dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2021/11+12

「グリーンブック」

彼我越境の物語としては面白いし、ある種のロード―ムービー的に、まあ題材が題材だけにその背後に潜む(潜んでない)問題は根深いのだけれども、しかし割とオーソドックスなウェルメイド(?)なつくりになっているような気がする。

良い映画、というよりは良い感じの映画というか。物足りなさは確実にあるし、被差別者と異なる被差別者の友情物語を、搾取的に観ていないかという自己疑念による後ろめたさがないと言ったらうそになるのだけれど。

トニーが割とマチヅモ的というか、まあ時代的にあれでも全然一般的良心家庭だとは思うのですけれど、内在している問題をうやむやにしていることからくる全面的にライドできなかった理由なのではないかな、と個人的には思う。

最後の方のトニーとドクの家の対比(撮り方含め)も、意図するところはわかるんだけれど、うーん。

でもまあそれはそれとしてマハーシャラ・アリ最高。彼の表情だけでこの映画は確実に勝利している。彼の細かい所作に私は涙してしまった。スーツ試着のところでの「なるほど」の一言と表情に込められた(CV諏訪部も良かった)怒りと悲哀。特に表情に湛えたものは、あそこ観ただけで泣いてしまいましたよ。あとトニーに詫びるとこの手の動きの、自然なんだけどあざとい感じ萌え。撮り方もあざとくなくて、ああいうの好き。

 

「ワタシが私を見つけるまで」

こういう超絶くだらない映画というのがむこうにもあるのだな、というのが知れてむしろ安心したというか。

 

「MIFUNE:THE LAST SAMURAI

なんか思ったより数段薄いドキュメンタリーだった。スピルバーグとスコセッシが出るというので少し期待していたのですが、なんかだいぶ薄味ですさまじい物足りなさ。

 

「ANEMONE:エウレカセブンシ ハイエボリューション」

これのあとにアレ、というのがいたたまれない。

まあ遠足は準備しているときが一番楽しいというアレみたいなものだろう。

 

「夢のあとに」

血縁、非血縁からの逸脱。

 

最高の人生の見つけ方

あ~ロブ・ライナーかぁ。なるほどぉ。といった感じ。

モーガン・フリーマンとニコルソンという組み合わせだとバイオレンスのにおいがしてしょうがないのだけれど、特にそんなことはなかったず。

これを感傷的に観るにはまだ若すぎるような気もする。

 

僕のワンダフル・ライフ

これ、やりようによっては異種間の寿命の差異から生じる悲劇だったり、というような、ある種のフリーク映画として描出しうるのではないかと思ったのだけれど、まあその異種が犬という時点で(押井守的視点からするとまた別口なのだろうが)どう考えても最大公約数を狙ったわけで、そんな制作側の意図に対して私の妄想というのは明らかに真逆なわけで。

とはいえ、犬はほかの動物に比べて人間に近い(オキシトシンの分泌量がダンチ)ということもあり、まあ警察犬のくだりでは当然のごとく涙腺が緩んだりしたのだが。

ダイアローグが一人称ではなく三人称的だったら、もっと良かったかなと。

 

 

大虐殺と呪術

ここ一ヵ月忙しくて映画を観る暇がないにもかかわらず大作だけでもどんどん詰まっていくにつけ、これは早めに消化していかないと、と思い夜勤明けにもかかわらず2本ハシゴしてきましたよ、ええ。

というわけで「ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ」と「劇場版 呪術廻戦0」を観てきた。

「呪術」に関しては一応テレビアニメはリアルタイムで追っていたんですけど、個人的にはそこまでハマったわけではなかったんですよね。ぶっちゃけるとほかの映画を観たかったんですが時間的にもハコ的にも「呪術」しかなかったのでそちらを、といった感じ。ただまあ、どちらも主人公が憑りつかれているという点では似通っているのではないかろうか。

「呪術」は作画は良いし演出も外連味があってまあ楽しめたといえば楽しめたのですが、それだけといえばそれだけだった。演出、特にバトルに関しては基本的に物理だったりカット割ったら敵が間近にいるとか、結局はビームぶっぱだったりと良くも悪くも少年漫画的なクリシェの連続。それとテレビアニメシリーズと別で主役を立てているために前半の駆け足具合がちょっと気になる。回想もちとくどい気はしましたが、まああれだけたくさんの客が入っているということを考えるとそういう配慮も必要なのだろうな、という印象。

やってること自体はこれまでのジャンプマンガを原作とするテレビアニメの劇場版の系譜と大して変わりはない(DBしかりワンピースしかりNARUTOしかりBLEACHしかり。ゲストボスではなく、味方陣営のトップ人気キャラとの因縁のあるキャラ、というのは大きな違いといえば違いだが。

とはいえそれも昨今のジャンプのメディアミックスの方法による違い、というだけの話だ。今までの、上記に挙げたようなジャンプアニメ群の劇場版アニメというのは、はっきりいって年に一度の地元のお祭り的などうでもいいものであるわけだ。それは原作マンガの設定を借りただけで原作には介入しないものだったからだ。もちろん、それらの祭りに登場したゲストキャラがメディアミックスに駆り出されたり、ミームによって爆発的な人気を博したりした結果逆輸入的に原作に持ち込まれたりということはあれ、基本的には原作マンガとは無関係の話だった。

10年前までのジャンプアニメの戦略というのは、とにかく途絶えさせることなく続けることだった。だからこそテレビアニメの枠で原作のエピソードが枯渇あるいは追いつかれてしまった場合にアニメオリジナルというもので繋げるわけだ。しかし、深夜アニメがもはやアングラ的なものではなくなった現在において、そのようなメディア戦略を展開する必要がなくなったため、クールで区切りで、そのクールに集中してリソースをを使い、その合間を劇場アニメーションやグッズ・コラボを大々的に展開し、あるいはまとめサイトといったコミュニティを許容するなどして拡散させるに任せることで常に話題に上らせ続ける。

なわけで、別にそこまで目新しいものがあるというわけではない。というか、原作と地続きであり、アニメーションを原作に還元させるという点において集英社がより時代に合わせて狡猾なマーケティングをしている、というだけだ。

とはいいつつ「無限列車編編」はちょっと毛色が違っていたし、あれ自体も良かったとは思うけれど。

しかしこの世代のジャンプマンガのギャグセンスがまったく自分のツボとハマらないのはなぜなのだろう。戯画ぐあいは誇張の仕方、あるいはギャグのタイミングそのものが無粋に感じてしまうのですよな。

あとまあ乙骨くんの声優が緒方恵美な理由は納得というか。シネスコなので画面の情報量は多いしテレビよりは派手派手だし、戦闘シーンも迫力ある(ワンパターンだが)から退屈はしませんでしたけど。

個人的に一番面白かったのは観終わった後に「乙骨と東堂のからみ(おそらく劇場版で追加されることを期待していた)なかったね~」という、まさかのカップリング嗜好をお持ちのお姉さま二人の会話だったり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方「ヴェノム」。こちらもまあ前半はかなり駆け足気味ではあったのだけれど、ヴェノムカワイイ。それで十分な気がする。本当はヴェノムがエディのオルターエゴで~とか色々そっち方面への話も展開できそうな気がしないでもなかったのですが、ぶっちゃけヴェノムのカワイさの前にそういう語り口は無粋だと思うので、ともかくヴェノムカワイイと愛でるのがこの映画の一番の楽しみ方なのではないだろうか。

昔の恋人アンと今のパートナーのヴェノム。しかしセクシャリティジェンダーという軸が両者には適用されないために葛藤は生じえないために無駄などろどろもない。

すねるヴェノムかわいい、マイクパフォーマンスヴェノムかわいい、マイクドロップかわいい(このクラブでのシーンで言及される移民・マイノリティへの言及もヴェノムのキャラクター性によって正論くささが脱臭されているのも良い)、ともかくヴェノムカワイイ。割とあざとさのぎりぎりのラインな気がするのですが、でも可愛い。

ヴェノムがいたら退屈しなさそうだなぁ~いいな~ヴェノム。と、こういう幼児退行的な思考を炸裂させてしまう映画というのは案外希少な気がする。個人的には「グレムリン」とかがかなり近く、こういう架空の生物と一緒に暮らしたいなぁ~という感覚。つまり、フィギュアが欲しくなる映画というのはままある(ジュラシックパークトランスフォーマー、それこそヒーロー映画全般がそうだろう)のだけれど、ぬいぐるみとかそういうのが欲しくなる、あるいはそれそのものがそのまま欲しくなるというのは自分の中では結構レアリティが高い感覚なのだったり。最近で一番近いのは「ザ・スーサイドスクワッド」のサメだろうか。

なんかもう色々とめちゃくちゃというかハチャメチャに重火器やらごちゃごちゃしたりやら、頭空っぽにして楽しめる映画ってこういうものだよなぁと。しかし監督がアンディ・サーキスってのが驚いた。マジか。

 

オンライン試写会

「ドント・ルック・アップ」観ました。

どこの国も自分の国の惨憺たる(政治)状況に頭を悩ませているのだなぁ、と「心中お察しします」と申し上げたくなってくる。

コメディであるのでこの映画にとって重要な価値基準として笑えるか笑えないかというのがあるわけで、その点でいえば自分は何か所も笑えたところがあったので十分元は取ったと言える。そもそも試写なんで金払ってないですが。

まあアメリカの政治風刺コメディらしいっちゃらしいというか、今シーズンの「サウスパーク」がコロナパンデミックのことを(舞台設定は近未来ですが)直接的に描いているのに比べれば、こちらは稀代の超大作アホ映画「アルマゲドン」をベースしており、「直截的な人類の危機」要素は隕石衝突という一昔前の(と言ってもその可能性自体は常にはらんでいるわけですが)展開をなぞっている。まあなんで「アルマゲドン」なのか、といえばあの映画がバカ映画であるのでバカを風刺するためにメタレベルで位相を合わせたというか、まあそんな感じなのかもしれない。

ぶっちゃけどこまでが実際にあった出来事をベースにしているのかというか、事実ベースの「あるある」ネタなのかは判然としてないのですが、それでも異邦人たる自分が漠然と抱くアメリカの低知能な部分の直喩は理解できてなおかつ笑えるので問題ないのだろう。笑ってられないんですけどね。

クリエヴァのカメオだったり、アリアナの使い方だったり、まあその辺は言わずもがななんですが、ただ今回はそれこそ「サウスパークアイロニーやバカバカしさが加速しているきらいがあって、その辺は割とバランスを欠いている気がしなくもない。
よりフィクショナルな要素を加えたことで、バカバカしくもうすら寒い現実のメタファー(ですらないんだけど)との食い合わせがやや悪く見える。まあ、ここまでしないと現実の状況に食い破られてしまうというある種の危機意識みたいなものもあったのかもしれない。それはトランプが大統領に当選した際にトレイ・パーカーが言っていたようなことと同じというか。
シネモアの記事を引用すると「マッケイはコロナ禍の以前から脚本の執筆を始めていたが、パンデミックの影響で書き直しを強いられたことを明かしている。「彗星の否定は(映画より)現実のほうが10倍ひどいことがコロナ禍でわかった。彗星で減税が起こると書いたら、本当にトランプがコロナで減税をやった」とは監督の談。まったく意図しない形で現実が脚本に追いついてしまったために、よりコメディらしく、バカバカしく書き直す必要が生じたという。」ことらしいし。

あとは「アート」にまつわる風刺。特にコンサートやらの歌とチャリティなど、勇気づけるためのナンタラカンタラ。そこに潜む欺瞞なんかも描かれていて溜飲が下がった。ことさら強調してるわけではなく、現実をそのまま写し取るだけであそこまで醜怪に描けるというのも、特にアメリカと日本は9.11や3・11を経験しているからというのもあるのやもしれん。行為そのものというよりも、その行為が特定の文脈に絡めとられたときに生ずるどうしようもない臭さが。


劇中の映画「万物破壊」のビジュアルポスターがアルマゲドンシリーズ(実際は日本の配給が勝手にシリーズ化したB級映画なんだけど)みたいで笑えたり、メリル・ストリープ大統領の夫と思われる人物がクリントンに激似だったり(ていうかサウスパークみたいな切り抜きかしら)、どうでもいい最後の伏線回収とか、随所で笑えるネタ・突っ込み切れない小ネタであふれています。

まあ、実はこの映画それ自体がこの滑稽な状況のサイクルの内部に留まっているのではないか、というのはネットフリックスという媒体を通じていることを考えると何とも言えないのだけれど。

想定外の観客

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まず、作り手がこの映画の観客として想定しているのはどのような層なのか考えてみる。重複もするだろうけれど、おおむね以下のようなものだと思われる。

1→2005年のテレビシリーズ「交響詩篇エウレカセブン」を(ほぼ)リアルタイムで観ていて、その続編やスピンオフ・ゲームなどのメディアミックス作品を熱心に追っている人。いわゆる「エウレカセブン」シリーズのファン。ガチ勢。

 

2→熱心なファンではないが過去シリーズ(主に1作目)を観ていて、この劇場版ハイエボリューションシリーズを1作目から追っていて設定や物語も理解している人。

 

3→リアルタイムで過去シリーズは観ていないが、ハイエボリューションシリーズから入ってエウレカセブンの過去シリーズなどにもハマった人。

 

3→BONES制作のアニメが好きな人。まあUFOや京アニほどの会社のカラーが出ているかと言われると怪しいですが。

 

4→ロボットアニメ好き。BONESゼロ年代に入ってもちょこちょこオリジナルロボットアニメを作っていたりするので、サンライズやトリガーほどではないにせよ、まあロボットアニメ好きは観たりするだろう。

 

5→パチンコ(スロット含め)のエウレカセブンで勝たせてもらったので祝勝気分で劇場に足を運んだ人。

 

大穴→FLOW好きな人。なおハイエボリューションシリーズで彼らの出番はない模様。パチスロアネモネの方はあるようですが。

 

とまあ、こんなところだろうか。

 

こんな書き出しからもわかるように、私はいずれにも当てはまらないタイプの観客である。なぜなら「交響詩篇エウレカセブン」というアニメの存在やアニメファン界隈での評判は知っていたけれど05年のテレビシリーズは観ていない(OPのSAKURAは好きだけど。主に笑っていいともの影響が大きい)し、そしてその評判を知っていたがゆえに「エウレカセブンAO」という続編だけはなぜかリアルタイムで完走してしまったりした。なのだが、エウレカファンの間で「AO」はなかったことにされがちな続編であるらしく、まあ黒歴史とまではいかないまでも積極的に俎上に乗せられることはない。悪い意味で名前を挙げられることはあるけれど。

加えて、このハイエボリューションシリーズもちゃんとした形では追っかけていなかったりするのでせう。

一作目はBSか何かでやっていたのを観た記憶はありますが、あれにしてもほぼテレビシリーズに新規カットを加えた再編集版のような形のようで、一見さんを掴む意図もあったのかもしれないけれど、テレビシリーズを観ていたことが前提であることは間違いないでしょう。二作目もちゃんと観れてはいないですしね、ええ。

まあつまり、私はエウレカセブンというコンテンツとはかなり歪な出会いの仕方をしてしまったわけですね。

 

さらに言えば、パチンコエウレカセブンシリーズともとんと相性が悪く、先日も遊タイム(パチンコ用語)まで突っ込んでラスト一回時の激アツでほぼ100%当たりをはずす(友人曰く「ありえない」「世界でお前ひとりだけ」「バグ」らしい)くらいで、まあ有り体に言ってしまえばヘイトを溜めこそすれ(エウレカセブンに罪はない。為念)、積極的にこの映画を観に行く理由というのはないわけで。

 

じゃあなんでわざわざ公開初日の初回を劇場に足まで運んで、しかもパンフレットも過去2作の分まで含めて3000円かけて売店で買って観たんだよ、という話になる。

 

まあ理由は極めてシンプルで、テレビでやってた「ANEMONE」の二か所にすごい良かったシーンがあったから、なのですな。

このテレビ放送版の「ANEMONE」は劇場公開されたものを分割してテレビで放送してたやつなのですが、私が観れたのは最後の30分のパートだもんで、やっぱり話はちんぷんかんぷんだったわけです。いやまあ、それでもセルルックのCGの出来栄えが凄くて、カット単位でモデルに細かい修正入れてるんだろうなーというのがわかる作りこみだったし、今書いたように、あるシーンが凄い良かったもんで劇場に足を運ばせるくらいの見どころはあったんだけれども。パンフに関してはまあ、ぶっちゃけモチベーション維持のためという意味合いが強いけれど。

 

で、一応書いておくと、そのシーンというのがエウレカアネモネが離れ離れになりかけるところで手を伸ばした瞬間にレントンのカットバックが挿入されるところと、ラストシーンの、エウレカの世界の空とレントンの世界の空が連綿と繋がっているような、それでいて一気にグワッと転換するところのダイナミックさ(とまあそれ自体のクリフハンガーもか)に、ゼメキスの「コンタクト」くらいの一足飛び空間越境に(どちらも「愛」が軸になっている)「うおおおおお」となったわけです。

前者に関してはテレビシリーズの方の映像を使っているようで、画面のアス比が異なっていて、レターボックス式なのですが、だからこその現実時間の越境を感じさせてくれてそれがめっちゃ良かったんですよね。こういう、モンタージュによる映画の原理的な面白さが画面の規格それ自体によっても作用する(少なくとも自分には)というのは思わぬ発見だったし(IMAXカメラを浸かったりしていてアス比がごろごろ変わるハリウッド大作はノーカン)、まあともかくそれらのシーンだけで、話は全然わからんけれど今回の「EUREKA」を観ようと思わせてくれたわけです。

 

だがしかし、この「EUREKA~」を観終わった今となっては、「なんでこれ観たんだ?」という思いが強まってしまっておりまする。

話が分からないから、というわけではないのです。いやまあ、わからないことだらけでちゃんと咀嚼できていないがゆえに重大な何かを見落としている可能性があるのであまり大声では言えないのは確かですし、明らかにテレビシリーズを含めたメタ構造になっているわけですし、そうなるとキャラクターに対する思い入れとかも明らかに違ってくるわけで。

たとえばデューイというキャラクターが口にするセリフは、パンフで藤津良太がコラムに寄せているようにアニメーションのキャラクター論としてのメタ・自己言及的なものであるとはいえ、デューイというキャラクターに全く思い入れがない自分としては彼が提起した疑義それ自体には特段の目新しさがあるわけでもないので、初対面の自分としてはいかんせん彼の悲壮や悲哀をそこまで感受できないのである。

あるいは監督自身がパンフで述べるようなアニメのキャラクター(虚構)と現実との接点という話にしても、なんというかそれはもう折り込み済みで、その先のレベルの話においてアニメーション(虚構)に何ができるのかということを提示しなければならないのではないか。現代においては、と思ったりするわけです。

というか、デューイのよくわからん力も、それを持っていながらあの短時間で何回も襲撃失敗するのとかも、まあ最後まで見れば彼のエウレカに対する二律背反の崇敬・信心のようなものが先走った結果のドジっ子アクションなわけですが、それにしてもアホっぽさが際立ってしまいシリアスさよりもシュールな笑いがこみあげてくるせいで、やっぱりキャラクター論とか、キャラそのものの悲哀とかそういった以前のレベルで没入が阻害されてしまう。愛嬌として受け取るにはCV含めて雰囲気が重すぎる。

あと「EUREKA」にとって良い観客ではない自分でなくとも、冒頭からあんなに時間も場所も行ったり来たりされて、それを字幕だけで処理されたら結構大変だと思うんだけれど、どうでせう。

 

じゃあ何を期待していたんだ、と言われると自分でもよくわからない。別に重厚なSFを期待していたわけではないとは思う……第一、BONESのロボットアニメってワードや設定部分では重厚なSFのにおいを立ち込めさせておきながら、その実はあんまりSFとしてのセンスオブワンダーはないというか、まあぶっちゃけガワだけハードSFっぽくして中身はむしろトリガーとかあっちのアニメの方に近いという印象。用語も含めて遊びとしてのオマージュ、という意味でも。

 

たとえば、第一幕の洋画のスパイ・ポリティカルアクション映画を思わせるライブアクション風味のカメラの手ブレ(画面の揺れが機械的に見えるのが惜しい)や、SF映画に起用された際の(ドゥニの「メッセージ」感よ)故ヨハン・ヨハンソン的なアンビエントなBGMなど、それ自体は良いのだけれど端々に出てくるおバカなスーパーロボットアニメ感や、もろもろのSF(以外も含め)オマージュ(デューイ3~4回目の襲撃時の、動画ですらないワンシーンでその撃退が処理される際の「ターミネーター2」の溶鉱炉のラストとか、まあ自分が知らないのも含めて結構そういう遊びがある)とか、グレッグ・(ベア)イーガンの名称とか、そういうどうでもいい部分であまりに遊びが過ぎるとちょっと鼻につくこともあるんですが、終盤の舞台となる背景の美術のラリィ・ニーブン「リング・ワールド」を想起させるビジュアルイメージなどは「お~」となったし、ニルバーシュの「まんまイリス(ガメラ3)じゃん!」かと思ったら学園戦記ムリョウのジルトーシュ+ジングウみたいな、もはやロボットですらない何かになったニルヴァーシュのビジュアルはまあ面白いといえば面白かったですけれど(その割にはなんかケレン味に欠けるのは残念。キャプテンアースからそこも後退させてどうする)。

しかしBONESのオリジナルロボアニメで受けているのは、やはりSF的な面白みではないのだろう、というのは「スタードライバー」「キャプテンアース」そして今回の「EUREKA」を観てつくづく思った。特に「キャプテンアース」などは随所に見られる「2001年宇宙の旅」の露骨なオマージュが作品の面白さに繋がっていないがゆえにかえってむかつくという逆効果を生んでいたりもするわけで(自分だけか)。

 

そもそもエウレカセブンで受けていたのってエウレカレントンのボーイミーツガールを中心としたキャラクターなのでしょうから、そういうSF的なセンスオブワンダーがどうこうという話ではない、というのはまあそうなのでしょう。光量子なんたらって単語で誤魔化してますけど、基本的にやってることは質量でぶっぱすることだったり、展開それ自体は90~ゼロ年代初期のハリウッド(おバカ)大作ですし。へぼいサクリファイスとか(とは言いつつもメカアクションは結構面白い部分もあるんですけどね。ウルスラグナの展開シークエンスとか)。

 

ではボーイミーツガールwithロボットアニメの「エウレカセブン」、そしてその後としての「EUREKA」は、招かれざる観客としての自分にはどう映ったのかという話になる。

察するに、このハイエボリューションシリーズはボーイミーツガールに対する一種の(自己)批評的な立ち位置をとっているのだろうな、という気はする。それはテレビシリーズのエウレカセブンは(おそらく)ボーイミーツガールだったから。しかしパンフで監督は「エウレカという少女は設定という枠組み以外は”何もない子”だから」自立した存在として描きたかった、というようなことを言っている。

ぶっちゃけ、テレビシリーズを全く知らないので、断片的な情報から当て推量するしかないのだけれど、エウレカという少女の立ち位置というのは、戦後の(ロボット)アニメから続くそれのように、母性の象徴としてあったのではないか。

”何もない”とは、がらんどうであり、それゆえに何もかもを飲み込み包含し、無条件に抱擁してくれる無償の母の愛のそれなのではないか、と。それはシステム(=非人間)としての母性であり、だからこそエウレカは他者としてのエイリアンではなく、むしろ欲望の投射としてのエイリアンという設定を付与され、孤児の幼児たちから母と呼ばれる。

 

そう考えると、ハイエボリューションの一作目はレントンという少年(ボーイ)の視点から、二作目はアネモネというもう一人の少女(ガール)の視点から、何もない空疎なエウレカエウレカセブン=EUREKAの中身を相克し、新たに満たしていくシリーズだったのだと解釈できる。

今風に言えばエウレカセブンというコンテンツをアップデート=リブートした、といえばいいだろうか。

それが上手く機能しているか、といえばそんなことはないと思うけれど。少なくとも「EUREKA」に関しては「ANEMONE」で大跳躍したのに無難に軟着陸したようにしか観えない。

「ANEMONE」はまだ全編通して観ていないのだけれど、むしろ「ANEMONE」こそが「EUREKA」よりは一歩進んだ地点に立ちうるのではないかと期待していたりする。なので機会があれば観るつもりだど。

「EUREKA」は、結局のところ古臭くも新しい問題系としてのMaternal Dystopiaの反復として、私には観えてしまったというのが正直な感想。なんというか、根本的に母性の孕む問題を棚上げしたままボーイミーツガールをガール(ウーマン?)ミーツボーイに置き換えただけ、というか。だから、ラストの少年レントンエウレカの再会というのは、未成熟な少年の身体のままレントンを父=夫として偽りの成熟を達成させ、母体の元へ閉塞的に回帰させる様に観えてしまった。だから、旧来的なシステムを維持させた結果として、アイリスがエウレカの継承者としてこのユートピアディストピアの維持を高らかに宣言し幕を閉じるというのも、まあ至極納得のいくラストなのである。

 

エウレカ」というのはこのハイエボリューションシリーズにおいて、そのシステムとしての母性の肥大・暴走というのが「ANEMONE」の解釈としての私の見立て(しつこいようだが未見なので推測)だった。

それはレントンという少年の母として、子としてのレントンエウレカという母の子宮内からの逸脱=喪失=死に抗うための世界の書き直しのリピートだったのだろう。

「ANEMONE」に感じていた可能性は、それが無限にリピートできるわけではない=無償の母性の限界性・不可能性という問題提起をし、アネモネという少女こそがそこを穿孔してくれるのではないか、というものだったのだけれど、しかしすでに書いたように「EUREKA」では「ANEMONE」に見出した可能性=問題提起が無難な結果に落ち着いてしまった。

それはビジュアルイメージとしての旧劇場版エヴァまごころを、君に」のイメージへの後退にも見て取れる。第一、ここは表現としても面白みにかける。

あるいは、アイリスの養父母であるマッケンジー夫妻の出番の少なさは、それが実質的な血縁(同種・眷属)であるエウレカをアイリスが慕うようになるという、時代逆行的な展開も、これがたとえばアネモネであったのならば、と考えてしまう。

その点だけに限れば「ワイルドスピード」シリーズの方がまだ時代に即していると言える。というか、あのシリーズはそれが全面展開されるがゆえに辟易するわけですが。

一方で、古臭い自己犠牲(へぼいサクリファイスはほとんど「ハルマゲドン」「インデペンデンスデイ」並み)をそのまま導入した結果として、「咎を抱えたキャラクターの処理としては悪手だしクリシェすぎるのでは」とは思ったけれどある意味では父になること=成熟の限界性みたいなものも結果的に示しているような気がしなくもないと思ったり思わなかったり。

 

ただこれはエウレカセブンシリーズをほぼ知らない人間から観た感想でしかないので、ちゃんとシリーズを追った人は違う風に見えるはず。そういう意味では、全くの所見の人はパンフレットの藤津良太のコラムなんかを読むと少しは違う角度から観れると思う。まあぶっちゃけ物足りないけれど。

 

しかしあれですな、完走した身としては「エウレカセブンAO」ってどういう立ち位置なんですかと問いただしたくなる。クォーツガンとか、レントン(CV藤原啓治)とか、なんだったんですかね。

 

この見立て自体がまだまだ自分の中で消化できていないので今後また書き直すかも。しないかも。

攻殻機動隊2045

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観てきた。

CGはそこまで気にならなかったかな。冒頭のアメリカの山の背景がちょっと「やばくね?」と思ったけんども、京都の集落とかは作りこまれてたし。トグサの顔アップのときなんかヒゲの細かさすごかったし。とはいえリギングに対してモデリングはもうちょいクオリティアップできなかったのかという気はしなくはないかなぁ……あとカット単位で観るとクオリティにちょっと差があるようには感じたかも。

 

あとこの劇場版、ちょっと特殊なつくりになっておるのですな。

テレビシリーズ(というかネトフリの連続シリーズ)を再編集したもので、そちらは20分のが12話で大体4時間超であるからして、それを120分に収めているのでかなり削られたところもあるでしょう。とはいえ昔からテレビアニメシリーズの総集編的なものはありましたし、それ自体は別段珍しいものでもないとは思うんですが、劇場版の編集を「新聞記者」などの藤井直人監督という実写畑の監督が務めていて、なおかつ彼はアニメに関してはほとんど素養がないという話。観ていてどことなく「実写映画っぽいつなぎだな~」なんて思ったりしたのですが、なんとなく納得。つっても神山健治も短編入れれば実写撮ってますが。

んで、私はネトフリの方を観ていない(というかサブスクサービス一切加入していないという生きた化石ゆえ)のに加え、攻殻シリーズに関してもほとんど無知に近い(SACは何話か観てるし押井守のも観てはいたけれど)ので比較なんかもできないし、そうでなくとも無学でちゃらんぽらんな自分はテレビの方のSACで素子のモノローグとかに「???」となりかけたりもしてたもんで、観るまでは話についていけるか割と不安だったんですけど、割と大丈夫でしたよ!(白目)

パンフ読んだ感じだと藤井監督(攻殻機動隊をほとんど知らない)が結構大胆に構成を弄ってるっぽく(まあ実質半減させてるわけなので)、それが初見の自分のような観客にはかなり上手くハマっているのではないかと思う。

少なくとも私は問題なく見れた。とはいえ、これまでの攻殻機動隊シリーズの用語の意味合いなんかはある程度知っていること前提ですが。

あと思ったよりアクションシーンが多い上、CGであることを利用してカメラがすげー動くんで結構疲れました(いやまあ、CGでも大変は大変ですが)。この辺はまあ単話で観ればちょうどいいアクションシーンの配分なのでしょうし、そのアクションも観ていてつまらないというわけではないので全然いいのですが、朝イチで観るもんじゃなかった。

 

というのが劇場版観てのの所感なのですが、公開から一年経過してる作品の劇場公開編集版をネトフリの方との比較もなしに語ることにどれだけ公共的な意義があるのか分からない(劇場公開2週間だけなのにもう1週間経過したあとだし)ですが、まあ感想書くこと自体自己満足だし、必ずしも劇場動員のために書いてるわけでもないので。

 

話のコンセプトとしては「幼年期の終わり」(のテーマ)を大きな軸に、そこにMGS4的なコントロールされた戦争やテレビシリーズから通底する(インター)ネットにおける人間の心理をつなぎ合わせた感じ。だろうか。あと人類の中から人類の倫理や思想を超越する超人類が誕生・それをめぐる政治ゲームという意味じゃスタージュンの「人間以上」や高野の「ジェノサイド」と並べてみてもいいかも。

そんなわけで、序盤の戦闘シーンの背景なんかはMGS4のそれを想起させる。というか、現実の内戦地域などを参照するとそうなるのかな。あと神山さんが劇半をオファーした戸田・陣内の作曲ユニットがそのものずばりMGS4の音楽を作っているあたり、かなり狙ってる気がするんですが。まあシミュレーション志向という超大雑把なくくりでいえば小島秀夫神山健治は共通していますが。

今回の劇半は良い意味であまり印象に残らないというか、その時々のシーンのシチュエーションに溶け込んでいるというか。もっとありていに言うとちょっと前のハリウッドSF大作の重低音な「ブォォォン」を控えめに鳴らしてたり(この二人、ハンス・ジマーのラボとも制作してたりするらしい……なるほど)、なんというかですな、音楽も含めて全体的に表現主義的に見えるというか。

 

で、本題。

今回のシリーズで目下の敵対者(まあ敵ではないんだけれど、厳密には)として仮構されるポストヒューマン。トグサが今回は(も?)彼らに近接する存在なんですが、なんでトグサなのか、というのは多分これまでのシリーズを追ってる人ならわかるかもしれないですが、それは彼が公安9課の中で最も人間性の残っている存在(そのメタファーとしての電脳化率の少なさ、あるいは傭兵として参加していないや家族写真の描写もそうだろう)だからなのかなと。いや知らんけども。

というのも、今作の重要な存在であるポストヒューマンは、ああ見えて実のところ極めて倫理的……というか倫理の限界突破した存在である(かもしれない)からだ。

そして、そのような極めて倫理的な存在であるポストヒューマンに対して、既存の人間はどうあるのか。

本作で描かれる(大衆としての)人間は控えめに言ってクズである。というのは、一つには既存のシステムの維持のためのサステイナブルウォーという戦争を継続させていることがある。建前として、一種の経済活動としての戦争でありプロは死人を出さないようにしている、というのは劇中で言明されるのですが、戦争それ自体が悪であるという共通見解があるのは論をまたないことであるし、劇中の戦闘描写を観ればそれが欺瞞であることは一目瞭然だろう。

あるいは公安9課のメンバーが日本に戻ってきて、ポストヒューマンの一人である矢口サンジを追う中で明らかになる移民労働の問題や、シンクポルによって引き起こされたソーシャルジャスティスウォリアー(以下SJW)的事件など。これは明らかに現代社会(日本)の持つ問題であり、創作を現実(社会)とどうコミットメントさせるかというのは神山健治の持つ問題意識なので、このモチーフ自体はご愛嬌といったところでしょうか。

ただ、比喩ですらないこの直截的な描写から、ポストヒューマンと既存の人間の対立軸が浮かび上がってくる。

そもそもこのシンクポル(「1984」の思想警察由来)は、シマムラタカシというポストヒューマンが構築したシステムであるわけですが、彼自身は一度使ったあとは放置してしまっており(おそらくは倫理的な葛藤から)、劇中のSJW的事件を引き起こしたのは一介の高校生だったことが判明する。これが表しているのは、端的にいって、問題はシステムそのものではなく運用する人間の方にこそあるということでせう。

このへん、オルテガの「大衆の反逆」やル・ボンの「群集心理」の問題でもありましょう(100分de名著脳)。

 

そしてその問題はサステイナブル・ウォーともつながってくる。

既存の社会制度を維持するためにこの戦争があるわけですが、ポストヒューマン(いい加減長いので以下PH)はそれを壊そうとしているわけです。

これは、実はかなり倫理的な、ヒューマニズムの問題でもあることが、映画の後半でPHになる前のシマムラタカシが実は倫理の問われる場に二度直面していたことで、明かされる。

これ、パトリック・ヒュージとゲイリー・ハーツの描写までではよくわからない、というかむしろ、それこそこれまでのSF映画で描かれてきたような人工知能的な行動(身体動作という意味でのアクションも含め)をとるわけで、ゲイリーの核発射未遂なんてのは「ターミネーター」そのまんまですし、要するに彼らのどこに人間性ひいては倫理なんてものがあるのか、という風にも見える。

のですが、日本国内のPHを追っていくことで、実は彼らPHの行動の動機というのが極めて倫理に基づいたものであることがわかってくる。前述のシマムラタカシの過去の体験しかり、そして矢口サンジの撲殺対象から導出される彼の動機しかり。

 

そうなると彼らがエイリアンではなく、人類から進歩した超人類であるということが重要になってくるように思える。

なぜなら「超」人類であるがゆえに、PHの倫理は既存の人間の倫理を超えるものではあれ、まったく別のものではないから。だから、極めて倫理的であるからこそ、非倫理・非人間的なサステイナブルウォーというシステムの破壊を目論んでいるのではないか。戦争それ自体あるいは殺人それ自体が非倫理的なものであるという意見は論を待つまでもない、とは既述のとおりであるわけで。そしてそれを終焉させることができるのであれば、その最も効率のいい手段が核の発射であれ殺人であれ、彼らはいとわない。それが「超」「人」たるPHの倫理なのだろう。

そう考えると、ゲイリーが、パトリックが、人間としての倫理を試される軍人であってこと、サステイナブルウォーを支えるテクノロジーに深くかかわるブラッド・ロボティクス社のCEOであったことも偶然ではないのかもしれない。

つまり、衆愚=倫理の欠如した既存の人間の在り様と、それを超越するポストヒューマンの存在の対置が本作のキモ。まあ、ポストヒューマンを肯定するか否定するかはまだ完結していないシリーズゆえわからないところですが。

ただ、戦争や殺人を絶対悪(という観客の倫理)としながら、PHは超倫理的であるがゆえにそれを遂行(パトリック・ヒュージ、矢口サンジ)し、かたや既存の人間は非倫理的であるがゆえにそれを行っている(G4、ネームレスキングの高校生)、というのはすごく面白い。

また人外、というか人工知能を搭載したロボットでしかないタチコマがなんだかいつも以上に人間味ある描かれ方をしているような気もして、その辺も「人間とはなんぞや」という点から考えると面白いものが見えてきそうです。

 

あとキャラデザね。今回の少佐、顔面のアップで映るとちょっとハッとするほど妖艶でヤバイのですが、そういった個人的な癖は別として、本作のテーマと結構面白いシンクロをしているように見える。

これはどこまで意図されているのか分からないのだけれど、イリヤ・クブシノブ(この人、「プラチナエンド」のOPのアニメーターもやってたり、今作とのなんとなくの繋がりでいえば小島秀夫とも親交があったり(?)するんですが何者なの)の絵柄の特徴自体がそうなのですが、これまでの攻殻機動隊シリーズに比べるとかなりネオテニー化しているように見える。特に女性に関しては。(いやまあ、彼の画集の「モーメンタリー」読むともうちょっとバラエティあるんですけど)

そもそもが、この人の描く女性キャラクターの顔はパーツ単位だと割と類型的で、というかまあそうでなくともマンガなんかに出てくる可愛い・美しい女性キャラクターというのは男性キャラクターに比べてその類型が乏しく、その女性キャラクターの表象の少なさ自体が性差別の構造を含んでいるのではと思ったりするのだが、一方でそういった男性目線の性差別的構造の美少女キャラクターの特徴(ネオテニー)の持つ可能性ーー子どもの感覚が感じることのできるものーーがあったりして、それはそれでカウンター的に機能させられそうだとは思うのだけれど、話が脱線しかけているので切り上げる。

などと書きつつ、実は完全に脱線しているわけではないような気もするのだけれど、こればかりは本作がどういう風に進むのかということによって全然解釈変わってくるので何とも言えない。

ただ、一つの解釈としては女性キャラクターデザインのネオテニー化とは、女性こそが前述の「幼年期の終わり」におけるオーバーマインド的な進化の方向性であり、男性的なそれはオーバーロード的な進化に向かうのではないかとか、そういうのも一つアリかなーと思ったり。一方でそういうルックに囚われないためのトグサだったり、とか。

キャラデザだけでなく、メインの女性キャラである少佐(まあこの人は正確には性別不詳なんですが、逆にだからこそともいえる)や江崎プリンの、なんというかこう、それこそゴーストに忠実な感じもこの妄想を補強してしまう。

まあそれでいうと少佐がネームレスキングに言った「ピュアなのね」というセリフがすごく気がかりで、このセリフがどういう意味合いで口にされたのかによって上の解釈全然違ってくるんですが。

 

そもそもまだシリーズが完結してないので何ともいえないけれど、これ小林泰三の「脳喰い」みたいな落ちになったりするのかしら、とか思ったり。

まあ「ポストヒューマン」というくらいだからポストヒューマニティズの話になってくる気もしますが、その辺の哲学談義に付き合えるほどこっちに学はない。無念。

 

余談ですがパンフの情報がちと薄いのはちょっとアレ。1100円でこの内容は物足りない。特別興行料金で割引効かない1900円の観賞料金と合わせて3000円ですよ。

まあ1年前に出来上がってたアニメのパンフだし情報はだいたい出尽くしてて書くことそんなにないのかもしれませんが、であればこそもっと細かいとこ書いてくれても良かったと思うんだけどなぁ。

 

更に余談なんですけど、パンフの表紙の写メ撮ろうとしたらポストヒューマンのシマムラタカシだけ顔の認識されなくて笑ってしまった。さすがポストヒューマン。

 

さらにさらに余談だが、なんか今年観てるアニメにやたら林原めぐみがメインだったりキーキャラクターで出てきてるのですが、なんなんだこれ。しかも大体が人類の外の存在。でも最初は林原めぐみだと気づかなかったし、やっぱ上手いですな。

や、私が知らんだけで出ずっぱりだったのかもしれませんが。アニメはここ数年まったく見てなかったから知らなんだ。

エターナルズのどうでもよさ

最近、映画館に足を運ぶ理由がほぼMCUになってしまっている。まあ単純に近所のシネコンでやってるのがそれくらいだからというのと、寒くなってくると腰痛持ちの自分は2時間椅子に座りっぱなしというだけでも割とハードワークであるからして、というのもあるのだが。

 

こんなどうでもいい話から口火を切ったのは、この「エターナルズ」という映画が私にとってどうでもいい映画だったからだ。この映画を観ている間、ウジむ…雨後の筍のごとくぼこぼこと生えてくる高校生青春映画もとい柳下氏が言うところの青空映画を観させられているときのどうでもよさみたいなものを感じていた。

そんなどうでもいい映画ののくせに長い。この映画、なんと「トランスフォーマー 最後の騎士王」よりも長い156分もあるそうなのである。なぜ「最後の騎士王」を引き合いに出したのか。まあその理由は後述するとして、ともかくこんなどうでもいい映画に腰痛と尿意(どっちも自分のせいなのだが)と格闘しながら二時間半も付き合わされた身としては、もっとどうにかなっただろうという思いが沸沸と……。


端的に言って、この映画は「神々(の作った超人)が上から目線で人間の真似事をし、人間のいないところで人間の存亡の問題を独り相撲的(マッチポンプ)的に解決する」だけの話なのだ。それなのに、妙に叙情的に語るものだからその超人の自己陶酔・自己憐憫が前景化するという薄ら寒いことになっているのである。これは「マン・オブ・スティール」的などうでもよさともいえる。

そして、このどうでもよさーー鼻持ちならなさと言い換えていいかもしれないーーというのは、多様性というポリティカリーコレクトネスと結託することでその偽善性が極まり、おぞましささえ湛えるようになるのである。

誤解されないように断っておくが、私はレプレゼンテーションはすごく大事なことだと思うし、この映画に様々なマイノリティ(児童、有色人種、聾啞、ゲイ、またセラをスキゾ的・メランコリックな精神障碍のメタファーと受け取ってもいいだろう)が登場すること、それ自体はむしろ幅が広がるし良いことだと思っている。

第一、この超人独善映画の中でマイノリティ表象の一人であるファストスだけが観客にとっての拠り所足り得るわけで、その意味で彼のセクシャリティというのは究極的にはヘテロだろうがゲイだろうがバイだろうがどうでもいいのだ。だからこそファストスがゲイであることに何ら違和感は持ち得ない。というか、この間のスーパーマンの息子の件もそうだが、人間を超越した存在であればこそアセクシャルパンセクシャルバイセクシャルくらいはないとむしろ不自然だろうというのが個人的な見解なのだが、そういう矮小な問題ではなく単にファストスがほかのエターナルズのような内向き(そのくせ上から目線)さではなく、開かれ、人間味のあるキャラクターであるから私は彼のセクシャリティも含めてエターナルズで唯一彼だけが好きになれるキャラクターであったわけで。


とはいえ、別に感情移入できるかできないかというのはそこまで問題ではない。むしろ問題なのは、本来この映画の描こうとする話は叙事的に描くべきであるにもかかわらず、叙情的=感情移入させるように作ってあるために、ちぐはぐになり、かえってどうでもよくなってしまったのではないのかということだ。もっと壮大にすればいいのに、絵面は壮大な割に話は小さく縮こまっているのである。そういう意味ではアリシェムまわりは結構良かった。ラストの方の登場からの退場シーンでどことなく事象の地平面的な描写があったりしてスケールの違いを端的に表してくれていたし。

んなことはすでにマイケル・ベイが「ダークサイドムーン」で、エメリッヒが「インデペンデンス・デイ リサージェンス」でやっていることなので、別に目新しいことでもないし、自分はIMAXで観たので余計にその巨大さが強調されてアがったというのはあるけれど、普通のスクリーンサイズだと「こんなもんか」となるかもしれない。

まあ、この手のビッグバジェット映画、それもMCUというブランドを使って徹底して叙事的に描くというのはかなりリスキーであるというのはわかる。というか、それをやったのが「トランスフォーマー 最後の騎士王」(あと書いてて思ったが「エイリアン コヴェナント」もそうだったかも)だったのではないかと今でも思うし、公開当初に観た私も「最後の騎士王」に対する評価というのはボロクソであったし、実際、その結果はまあ惨憺たるものだった。まあそれ以前にマイケル・ベイの手腕それ自体が問題であると言われれば返す言葉もないのだけれど、今はもう少し「最後の騎士王」はまた別の見方ができるのではないかと考えている。

ちなみに、ほとんどの人は忘れているだろうが、この「エターナルズ」はストーリーの点においても「最後の騎士王」と似通っており、ある意味では双子的な存在と言っていいのではないかと思う。

閑話休題

この映画がポリティカリーコレクトネスとの結託によって獲得してしまったおぞましさ。それは、ヒーローという概念の持つ陶酔性をマイノリティにまで敷衍してしまっているところにあるのではないかと思う。

少なからず、マイノリティというのは我々に比べて自意識・プライドを過剰に持たなければならない。それは言うまでもなくマジョリティ側からの抑圧・疎外に対する適応であり、マイノリティ側に責などは一切ないのだけれど、彼女らの負った傷というのは、X-menがそうであるように、日本国内におけるなじみ深いヒーローたる仮面ライダー(というか石ノ森ヒーロー?)がそうであるように、傷があるからこそ「力」を持ち得る(傷=力)のだが、それゆえに逆差別的なナルシシズムに転化しうるというのもまた事実であろう。

それが悪いというわけではない。「エターナルズ」という映画がそういった人間性を踏まえているのであれば。

だがエターナルズにとって、本質的には人間のことなどどうでもいい(は言い過ぎだけど)ことであって、すでに書いたように彼らの問題意識というのは徹底的に内向きなのである。

映画を観た人ならばわかるだろうが、冒頭でエターナルズが地球に顕現するシーンで、一人の人間がディヴィアンツに食い殺され、その人間の子どもが食い殺されかける寸前で彼らが登場し撃退する。

ここで、彼らは悔悟の情など微塵も見せつけない。むしろどや顔で登場し一網打尽にして上から目線で「サルベーションしたった」と言わんばかりである。彼らが愛するところの人が一人殺されているというのに。あと数秒早ければ彼は殺されずに済んだというのに。これが陶酔でなくなんだというのか。

これが叙事として描かれきっていれば、あるいはその陶酔が極まるところまでいってしまえばそれはそれでかなり面白くなっていただろうけれど、すでに書いたようにクロエ・ジャオはエターナルズの葛藤を叙情的に、それも単にくどくどしく描いているだけなのである。イカリスとセルシの無駄にまぐわい度の高いアオカンとか、それ以前にイカリスが完全にストーカーであることとか、神にあるまじき湿度で普通に笑っちゃったんですけど。ていうか単純にキャラクター捌けてないでしょこれ。

一般人からしてみれば、まして指パッチン後の世界を生きるMCU世界のパンピーからすれば、超人たるエターナルズの造化としての悲哀というのも「いい気なもんですね」というそしりを受けても仕方のないものに思えてしょうがないのです。

「エターナルズ」が人間を排しているのは、たとえばセルシの現代の恋人(?)であるデインが、序盤も序盤でイカリスとの三角関係的当て馬にすらされない程度の存在に降格されてしまうことからも明らかである。そしてまた、これは逆説的にだが、デインはポストクレジットにおいて再度登場し、ヒーローとして再登場することをにおわせるような終わりかたをする。
これは「エターナルズ」ひいてはMCUにおいて、ヒーロー=力を持つ者でなければスポットを浴びることはできないという無慈悲さの表れに他ならない。これは「シャンチー」においても嫌なところだった(しかし「シャンチー」はそれを上手く誤魔化せていた)のだが。
そんな「ただの人間には興味ありません」と涼宮ハル○的な独善路線をMCUが突き進むというのならそれでいい。というか、そっち方向にぶっちぎったのならそれはそれで面白いと思う。

ただ、MCUの始まりが「アイアンマン」という何の力も持たない人間が知能と技術(と財力※ここ重要)でもって悪を打倒する話であったことを考えると、インフレも随分と遠くまで来てしまったものである。いや、「アイアンマン」も「アイアンマン」で多分に偽善を含んでいるのだけれど、少なくとも観客の拠り所としての人間性はトニー・スターク(ダウニー)にはあったわけで。

翻って今回の「エターナルズ」のエターナルズ=ヒーロー側は、人間を見下ろし、力を持たない者に座席を明け渡すことをしない一方で、彼らは人間=力を持たない者の真似事をするというド厚かましさ。その傲慢さがポリティカリーコレクトネスの名のもとにマイノリティにまで押し付けられてしまう歪み。
映画は過剰であるべきというのはそうなのだが、それは表現のレベルにおいてであって、政治的正しさという思想的なレベルでのみ展開されても困るというか……。

そもそも論として、造化としての悲哀でいうならばエターナルズよりもディヴィジョンの方が遥かに適任であろうに、終盤の処理の雑さっぷりたるや、アメスパ2におけるエレクトロ並みである。というかデザインといいやってることといいこれ「エイジ・オブ・ウルトロン」の焼き直しに見えるんですけど。ギルガメッシュを吸収したあとの中途半端に人間に近づいたキモさとかは割と良かったんだけども。その前の形態が「オールユーニードイズキル」のボスギタイや「ダークサイドムーン」のドレッズやらのスパゲッティコードの集積怪物みたいなのは何番煎じなのよと。

出てくる単語もなじみ薄いためキャラの名前すらmumbo jumboで、「どれがどいつで何がどれだ?」という混乱をきたしてしまう問題もある。イカリスにしたって普通にイカロスでいいじゃん!と思ったり、というか神話再現のために太陽に突っ込ませる「原作(神話の方)再現!原作(神話の方)再現です!」のやけくそっぷりとか、普通に笑ってしまったんですけど、そういうシーンでもないのに笑わせるなと。そういえばその辺の石ころで後ろから殴打してスプライトを気絶させるシーンも思わず吹き出してしまったので、そういう意味では笑える映画ではある。

あと編集どうなってるんだ、ということが結構あった。回想中に場所移動はなしだろ~とか、その回想シーンはエターナルズメンバーに開陳するときにすりゃいいだろ~とか、そもそも過去回想多すぎるだろ~とか、時系列をごちゃごちゃにしてわかりづらい部分も「マンオブ~」っぽいんですよね。

156分という腰痛持ちにとっては痛打なランニングタイムもその辺削ればもっと詰められただろうと思う。これ「ワンダーウーマン1984」でも思ったんだけれど、無駄に長いわりに観ていてそんなに楽しいわけでもないシーンが多いのはなんとかならんか。や、建築物のCGの作りこみとかはすんごい良かったんで、人物じゃなくてそっち方面にもっとフォーカスしてくれてたらもっと楽しかったなぁ。

あとはまあ、これは完全に好みの問題なのだけれど、MCUでスーパーマンやらバットマンやらのネタを使うということの白々しさは理解しておいた方がいいのでは。
まず第一に、それが程度の低いメタネタであるのにどや顔されても腹立たしいし、第二に、このMCUという世界においてスーパーマンバットマンという存在はおそらく我々の世界同様にコミックのキャラクターでしかないという扱いに成り下がっている(万に一つの可能性として、DCEUとのコラボの布石というのもありえなくはないが、まあ時系列とか矛盾がぼこぼこでるので無理だろう)ということも解せない。であるならば、同じく現実世界においてはコミックのキャラクターでしかないエターナルズひいてはMCUのヒーローたちとは、MCUの世界においてどのように受容されているのかという問題も生じる。それは物語世界への没入を著しく阻害する要因になりかねない。というか私はなった。

これは「ローガン」におけるX-menのコミックの扱いなどにも通じる(ドキュメンタリーや現実ベースのフィクションとしてのコミック、という解釈は成り立つが)のと、MCU中期から積極的に投入されるようになった会話中の映画ネタなども同様だ。なぜならそれらのネタというのは、彼らの世界=MCUで公開された「バックトゥザフューチャー」は我々の世界のそれと同じであるという共通認識・暗黙の了解の元に成立しているわけで、ではなぜ我々の現実世界に彼らヒーローは実在しないのか、といった世界観のズレが生じかねないし、メイス・ウィンドゥがフューリー長官なのはどういうことなのさとか色々問題が生じるだろう。そしてそのズレは、MCU世界において一般人の存在が希薄になればなるほど大きくなっていく。その点、この「エターナルズ」という映画はそのズレが超絶に開いた一作であると言っていいだろう。

神山健治攻殻機動隊SACにおいて「ライ麦畑で捕まえて」を引用した理由の一つに、現実にある創作物を引用することで、攻殻機動隊の物語世界が我々の現実世界とどこか地続きであることを意識させるためである、というようなことを書いていたのだけれど、「攻殻機動隊SAC」での引用はまったく違和感なかったあたり、おそらくは程度問題でしかないのだろうけど。

たとえば、すでに古典のレベルにまでなっている昔の作品は、それがすでに歴史の一部としてあるからこそ引用されても違和感がないというのはあるだろうし。

そんな私が個人的に一番興奮したのはエンドクレジットでエターナルズの元ネタがCGで再現されるところで、スプライトがフーディーニと組んでいたのではないかと匂わせるポスターのところだったりする。モンスターバースとかもそうですけど、こういうクレジットとかで遊んでるのを見るのが(本編よりも)楽しいというのはこういうビッグバジェットな映画ならではな気がするので、そういう意味では楽しんではいるのだけれど。


ここからは完全に余談なのですが、「最後の騎士王」との相似(双子)が気になった。
まず「エターナルズ」と「最後の騎士王」の結節点として、ジェンマ・チャンという役者の存在がある。彼女はこの「エターナルズ」においてセルシという主人公を演じ、そのセルシというのはいわば地球と人類の存亡を握るキーパーソンであるということ。
そして、「最後の騎士王」におけるジェンマ・チャンも同じような役どころであるクインテッサ星人を演じている。まあ大勢の人が「最後の騎士王」なんぞの記憶など遥か彼方の銀河系にすっ飛んでいるだろうし、ましてジェンマ・チャンジェンマ・チャンの顔でクインテッサとして劇中に登場したのは最後の2~3分だけなので、あんなどうでもいい映画の意味のない(だって続編匂わせるためだけのシーンなのに続編がポシャったんだもの!)シーンのことなど覚えていろというのが無理な話で、そんなこと覚えるくらいなピタゴラスの定理を覚えていた方が万倍もメモリの有効活用である。

じゃあなんで私が覚えているのかというと、「エターナルズ」観る直前に自宅で「最後の騎士王」をブルーレイで観ていたというのもあるのだけれど……まあそれはいい。

ストーリーのレベルでも似通っているというのは、「最後の騎士王」においても地球そのものがある超生命体であり、地球を中心に人類とほかの生命の存亡という対立軸が設けられているという意味で「エターナルズ」と同じであるというだけのことなんですけど。

似たような話でありながら方やリリカルに、方やエピックに描かれ、そのどちらもが異なる問題を孕んでいるという点が気になったのと、そのどちらにもジェンマさんがいるというのがなんかスピっていて気になった次第でござい。「最後の騎士王」の端々からにじみ出るレイシズムや男尊女卑的な思想と、それすらもどうでもよくなるような批評的・批判的言説も含めすべてを無化する過剰に突き抜けたごちゃごちゃと爆発を「食傷」と一笑に付すことは簡単だ。しかし、その爆風がすでにそよ風レベルに感じてしまうほどの突き抜けっぷりが一周回って面白いマイケル・ベイの映画に比べて、「エターナルズ」が目指した政治的正しさと、結果的に「エターナルズ」という映画が帰着したものとのギャップがもたらしたグロテスクさは、実はカイマー×ベイのタッグ映画や「ブラックホーク・ダウン」ーーというかリドリー・スコット的な叙事への傾倒がゆえにーーの劇中で語られる不誠実極まる正義観との乖離が行くところまで行ってしまったがゆえに面白くなってしまったことを考えるに、「エターナルズ」に足りなかったのは掲げた正義に対してあまりに誠実であるがゆえに映画的な過剰さが欠如していたことにあったのではないか。

それは多分、監督が生真面目であるがゆえの退屈さ(つまらない、というのではない)なのかもしれない。正しさとは、イコールで楽しさに繋がるわけではない。

個人的には木戸銭を払っているのだから、正しいものよりも楽しいものが観たいという気持ちがないといったらウソになる。しかし、正しさを蔑ろにした欺瞞を観るのも躊躇われる。フィクションなのだから、フィクションなればこそ楽しい嘘が観たいのであって。

メインストリームとしてのMCUが映画存在として担わなければならないものは、思ったよりも重いものなんじゃないか。なんてことを「最後の騎士王」との見比べで思ったのだった。

ていうかこの「エターナルズ」、「エイリアン コヴェナント」の流れから考えるとリドリー・スコットが監督してたら絶対にもっと面白い映画になったんじゃないかと思うんだけど、どうでしょう。
まあ絶対にMCUのカラーと合わないだろうけど。

2021/10月

「カクテル」

題材というものはなんでもいいのだろう、というのがはっきりしたところはある。

要するに、カクテル作るだけの映画でなぜここまで盛り上がるのかというと人間ドラマだからだということだ。テレビで観たのでカットされたシーンがかなりあると思われるが。

とはいえやや古めの映画ではあるので彼女が妊娠→責任取って結婚というのが当然とされる価値観などは思い切りが良いと言えばいいのだけれど。

 

「御法度」

ようやく見れた。にしても面白い。たしかにこの松田龍平はヤヴァイですな。あの浮世離れした妖艶さはちょっとすさまじいものがある。あの人って今でも常識離れしたというか、少し世間から外れてたり侵略者だったりといった役を演じていたりするから観る前から逆算的に「あ~確かに」と思うところはあったんですけど、想像以上でござんした。ワダエミ新選組衣装もバリクソかっこいいし、音楽のどことなくノイジーでありながらも主張しすぎずに雰囲気に徹底する坂本龍一の手腕もさすが。殺陣も(たけしのとこはややカット割りが相対的に多かったけれど)長回しなのにダレることなく緊張感を保ちつつ、剣を振る隊士たちの動きにシンクロして捉え続ける。いや、これ本当に単純に観ていて楽しいです。トミーズ雅も笑えるし、まあとにかく惹きつけられる映画であると言ってよろしいでしょう。

ただ、いわゆるやおい的な映画ではありつつも最近のエモーション・感情移入を優先するような映画とは違って恋愛に寄り添ったりはせず、極めて怜悧な視線=土方の観照的態度によってのみ描かれます。というとまあ言い過ぎかもしれませんが、心の声によって松田龍平を取り巻く衆道関係を観察していくわけで。

とはいえ土方も近藤も得体の知れない雰囲気を纏っており、はっきり言って誰一人として気を許して感情移入できるような人間はいない。映画全体の空気がそうさせているというのもあるのでしょうが。

つまり、この緊張感とは組織という人情的視線を立ち入らせない(しかしそれによって変容する)システムの無機質さ、それが衆道によって瓦解していくゴシップ的な面白さ。これ、よく考えると「アウトレイジ」っぽいなーと今見ると思う。「仁義なき~」ほどに感情的でもないという点でも。

 

機動警察パトレイバー the Movie

初見、なのだけれど巷間の評価に違わない面白い映画だった。戦闘シーンや街並みのカットやレイアウトはそのまま攻殻に繋がっていて、あの奇妙な東京の街並みにといい異化されたバーチャル世界が素晴らしい。

にしても帆場の存在である。彼が冒頭に自殺したことにより全ての歯車が動き出すわけだけれど、ある種の劇場型犯罪でありながらその犯罪により混乱をきたす世界を睥睨することすらしない徹底したエゴイスト。己の才気を確信し世界がそうあるように仕向けることそれ自体を目的とする社会の外にある悪役。

なればこそ社会を俯瞰し、かような計略を企だてることができるのだろう。

なるほど稀有な悪役、と言われるだけはある。

唐突な連続ヒッチコックパロは正直吹いたけど、ぶらどらぶみたいな露骨なことってこの頃からしてたんですな。

 

「3時10分、決断の時」

さすがジェームズマン・ゴールドといったところでしょうか。この映画、そのまま「フォードVSフェラーリ」(include「グラン・プリ」)に直結する話でしたな。そういう意味では「ボルグ/マッケンロー」も横に並べて良さそうです。

つまり、ある景色を共有した男もとい漢の美学の話であると。

個人的に、この映画のメインの漢は三人いると思う。ベンとダンは言うまでもなく、もう一人はチャーリー。まあ、先生を含めれば四人か。…………いや、やっぱりチャーリーは違うかなぁ。ちょっと微妙かもしれない。

 

ともかく、ベンは悪党である。それは彼が自称する通りなわけで略奪も人殺しも実行することにためらいがない。しかしそこには美学がある。その美学は、極めて抽象的に言えばそれは美しさだろう。いや、これはさすがに抽象的すぎるというか説明になっていないのですが。

しかし例えば酒場の女性とのやりとりからもわかるように、美への理解がある。そして、彼の眼差しは外見だけではなくその内面にこそ注がれている。彼にとっての写生とは、つまりその内面の美しさを描きだそうとする行為にほかならない。

ゆえに、ベンは終盤においてダンを写生し、そして彼のその実直で誠実な魂の美しさに敬意を示し自ずから列車の檻に入っていくのである。

思えば、ダンにお金を渡そうとするシーンなどからも、彼は悪党でこそあれ根性のひん曲がった性悪ではなかった。その意味でダンの息子ウィリアムの言葉は間違ってはいない。

ベンは美しいものを愛でる。それを奪う者こそが敵である。ゆえに彼は自分を助けに来た手下たちを撃ち殺す。

ダンについては言うまでもないだろう。損得を越えた己の魂への誓い(それは他者との約束でもあり、己の信じる正義の貫徹でもある)。無論、家族のことを思えばダンの言う通りにするべきだった。けれども彼はそうしない。そういった打算や、己にとっての悪=ベンからの甘言を受け入れることは己への背信にほかならない。そんな男であったならば、ベンは彼を写し取ろうなどとはしなかっただろう。

汚い金を受け取り、生き延びたダンの姿を見て、息子は、妻は、家族はどうなるだろうか。それよりも、己の芯を貫き通して死した父の姿を目の当たりにした息子が帰還してこそ、家族は建て直されるのではないか。

 

最後にチャーリーですが、彼の最期はそこに至るまでの献身ぶりを考えると同情したくなる。忠誠心のようなものはあり、単なる憧憬を越えたものを持っていた(だからベンが自分を撃ち殺そうとしたことを理解した)のだが、しかし二人に比べるとその純度は著しく低い。それは、チャーリーの美学は己ではなくベンに依拠したものであったからだ。ありていに言ってしまえば自分がないのだ。

そう考えると、やっぱりチャーリーは違うかもしれない。むしろ、二人の美学の純化のために相対させられた当て馬に近いかもしれない。悲しいかな。

 

 

ソードアートオンライン オーディナルスケール

原作もテレビアニメシリーズも観てないのだけれど、なんかすごいなこれ。いや、一応ミーム的には♰キリト♰とか、なんとなく知ってはいましたけれど、これを直視できるいわゆるアニオタ的な人ってどんな精神してるんだ。

 

なんというかこう、セカイ系的なにおいを充満させたオタクの願望の開陳したものというか。これ10年代後半の作品てマジなのですか。いや、ゼロ年代ならまだ有効だったのかもしれませんが、これを今観て楽しめるオタクって相当なもんじゃないだろうか。まあ「HELLO WORLD」の監督なのである意味では納得するのですが…。

確かに「HELLO~」は演出レベルではブラッシュアップされているのはわかる世界の位相の違いとしてのCGの使い分けは、確かにこの「オーディナル~」ではVRとARの違いがかなり分かりづらく、たとえばEijiは一種のチートというか管理者権限的な支援を受けているとはいえ、明らかに現実世界の物理法則を下敷きにしたAR世界の動きを無視しているし。まあ最後のVRラスボス戦は派手派手にしてはいたので何となくはVRとARの違いは分からなくはなかったけれど。

あと全くシリーズを知らないからあのサイズが可変式の黒髪の妖精が謎なんですが。主人公とヒロインのことをパパとかママとか呼んでいるの、すげーキモイ(直球)んだけど。まあおそらく二人のパーソナルデータか何かを参照したプログラムか何かだとは思うのだけれど、そういう疑似的な子どもの存在を見立て疑似家族もとい家族ごっこ(だって子どもって言っても明らかにマスコットキャラ的立ち位置だし)を形成し、ひたすらゲームの世界に拘泥する。

バイク、というのも少し引っかかる点ではある。あるいは大学というワード。それらが示すものは日本アニメにおける「高校生」という概念の持つ永遠性というか終わりなきモラトリアムから、その先を意識しているのだろうか。

否。だと思う。そんなものは、結局のところオタクの背伸びに過ぎない。大学の講義で主人公がする質問の拙さ(周りの受講者が「おぉ~」というのを見て本質的になろう系であるのがわかる)、ギルドという疑似社会の、しかし結局は子宮的な微温しか持たない似非社会っぷりも含め本質的に社会は存在しない。

大人(=社会化された存在としての人間)の不在を描くのにゲーム世界、それも身体性(老いの反映と言ってもいいかもしれない)が如実に反映されるARが持ち出されたというのもうなずける。

あとですね、アニオタ的な恋愛()の終着点がセックスというのは(あーあの妖精ってもしかして前作か何かで二人はセックスしていて、その結果としてのメタファー的なあれなのか?)いい加減にして欲しいというかね。セックスがアニオタに神聖化されてるのって、それこそ宮台的に言う性の後退なのではなかろうか。

 

要するに肥大した自意識がひたすら閉塞しているばかりで世界が狭い。それは客観的視点の欠如(というか意図的に廃しているのだろう)からも見られる。ARというのならば、その下敷きは現実世界にあるわけで、ゲームに参加していない一般人からプレイヤーを見た場合、ひたすら虚空に向かって叫んだり蹴ったり殴ったりしている阿保らしい風景が現出するはずなのである。

実際、翌年に公開されたスピルバーグの「レディ・プレイヤー1」は、そういったシーンを都度都度見せていた。そこに客観性が存在し、バカバカしさへの視線が持ち込まれている。いやまあ、あれもあれで「結局かわいい女の子じゃねーかよ!」というツッコミは有効なのですが。

 

というか基本的なお話もなんか古臭いんですよね。死んだ娘をプレイヤーの記憶から再現って…それ普通にSAOサバイバーに事情を話せば協力してくれたんじゃないですかね。

あと22年の高校生がケータイって言うのかね。知り合いの高校生がケータイって言ってるとこ聞いたことないんだすが。

あーでも恵比寿ガーデンプレイスは以前はよく通っていたところなのであそこのシーンは好きでした。