのがこの映画なのでせう。

試合後のラストシーンで、二人が会話をする場面でマリアナは彼らを真横からしか見ることができない。真に分かり合えるのは顔を突き合わせ対面し、ネットを挟んでコートに対峙した二人だけにしかわからない。たとえ彼女が同じくプロテニスプレイヤーであったとしても(劇中でボルグからも言われることである)。

けれど、観客はその世界の一端を、2人にしか分からない世界のかけらを、映画というフィクションによって我々凡夫に垣間見せてくれる。アングルだったり、ストーリーだったり「グラン・プリ」がそうであったように、最高峰のトップアスリートに直接届かずとも、彼らの周囲の人物を数珠繋ぎにして描いていくことで観客は彼らの観る世界の一部を感じることができる。

これこそがフィクションでなくてなんであろうか。

 

ミネソタ大強盗団

ジェシー・ジェームズ強盗団映画だとこれかなりすきかもしれない。

しかしまあ、市中引き回しじゃありませんが、時代背景を忠実に再現したがゆえであrのでしょうがやることが野蛮すぎる。

ノワール、と言っていいのかわかりませんが、ホモソーシャルの快楽と友情の妙がすごいいい味を出している。

あと何と言っても(?)ジム・ヤンガー!口元をマフラーで覆うあれ!実写であんなにかっこよくてお茶目なのはなかなかいませんよ!

画面で起きてることの凄惨さに対して間の抜けたような音楽といい、なんだか奇妙な外し方でそれがかえって面白いというか。

正直ジムだけでも十分すぎるくらい楽しめた。

 

翔んだカップル

こういっちゃなんですが、大林宣彦よりも相米信二の方が薬師丸ひろ子を魅力的に描けていよるのでは。制服一辺倒な「時かけ」よりも都度都度衣装替えさせる相米を見ればそれはわかることである。

思うに、大林はロリコンとして少女を求めているのであり、一方で相米はそこから先を見ようとしているのではないだろうか。そうでなきゃベッドシーン(ベッドに隠れていますが)を描きますまい。

カットを中々割らないわ自転車ツッコミ(これもノーカット)を本人にやらせるわ道路のど真ん中に置くわ、今考えるとコンプラ的に問題ありまくりな演出があってハラハラする。「あ、春」が初めて見た相米映画だったのですが、あちらは登場人物がみんな大人だったこともあり、比較的落ち着いていたのですが、こっちは高校生がメインでありますゆえそうはいかんざき。

テイストは軽いのに恋愛関係の中に潜む(人間関係というと軽く聞こえるのであれば、人間と人間のかかわりといってもいいかもしれない)暴力性が見え隠れする。監督はもっと冗談ぽく軽めにすればより悲しさが際立ったはず、とは言っていますけど、これでも十分すぎるくらいだと思う。

思春期のあの反動形成と自意識、それが引き起こす自傷。悶々きゅんきゅんする。一見してコミカルでありながら表出する暴力性・破壊性(自転車のシーン、びんた合戦、そもそもボクシングという殴り合い、グローブでガラスガシャーンなどなど)。それがこの映画の魅力なのでせう。

さすがに相米の演技指導は今じゃ到底無理でしょうが(インディーズだと割とありえるらしいですが)、しかし是枝監督が応えていたように、ああいう風に追い込むことでこそ到達するものもある。尾美としのりのひねくれた感じも、石原真理子の理知的でありながらその内実に衝動的なものを抱えている感じも本当にいい。あと真田広之の屑男っぷりも。なんか詳しい情報出てこないんですが絵里訳の前村麻由美もすごくいい(ボキャ貧)。ていうかみんないい。

モグラたたきのシーンとか最高。あそこでカット割って変に薬師丸の顔をアップにしたしりしないのがすごくいい。アフレコなのもよい。

この映画には徹底して大人が不在である。それはたとえば、少年マンガライトノベルなどにありがちなご都合的主義な設定として飲み込むには、あまりにも自然なのである。圭・勇介・秋美の一人暮らし勢の家(空間)は描きながら、わたるの家は描かない。なのに閉じてるわけでも閉塞しているわけでもない世界。なんというか、ジョン・ヒューズを想起したりもする。

 

どうでもいいけど「家族ゲーム」を思い出したのはやっぱりこのモグラたたきのせいだろうか。

くじらといい立ちしょんの撮り方といい、ともかく他の人はやらんでしょう、というシーンが目白押しで、まあそれをみるだけでも割と楽しかったりする。

 

丹下左膳 百万両の壺(2004年)」

柳生パートとトヨエツパートがなんだか乖離してる気が。

オリジナル版がどういう感じなのかわからないんですけど、多分「銀魂」好きな人は好きなんだろうなーと思う人情とユーモアもの。しかしトヨエツの顔。

しかし麻生久美子顔変わらないですね。

 

「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」

 

      ,.r''´      ; ヽ、
    ,ri'  、r-‐ー―'ー-、'ヽ、
   r;:   r'´        ヽ ヽ
  (,;_ 、  l          ::::i 'i、
 r'´    i'   _,   _,.:_:::i  il!
 ヾ ,r  -';! '''r,.,=,、" ::rrrテ; ::lr ))
  ! ;、 .:::;!    `´'  :::.   ' .::i: ,i'
  `-r,.ィ::i.      :' _ :::;:. .::::!´
     .l:i.     .__`´__,::i:::::l
     r-i.     、_,.: .::/
      !:::;::! ::.、     .:::r,!
     l::::::::ト __` 二..-',r'::::-、
     l;::i' l:     ̄,.rt':::::::/   ` -、
    ,r' ´  ヽr'ヽr'i::::::::;!'´

 ソレナンテ・エ・ロゲ[Sorenant et Roage]
     (1599~1664 フランス)

 

まあふざけたAAを張っておきながらアレなのですが、このAAを使うべきは「ミスターノーバディ」だったな、と。

ただシャーロットと再会したあたりの展開がちょっとそれっぽかった(エロゲというかレディコミだろうか)ので勢い余って使ってしまった。スマンカッタ。

しかしこれだけ魅力的な女性がいながら最萌えはデズモンド叔父さんという転倒っぷり。あたし、そういうの嫌いじゃないから!

というおふざけはこの辺にしておくとして。ユーモアのセンスが凄まじくイギリスっぽい(曖昧模糊)なーと思ったら監督はリチャード・カーティス。とか知った風な書き方しておきながらこの人の監督作はこれが初めてという相変わらずな体たらくな私でございますが、「ミスタービーン」の脚本とか手掛けてるしそういう言い方も許してほしい。でもオーラルセックス(原語ではクンニリングスとかいう直球っぷり含め)のくだりとかイギリスっぽいし。

 

タイムトラベルものの割に何か大きなインシデントがあるわけでもない、というのがちょっと珍しいかも。タイムトラベル自体がそうだろ、と言われてしまえばその通りなのですが、それすらも素っ気なく描く。暗がりに行って目をつぶったらポンである。SEだけで演出する省エネの巧みさなど、その辺も割と英国風味であるように感じる。

「メッセージ」との共通点を上げている人もいましたが、確かに「時間」の不可逆性と可逆性についての話と言う点では共通していますな。当然っちゃ当然なんですけど、そこに含まれるのは身近な人間の「死」であり、そうなると私などはキューブラー=ロスの死の需要過程じみたものも感じてしまう。

 

で、先に述べたようにこの映画には劇的な何かがあるわけじゃない。たとえば妹の事故にしても、時間を戻さずとも命に別状はないことが判明するし、その事故そのものよりもジミーというクズな彼氏と別れることが主題とされているわけですし。

であるからこそ、ともすれば教訓的で説教臭い「何気ない日々が大切」なのだというテーマを抵抗感なくすっと受け入れらるわけです。

 

個人的に一番ぐっと来たのは、最後に父親と卓球をしに行く場面。あそこで卓球部屋に行くまで主観になるのですが、部屋に入って見るとそこには主観の主であるはずのティムの姿もあるわけなんですね。つまり、ティム自身がティムを見ているという構図になっているわけですよね。

それは、ある種の解離した自分(乖離ではなく)を見ること。その断絶性。それから彼はタイムトラベルをしないことを決める。

そういう細かな演出がそこかしこにみられる。全編通してカメラは揺れ続けるし、終盤でティムが朝食を作ろうと起床したあたりで、メアリーの寝返り動作を微妙に異なるアングルで4回ほどカットバックしてみたり。

つまり「同じ」でありながらも「異なる」「時間」「空間」に置かれた「不安定さ(落ち着かなさ)」を、ついにはティムが受容する話なのでせう。

 

だからこの映画は素っ気なく終わる。日常は素っ気ないものだから。そこにこそ価値を見出すこと。何か劇的なものを経験せずともそこに共感できるのは、身近な人の素っ気ない死と地続きに繋がっているから。

それと選択の話でもありますね。もちろん、その選択はごくごく限られた選択でしかなくそこに自由を見出すのは「マトリックス リローデッド」的なおためごかしでしかないわけですが、それを受け入れたうえて選択をするということが重要なのだということ。

 

「劇場版 Fate/stay night[Heaven's Feel] Presage Flower」

 

こういう、どう見ても一見さんお断りの映画というのは初見の人がどれくらいいるのだろうか。いや別に私は一見さんじゃないし、むしろそこいらのにわかや新参にくらべればFateというコンテンツに親しんできた人間だもんで、だからこそどう考えても初見の人間には説明が足りなすぎる(サーヴァント? セイバー? アサシン? 何それ?)のがちょっと見ていて気になった。

まあ明らかにこれまでお布施をしてきた既存のファンに向けたボーナスステージでございますから、そういうのは気にするだけ野暮なのでしょうが。

なんて偉そうに古参ぶっていますが私自身もHeaven's Feelのルート(移植版)をやったのは10年前でございますから、細かい部分は憶えてないんですが。

というか、Fateを筆頭とする型月まわりに関してはなんといいますか、あまり積極的に触れたくない気がしないでもないのでございます。型月というのは私にとっては別れた恋人のような存在というか。

 


しかし守銭奴な私はタダで観れるとなれば観てしまうショミン・センシズな持ち主ゆえBSでやっていたのを観てしまいました。タダ観には勝てなかったよ・・・。

 

前置きだらだら書くのもあれなので本題に入ります。

三部作の一作目ということでたっぷり2時間かけてようやく物語が動き出したところで終わるので、何とも言い難い消化不良感は否めない。まあ、それなりに上手く(調教厳選されたファンにとっては)スタートダッシュは切れている気はするので、「わくわくしかしねぇー!」とも言えるのですが。

キャラデザはまあ、Zeroのころからこんな感じなので今更言うのも詮無いことではあるんですが、鼻梁だけ曲線一本で表現するあのキャラデザって正面とかだとそこまで気にならないんですけど、角度が付くとちょっと違和感出たりするんですよね。あと顔のパーツのバランスがカマキリっぽいというか。中割とかそいうのじゃなくて桜の顔とかちょっと気になる部分もありました。まあこれは好みの問題ですし、言うほど気になってるわけではないですけど(じゃあ書くなよ)。

 

劇場版だけあって間の取り方とか贅沢なので、おかげて緩急がついている。序盤の日常だけでかなり尺を取ってましたし。その割にはルール説明とか劇場版UBWDEEN制作だったかしら?)並みの省き方で、とにかくまあ桜を描写したいのだな、と。

ただですね、これはもう本当にできてないアニメが割とあるんですけど、台所にキャラクターを立たせるなら服の袖は捲らせてくれませんかね、マジで。言っておきますけど、こんなのは小学生の家庭科で習うことですからね。押井じゃありませんが、映画の神は細部に宿るんですよ(よく細部を見逃すことがありますが私は)。

 


いやね、キャラクターの関係性とかに関しては描写は細かいんですよ(慎二と桜と士郎周り)。だけどこれ原作か移植版やってないと伝わんないよね絶対。10年前に移植版をプレイしたきりだったので私もまあまあうろ覚えですが。

 

さてFateのっていうかufoの売りの一つであるアクションシーンですが、「空の境界」のころからカメラをすんごいぐりぐり動かしてエフェクトモリモリにするんですよね。これはもう監督というよりは会社の色と言ってもいい感じで。まあ主要スタッフだいぶかぶってますから当然っちゃ当然なんですけど。

ただまあFPS高い箇所とかはもうちょっと厳選していいのじゃないかとも思わないでもない。あと撮影。ほとんどは問題ないですし戦闘も(バーサーカーとセイバーまわりはちょっとディーンのUBWと似てるような気が)すごいことやってるんですけど、終盤のセイバーとアサシン(部屋の内側から描いた部分)の揺れ方がちーっと安っぽい気がしました。

 

個人的に一番良かったのは黒桜の出現と消失演出。これはなかなか良かったです。気づいたらいる感じと、カットを割るといなくなるのとか。特に寺での消え方の、士郎が黒桜のいたところに画面外から入ってくるところ。ジャパニーズホラーな感じがして。CGの描画のおかげでかなーり異物感はなっておりましたし。自動車のCGとかもそうですけどCG班がかなりいい仕事しています。

 


桜に関してはなんていいましょうかね。まあ桜ルートなので桜を魅力的に描きたいという思いはビシバシ伝わってくるんですけど、こんなにあざとかったっけ? 表現メディアの違いかこれ? それとも監督の愛情の注ぎ方の違い?

冬に薄手の半そではさすがに狙いすぎだし雪降ってるんだから靴下くらい履いて出てきなさいよ、という感じが。アピールすごいよ本当。という所感。

 

個人的には津嘉山さんをあまりアニメでは聞かない(観てないだけでもありますが)ので、津嘉山さん声のアニメキャラというだけで結構ポイントが高い。いやキャラはきもいんですけど。氏はクモ膜下出血やら脳梗塞やら脳卒中やらで活舌が明らかにアレなのですが、コンスタントにドラマなどにも出ててそっちだと割と問題なく聞こえたりするんですけど、やっぱり声だけのときと身体が画面に映るのとでは違うのだろうか。まあ唇の動きもあるから違うのだろうか、やっぱり。

 

あとものすごいどうでもいいことなんですけど第三章の副題がspring songでちょっと悲しい笑いが。コロナがなければ予定通り4月に公開できてたのになぁという哀愁が。

 

HFルートで映像化するなら言峰がイリヤを抱きかかえて走るシーンがいろんな意味で好きなので、それを期待。

一応2章も録画してあるので気が向いたら感想書く。書かないかも。

 

 「戦場」

前半は割とコミカルなので後半との落差にびっくりする。

後半の爆撃食らうシーンで倒壊に巻き込まれて死んでしまう兵士のカット。片目が手前の木材に隠れているあのカット。あのカットを筆頭に、爆撃を受けるシーンはともかく凄まじい。

 

「モンスターズ 新種誕生」

「モンスターズ」に続編があったことすら知らなんだ。監督はギャレスではないので(時期的にゴジラを監督してたはずなので当然)、かなり毛色は違うような気もするのですが、ただまあモンスターが背景的に使われつつ(画面には頻繁に登場しますが)メインとなる人間ドラマと連動していく、というのは実のところギャレスの方と同じだったりして。

 

ナイロビの蜂

なんだか撮りかたが「シティ・オブ・ゴッド」ぼいと思ったら監督同じフェルナンド・メイレレスだし撮影監督セザール・シャローンで同じだった。この人はなんかこう、ジモティー感(あくまで感。というのも私が現地を知らないので)を出すのがすごい上手い気がする。まあ「シティ~」は現地の素人をメインに起用しているという手法もかなり影響しているのではあろうけれど。

「シティ~」でもあったけれど、「途上国」への問題意識と怒りを確かに湛えながらも、しかし安易な救いに結び付けず現地の在り方・現実の在り様に従うのがジモティーっぽさなのだろうか。

ややおセンチなくどさがないわけではないですが、実際にありそうな(というか原作者リサーチと体験から導出された話なので現実にあるわけですし、スウェーデン制作の「国連平和ミッションの闇」というドキュメンタリーがほぼこんな感じの話)サスペンスとしても単純に面白い。前半のメイン二人の部分はややかったるくなりそうな部分も時系列を細かく入れ替えてささっとスタートダッシュを切って興味を持続させてくれるし編集もなかなか凝っています。

あとロケーションも良い。最後にジャスティンが自死を選ぶあの場所とかね。

それとすごい余談なんですけど、「ジョン・ウィック」のホテルコンチネンタルと同じところ思われるロケ地が中盤のバーナードとの食事のシーンで出てきたような。

 

Fate/stay night [Heaven's Feel] II. lost butterfly

文字に起こすことのほどはなかったんですが、桜が調理のシーンで腕まくってたので前章で気になってたところはOKです。しかしそのあとで遠坂と料理するシーンで遠坂は袖まくってないのなんなんですか。まくれ、袖を。てめーの特異な中華料理なんて油飛びまくるんだぞ。
相変わらず黒桜周りのホラー演出はよござんす。逆に言えばそれ以外はそこまで前作と同じ感じ。仕方ないとはいえ色々と省いているところもあったり、編集のつなぎ方がちょっとどうかと思う部分もあったり。
しかし黒桜がああなってしまった以上は第3章でのホラー演出は望めないでしょうし・・・うーん。
あとはまあ、これは何というか、原作が発表された年代や当時のエロゲー旺盛時代を考えれば仕方ない(?)とはいえ、桜のキャラクターってすさまじく男の欲望の投射だなーとこうして見返してみると思う。ボンテージでキャラ付けするのもやむなしというか。
エロシーンは空の境界がちゃんと描いていたのに対してこちらは濁している(TV版だから?)あたり、作り手の意図がよくわからない。こっちエロゲーであっちは一応小説なのですが。別に望んじゃいないけど。
そういうシーンでハイライトめっちゃ盛ったりとか、まあ桜のあざとさは相変わらず。桜ってセリフのトーンと種類が少なくて(「先…輩…」大杉)単調なので、それくらいあざといほうがいいとはおもいますけど、ちょっと笑っちゃいますね。
電車の心理描写とかも「おいおいこの時代にエヴァかよ」と。桜側からの心理描写とはいえ遠坂家の人間が電車乗ってるのってなんかシュールですしね。本当に優雅な人間は電車とか乗らないでしょっていうね。
第2章でここまでやったということは第3章は戦闘メインで進めていく感じなのでしょうね。お姫様抱っこ言峰VSアサシン、セイバーVS腕士郎&ライダー、腕士郎VS黒バーサーカー、姉妹対決、この辺消化しなきゃいけないわけですし、かなり食傷気味になりそうな。
慎二も退場しちゃいましたしねぇ。正直、HFの面白いところとして桜を介した士郎と慎二のホモセクシャル手前のホモソーシャル感も個人的には結構好きだったので、今回でかなりおいしいポイントが削られてしまった感じ。その辺は映画は結構わかりやすく描いていた感じ(まあ基本的なキャラ設定を知っていないと伝わらないでしょうが)もしますしね。
それと稲田さんの高いキチ声は結構好きです。前回あんまり意識しなかったけど。どっしりした重みのあるイケボだと東地さんと稲田さんが好きなんですけど、稲田さんのキチ声って結構レアな気もする。
あーあとですねー、Fateにエメは合わない気がします。というか、前作のはともかく今作のは歌詞的にエメのねっとりしたボイスは合わないでしょ。キャラソンとして下屋さんに歌わせて別バージョンとしてリリースするのか知りませんが。
 
「harmony」
基本的には原作をなぞった感じでしたね、はい。
記述言語の表現とそれを出力する端末のデザインはどことなくリンゴっぽく墓標っぽかったり、建築デザインの有機的な感じや色合いなどはかなり良かった。オーグ上のタグの表現なんかも微細でしたし、こういう全体的なデザイン設計は良かったです。ガジェットはまあ、こんなとこなのかな。しかし螺旋監察官の制服のデザインがappendミクのほぼトレースなのはどうなのだ。
それとですね、一番気になっていたジャングルジムのくだりや冴木博士の部屋の知性天井をどうやって表現するのか、というのがまさかの全オミットというところにかなり不満が残る。ミァハがかなりファンタジーでファンシーなキャラ造形になっていて、回想も含め彼女が登場する場面は抽象的なイメージで表現されているのですが、ジャングルジムのくだりは世界のやさしさを表すためには必要だったような気もします。まあ、なんとなく絵面としてはバカっぽい気がしなくもない、というのはわかりますけど。
あと音響デザイン。これがすんごい良い仕事しておりまして、下手にBGMを入れないのは良し。これのおかげでかなり格を保っている感じがする。どことなくゲームっぽいですけどね。SF系とか神話モチーフのアクションゲームのラストステージ付近に流れていそうな。
ただ、一本の映画を観た時の満足感はあまりない。なんというか、映画というよりも小説の映画化、コミカライズ的なメディアミックスの産物に収まってしまっている気がする。
原作を読んだ時のセンスオブワンダーがあったのに、なぜか同じストーリーラインをなぞった映画版を観終わった後では妙な虚無感が残った。それが映画の世界観に浸ることができたからなのかどうか。
まあ原作読み直していて思ったのですけど、これあんまりアニメーション映画には向いてないかもしれない。いや、「イノセンス」くらいの言語量ならあるいは、とも思わなくもないのだけれど、とにかく会話のシーンの演出に苦慮している気が。かといって会話やモノローグも絶対省けないところはあるし。俳優の身体を介してならあるいは、という意味で実写映画ならまた違ったかもしれないけど。
あと百合成分がかなり強く、エモーショナルな方向へとセリフも細かく映画化にあたって変わっている部分もあり、原作者がエモーション部分が苦手という自白をしていたことからカバーしたのだろうか?
と思ってインタビュー読み直したらなかむらさん「当初は原作に感情移入できなかった」とか書いてるし、やっぱりエモーション成分強めにしたんだろうなぁ・・・。
映画を観終わったあとの虚無感がそのエモーションの喪失であるならばこの映画は確かに勝利しているのだろうけど、本当に私の感じた虚無感がその手のものなのかどうか正直疑わしくはあるのですよね。
私は原作・・・というより原作者が好きなので、五年前のこの映画を含めたメディアミックスに比べて、現在や10回忌にあたる去年に何もなかったことなど、早川まわりも含めて、結局のところ本人が望んだ「語り継がれる」ことができているのだろうか、と、この映画を観て、この映画がまったく語り草にならないことなんかを考えながら思ってしまった。
それに対する虚無感だったりするのではないだろうか、と。
 
陽暉楼
五社英雄の映画を観るのは何気に初めてなのですが、これ傑作でしたね。
原作がどうなのかは未読につきよくわかりませんが、そもそも浅野温子のキャラクターがいなかったということもあり、かなり原作とは違うみたい。まあ結果的に傑作になっているのでむしろ良いとは思いますが。
これ、浅野温子演じる珠子(浅野温子めっさ若く、観月ありさ松嶋菜々子を足して割ったような顔)がいなかったらここまでにはならなかったでしょうしね。
女ダブル主人公といった感じで、しかしウーマンスとも異なる、もっとどろどろした情念によって結び付いた二人の関係と、その元凶であるダブルミーニングの「父」である緒形拳演じる勝造の因果なつながりとその応報。
 
ともかくこの映画は女性が輝いている。いや、輝いていると書くとやや語弊があるかもしれないし、たとえ輝きと形容できたとしても、それがどぶ底をさらうことでしか見えない輝きでしかないかもしれない。んが、書割的な男性諸兄に比べて芸妓も女郎も魅力的であることは否定できないでせう。唯一、書割的でない勝造(緒形拳に依るところは大きいですが)ですら、生き生きとした(後ろ暗さがあっても)女性たちを彩るためのサブテキスト的人物でしかない。
無論、彼女たちはすでにからして抑圧され搾取される世界に生きている。芸妓だろうが女郎だろうが、桃若だろうが珠子だろうが、実娘だろうが愛人だろうが、彼女たちに自由はない。下種な男根的絆で自縄自縛する男どもの縄に一緒に巻き取られているのだから自由などあるはずもない。
それでもなお彼女たちに自由を見ようというのならば、それはどう生きるかというないに等しい生き様の選択をすることだけ。生き様とはすなわちどう死ぬかという死にざまであろう。
男に囲われることを拒み苦しみに死んだ桃若と死臭を放つ男を慕いながら孤独に永らえる珠子。どちらがいい、なんて話じゃない。対置こそすれ比較するようなものではない。
ただ、情のもたらす因果の結実でしかない。
それでも、家に囲われていた忠がラストカットで房子の娘と外の世界をおう歌していた。
 
とにもかくにも情である。人間の。女の。
芸子たちが医者(男性)に診察されるときのヴァギナに関する会話など、女性の本音というか女性の身体性というものがとかく強調される。それは職業的に当然なのだけれど、ここまで包み隠さない人間の意地汚さというか生き汚さは「ハスラーズ」のような金に括られた価値観では不可能でしょう。まあ昭和初期の日本を描いた、この時代の邦画だからというのと、新自由主義&資本主義的価値観が根底にあるアメリカにしてみれば金はかなり切実な問題ではあるのでしょうが。
 
温泉での取っ組み合いもあるし「ゼイリブ」に負けずとも劣らない主人公二人の取っ組み合いもあり、なんというかもうその念と情の熱量がすごいっす。
「大奥」と並べても遜色のない女の世界を描いた傑作ではなかろうか。

アウトサイダーズビュー「蟹の惑星」「坂網猟」

上映会がやっていたので行ってきました。

村上浩康監督の「蟹の惑星」と今井友樹監督「坂網漁」の二本立て。それと企画者の四方繁利の鼎談付き。

まあ監督本人が言う通り「蟹の惑星」は「東京干潟」と一緒に観たかったという気持ちもあるのですが、しかし鼎談や今井監督の過去作の経歴を知ったことでこの三人の並びから見えてきそうなものもあったので良かった。

 

「坂網猟」については、尺的にもNHKのBSとかEテレで流せそうなんですけど、私の知らないだけで放送されてたりするのだろうか。

個人的には本作よりも今井監督のフィルモグラフィー呉秀三のドキュメントのやつで、ほかの監督作に比べると、これだけちょっと毛色が違うようにも思えるわけですが、実はこれもそうでもないんじゃないか、と思ったり。

とはいえまずは本編について。この中編映画はタイトル通り「坂網猟」についての映画でございますね。

そも 坂網猟とは何ぞや。

坂網猟とは石川県と福井県の県境に近い加賀市片野町にある片野鴨池という湿地で行われる(似たようなものは日本各地でも確認されたが、現在も継承されているのはこの片野鴨池と宮崎県佐渡原町だけだとか)カモ猟のことで、元禄時代から300年以上にわたって受け継がれてきた伝統的なものだという。元は士族に限られた(鍛錬の意味もあったとか)ものだったのが明治維新で猟が自由になって坂場の取り合いが起こったから組合が組織され・・・とまあ色々と歴史があるようで、またラムサール条約の登録湿地としても指定されているとか、300年も持続する生態系を破壊しないカモ猟であるワイズユースの好例として評価されたとか。

要するに乱獲だとか乱開発だとか、そういうものと対極にある猟であるということでせう。

夏は農家が管理して冬は坂網猟師が片野町に借賃を払ってカモを集める場所として利用しているらしく、季節によって変わる湿地の様相を定点カメラで捉えられる。水の多寡によってその姿を変える様は、もしかしたら企画者の四方氏が狙ったのかもしれないけれど、干潟の姿にも似る。

全長4メートルにおよぶ坂網の構造も、ただの網とは違って捉えたカモを逃がさないようにするような仕掛けがほどこされていたりして感心する。

ただ、「伝統的な」とは言いつつもフレームに映る猟師は老齢の方々ばかり。そしてこの手の伝統が往々にして直面する後継・継承の問題が取り上げられ、地域の子どもたちに投網を体験させたりしているのだけれど、しかしここにおいて疑問が生じてくる。

生計を立てられているのだろうかと。この映画では、それについてはまったく触れられない。坂網猟をできる季節は限られているわけで、それを仕事としてこの資本主義社会下において存続させるには冬の間に一年分の生活費を稼がなければならないわけで。

坂網猟以外にも彼らが農業なり林業なりやっているのかどうなのか。それとも蟹漁のように一度に多く稼げるのか。それはわからない。無論、そこまで稼がなくとも生活することはできるだろうけれど、一対一の真剣勝負とまで表現せしめるこの坂網猟に対し今の子どもがどれだけの熱量を捧ぐことができるのだろうか。

監督は「金」を意識させたくなかったのだろうか。「若女将は小学生!」のように単なる仕事としての女将ではなく、おっこという「個」が世界と向き合い考えるべき「きっかけ」としての女将という仕事を描いたように。

しかしあちらがおっこという子どものセルフケア・セルフセラピーとしてあったのに対して、「坂網猟」は坂網猟そのものにフォーカスしているので、それが効果的なのかどうかはわからない。

 

次は「蟹の惑星」。

これ傑作でした。本当は「東京干潟」も一緒に観たかったんですが(監督も一緒に観てほしいと言ってたし)、まあそれは別の機会に。

 

この映画は一人の老人、吉田唯義さんを追い続ける。「蟹の惑星」とは銘打ちながら、その老人を追い続けた結果として蟹が取り上げられるのであり、その蟹を追っていくと多摩川の河口干潟の状態が捉えられるのであり、そしてこの局所的トリニティあるいはトリニティの局所が地球規模の極めて巨視的な視座にまで導いてくれる。その飛躍の瞬間は、今思い出しても鳥肌が立つほど。

とにもかくにも、まず言わなければならないのはこれはアウトサイダーを切り取った映画であるということでせう。そして、メインストリームでは決して語られえない、周縁にて彷徨い続けるからこそ中心にいるものでは決して見据えることのできない(それでいて同じところに帰結する)ものを見ることができる。無論、そのアウトサイダーというのは吉田さんのことだ。

一念岩をも通すというが、その岩は地球という惑星大の岩である。

たかだか一国の、島国の数百平方メートル程度の局所の出来事が、結果的に地球全体へと一足飛びに拡張する。しかし、よくよく考えてみれば南極の氷が解けているという事実だって局所の話にすぎない。だとすれば、その局所的出来事から全体へと押し広げることができるのであれば、この干潟と南極にいかほどの違いがあるだろうか。

それはニアリーイコールで中心と周縁との間に差があるのかどうかという疑義でもある。

 

監督は鼎談で「まず撮る場所を決めてそこに赴く。そしたらその場所に適した人が必ずいる」と言っていたのだけれど、それはとりもなおさず人と自然(まあ、地球と言ってもいい)が、というか人が自然とのつながりの中でしかーー人同士のつながりも含蓄するーー生きることができないことの証左である。

「蟹の惑星」というタイトルも、干潟に降り立ったときに目にした大量の蟹の姿から撮影を始まる前から「蟹の惑星」に決まっていたとか。

確かに、劇中の蟹の数は凄まじい。しかし、夥しく、おぞましいにもかかわらずどこか美しくもある。チゴガニの求愛or威嚇のシーンなんかは特に顕著。

とまあ、ともかく蟹の姿を捉えまくる。大量の蟹を遠くから近くから捉えまくっており、それはマクロとミクロ、全体と局所、地球と干潟、といったこの映画のテーマそのものに通底しているものでもある。これは最初から地球規模の話を扱っているわけです。

おそらく、それは編集の構成にも及んでいる。映画の中で多摩川に投棄されたゴミについて言及されるシーンがあって、そのあとのシーンでは蟹の数が減ったことを吉田さんが語る。これ、普通に考えればそのゴミによって蟹が生息地を追われた云々という話になりそうなものなのですが、しかし吉田さんは蟹の数が減った理由を先の東北の地震での影響であると語る。地震による泥の変化、地盤沈下津波。それによって蟹は減ってしまったのだと。

すなわち、人間などは及びもつかない地球の話なのだと、ここにおいてこの映画は干潟の話から地球の話へと飛躍せしめるわけです。最高。

 

ところで個人的に蟹の生体で一番感動したのは蟹の吹く泡が近くで観ると泡というよりも繊維の束のようにも見えるところ。まあそれ以外にも色々な蟹の色々の生体がつまびらかにされるわけですが、生体そのものもさることながら吉田さんの独自実験(ワサビを挟みにつけたり、目をふさいでみたり1メートル四方で囲って数を数えてみたり)の手法も面白い。

小難しい話もあるのでしょうが、そういうのを別にして単純に観ていて楽しいというのがこの映画。「東京干潟」がどのような感じなのか、今から楽しみでござい。

 

環境問題関連で思い出したのだけど、マイケル・ムーアが製作に回った「Planet of The Humans」の批判において、作為的云々というのとは別に、そもそも温暖化なんて存在しないという派閥もあるようで、そのての派閥の意見としては「そもそも温暖化というのは地球のサイクルの一環であって、人間ごときの産業活動程度が地球の環境に影響を及ぼすことなどありえない」というものだったりするらしい。精緻にデータを追っているわけでもない自分としてはなんか色々と凄まじいことになっていて、この辺の話も色々と意見を訊きたかったりする。

あと日本語字幕版が分割で挙げられていたので一応貼っておく。

https://www.youtube.com/watch?v=5u7Yobzm0-0

もう一つ「Planet~」で国際環境経済研究所の面白い意見記事もあったのでそれもついでに。

http://ieei.or.jp/2020/05/opinion200515/

まあムーアはムーアで極端にシフトする(だから面白い)タイプなので観賞者はまっとうな批判と合わせた上で楽しむというのが一番いいのかもしれない。

 

ほかにも「自然との共生」という言葉には色々と注意が必要でもあるのですが、それについてはまだ考えがまとまってないので今度の機会に。

ミラクル・ライブラリー

オンライン試写会で「パブリック 図書館の奇跡」を観る。

まあ低スペックのPCで2時間もない映画を3時間以上かけてカクカクの動画で観てしまったというこちらの瑕疵を考慮したとしても、これって全然いい話で終わってないのにそんないい感じで終わっていいのかと思うんですが。かろうじて音楽(音楽プロデューサーがタイラー・ベイツ(ともう一人Joanne Higginbottom

参加してますが)なので曲と歌は軒並み良いです)が主張してくれてはいるのですが。

 

役者はなかなか手堅いところを固めていて、アレック・ボールドウィンクリスチャン・スレーターなんか必要悪の敵対者としていい味出しております。

主演のエミリオ・ステベス(「ブレックファストクラブ」の主演の彼だと最初気づきませんでした)はちょっとスティーブ・カレルっぽい顔つきで、影がある感じは上手く出ていたと思います。

ちょっと驚いたのはジェナ・マローンの可愛さ。あの人、あんな野暮ったい可愛さが出せるのかと。髪色のせいもあるのでしょうが、ズーイーとオーブリー・プラザを足して人懐っこさをプラスした感じというか。ただまあ、キャラクターとしてはすごく退屈ではあります。

んが、この映画の登場人物、というが映画そのものが性善説に貫かれているように見えて、それがかえって欺瞞的に映ってしまう。

ホームレスの人々の中に黒人が多い(画面を占める割合が高い)ことは明らかに意識的ではあるのだろうけれど、ジョージ・フロイド周りの事件を経た後ではどうにもこの映画に対して居心地の悪さを感じてしまう。

それに、まあ、これは土地柄の問題とか福祉制度の違いもあるのだろうから一概には言えないのだけれど、クライマックスに彼らが全裸になったときに強烈に意識してしまったのだけれど、あのホームレス集団の中に女性はいるのだろうか。

もちろん、男性に比べればその比率は圧倒的に少ないだろう。しかし、それは不在を意味しない。だが、この映画では女性のホームレスは描かれない。眼中にないのだろう。あるいは、本当にシンシナティにはいないのかもしれないけれど。

そもそも、そうでなくともこういう人たちというのは隠蔽されがちなので、本当に意識しないと浮かび上がってこないものではある。それをもってして、この映画を称揚することも不可能ではないでしょう(志が高いとは言えないけれど)。

 

人情を描きたいのはわかるのだけれど、そのせいであまりにお行儀の良い人間が集まってしまい、悪徳を担うクリスチャン・スレーターのキャラクターはクリシェもいいところだろう。ボールドウィンは息子の件もあってそれなりに説得力のあるキャラにはなってはいるし、ホームレス集団とのブリッジャーとして機能させたかったのはわかるけどね・・・。

これ、スチュアートも結局のところ、せっかくホームレスから脱したのにまた逮捕歴がついてしまって、これから先がどうなるのかまったくわからない状態になってしまっているわけで、まったくもっていい話ではない。

 

ホームレスと公共空間という問題設定は非常に関心があるところではあるのです。日本にしたって、随分前から公園のベンチの中間に不要な肘置きやら突起やらを置いてホームレスが寝れないようにしていたり、景観という建前の元置かれるしょぼすぎる造花だったりと、まあともかくホームレスは場所を追われている。オリンピックに向けてその流れは加速している。

もちろんこれは日本国内の問題ではあるので、アメリカがどうかは知らない。けれど、結局のところこの映画は公共空間の公共性と個々人の権利の軋轢という問題を提議しておきながら投げっぱなしジャーマンで終わらせてしまうのであります。

いや、ある意味で個人の敗北ではあるのかもしれませんが、問題を突き詰め切れていないことには変わりない。

それが惜しくてならない。

最後に図書館の全体(ってほどでもないけど)を映してくれる煽りぎみのカットを淹れてくれたのはよかった。あれで少し気が晴れた感じがしないでもない。

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』が観たくなったし、そういう意味でのモチベーションにはなりうる。

 

 

6月2020

 

タクシー運転手 〜約束は海を越えて〜

何で日本の配給会社ってこういうだっさい副題つけるんですかね。

それはそうとアメリカの警官が黒人を殺した問題でデモ(というかもはや暴徒ですが)が起こっているときにこの映画を流すNHKの采配のシンクロニシティ。まあ「キリング・フィールド」とかも流してましたから、現場レベルだと色々と社会情勢を考えたりしながらプログラム組んでるんだろうなぁと思ったり。

これが80年の話というのも驚き。と言っても80年が40年前なわけですから、そう考えるとそれなりに歴史化されていても違和感ないんですけど。

銃とカメラの対比や私服警官に襲われるシーンの色彩、行きは後部座席なのに帰りは助手席というモロな演出など中々どうして良いではありませんか。ああいうの嫌いじゃないです。

これも実話ベースというあたり、現地に外国の記者が入り込んで〜っていうのはそういう定石として現実にあるのでしょうけど、これほどおいしい(とか書くと不謹慎ですが)バディもの定型もそうないのでは。

「TAXI」なんかよりよっぽどタクシーがカッコよく描かれているのもツボ。まあタクシーが、というよりはその乗り手であるドライバーのドラマなわけですが。

 

「クロニクル」

ずっと気になっていたのをようやく鑑賞。ジョシュ・トランクって今何してるんだっけ、そういえば。リブートのF4がこけてから何してるのか聞いてない(追ってないからですが)のでそろそろ新作を、と思ったら一応予定はあるらしいですね。ほかにも「ボバ・フェット」の監督の候補だったとかF4反省記事とか色々出てきた。

それはさておき「クロニクル」。ちょいちょい「それ本当にPOVとしてあり?」な部分もあるのですが、普通に面白いです。

しかし転倒させられることが前提の成功(の直後に訪れる増長・失敗)シーンってどうしてこうも見るに堪えないのだろう。約束された失敗、というのはそこに至るまでに陰の人であるという彼の執拗な描写からも分かってしまう。社交性が高く弁えている二人は弁別が可能だが、そうではない彼は力に酔い、己に陶酔してしまう。

無論、フラストレーションをため込んでしまうのはその家庭環境にもあることは明々白々なのではありますが、しかし結末も含めてすべてが破滅への予定調和としてあるこの物語を観客の立場として見るには忍びない。

しかしまあ超能力という設定があればPOVでもここまでカメラを動かしても大丈夫、というのはわかるにしても、ほかの人のカメラに映されるというのは(意図はわかるにしても)チョンボじゃないのかえ、トランク監督?

ああいうのは「アメスパ2」のエレクトロの方が個人的には好きですね。そういえばあれにもデハーン出てましたが。

にしてもデハーンってこのころから生え際ヤバかったんですね。

 

若草物語

おそらく「ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語」に合わせてNHKが組んだのだろうなーという。

しかし息苦しい映画だなぁ、と。それは多分、本質的にこの映画には外の世界が出てこないからでせう。この映画には西部劇映画の、ホモソーシャルの極限な映画において開けた空と大地が広がっている(それゆえの茫漠さはあるにしても)のに対し、この映画においては空は書割だしセットであるがゆえにアングルだってシットコムかのように固定されている場面が多い。

そうでなくても、シーンのほとんどが家であったり、学校であったりと、とにかく彼女たちを徹底的に内側へと押し込み囲う箱庭的な世界しか描かれない。それが「彼女」たちのおかれた世界だったのだろう。

だからとても息苦しいのだ。

 

「知りすぎていた男」

 たまにどれがどれだかわからなくなってくるヒッチコック

相変わらずうまいな、とは思うんだけどラストの勢いはちょっと笑う。

 

時をかける少女

大林版を今更。細田守版と比べるといろんな意味で幻惑的だなぁ、と。ていうかこれに比べたら細田守版てかなりSF色強めていたんだなぁ…。

大林監督の映画は家の生活感というか、日常感が良くて、そこに非日常が唐突に侵襲してくる展開とサイケな特撮編集と相まって奇妙な感覚をもたらす。

アイドルという非日常的存在を徹底して日常空間に落とし込み、芋くさくさせる(?)のもそのためなのかもしれない。いや単純にロリコンであるということではあるのだけれど、しかしそんなことを言えば程度の差はあれみんなロリコンでありショタコンなのではないかと個人的に思うのだが。

今なら堀川くんへのフォローが入ったりもしそうなもんですが、本作においては完全なる被害者であるわけで、ほとんど略奪愛の映画でもあるんてすね。演じてるのが尾美としのりというのも絶妙。

にしてもラストのズームアウトってどうやってんですかね?

 

 「サイコ」

 そういえば全編通して観るのは初めてだった。体調最悪で所々で意識が飛んでたりするとこもあったのですが、それでもまあ単純に面白い。

基本的には演出面で「ここはこうで~」という形で部分的に観させられていたので、案外というか、ストーリーラインそのものについては実は奇跡的にネタバレを回避してこれたのでかなり新鮮ではありましたし、さすがはサスペンスの神といったところでしょうか。

うーんでもなんというか、パロディばっかり見ていたせいで逆に笑ってしまったりもしてしまったり。有名なシャワーシーン以外にもがっつりパロられているんだなぁ、と。まあ主にシンプソンなんだけど。

にしても、ここまでマザコンミソジニー悪魔合体だとは。倒錯しすぎてちょっとやばいです。最後のモノローグが「母親」というのがヤバいし(「悪の教典」のハスミンってこれのオマージュだったりするのかしら)、それが翻って悲しいというのも多分にある。アングルも結構独特だったりしますよね、探偵を殺しにかかる直前のカットとか初期GTAみたいだったりしますし。

 

病院坂の首縊りの家

犬神家よりこっちの方がコミカルで好きかも。まあミステリーがそもそも苦手というのはあるのですが。

廃墟も出てくるし、黙太郎というサイドキックがいいキャラしている。しかし草刈正雄ってこうして見るとイケメンすなぁ。ちょっとアラブっぽくて濃い顔なんですが、いい具合に軽いのに戦争孤児という重い設定を付与されてたりするのも良い。

あと劇中のバンドの頭いい。

こうして書き出すと本筋と関係ない部分ばかりですね。ホントこういうの向いてないんだなぁ。

 

「フリーソロ」

理屈じゃないもの。取ってつけたような家庭の生い立ちや脳の検査も、何の参考にもなりはしない。辛うじて何かを見出せるのとしたら先達との会話のときの笑顔だけだ。

それは普通であることの証左にしかならない。

 

 

老人と海

うーん?どうもこの映画の語り口は弁解に聞こえるんですよね。

作り手自身も老人の在り方を(というか、老いて力を失っていくこと)良しとしていないというか、諦めているというか。

ほどど副音声的な説明が入るのが老人のシーン(少年単独のときはほぼない)というのは、老人自身が己の衰えを言葉とは裏腹に認めたくないからでは。執拗なまでの説明は、逆にその情景や心情を陳腐に見せる。

だからこそ一人で漁に出たのではないか。ワシはまだやれるのだ、と言わんばかりに。そんなことおくびにも出さないけれど。

要するにこれ、ジジイが最後に一発花を咲かそうとして試合には勝ったけど戦いには敗北した、それでも努力賞もらえました、という話にしか見えないのである。

なんか痛々しいです。

 

「スキン(短編版)」

サウスパークでありそうだな、と。というか似たようなネタをジンジャー差別やHIVでやってましたな。ラストのオチは違ったような気もしますけど。

要するに、どうしようもない現実問題なのでせう。

これ長編版どうなるのだろうか。

 

ファイヤーフォックス

良くも悪くも(としておきませう)ザアメリカなイーストウッドがロシア人との混血という設定であり、勝敗の決め手が敵国の言語をイーストウッドが使用するということであり、そもそも敵国の機体を鹵獲しようという、ある意味で徹底的にロシアageな映画である、というのがすごく面白い。(一方この映画の6年後にネッガーは「すまねぇロシア語はさっぱりだ」った。アメリカという国の歪み具合ががが)

 ウィキがまあまあ充実しているのもなんか面白いですが、やはりミリオタ的には琴線に触れるものがあるのだろうか。

一方、アメリカン兵士であるイーストウッドには明らかに兵士としての瑕疵=トラウマがある。加えてセリフの中でストレス障害など一般的だという事実が述べられる。

何度も擦られるイーストウッドの回想の中に出てくるアジア人の少女は、明らかにベトナム戦争の傷であるわけです。しかもそのせいで危うく任務に支障をきたしそうになったりもする。

アメリカ的価値観の相対化、という意味でイーストウッド映画には違いないのですが、なんだかSFXとかいわゆる特撮とイーストウッドの相性ってやたらといい気がするんですが、この映画のドッグファイトシーンの合成とかほとんど違和感ないしなんなんですかねこれ。

 

伊豆の踊子

 三浦友和が若い・・・。

トンネルのカットが良い。あとロケーションね。

露骨な、しかし当然のように潜む差別があまりにも日常に溶け込んでいて少しびっくり。

そして、それがもたらす恋のわずらわしさ。これってロミジュリでは?

話だけを追って入ると、そういう風には見えないんですけど、しかしやはり「私」の奥手っぷりというのは、いわゆる童貞マインド的なものなどではなくて、踊り子である彼女と己の立場の隔絶さについて自覚的だからではなかろうか。

かたや被差別民、かたや金持ちボンボンのエリート学生。無論、彼女は(「私」の主観ではあるとはいえ)そのようなことには無意識(というかnaive?)であり、だからこそ無垢である。それがまた「私」を煩悶とさせているのではないか、という気がするのです。

その無垢さ、というのを処女性と言い換えてもいいのだろう。

そう、これは穢れの概念とも結びついているのでありませう。そのような民俗学的な概念と恋愛のマッチングした映画、というか小説、なのだろうか。

 

「情婦」

全く知らなかったんですけどこれアガサ・クリスティの有名な小説が原作だったんですね。まったくトリックのこととか知らなかったのですが、割と有名な感じらしいですね。

クリスチーネが哀れすぎてかあいそう・・・。にしても登場人物のキャラがこいーです。

 

「引き裂かれたカーテン」

冷戦を舞台にしたのがあるとは思わなんだ。博物館の中のカットがすんごい良かったっす。あとやっぱりパラノイア的な感じがするんですよね、ヒッチコックって。

美女に求められることへの倒錯というか、女性に対するコンプレックスというか。それが異様な形で発露したのが「サイコ」なのだろう、と。

 

キングダム/見えざる敵

いつものピーター・バーグなんだけど、アバンというかオープニングのおさらい映像がかっこよくておしゃれ。つまり開幕10割。

近年のは実話ベースではあるんだけれど、これはベースとなる事件はありつつも完全にフィクション。

高速で移動する理由が尾行を見分けるためだとか、その辺の考証部分なんかもさらっと取り入れてたり、アクション多めだったり、フォーマットがチームものであるのでその辺も含めて何気にバーグ作品では結構好きな部類。

ていうか製作にマイケル・マンがいるからか、銃撃戦とか妙に迫真なんですけど、それがかえって娯楽性を高めてしまっているきらいもあり、終盤の銃撃戦に関してはどう観ればいいのかわからなくなってくる。

敵組織の子どもによって射殺されてしまうファーリスと、その子どもを射殺するしかなくなるロナルド。そこで生じる敵でありながらも一方では守るべき子どもを殺さなければならなかった、という問題は、ファーリスの死という(語弊を恐れず書くならば)安直な悲哀に中和させられてしまう。しかし、「俺たちの勝ちだ」という慰めにもならない空虚な慰めの言葉が、「お父さんはとても勇敢だった」と言わざるを得ないどうしようもなさが、ファーリスの死によってもたらされる悲哀すらも無化していくようにも見える。のだけど、そこはアメリカンなマインドで「君のお父さんとはいい友達だった」というセリフが恐ろしく陳腐に聞こえてくるので結局台無しになっているような。

また敵陣をせん滅したあとに「とりあえず丸く収まったね」と言いたげに流れるダニー・エルフマンのメロウなスコア。これは他のピーター・バーグ作品でも同じような感じなのだけれど、しかし、この映画においてはそのメロウなスコアをながっしぱなしにしつつも最後に明かされる両者の「奴らを皆殺しにしてやる」という言葉が、その甘ったるい音楽にくさびを打ち込んでエンドクレジットに移る。

何が言いたいのかと言うと、これ、実はかなりバランスに苦慮しているんじゃないかと思えるんですよね。

2007年といえばまだ911テロを引きずっていたころですし(今でもそうだけど)、その後遺症というか対症療法的にアメリカを鼓舞するような映画がたくさんでてきたのだけれど、しかし一方でテロの行為をテロリストにだけその責を担わせることに無理があるというのも言われていたことで、だからこの辺のばらんすがみょうにちぐはぐになっているような気もする。

むしろあえてこういうバランスにしているのかもしれない。この人のフィルモグラフィーは結構面白くて、「バトルシップ」とか「ハンコック」とかのアメリカンパワー(?)な娯楽映画を撮っている一方で「ウィンド・リバー」みたいな映画の製作もしてたりする。

まあでも社会問題に対して意識的であることは間違いないのでしょう。もしかしたら「パトリオット・デイ」とか「バーニング・オーシャン」とか大事なとこ見落としてる可能性もあるなぁ・・・。

アダム・マッケイの作風は、かえってアメリカ的過ぎて実は自分の中では楽しみつつも好きになり切れない部分もあるのですが、ピーター・バーグはもっと生真面目な感じがあって、そこがむしろ好感を持てる部分でもあったりする。

 

「彼奴は顔役だ!」「孤独な場所で」

同時上映、というかあるイベント(勉強会?)にお誘いいただいて観てきた二作品なのですが、体力的に2本連続はもうしんどいな、と。この並びで分かる人はわかるのでしょうけど、ハンフリー・ボガードが出てる映画です。資料とかも結構もらったんですけど、とりあえずの所感として読まずに書く。

「彼奴~」に関してはボガードは主演ではないのですが、ヒールとしていい役どころではあります。

これ、戦後の帰還兵が職にありつけず禁酒法を利用してギャングを組織し一儲けして落ちぶれていくという、まあスコセッシ映画(実際、スコセッシは参考にしているとか)であります。

にしても、「16歳にはなれねぇぜ(ゲス顔)」と言いながら敵を撃ち殺すボガードの倫理観の欠如は結構危うい。後半でボガードは悪玉として動き回り裏切り上等でのしあっがていくキャラクターでもあるので、そのキャラを端的に表していた、ともいえるのですが、個人的にはキャラというよりもむしろこの映画全体がまったく悪びれていないことからくる、ある種のサイコパス性みたいなものなのではないかという気がするのです。

時代的なものなのか、ともかくこの映画はキャラクターもさることながら、映画全体が悪びれていない。悪いことを描いているにもかかわらず、どいつもこいつも罪悪感というものがない。判事になった彼でさえ、過去にギャングに属していたことそれ自体には葛藤はせず、正義に従おうとする。主人公エディを筆頭に、ともかく一連の悪行を悪びれていないのである。

そうでもなければあそこまでシームレスに密輸という犯罪に手を付けないし(生存のためとはいえ)、葛藤などというものがおよそ存在しないのである。

だから、あの感動げなラストというのも、どういう風に見ていいのかわからない。いや、ピエタが云々という話も出たのだけれど、そういうことではなく。

ノワールだから、というのはもちろん逆説的な後付にしかならないわけですから、それをもって死んだ、というのは黒い白鳥でしかない。

 

「孤独~」は、もうほとんどフリークスの映画にしか観えない。ある瞬間からボガードの顔が怪物にしか見えなくなってしまって、彼を怪物として観たときにこれはもうほとんどバートン的フリークスの悲哀の映画にしか見えなくなってしまったんどえす。

フランケンシュタインの怪物のようにも見えますし、吸血鬼ノスフェラトゥのようにも見えてくる。まあ吸血鬼だとちょっと方向性が違うので、ことこの映画に関しては物語もあってフランケンシュタインの怪物に見えたのですが、そうやって見てくるとこれはむしろフリークスの映画なのではないかと。

今なら電話が間に合わず絞め殺してしまう、という決着もありえるのだろうけれど、そうではなく、あの時点ですでに間に合っていなかったのだ(と彼女は認識する)として、ボガードは自ら去っていくというのは、殺してしまうことよりもよりフリークスの悲哀を感じさせる。

 

 「グラン・プリ

これ傑作でしたね。「フォードVSフェラーリ」のときにも名前が挙がってたので気にはなってたんですけど、まあ3時間かけるだけあって描きこみが良い。

オープニングも最高だし終幕も最高。黒いバックに白いフォントで役者の名前が続々と表示されていったかと思えば、その黒は排気筒の中で、その断面の円に収まるようにタイトルが画面中心にどどんと「GRAND・PLIX」が。

そこからさらにスプリット・スクリーンでレースを描き切ってみせ、もうこの時点でめちゃんこかっこいいのですが、まあそれもそのはずでオープニング担当してるのがソール・バス!。しかもスプリットスクリーンはオープニングだけじゃなくて本編でも有効に使われていて、今見てもかっちょいいスプリットスクリーンなんですね。まあともかく画面の遊び方がおしゃれです。

またレースシーンの撮影もかなりエッジの利いた撮影をしていて半世紀以上も映画の映画とは思えない臨場感が。クロード・ルルーシュの「ランデヴー」的というか。

で、レースの躍動もさることながら、この映画の肝は人間関係といって拡大解釈しすぎであるとすれば「男の世界」の物語であることでしょう。

実際、徹頭徹尾レース=男の世界の話であり、4人のメインレーサー(そこ、「ニーノはメインか?」とか言わないこと)と彼らを取り巻く女性の、男女の物語でもあるわけですね。

まあ、男女といってもメインがレース=男の世界の話であるわけで、女性ははっきりいってスパイスとして描かれています。とはいえ、そのスパイスは最高級の手間が加えられているわけなので、観ていて面白いわけですが。

特に最後のレースにおける彼らの物語(とスプリットスクリーン使い)は秀逸。

サルティの結末はレースという世界に対する限界を感じ始めたことによる天井を見てしまう行き止まり=デッドエンドであり、走り続けなければならないレースの世界において「止まって」しまうことはイコールでデッド・エンドになるわけです。まあ丁寧な死亡フラグ立ててましたしね。

しかしいくら男の世界とはいえ、そこには男性的非情さ持つシステムに抗うような人間性を持たなければならない。それゆえに勝利の美酒に酩酊し、男の世界に過剰適応したことで女性をモノ化する視線を強化し自我を肥大化てしまったニーノは、皮肉にも己の意思の通じないところでレースから離脱せざるをえなくなる。

ここにストッダードとアロンの一騎打ちになる。この二人はレースの世界にいて、その競争原理の中に生き快楽を感じているものでありながらも、ある意味でそれに自覚的な二人なのです。だから、二人は映画開始当初の周囲の人間関係から大きく変化していくのです。アロンはチームをやめて日本のチームに入りますし、ストッダードは破綻しかけていた妻との関係を(アロンのおかげせいで)再構築することになる。

だから、レースの結果としては1位と2位という順位がありながら、その表彰台に立つ二人の間に差はなかった(という撮り方になっている)。

不動の男性的システム下において、しかし絶えず変化しつづけ不断にアップデートしていかなければレースに勝ち続けることはできない。そこに見出す快楽というのはどういうものなのか。

そして、それがあるいは空虚なものなのではないかということがラストのひび割れたコースのスタート地点を歩くアロンを引いていきながらエンドクレジットに入る。

しかし、同時に、彼の耳にはエンジンをふかす音が聞こえている。それは、レースの世界に生きる彼(ら)にしかわかりえないものなのである。

ここにおいて「フォードVSフェラーリ」が同じものを描いていたことが明らかになるわけですね。

 

人間関係≒男女関係のバランシングがそのままレースの勝敗あるいは生死にかかわってくるという描き方。そのダイナミズム。いやぁ面白い。

 

潮騒

山口百恵は脱ぐわりにはっきり見せないというもどかしさ。それがまあ処女性でもあるのでしょうが。決してスタイルが抜群なわけでもなく、むしろ芋っぽいのだけど、それがこの村社会においてよりめんこく見えるのかもしれない。

たかが婚姻でここまで大騒ぎになる、というのは正直よくわからないのだけれど、小さなコミュニティ内のもめごとと考えればなるほど理解できないでもない。

ていうか知らなかったんですけど(別に知りたいわけでもなかったし)三浦友和山口百恵って夫婦だったんですね。超納得。というか一連の映画が二人をくっつけるためのおぜん立てとも見える。

 

太陽系を癒そうとする男=ホドロフスキーの最高マジック!

久々に映画館に行ってきました。最後に劇場で観たのが「ハーレ・クイーン」で3月末だったことを考えると、ほとんど三カ月ぶりですか。そりゃミニシアターは支援がなきゃやってられませんですよ。

本当は近所のシネコンに行ってリハビリに(?)軽めの映画でも観ようかと思ってたんですけど、先にネット通販でパンフを買っていたり、数量限定でトリエンナーレで配布されたものを配ってる、というのもあって(我ながらゲンキンである)アップリンク行ってきました。

で、何を観てきたかと言えば「ホドロフスキーのサイコマジック」

f:id:optimusjazz:20200612181225j:image

ついでにアリ・アスター関連のものも一つ買ったり。

 

癒し系の最高峰、その名もホドロフスキー。「太陽系を癒す」とまで言ってのけたホドロフスキー翁でありますから、そんじょそこらの癒し系などでは足元にも及びますまい。

この映画、構成がすごく単純で、相談者の「傷」を提示→それをホドロフスキーがセラピーする→後日相談者の晴れ晴れとした姿がカメラに収められる、の連続なのですね。

これ、ともするとカルトor通販番組の「入信したら彼女ができました!」「シックスパットで二の腕に力こぶできました」な勧誘・広告的なものに見えてしまってもおかしくない(それくらい清々しい)のですが、もちろんホドロフスキーがそんな損得・拝金主義的な動機でサイコマジックを行うはずがないわけで。

そもそも、劇中で行われるサイコマジック=セラピーでホドロフスキーはお金は取っていないのですから。

じゃあなんのためにこんなことを?

無論、癒すために。

何を?

当然、世界を。(そして世界を構成する人を)

じゃあ世界って何?

という話になるわけですが(というか私が勝手にそういう話にもっていきたいだけ)、多分、ホドロフスキーの視座、芸術による癒しというのはモリス・バーマンが言うところの「世界の再魔術化(Reenchantment of the world)」に近いのではないかと思う。

再魔術化、というのはまあ、端的に言ってしまえば象徴としての秩序だった世界へ戻ろうとする運動(昨今の魔女活動なんかもその一種でしょう)でしょうか。で、ホドロフスキーはそれによる癒しを施すわけです。

しかし、癒しと言っても、必ずしもそれは牧歌的・子宮的安心感を与えてくれるものだけではない。むしろ、積極的に暴力を解放・発動させることも含む。それは劇中の処方箋の一つである南瓜をハンマーで砕きそのかけらを送り付けるという行為にも代表される。とは言いつつも、一方ではやはり子宮的優しさによる包摂を処方することで「生まれ直し」、不全だった親との繋がりを書き換えるようなこともなされる。

劇中の処方箋のすべては象徴としての行為であり、そこには意識することによる気づきを与える精神分析的な論拠はない。そもそも、ホドロフスキーが言うようにサイコマジックは無意識に働きかけるものだ。

それは、象徴としての世界ともう一度繋がることだと言ってもいいのではないだろうか。近代化(=合理化)された世界において神は死に、世界はカオスとなり、実存は揺らぎ、自分の生が空疎なものだと感じざるを得なくなってしまった。

象徴としての世界に接続できなくなった人々は、そのおぞましい合理的な世界観に直面することを避け、その逃避先としてドラッグやアルコールやらに依存し、あるいは精神疾患という形で(まあ依存症自体が精神障害の一つなのですが)表出させる。

自殺問題は日本だけの専売特許というわけではない。アメリカでは1966年~67年の間にティーンエイジャーの自殺は三倍に増加してたし、77年は西海岸に住む9歳から11歳の子供を対象とした調査ではその半数がアルコールを常用し毎日酔った状態で登校する子供も多かったという。それにドイツやフランスでも似たような問題はあって、それはつまり近代化以降の世界の病理そのものなのである。思うに、日本で最近になって自殺が取りざたされるようになったのは、単に周回遅れでようやく問題に直面するようになっただけなのではないかと、最近の政治や経済の状態を見るにつけ思う。

かといって、今更アニミズムやら魔術やら錬金術やらをそっくりそのままの意味合いで受容することは難しいだろう。けれど、それは表層的な意識、理性的思考のレベルにおいてである。

かつて世界は神の、あるいは大いなる自然の意思による秩序ある、まとまったものだった。しかし科学的合理性は、そんなものはないと断じ、秩序ある世界は無秩序で恐ろしいもの、まとまりを欠いたものへと変わってしまった。

たとえるなら近代化以降の世界はゲシュタルト崩壊した認識の世界みたいなものなのだろう。人は、点が三つ集まれば、それを人の顔だと認識するようにできている(シミュラクラ現象)。それは意識的にそう見ているのではなく、その点の三つの集まり全体を見るという無意識がそう見させているのである。近代化以前はそういう世界観を自明として生きていたのが、科学のメスによって転倒させられてしまった。

けれど、それは転倒させられたわけではないのではないか? だって、「そういう風に見えるだけ」であったとしても、私たちの脳は依然として三つの点の集まりを「無意識のうちに」人の顔に見立ててしまうのだから。

そう、だからホドロフスキーは無意識に働きかける。それが劇中におけるサイコマジックにほかならない。象徴的行為によって、ある種の変性意識状態に持っていき、世界との繋がりを取り戻させ、癒すのである。

 

そして、後半においてホドロフスキーはそのある種の変性意識を個人から社会にまで敷衍しようとする。

それがソーシャルサイコマジックであり、ある女性のがんの治療と死者の日のメキシコにおける抗議活動だ。

んが、パンフレットの解説やホドロフスキーのインタビューの言葉の中にはカウントされおらず、そしてまた劇中でも一切の説明がないまま行われるソーシャルサイコマジックがもう一つあって、実は個人的にはそれが一番キたのでちょっと書きたいのと、その象徴が何の象徴なのかを理解してないとわからないので自分のためにも付記しておきたいのでござい。まあ、別に意味など分からなくても問題ない、というのがサイコマジックではあるのですが。為念。

神輿のように担がれるクローゼットが燃やされ、二人の男性が衣服を切り取られていき、やがてパンツ一丁になった二人は抱き合いながら、リアルなペニスの形状を模したキャンディ?を舐める。このソーシャルサイコマジックはいわゆるセクシャルマイノリティへの癒しだ。クローゼットはクローズ、つまりアウティングしていないセクシャルマイノリティの隠喩であり、それは社会的外圧によって閉じ込められざるを得ない彼らの状況そのものでもある。だからこそそれを担ぎ、盛大に燃やすことで彼らを癒す。

象徴との接続が不全であるがゆえの病理が現代社会であるとはいえ、象徴とは、必ずしも人にとって良いものであるというわけではない。しかし、だからこそ、その象徴を破壊することで(南瓜の破壊と同じ)癒すことができるのもまた道理である。

 

つまり、癒し系アーティスト。それがホドロフスキーなのである(適当)。

 

余談ですが、なんとなく世界を再魔術化しようとしている映画作家でいえば、アリ・アスターもそうなんじゃないか、と思っていたりする。二人の違いは端的に言って規模の違い、内界か外界か、セルフセラピーかどうかでしかないと思います(そして多分、そこには世代的な要素がかなり絡んでいると思う)が、やはり癒しを求道するという点では同じなのかな、と。

まあアスターを癒し系とは口が裂けても言えませんが。

 

 

 

 

 

2020⑤月

「REBOOTED」

12分ほどの短編映画。過去のものとされるストップモーションアニメのキャラクターの悲哀と再起を描いた涙腺もの。主人公の髑髏は「タイタンの戦い」というより「アルゴ探検隊の大冒険」かしら。

手書きのアニメーションやアニマトロニクスジュラシック・パークオマージュ)、着ぐるみ、あとT-1000のようなCG?キャラクターなどなどと協力して破壊工作をもくろむというのが本筋なのですが、この潜入・破壊シーンがたまらない(まあ妄想落ちなんだけれど)。

潜入シーンにおいてそれぞれのキャラクターがそれぞれのマテリアルを生かして(セルアニメであればそのセル自体で窒息させたり、セルの薄さを利用して角度限定で風景に溶け込んだり、アニマトロニクスの恐竜であれば、それ自体が作り物であるということを利用して欺いたり)警備員を出し抜くシーンが本当にすごいです。CGという実体をもたないデータではなしえないことをフィクションの中で描いて見せるというのがなんともはや、その実体性・・・あるいは身体性みたいなものに非常によくコミットした傑作。

技術的にかなり卓抜した映像なのは言わずもがななんですが、ともかく傑作でございますこれ。

 

「夢の丘」

こちらも短編。高橋洋が監督なので、ホラーです。ええ。

妹の顔がうっすらと姉の顔にオーバーラップするところ、絶妙に顔が気持ち悪くてかなり怖かったです。

 

「Planet of the Humans」

マイケル・ムーアが監督。したわけではなくあくまでエグゼグティブとして参加しているドキュメンタリー映画

一言で表すなら「グリーン(クリーン)エネルギー」を取り巻く欺瞞について。

環境問題が語られる際によくSave earth的な文言が使われることがあるような気がしますが(ラブロックの影響とかもあるのだろうか?)、地球は死なない。

死ぬのは人類だけ。だからスーサイドという言葉が劇中で使われるのだろう。

やはり資本主義は悪ではないだろうか、という思いに一足飛びで行ってしまいそうになる程度にはこの映画がつまびらかにするクリーン(笑)エコロジー(笑)グリーン(笑)という言葉が陳腐であり虚構であり欺瞞の産物以外の何物でもないことは伝わる。少なくとも資本主義体制の下でそれらの用語が使われる限りは。

無論、この映画自体が一種のプロパガンダでありアジテーションである(ラストのオランウータンのくだりなどは本当にきつい)ことは承知しなければなりませんが、今のご時世にノンポリなどと言って逃げ回っている場合ではないわけで、イデオロギーを選択するしかないのではないか。

https://courrier.jp/news/archives/198622/?ate_cookie=1588579347

まあこんな批判記事出るくらいには今回の映画のつくりはおざなりだったらしいですが、ムーアが監督に回ってたらもうちょっと突き詰めてたりするのだろうか?

 

ぼくはうみがみたくなりました

「やさしいせかい」の話。もちろんフィクションなので「優しい世界」ではあり得ないのだけれど、しかしそこかしこに不可視化されている人々が画面を占めている。

冒頭の母と兄の振舞いは自閉症とか以前にデリカシーなさすぎですが。あとあのマンション柵低すぎて怖いんですけど。

この家族の関係で面白いのは、疎ましく思っている弟の方が保護しているつもりの母親よりも兄を分かっているところ。まあ、弟の方をあまり掘り下げられてないのはちょっと気がかりではありますけどね。いや、回想とかで兄弟に自閉症がいるということの辛さみたいなものは表現しているんですけど、そこから先にもう一歩踏み込めれば「やさしいせかい」感をもうちょっと払しょくできたのではないかなと。

あと旅館でのあれはちょっと相手がコテコテすぎるのはうーん。まあその前にアンタの息子が並べてるミニカーも普通の邪魔になるけどね、とかとか。ミニカーのくだりは結構共感することが多い。

 

「夜の訪問者」

不思議な関係性の映画でした。

登場人物の関係性が不思議。確かにロスだけがあの状況で銃を持っていてカタンガに対応できる人物だったとはいえ、どう観たって助からない相手を、しかも自分に銃を向けた相手をあそこまで介抱できるのだろうか。

ブロンソンもしかり。そこに何か上官に対する情感(激寒)のようなものがあったのではないか。

割とさくっと観れるタイプの映画だと思うんですけど、にしても何か考えてしまうようなシーンががが。

とってつけたようなカーアクションは007シリーズの監督ですし、まあ小屋の方の刺すペンディングな場面をもたせるための繋ぎのようにも見えるわけですが、あれはあれで結構観ていて危ない感じがして観ていて楽しめました。

あとすっごいどうでもいい部分なんですけど死体を遺棄するシーンで二人組がナンパしてくるじゃないですか。あそこで夫がいるとわかるやアクセル踏み出すあの二人組が同時に両手ばんざーいポーズするのがいやにツボなんですけど、あれなに。

 

「レッド・ダイヤモンド」

 いや、まあ、トマトの評価は知りませんが私は結構楽しめました。

ただまあ、なんというかですね、明らかにこれテレビシリーズの劇場版的な作りになっておりまして、観終わった後にテレビドラマ版があるのだろうとばかり思ってググってみたらねーでやんの!そういう意味で、この映画はあまり優しいつくりではないというか、シーンの飛ばし方とかあまり親切でないというか適切ではない感じもするのですが、それでも結構楽しめました。

一点突破としてのブルース・ウィリスの悪役はコテコテですけど、まあ観れますし、ステゴロシーンの後にちゃんと拳に傷を作ってたり壁に弾痕を作ってたり、そういう細かい部分でのディテールが凝っていて、かなり好感を持てる。そこに力入れるなら別のとこに注力しろ、と言われればぐうの音も出ないのですが。

クレジットのNGシーンはまあ、なんか正直あまり好きではないのですが、ブルースが出てなかった(はず)あたりは逆に溜飲が下がるというか。

それにあまりこの手の映画では描かれない男女の友情を最後まで保つのもいい。ジャックとローガンの本当に性を感じさせない(しかしジェラシーはある、という萌え)関係性は本当に良いです。

話はありきたりだしキャラクターはステレオタイプだしブロンドの扱いとか性差別的と言われても反論しにくい描写なんかもありますし、ダイヤを奪還するシーンなんかの雑さはもうアレではありますが、それでもランニングタイム分はなんとか牽引してくれる程度には楽しめました。ローガンがいいんです、ローガンが。

 

「マローダーズ」

最後の切れ味は良い。

 

「ロードオブモンスターズ」

天狗て。そして海なのに火と大地の化身とは。天狗から発想されるのは往々にして空なはずですが…ここまでねじれると返って清々しい。

まあアサイラムプレゼンツなのでそんなもんでしょう。それに怪獣のCGは結構頑張っていますし、頑張っているところは。「アップライジング」でカイジュウ呼びが不足していて不満という人はこれを観るとよろし。カイジュウ連呼なので。

 

大列車強盗

アメリカンニューシネマ的、と言えばいいのでしょうか。「さらば冬のカモメ」的と言うか。

にしても、最初からあの三人の結末が提示されているようなもので、普通に見ているとほとんどそろいもそろって自殺しに行っているようにしかみえない。いや実際、一人は自殺しちゃうんだけど。

だからこう、やるせない映画としてしか見れないのが辛い。

 

「インべージョン」

「ボディスナッチャー」の2007年版リメイク。

まあ、オリジナルから足した要素のおかげでサスペンディングはありつつややチープというかハリウッド的な大味感が増した気も。アイデンティティの問題とかすっ飛ばすあたりとかも。

自殺で感情あぶりだしとかは割とショッキングな展開で良かったですけど、平和と言う割に葛藤なしに自殺できるというのはやはり人間的ではないでせう。

 

「ビリー・リンの永遠の一日」

問題系としては「ハートロッカー」や「アメリカン・スナイパー」に通じるのですが、ただ映像の耽美さというか寄り添い方はだいぶ思いやりがある。

これ劇場公開されてなかったんですね。結構な良作だったと思うんですけどね。

武力、ホモソーシャル、英雄論、資本主義、(「エニー・ギブン・サンデー」が示したような)アメフトの問題。それらをひっくるめてバーマン的に言えば精神分裂的精神(それはベトナム戦争から続くPTSDの問題を過分に含んでいるはず)およそアメリカの病理を包括して提示してみせたのがこの「ビリー~」だと思う。

ともかく主演のジョー・アルウィンくんが良い。顔がね、やや幼さを残しつつそれを筋肉の衣で覆い隠してその筋力の外圧で己を駆動させているような危うさを湛えていて非情に良い。

ヴィン・ディーゼルはまあ、なんというかファミリー感の象徴としてあるのかな、と。しかしそれはマッチョイムズなホモソーシャルでつながったダイムと対置させられるアンチアメリカンファミリズムな体現としているのではないか、という感じ。

無論、それは「ワイルド・スピード」=ヴィン・ディーゼルな印象から導出されるものなのですが、あのシリーズにおけるファミリー感というのをアン・リーがどう受け止めているのかによって印象が異なるのだけれど、まあ少なくとも彼にキリスト教ではなくヒンズー教の話をさせ(ガネーシャの置物ががが)ていたりするのも、アメリカのマジョリティーな価値観に対するカウンターとしてあるのは言わずもがな。

で、ビリーはその二つの価値観に揺れ動かされ、ダメ押しにチアガールからの発破によって戦場に舞い戻ることを決意するわけです。

かなりバランスを意識しているような気がする。今書いたような二つの価値観の体現者として一方ではダイムとチアガールを、他方ではシュルームと姉を。またビリーの「英雄的行為」を捉えた土管?でのカメラワークなど。もちろんそれはビリーにとってのトラウマ場面としてでもあるわけだけれど、刺殺した「敵」の顔面がアップで映し出され、じっくりと、血液が広がるまで捉えたあとにカットを割ることなくビリーの顔を映す。それによって「英雄的行為」の英雄性が相対化されるという両義性。

テレビなので120フレームとかほとんど関係なかったのですが、あれがどうなるのかはちょっと気になるところ。

 

どうでもいいのですが吹き替え版ってヴィン・ディーゼルの声をたいてむがやってるんですね。あの人はドウェイン・ジョンソンのほぼフィックスでもあるので、役者ネタとしてちょっと笑ってしまいました。

 

飢餓海峡

たっぷり3時間かけて描かれる義理と人情×犯罪。ていうかこれテレビで特番組まれるサスペンス映画の定型ですよね。

この映画の白眉は杉戸八重(左幸子)が犬飼の爪で辛抱堪らん状態になっているシーンであることは全会一致のことだと思う。あのシーンは、なんだか見てはいけないものを見てしまったような(それは鏡像として自分に反射されるから)、むき出しの多幸感がひしひしと伝わってくる。

犯罪側とそれを追う側との対決構造のなかで、犯罪側はほぼほぼ情念のようなものだけが現出していて、それが前述の杉戸の悶えるシーンに代表されていて、私的には彼らのシーンはどろどろしていて楽しいのですが、反面警察側ときたら高倉健に代表されるようにお堅い。それは義務と使命感に突き動かされているにすぎないからだ。

んが、しかし、である。それが突き抜けることで義理と人情のエモーショナルな方面へと傾く警察側のキャラクターがいるのである。それが弓坂さん。

物語的にも彼の執念が決め手になって事件が解決するわけで、これはつまり犯罪側との弓坂のシンクロが事件を解決に導いたという構造を見出すことができるのでありあす。

何が言いたいのかと言うと義務より義理こそが真に優れた動機なのではないかということです。それが人間相手であればなおのこと。

 

「キリング・フィールド」

本当すみません。色々と書きたいことはあるんですけど(マルコヴィッチ若っ!とか)・・・

f:id:optimusjazz:20200524183016j:image

これで全部持ってかれた。ラストのハグといい、なんというかこう、尊いショットが多すぎて脳みそが完全にそっちにスイッチしてしまいましてね、ええ。

いや、凄惨な物語であることは承知しつつ、しかしやはりそれを超越するだけのボーイズ(って年齢じゃないんだけどこの人たち)ラブロマンスがあって、なればこそあのハッピーエンド(少なくとも二人にとっては)なわけで。

もう尊い

 

「名探偵ピカチュウ

思ったより面白かったです。まあ劇場で観たかったか、というとうーんですが。

まあこれは予告編の時点でわかってはいたことですが、毛が生えてるポケモンの質感って基本的にぬいぐるみなんですよね。だからかなり馴染みやすい。半面、毛がない奴らのテクスチャと来たらきもいのなんのって。

でもこの辺、よく考えたら不思議な話ですよね。まあ実写版ソニックの件もそうなんですけれども、今まで実写映画でファンタジーな生物なんて腐るほど見てきたはずなのに、どうしてポケモンはきもく見えるのか、と。この辺は認知心理学とかの分野になってくるのだろうか。まあデフォルメの具合、という問題も過分にあるのでしょうけど。

だからこそ毛のあるポケモンは「ぬいぐるみが動いているように見える」のでしょうね。

ポケモンと人間の関係についても一考の価値はあるとは思うのですが、いかんせんそこまでモチベーションががが。

 

「緋牡丹博徒

情が濃ゆい。胃もたれする。女と男が明確に分かたれ切った張ったと血みどろ騒動。

不義理と人情と高倉健高倉健てキムタクがキムタクでしかないくらい高倉健でしかないんだな、と。悪いかどうかは別として。この人出るだけで叙情になっちゃいますもんね。

 

「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」

サスペンディングはあって面白いです、確かに。カンニングのアイデアも中々秀逸でしたし、ピアノのハンドリングを土壇場で回収するのとか描写も気を遣ってるのは分かりますし。

ただ人間のキャラクターがいまいち飲み込めないというか感情の流れがわからないところがちらほら。特にリンちゃんの父さん。あれ、リンちゃんからは謹厳実直な教師として映ってるらしいのですが、家でのコミュニケーションの取り方とかを見るにつけ本当にそうなのだろうか?も思えてくるのですよね。普通、娘の顔面にテッシュなげるかね?あれを子煩悩描写として親子のスキンシップとして許容される土壌があるのだろうか?タイには。死体を喜んで消費する国の連中の考えることはわかりませんな(偏見)。

よしんばリンの逸脱的気質を父親のそういうところを受け継いだのだとしても、やっぱりラスト付近の心変わりようとかちょっと別人すぎて連ちゃんパパな不気味ささえあるのですが。

リンちゃんの禊はわかるんですけど、バンクくんが闇落ちしてフォローなしというのもモヤモヤする。彼、完全に被害者の立場ですし、大使館?でのリンとバンクのやりとり(画像削除は決別の意味合いなのでしょうが)の後に闇堕ちで勧誘してくるバンクというのもなんだが。

手離して絶賛するほどではないかな、と。

ただまあ、グレースちゃん役のイッサヤー・ホースワンちゃんがあまり邦画や洋画などではお目にかからないタイプの可愛い女の子で、正直彼女が画面に映るだけでだいぶ個人的にはオッケーでした。いや、役所はまあまあクズなんですけど、バカでクズだけど顔は可愛いというレアキャラなのですよ。そのクズ度もオツムと同程度であるがゆえに愛嬌(顔ありきですが)に転化しているというのがすごい(当社比)。

あとバンクくんがナイツの塙に似てる。顔のパーツが。骨格はかなり違うけど。

 

 

 

2020 4月

ローズの秘密の頁

雰囲気は小説っぽいのに内容は少女漫画的なのが妙に笑いを誘う。

役者はみんな良かったです。女性の抑圧とアサイラムの組み合わせに「チェンジリング」を想起したり、どこも変わらないのだなぁと。

 

 

「勝利への脱出」

 スタローン若い!ペレがいる!

なんというか、モデルとなった史実のバッドエンドを改良してやろうというワット・イフなつくりであるので、多少無理がありそうな気もするのですが、しかし色々とすごい。

日本じゃせいぜいコナン映画でへたくそな吹き替えをさせられる程度の役割しか担わされないサッカー選手がどばちょどばちょと登場してプレーしてくれるというのだから。

 

「ビリオネア・ボーイズ・クラブ」

スペイシーのこの手の映画のグルっぷりは何なのでしょう。

いかにもアメリカンなアップダウンな物語に、しかしアッパーなテンションを維持し続けるキャラクターに対して抑え気味の音楽。

信用できない語り手の語りそのものがないパートなどもあり、それが単なる雑さなのか別の狙いがあるのかどうなのか。

タロンの屑演技のハマり具合も中々なのですが、いかんせんナチュラルボーンクズというよりはむしろその演技からは必死さが伝わってくる。

典型的な成功からの没落物語としてはまあ。

 

「ある天文学者の恋文」

死者によって手繰られる生者の生。それを通俗的な恋という形で描出することのおどろおどろしさ。監督は本気でこれを純粋なラブストーリーとして観ているからここまで突き抜けているのではないのかしら。

いや、確かにこの物語を成立させるほどの強烈な何か、エドとエイミーを繋ぐことのできる何かは「愛」以外ではそれこそ「憎悪」くらいだろうから、正攻法と言えば正攻法ではあるのだろうけれど。

やヴぁい。これ結構好きなタイプの映画でござい。音楽モリコーネだし、何気に豪華。

これ「ニューシネマ・パラダイス」の監督だったんですね。言われれば何となく、という気はしますがこの監督の映画「ニューシネマ~」しか観てないのでなんとも。あの映画は特に印象に残ってはいないのですが、今回の映画はかなりキてる。個人的に。

 

というのも、これは死者の話、死者が生者に・・・死者こそが生者を規定するという話だからなんですね。私の好きな「ライフ・アフター・ベス」に通じる死者映画なのでせう。

 

前情報なしで観たにもかかわらず、冒頭からすでに画面いっぱいに死の予感が充満している。それはファーストカットのやりとりからもそうだし、ジェレミー・アイアンズエドから滲む空気のせいでもあるだろうし、あの年齢差の男女の関係として行きつく必然の帰結だからというのもあるだろう。

そういう肌感覚的なものではなくとも、最初のシーンにおいて別れ際に見せる両者の反応の違いなどから察することはできる。

そして何より、この映画の中で二人が直接的にはだえを触れ合わせるのが最初のシーンのみで、あとはメディアを媒介することでしか接し合わないシーンの連続(というかこの映画がそういうシーンの積み重ねだけでほとんど出来上がっている)しかなく、エドとエイミーの間に隔絶した一線が明々白々に引かれているからに他ならない。

 

そこからは観ての通り、ひたすら死者(エド)によって生者(エイミー)が、愛という名の下に徹底的に規定されていく様を描く。

死してなお駆動しようと(させようと)するさまは、愛というよりは狂気の執着に他ならない。劇中でエドの友人の教授が言及するように、エドは徹底的に自己中心的なのです。恐ろしいのは、その自己中心性は自分亡き後にこそ加速するというところ。

「ライフ・アフター~」のようにゾンビとして自身の身体すら必要とせず、手紙やメール(と同列に扱われる、身体を持つ他者)というメディアのみで生者を動かしてしまう。

けれど、それは何もおかしなことではない。よくよく考えれば我々の周りには死者によって遺された産物が充満しているのだから。本棚にある書物にせよテレビで流れる昔の映画にせよ、それらは生者に影響を与える。ともすれば生者によるものよりも。

それは10年以上も前に伊藤がスピルバーグについて語っていたことから分かっていることではあったけれど。

スピルバーグのような暴力性を纏うことなく・・・いや、この規定性がそもそも暴力的と言ってしまえばその通りとしか言いようがない。

 

生者あるいは「生」などというよりも死者・「死」の方が強度があるということ。

人間の生のみを肯定し称揚し、それがマスに受容される世の中にあって、このような映画が観れることは喜ばしいばかりであります。

 

アメリカン・グラフィティ

通しで観るのは初めてだったんですけど、今見るとすごい豪華なスタッフ。

ハリソン・フォードがあんなちょい役で出ていたとは。

にしても異様。ほとんどが車の中でのやりとりで完結してしまうのにまったく窮屈さがない。もしかするとこれが一夜の物語だからだろうか。

真っ暗な夜空の下の喧騒が白み始めた空の下でエンジンの音によって極を迎え、空の中の点としての飛行機によって収束あるいは閉塞していく。

極めてホモソーシャルな価値観ではありつつ、おセンチになるこの作り。プリクエルの監督とは思えないですな。

 

シコふんじゃった。+ファンシィダンス」

やっぱり周防さんの映画は笑える。それだけで貴重なのだけれど、変にべたつかないのが観ていて心地よい。知らなかったけどIF出身だったんですね、周防さん。

必ずしも演技が達者な人でなく、むしろそうであるからこそのスラップスティックな空気感というか。いや、柄本さんとかちゃんと抑えるところは抑えているからこそではあるのだろうけれど。

ずーっとソフトフォーカスで(これは作家というかなんというか時代?)、けれどそれが余計な熱量を持たせることなく青春の一幕・・・というよりもモラトリアムの延長としての甘い時間が広がっている。それはラストに至ってもっくんがああいう選択をするということからも明らかであるように見える。

あれだけの汗を垂らしながらも、この映画がまったく汗臭くないのはそれだ。淡々と進んでいく、その淡泊さは青春の甘ったるさになど目もむけない。

大学生(それも就職先の決まった四年生)という設定からもそれが伺える。青春というには少し遅い。なればこそ、青春という有限な時間の有限性をことさらに強調するのではなく、その先にあるモラトリアムを遅延させようという成長の否定。

いやー好きですこの映画。

 というのが「シコ~」のほう。「ファンシイダンス」も基本的な構造は一緒だと思う。前者の方がブラッシュアップされているというか、まあそんな気はします。

ただ両方しっかり笑える、というのはさすが。

で、これ両方の映画に通じるんだけれど、この人って周縁の・・・もっと言ってしまえばフリークの扱い方がすごい意識的ですよね。

臆面もなく言えばブスやデブスの扱い方。決してPC的な正しさではなく、けれどそこには正義感や使命感などではない愛情がある。まあ、その愛を無条件に受け入れることの恐ろしさというのはやっぱり考えなければいけないことではあるんだけど。

 

 

「卒業」

リマスター版で改めて。

年を重ねた今観ると、どうも見るに堪えない童貞感ががが。

スパイダーマン3」のマグワイアを最初から最後まで見せつけられる感じといいますか。最初から、は言い過ぎですね。ミセスロビンソンとのセックスがヴェノムとの結合なわけで、童貞映画としてはかなり良い映画ではあるのでしょうが・・・それにしても見るに堪えないよー。

不安定なカメラワークといいラストの二人の表情といい、若気の至りの酸甘さにライドできるかどうかで評価が分かれるのでは。

まあ、結婚という形式にこだわるあの姿勢がそもそもいかにも西洋的な男根主義が見え隠れするというのも痛いというか。そういうナイーブさも観てていたたまれない。

これを愛せるようになるにはもう少し年を重ねなければならない気がする。

 

「68キル」

いやーこれすごい面白かったです。ヴァイオレット以外のキャラクターが屑しかない。ヴァイオレットも退場の仕方こそあんなんでしたけど、セリフだけとはいえ世の理不尽をサバイブしてきた強くて脆い人間として一番キャラクターが描かれていましたし。まあ、それゆえにあの最期を迎えてしまうわけですが。

ヴァイオレットのとの再会シーンの露骨な甘ったるい空間も、しっかりギャグとして機能させるまでに甘ったるくしてくれているし。

最後のアレを成長と捉える屑っぷりも含めてすがすがしいです。ていうかあそこまでの経験をしなければあそこまでの転換が図れないというのもまた屑で良い。

あの能天気(というかノータリン)な屑っぷりというのも、実にこの映画のタイトルに相応しい。

その徹底した受動性ゆえに最悪の展開に巻き込まれながらも成長()する、というのもこの映画のスピリットであろうし。

ランニングタイムのちょうどよさといい「ハッピー・デス・デイ」と並べて観たい映画。

気軽に観れて満足度の高い映画です。

 

ブレーキ・ダウン

ターミネーター3」で有名?なジョナサン・モストゥ監督の長編デビュー作。

評されているとおり「激突!」じみているのですが、この人のアクションはやっぱり面白い。こうしてみると「T3」のアクションってかなり正当な進化だったのだな、と。

 

ヒットマンズ・ボディガード」

「エクスペンダブルズ3」の監督なのですねぇ。テンションの感じとか確かにそれっぽい。

スクリューボール・コメディとしてはなかなか。まあレイノルズとサミュエルのバディというのも新鮮ですし。どことなく「アザーガイズ」みのある馬鹿っぽいサミュエル。

日本では劇場公開はせずネットフリックスということですが、続編やるらしいですけどそれに合わせて劇場公開するのか、続編もネトフリなのか。

 

ねらわれた学園

 そういえば大林宣彦の映画をまともに観たことがないことに訃報を聞いてから思い至る。

にしても自由闊達ではある(のか?)。その戯画化っぷりやSFXを使うことに(その使いかたも含め)躊躇なかったり、なんというか特撮映画ではある。内容もサイキックものではありますし。

確かにはっちゃけてはいるのに違和感はないし面白い。

リアリティ、という言葉について再考するのにこの人の映画は最適やも。

 

「かごの中の瞳」

どっかで聞いた名前だと思ったら 「ワールドウォーZ」やら「プーと大人になった僕」の監督でしたか。なんかあんまりおんなじ監督って気がしないような気がしないでもない。

身体の変化が人間性の変化へと直結する。その身体性を楽しむ映画。

ジェイソン・クラークの保守的で父権的さの描きかたが、全く露骨ではないのに確実に自分の優位性におんぶにだっこなサイレント屑っぷりがうまい。

何度か登場するベッドシーンの体位の変化やプレイ内容の変化は、そのまま二人の関係性(ジーナの身体性の変化による)の変化を表す。

新しい世界への扉が再び開いたとき、彼女の中の童心はくすぶられ世界に対して己を解放する欲求に駆られる。

んが、ダニエルはダメだった。あの最期の涙は観てるだけで腹立ちますね。無自覚の屑キャラ(いや自分の感情には自覚的なのでしょうが)としてはかなりポイントたかいので見ごたえ自体はあるんですけどね。

男根に一擲くれてやる映画です。

 

真珠の耳飾りの少女

これは撮影監督と証明の大勝利では。

随所にみられるまさに絵画と言わんばかりのショット。それを堪能する映画ではなかろうか。しかしスカヨハ。しかるにスカヨハ(意味不明)。

「スパイダーパニック」で蜘蛛に襲われていたあの町のイケてるおねーちゃん感とは全くことなる浮世離れした端正さ。浮世離れさせらせてしまった悲哀。絵画に別なる意味を付与し、以前と以後に隔ててしまう。

 

あとコリン・ファースオーランド・ブルームぎみに見えてこんなにイケメンタイプだったかとちょっとどきどき。

キリアン・マーフィーは好きじゃない・・・というかあの人の顔がなんか生理的に無理なのですが。それもこれも「28日後」のせいではあるんですが、まあそれはさておきスカヨハファンとコリンファースファンは観ねばならぬでしょう。

 

 

「アラモ」

男の美学の映画。それはつまり徹底してホモソーシャルな世界の話であり、無数に表れる大砲も鉄砲もサーベルも松明も、あるいは砦の柵に使われる木々でさえもすべては男根にほかならない。

ある夫妻の別れの描き方などは(それは宗教的な安らぎに裏打ちされているからかもしれませんが)このご時世では到底容認できるものではありますまい。

これを手放しで称揚することにはためらいがある一方で、しかしそこにある倒錯した美学、理性や倫理を超越したその先にあるものをここまで過剰なスケールで描いて見せてくれるのだから酔わなければもったいないという気も。

 

アウトブレイク

このご時世ということでパンデミック系の映画を観てみる。同じくパンデミック系で最近よく観られている「コンテイジョン」に比べると軍の疑似空中戦があったり万能な新人サイドキックがいたりと、ご都合的といえばご都合的ではあるのですが無駄にキャラクターを増やしたりせず省エネ人員かつストレスフリーで観ていられるので全然あり。吹き替えがなっち(野沢那智)だったり納谷さんだったり25年前の映画ということもあって懐かしの声が聞こえたのも良かった。

スペイシー若い、フリーマンは今とあまり変わらない気がする、レネ・ルッソ若い。

これは吹き替えのなっち節の方がテンポいいかも。笑わせてくれる部分もたくさんあって「コンテイジョン」よりもエンタメ成分が多めであちらよりも万人向けかも。

 

ラスト・アクション・ヒーロー

昔々に観たのを観返してみると新しい発見があったりするわけですが、これ今見ると面白い構造をしている。

まあでも、確かにシュワちゃんファンは観ていて歯がゆいものがあるのは確かでしょうけど。明らかにアーノルド・シュワルツェネッガーのメタ映画であり、ほとんど総決算というか締めに入っているというか。

エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア」と同じような感じ(こっちの方が後だけど)といった趣。

カメオ出演の人数とか、色々と過剰な物量で攻めてくるわけですが、それは当時のネッガーの持つエネルギーに比肩させるためなのではないか。

アニメとかボガードとか、あの辺の遊びは正直謎・・・ってわけでもなく、映画の歴史としての映画として考えればクラシックとして劇中劇・映画内映画の世界に顕現させるというのはむしろ映画という何でもありの媒体=可能性についてマクティアナンは意識的だったということなのではなかろうか。

というか映画というものにまつわるあれこれ(Fワードとかレーティングとか)を含めて、シュワというか映画についてのメタ映画なわけで、それを勢いと物量で攻めまくる映画が万人に受けるのかというと難しいのではないか。

当初はシェーン・ブラックらが脚本を書いていたというので、そちらもそちらで気にはなるのですが。