dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

無垢者たち

各所で「童夢じゃねーか」「童夢だこれ」というのを聞いて公開終了前に観てきた。

いうほど童夢かな?と思いつつ明らかに狙ったカットがあって「童夢だコレー!」となったりしたのは事実だ。

みなさんはもうお忘れかもしれないが今から10年前(!?)に当時新進気鋭(と言われたかは知らんが)のジョシュ・トランクが監督した「クロニクル」という映画があった。彼のその後のキャリアは惨憺たる…というとさすがにアレだが、ともかくあれも「AKIRA」だと言われていたのを思い出す。

しかしあそこまで派手でもなければ、思春期の自意識を巡る葛藤のようなものが描かれることもない。超能力を扱う人物がティーン未満(わざわざ9~11歳と設定していることからもかなり意図的)の少年少女であるゆえ、もっと幼稚で単純な感情を動機としている。これがメリケンと北欧の違いなのだろう。マコーレ・カルキンの「危険な遊び」みたいな即物的な方面のサイコスリラーに行きがちだし。

どことなく「ハート・ストーン」を思い出したりはしたんだけど、あれはアイスランドでしたか。あっちはあっちで別に超能力とかないしティーンの自覚を持ち始めた少年の話だから違うんだけど、やっぱ土地柄的なものもあるんだろうなぁ。

閑話休題

劇中で超能力を使う子どもたちは皆、何かしらの傷――という言い方は確実に不適切に思えるというかそれだとアンナが疎外されるのでここでは「聖痕」と書くけれど――を持っている。それによって適切なコミュニケーションを取ることができず、そうであるがゆえに超能力というコミュニケーション手段を得たのだと思う。

けれど、そうだとするとアンナが生き残ったのは、彼女の超能力がアイシャやベンのように「傷」を根拠にしていないからなのではないかと逆説的に思えてくる。アイシャとベンの超能力の発露の仕方というのは、共感とケア・支配と強制という方向性の違いは明確にあるけれど、どちらも孤独と疎外感の埋め合わせとしてあるように見える。そうでなければああいう家庭環境の描き方にはならない。

翻って、アンナはそういうものに依らない。きっかけがアイシャであれ、彼女の佇まいは生来のものであるはずで、超能力によって(防衛目的や純粋な遊び以外で)他者をどうこうしようとはしない。ある種の「開かれた」状態にある。

四人の中でもっとも俗っぽく超能力を持たない一般人代表イーダが最も観客に近しい存在で、無垢であるがゆえに善悪に偏らないのではなくどちらにも傾斜しうる存在としてのアイシャとベンの代わりにそのどちらの偏りを行ったり来たりする。

そんな彼女が最後に覚醒し、姉のアンナと手をつなぎ共闘する場面は、スペクタクルもなければそんな熱いバトルマンガじみたものでもないのにやはりアガるものがある。

あと「真打登場だぜ」みたいな、マンガだったら「ドン★」みたいな効果音ついてそうな登場シーンとかあって、ギャップに思わず吹き出しつつもこういうのをてらいなくやってくれるのはグッとくるので好印象。

 

ロケに関してはノルウェーの住宅事情がどういうものなのかわからないので、「童夢」がそうであったように日本における団地という空間が持つ特殊性(ホラーやスリラーで選ばれやすい理由)と直結させるのは難しいが、少なくともこの映画においては団地の各部屋の同一規格性というものが「超能力を使った」描写をより分かりやすくしているというのはある。

別々の空間にいながら間取りが同じであることで、片方の部屋の台所で起きた出来事をもう片方の部屋の超能力者が同じく(何もない)台所を確かめるなど、空間の超越を分かりやすく描いている。

色調含め撮影も巧みで、ベンが幻覚を見せているパート以外はそこまで極端にすることもなく、ノルウェーは日が落ちるのが22時ということもあって常に一定の明るさを持っていて、その明るさのスペクトラムが良い。

派手さはないものの子どもに寄り添ったカメラと団地+森の中で捉える際の引いたカメラ、超能力殺人によるサスペンスや音(音楽だけでなく。ベンの嘱託殺人パートなど)の使い方も上手く、飽きさせることはない。

ただスラッシャー映画などと違って怪我や痛みの描写が生々しくて結構エグいのでその辺は耐性がないとちょっと気分が悪くなるかも。猫好きの人はかなり気分悪くなるだろうし。

 

あとこれは難癖なのだが、キャスティングについては思うところがある。この映画についてというよりも社会全体の認識と現実問題としてのギャップについてなのだけれど、要するにある設定(というか属性)を持ったキャラクターを登場させるにあたって、その設定を実際に持つ当事者に演じさせるべきだという問題。

それ自体についてはまあわかるのだけれど、ジェンダーや身体障碍については考慮される割に、精神障害についてはそもそもあまり俎上に上がらない気がする。だから、それを議論するにあたって、法律用語で「心神喪失」なんてものがあるように、そもそもメンタル系の人は役を演じられるのかという、それこそ今回のように自閉症という状態の当事者に演じさせることは可能かという別のフレームの問題にぶちあたるわけだが、しかし前述の属性を付与された人に比べるとここはそもそも顕在化すらしていないような気がする、というのを監督のインタビューを読んでいてふと思ったのだった。

トランスフォーマー ビースト覚醒

観た。字幕で。

TFに対する偏愛がある自分にとって日本のプロモーションの醜怪ぷりにげんなりしているため、最推し声優の玄田哲章のためとはいえ吹き替えを観に行くかどうかは悩みどころではある。というか本国から二ヵ月近くズレて公開って。遅すぎ。その代わり(?)が芸能人吹き替え&ジャニーズ主題歌ですか? あまつさえ「声優無法地帯」だのと、またぞろファンダムのくだらない内輪ネタを公式が拾って宣伝に使うという始末。もうね、公開前からこっちのモチベーション下げるのやめて欲しいですわ。

という、こじらせた厄介トランスフォーマーオタクの意見がどれだけ参考になるのか甚だ不明だが、はっきり言えば「まあこんなもんだろうな」という印象。

トランスフォーマーファンとしての自分が映画好きとしての自分を凌駕してくることはなかった。「No Sacrifice, No Victory」「Arrival to Earth」が流れた時は込み上げるものがあったことは白状しておきますが。

つまらないか面白いかでいえば面白い…というか楽しかったし、少なくとも寝落ちすることはなかった。

とはいえ、イースターエッグやら小ネタを拾う以外にこの映画の中身とは一体なんなのか。まあ、それが既存の巨大なフランチャイズであることを除けば毎年公開されるハリウッドのビッグバジェット映画の一つでしかないと言ってしまえばそれまでなのかもしれない。

マイケル・ベイの方に関しては、少なくとも一作目に関しては当時のCG技術の革新をした映画であったことは事実であろうし、それを以て語ることはできただろうし、ある種の作家性やライド感みたいなものを取り上げることはできるだろう。

しかしスティーブン・ケイプル・ジュニア(以下SCJ)に関しては「The Land」は観てないし「クリード2」に関してもまあまあ楽しかったけどそこまでハマったわけでもなく、その作家性から語ることは困難で、実際にSCJの作家性よりも「トランスフォーマー」というフランチャイズの巨大さに飲み込まれているような印象は受ける。

それと、これは監督の作家性というか彼がラテン系・アフリカ系アメリカンであるがゆえの無意識のものなのかもしれないが、本作において明確に描写こそされないものの「これ絶対に死んでる(もしくは瀕死)だろ」という被害を被っているのは、揃いも揃って白人男性なのだ。たとえば、この映画には警備員が二人出てくる。片方は黒人男性でもう片方は白人男性。別々のパートで登場する警備員であるため直接的な関係性は両者に存在しないのだが、黒人男性の方は主人公ノアを車泥棒と思い込み(実際にそうなのだが)銃を向けるのだが、ここで彼が被害を受ける描写はない。

一方で、エレーナ(ドミニク・フィッシュバック)の務める博物館の警備員は白人男性で、彼女を助けるために駆け付けたにもかかわらずテラーコンの攻撃による爆発に巻き込まれてします。既述のように直接の描写はないが、どう考えても死んでいなければおかしい描写である。また、窃盗犯としてノアを追うパトカーの運転手も白人男性なのだが、大型トラックに突撃されたり分離帯に正面から激突したり、明らかに致死的な描写がある上に、博物館の件とは違ってこちらは味方側であるミラージュによる作為的なものである。

そういう職業に就くのは大概白人男性だ、という言い方もできるのかもしれないが、それだけで片付けるにはやや偏りがあるように見える。

主役二人を演じるアンソニー・ラモスとドミニク・フィッシュバックも監督と同じ人種であることを考えると、監督には少なからず「人種」に対する意識はあるはずだ。まあ日本では放送していない現行のアニメシリーズの方では黒人の少年と少女が主役であることを考えると、そちらと合わせる(アニメシリーズと映画の方で名前を合わせたりすることなどはこれまでもあったので)ためというだけで、どこまでSCJに采配があったのかはわかららないけれど。

別にそれがこの映画の瑕疵であるとかモヤモヤするとか言いたいわけではない。ただそういう視点を与えるような描写があるということは指摘できるのではないだろうか。問題があるとすれば、そこから私が監督の作家性といったものにつなげるだけの発想がないということだけで。

ストレートな熱さ、愚直さみたいなものはあるし、それはアニメシリーズ「マイクロン伝説(Armada)」のオプティマスプライムが「勝った方が正義なのではなく、正義こそが勝つのだと!」というあまりにも青臭く、そうであるがゆえに心を打つあのストレートさに通じるものはあったとは思う。

ただ、これは技術的にかなり難しいがゆえでもあるのだろうが、ビースト勢がメカアニマルではなく完全に獣であればまた違った映像的革新があったのかもしれないということと、それによって人間(有機生命体)ともトランスフォーマー(無機生命体)とも違うハイブリッドな存在としてのうま味をより強調でき、かつ環境論的な(ラブロック的な)観点からも色々と語り得たのではないかとは思う。

まあどっちみち彼らの生体が具体的にどういうものなのかというのが分からない以上はそれも難しいんですけど。

 

観なおしたらまた評価変わるかもしらんがとりあえずこんなとこで。

 

 

 

2023/7

青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」

なんというかこう、ゼロ年代後半~10年代前期の空気感とキャラデザ(と劇場版とは思えない低コストな作画)で、それだけでノスタルジーが刺激されてしまうのですが。

よく考えたらこういうラブコメ(コメ?)って20年代に入ってからどれだけあるのだろうか、という感慨もあって、ラブコメ自体がそもそも減っているのではなかろうかとか思ったり。若者の恋愛からの後退というのはよく言われるし、それ自体が人間性にかかわる問題として取り上げられることもあるが、それはさておくとして、ここまである種の決断主義的なことを主人公が迫られるというのは最近の日本アニメでは観てない気がする。少なくともテレビシリーズでは。

量子力学については「それってそういうことか?」と思わなくもないが、やってることはいわゆるタイムリープものやBTTFとかのあれに近く、終盤からラストにいたる展開についてもまんま同じのをどこかで観た気がするのだが思い出せない。

この映画の描いていることというのは、要するに「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」「ザ・フラッシュ」のような「自己決定」による「運命の受容」に連なると思うのだが、しかし本作では量子力学を取り入れているにも関わらず周到にマルチバース的な並行世界の概念を隠蔽している。それこそがBTTFにおける「「いま、ここ」の否定」問題となるわけだが、あくまで「青春ブタ~」においては徹底して「いま、ここ」として描き続ける。いや、多分これだけではなくそれこそが日本アニメ的な特徴なのではないか。

それは、この映画(および原作)のタイトルの「青春」というキーワードがもたらす思春期の若者の自意識への固執によるものなのではないかと思ったり。細田守の「時をかける少女」にギャルゲー的想像力を注入したのが本作とするならば、私が感じたジュブナイル風味も頷ける。

まあ、ある種の決断主義の完徹にもかかわらず、ちゃぶ台返し的なラストはどうかとも思うが、ハッピーエンドとしては満点な気もする。そのせいでどっちを取るのかという問題が再発生しているのだが、それも隠蔽されているあたりは周到である。

で思い出したけど「メモリーズ・オブ・ノーバディ」だこれ。

 

プリンセス・プリンシパル(第1章・第2章)」

架空年代記のイギリス舞台のチャーリーズエンジェル…にしては割としっかりエスピオナージュぽくしてて、なおかつスチームパンク風味という。

ただテレビシリーズがあったことをまったくこれっぽっちも知らず、侍従長のあたりとかキャラクターの設定とか全然わからなくて話についていけんかったです。

 

「リッブヴァンウィンクルの花嫁」

疑似家族というか似非家族というか、何なんだこの感じは。前半はなんかもう見るに堪えないというか、岩井俊二ってこんなSっけあるんか?というくらいメンタルダメージが。観てるこっちが辛いというか、共感性羞恥というか、黒木華のたどたどしさや幸薄さに対するいら立ちに似た何か(それは自分を顧みてのことでもあるのだが)などなど、ともかく感情が揺さぶられまくる。まあ学校でのこと以外は綾野剛がかなり関与しているっぽいが…ていうか綾野剛の胡乱でうさん臭い感じ半端じゃない。そのくせ最後まで関与し続けるわラストに至ってはなんかさわやかな(服装の色味が前半と後半で違うのは割と意図してるのだろうが)感じなのもかえって得体の知れなさが増すという。真白の母親の前で泣いていたのもあれは演技なのかガチなのか。ともかくこいつの存在感が半端ない。このうさん臭い綾野剛を見れただけでも割と満足感高い。

しかし「シャニダールの花」での二人を先に観ているとこれはなんか変なものを見せられている感覚が。

あと、明らかに観客に対して窃視の共有のようなものを意識させるような造りになっている。まんまAVの構図やんけ、というホテルでのくだりは、本当に綾野剛がカメラを仕掛けていたわけだし、中盤で真白が「天井で誰か見てたりして」という発言があってからの、二人のウェディングドレスベッドインをまるで天井からのぞき込むかのように真上からの俯瞰ショットで長回しでズームしたりアウトしたりというように。

そうでなくとも、このカメラワークはどことなくドキュメンタリータッチでもあり、それがより「見ている」感覚を増幅させている。

Cocco黒木華レズビアン(ではなく、限りなく百合)の関係性の尊さは本当にてえてえのだが、ああいう形でしか描けないというのが弱さでもあるという気がする。

いやでも面白かった。

 

「プックラポッタと森の時間」

やはり八代監督は良い。無論、彼が初めてというわけではないのだろうが、ストップモーションの撮影上、屋外での撮影の場合だと現実の時間の流れ(雲、影、日差し)が被写体となる人形の時間と異なる。なのだが、それこそが被写体である人形が、我々とは異なる身体を持ち、現実と異なる時間を「生きる」ANIMATEDされた存在であるということをそれだけで見せてくれる。それをモノローグで語ってしまうのだけれど、その語り自体はあくまで「語り」であり説明的ではないのでアリアリだし、子供向けであることを考えればこれくらいがちょうどいい塩梅。

本来はそれは悪手なのかもしれないが、精霊(とは言われてないけれど)的なsomethingを描くのにはその方がむしろリアリティがあるとすらいえる。

途中でセイヨウタンポポをプックラポッタが斬首するシーンがあるのだが、そこで糸(というか針金)が消しきれてなかったのが惜しかった。

 

30年後の同窓会

さすがリチャード・リンクレイターといったところ。少し鈍重な感も否めなくはないが、そこはフィッシュバーンとカレルとクランストンのおかげで問題なく観ていられる。ていうか、サルがブライアン・クランストンだとは全然気づかなかった…この人こんな野蛮さが表に出る感じのイメージがなく、もっと内向的というか自己省察的な感じの役柄のイメージがあったので…なんならブラッドリー・クーパーにすら見えていたくらいなので。フィッシュバーンについては暴言を吐きだしてからはもう「よ、悪罵屋!」といった風でもう定食屋の定番メニューみたいな安心感が。

まあ、とにもかくにもこの三人のアンサンブルの勝利。「さらば冬のカモメ」の原作の続編を原作にした(ややこしい)映画ではあるのですが、映画の方の「さらば~」とは繋がりがない。とはいえ、やはりオマージュしたようなカットは散見できる。あれもあれでかなりの傑作でござんした。

個人的にグッと来たのはベトナム戦争イラク戦争を一作の中で繋いだことだ。どちらの戦争も米国の欺瞞によるところが大きいことについての一兵卒(軍曹だけど)たちのポリフォニー、ナラティブを通して、しかし最後はそれでもなお亡き息子の意志を(結果的に)尊重する父の、マチズモの肯定と否定、戦うことそれ自体の意義(イーストウッドイズムである「国のためではなく仲間のために戦う」ということ)への言及。

ベトナム戦争時の売春宿の話などは、もちろんリンクレイター自身も倫理的に許されざるものであることは理解しているだろうが、それでもあの四人の楽しく話す様をどうして否定することができるだろうか。それはオリバー・ストーンが戦場や疑似的な戦場(スポーツ)において描いてきたものの延長線上にある。

だから、同じ過ちをおかしながら、その生き証人としての老兵とその息子の死によって紡がれるベトナム戦争イラク戦争の「いたみ」を、その多面性を臆面もなく、メタな分析的な視点ではなくその当事者たちの声として(もちろんフィクションとしての劇映画ではあるけれど)描いたことは一つの達成なのではないかと思う。

 

メメント

今更。なるほど、これは確かに巧みな脚本で前情報なしで観ていたこともあってかなり混乱をきたしました。しかしWikipediaが妙に力入ってるんだけどなんだこれ。図説まであるし。ノーランは映画と時間、というよりも映画の時間(をどう切り取るか)を常に問い続けてきた映画作家だと思うのですが、もちろんそれは映画を扱う上で多かれ少なかれ誰もが行うことだとは思うのですが、遡って観ている感じになるのでキャリア初期からこういうことをやっていたのだな、と。

それが裏目に出てしまったのが「ダークナイト ライジング」だったんだな、と。

 

落下の王国

ターセム・シンだったのね、これ。

ロングロングアゴーからわかるように、「映画」を、おとぎ話の中のおとぎ話とい体裁で語る映画のように見えた。

ある意味で映画史の映画であり、しかもそれをおとぎ話の産物として、アクション、映像としての映画として称揚するという。

衣装も含めプロダクションデザインの勝利としかいいようがない。

 

テリー・ギリアムのドン・キ・ホーテ」

夢の継承、というより物語の肯定。制作の困難さを考えると、この映画自体がこの映画の制作過程そのものなのだろうと思わざるを得ない。

それでもなおギリアムは現実を超克する物語の強さを信じ続ける。というのがとても熱い。今はその「物語」がとても弱い立場に(というか、ヤバい方向に強烈に)作用してしまっているのだけれど。そういう良し悪しや善悪という部分に回収されない物語の強度をギリアムは信じ続ける。

(このクソみたいな世界で)君たちはどう生きるか

観てきた。「君たちはどう生きるか」。ジブリ弱者にもかかわらず。

思えば、劇場でジブリ映画を観た記憶がないことに思い至り、おそらくは宮崎駿の劇場公開の長編アニメとしてはこれが最後になるであろう作品でジブリを劇場(ほぼ)初体験という。

だというのにジブリ映画は大体の作品について観た記憶があるというのは、それだけジブリというブランドが人口に膾炙しているということの証左であり、それがほんの30年前までアニメに対する偏見がある中でもジブリやディズニーは別という治外法権の扱いを受けるだけの力があったということなのでせう。

つまり、アニメーションの力というだけでなく「教育的によろしい」という、ある種の政治的な在り方の下(そこには彼の才能だけではなく時流や徳間の戦略も多分にあるはず)でそのように受け取られたという見方もできるのだろうが、その実、宮崎駿の世界観というのはもっとグロテスクに現実を捉えるものとしてあるはずで、それはもちろんアニメーションのダイナミズムとも密接に繋がっていることは確かなのだろうが、今回の「君たちはどう生きるか」を観て改めて思ったが、宮崎駿のアニメには毎度毎度かなりおどろおどろしい描写がある。

また、宮崎駿という男が半ばネタ的にロリコンと揶揄されることもあるのだが、火のない所に煙は立たぬわけで、山本直樹などを例に挙げるまでもなく、深夜アニメ的な少女趣味の根っこ部分には間違いなく宮崎駿の撒いた種があるわけで、その辺を乖離して受容する世間の在り方というものにはまあ色々と言いたいこともないわけではないのだが。

でもジブリ弱者の自分はまともにジブリ映画観た記憶ないというか、襟を正して通して観た記憶というのはないので、その手の客層と一緒ではあるという自覚はしています。なので以下に書く文言はほとんど戯言だと思ってもらいたい。

 

にしてもである。これどういう映画だ?

歴代の宮崎アニメで一番近いのは「ハウルの動く城」かとも思うが、トンネル(道)を通り抜けると異界というモチーフは(別に彼の専売特許でもないクリシェではあるが)「千と千尋~」ぽくもあるといえばそうだろうか。もちろんそれは表層的な表現の部分であるのだけれど(あと妙にババアが生き生きとしているというのも通じている気がする)、しかし私がこの二作の名前を挙げたのは無論それだけではない。

というのは、その二作というのはそれまでの宮崎駿のアニメとは違う異質なものだったからだ。どう異質なのか、と言われると困るのだが、それは伊藤の「ハウル~」についての評を読むと納得できると思うので賢明な諸兄にはぜひそうしてもらいたい。

そこへ来ると「風立ちぬ」というのもよくわからない映画なのだが(押井守に言わせれば「どう見ても大人のための映画」)、しかし「千と千尋~」「ハウル~」「ポニョ~」と並べた後で、あくまで戦時下の日本という歴史的現実を描き、その中で死の世界を全面展開させたあとの「君たちはどう生きるか」という並びで観ると、いよいよ限界突破したなという感じがする。はっきりいって、物語的な整合性というか説明など一切排している。

上昇・落下によって連なる空・地上・地下というのは初期から通底する宮崎駿のモチーフだが、それと同時に別の位相で夢(の世界、あるいは虚構もしくは異界)と現実というモチーフがあり、特に「もののけ~」までは現実ベースではありながらハイファンタジー的世界観であり現実と夢(魔法とか怪異)が同居していた。

それが「千と千尋~」以降になると、それらは扉や通路といった明確な境目によって分断されるようになった。「ポニョ」は細かい部分をほとんど覚えていないのでアレだが、「風立ちぬ」では夢をそのまま堀越二郎の夢として描き、本作でも塔を通じて異界に行くというプロセスは同じ。なのだが、婆さんたちが語るように、塔は(おそらく)地球外からの落下物であり、かつアオサギが塔の外において言葉を発するように、実のところ夢の世界と現実の世界が地続きのものとしてある。それはとりもなおさず、生と死の世界が地続きのものとしてあるということだ。

宮崎駿作品における死の世界と夢の世界は等値線で結ばれた、ある種のユートピアだ。そのユートピアを下支えするのが、ルロワ=グーランの理論において「~洞窟それ自体がすでに女性であることから説明され、そうであるとすれば、その胎の中に動物と人間をかかえる洞穴とは、動物と人間を生み出し、その死をも生によって克服するところの自然、「大いなる母」のシンボル」として機能する女性の身体、母胎であり母性なのである。というのはすでに指摘されるとおりだ。

そうはいっても完全な理想郷ということではなく、むしろグロテスクな存在としての生命が戯画的に躍動する生の世界でもある。逆に、日常としての現実は眞人の父親や千尋の両親に代表されるような「つまらない」世界としてあり、ここに夢=死の世界こそが生き生きしているという逆転が生じる。それを成立させているのが生命の象徴としての母性なのである、というのは既述のとおりだが、もちろんそのもっと根本部分には宮崎駿が天才的なアニメーターであり世界観を創造することができる才能を持っているから、ということも忘れてはならない。

宮崎駿が女性を描けないというのは散々指摘されているとおりだし、それは性的なモノとしてまなざされるアニメ界隈の少女表象に通じるものであることも確かであるから、フェミニズム的に批判されてしかるべきではあろう。ぶっちゃけ、「バブみ」のルーツって宮崎駿にもあるだろうし。海外では「強い女性」像として逆に称揚されるというねじれが生じていたりもするのだが、それはある意味で宮崎駿の作品がそうであるということの補強として見ることもできるのかもしれない。

面白いのは、高畑勲が死の世界を取り付く島もない徹底して無慈悲な世界として描いたのとは逆、というところだ。高畑の怜悧でありながら倫理的であるところは、だからこそ「かぐや姫~」でフェミニズム的再解釈として受け入れられたのとは宮崎駿はむしろ真逆だったのではないかとすら思える。その正反対ぶりというのは、宮崎駿が監督である前にアニメーターという「無いものに命を吹き込む」性分だからではなかろうか。そして、その才能があるからこそ夢=死の世界をアニメーションできるのだ。そこにこそ高畑はアニメーションの勝機を見出し乗っかったのだろうし。

そういった矛盾を成立させてしまうアンチノミーの作家、宮崎駿は、それだけでなく思想としても自己矛盾を抱えている。ロリコンでありマザコンであるところ、反戦思想なのにミリオタなところ、子供向けといいながら大人を喜ばせる作品を作ってばかり(押井守談)というところなどなど、言われれば得心するものばかりだと思うが、最後の部分に関しては高畑の思想が大いに影響している気もする。

 

話を戻すと、これまで宮崎駿はそのユートピア=夢=異界=死の世界との調和を描いていた、と言える。まあそれは、落としどころを見つけるというようなものであったかもしれないが。

ポニョにしても、重要な要素としての「水(海とか波とか)」という点で繋がりがある。宮崎駿の描く水は物質的で透明感といったものよりも「重さ」を感じさせる絵になっている。そこには「美しさ」といったものはなく(というと語弊があるが)、せいぜいそれにもっとも近しいものとしては「畏怖」くらいなものだろう。しかしその畏怖というのは、「死」が誘発するものにほかならない。元々、イシスのように大地と生命を象徴するものは同時に死を象徴するものでもあると考えれば、それは必然なのだが、「もののけ」におけるだいだらぼっちの水の質感が放つ死の臭いからもそれはわかる。「風立ちぬ」において「空」がそのまま死の世界であることと同じように、なればこそ観客はそこに感情を揺さぶられるものを見出す。

反対に「火」は「生」的に描かれ、本作ではそこに宮崎駿のマザコンかつロリコン趣味を一人で満たすことのできる少女化した母親という一粒で(駿的には)二度おいしい属性すら付与されたキャラクターがお出しされる。それによって、これまでの宮崎作品において「強い女性像」として出てくるものの実は母胎回帰的な欲望によってのみ存在させられていた「機能美」…つまり世間が思うような深夜アニメ的な少女像まんまのキャラクターが登場しさえすることになるのだが。

だけでなく、それに加えて真人の父の後妻になる叔母(!)が登場する。これをどう解釈すべきなのか全然わからない。身重であるという設定も、救出される対象であるという役回りも、従来の女性キャラクターのポジションと一見すると変わりないように見える。

一方で、唯一といっていい物語的要素を担うのもナツコだけだったりする。死んだ母親を忘れられない眞人が、後妻であるナツコを母親として受け入れるという部分。が、普通ならその二人が冒険を通じて関係を構築していくというのが本当だろうが、別にそういうわけではないのだ。そもそも死んだ(とされる)母親が少女の姿で出てくるのも意味不明といえば意味不明だろう。説明もされないし。よく考えたらキリコの存在も謎ではあるんですよね…なんで若返ってるんだよとかどこからきたんだよとか、別人格っぽかったのに帰るときは一緒で帰ってきたらまた婆さんに戻るのかよとか、ともかく整合性という部分を気にしだしたらまともに観てられなくなります。言うまでもなく、そういうことを気にさせずアニメーションに没頭させるだけの力が宮崎駿にはあるので、観ている間は気にならないのですが。

そういう意味で、この映画は「ハウルの動く城」(と「千と千尋~」に似ているとはいえるのだけれど、これまでの宮崎映画とは決定的に違う点が一つだけある。

それは夢の世界の崩壊だ。先に書いたように、これまでは夢=死の世界と現実と折り合いをつける形で両者の均衡を保ってきていた。それが、今回はその夢の世界の維持を明確に自分の意志で拒み崩壊させるに至る。そうして現実に回帰した眞人は、たいくつな「父」(CV木村拓哉なのが笑う)に迎えられ、モノローグによって第二次世界大戦終戦し二年経過したことが告げられる。

最後のカットで父と後妻と幼い子供(おそらく弟?)に合流する眞人を映し、映画は終わる。

これがどういう意味なのか、そもそも意味があったのかどうかすらわからないのだけれど、これが宮崎駿の終活だったのではないかと考えると何となく納得できる部分もあるかもしれない。弟の存在というのも、彼なりの倫理だと解釈できなくもないし。

 

いつも以上にまとまりを欠いた文章だが、この映画自体がそういう感じなので……。

批評が出そろったらもしかしたら追記するかも。しないかも。

 

2023/6

「フィッシュ・ストーリー」

バタフライエフェクトがやりたいのはわかるけど…まあPKに比べればいいか?

 

「柔らかい肌」

何気に冒頭の家でのやりとりがワンカットなのですが。

フラストレーションをためにためてからのラストは最高!

 

「日曜日が待ちどおしい!」

タイトルに比べておどろおどろしいんだよ撮り方が。いやもちろんコミカルに描かれてはいるのだけれど、この唐突な暴力性とその結果の切り取り方が、なんというかこう…黒沢清を想起させるというか。いや時系列的には逆だが。

 

「コーダ あいのうた」

金ローで。想ったより良かった。まあマイルズとのちょっとした衝突パートはあまりにも手順的かつクリシェ的だし、別に仲直りという理由付けがなくても湖ダイブのくだりはできただろうからその辺はちょっとどうかなぁ、と思う。どうかなというかいらないのでは、というか。

色々な側面から切り取ることができるとは思うのですが、ヤングケアラーの問題として観た場合、身体的な介助がないという点ではまだ身体的負担は少ないのだろうと思うのだが、あれだけ顕在化していたり漁業仲間とも良好な関係を作れているようにも見えるので公的扶助や共助(菅の顔を思い出して吐き気が)はできないのだろうかと思ったりするのだが、日本とは制度も違うだろうし難しいのだろうか。要するに、その辺の詰めの甘さというか、ルビーとの葛藤という作劇場の都合もあるのだろう。

なので、そっち方面をあまり考えすぎるとドツボにはまるのが見えているので、もっと面白そうなことに関して考える。

それは、手話という言語も発話という言語も本質的にはフィジカルな運動なのではないかという視点。当然と言えば当然なのだが、腹式呼吸のくだりや感情を表現するためのジェスチャーなどに特に感じだ。

それゆえにラスト、クライマックスの歌唱シーンの、二つの言語を使い、言葉を届けることの感動はあった。あれこそが、先生が見出した彼女のオリジンに寄って立つ彼女だけの歌い方なのだと。「こうすればろう者にも歌を伝えられるのだ」という(もちろん、本質的な問題は「ナイト・クルージング」や「俺が公園で~」所収の尼さんの話が描き出す絶対的断絶は浮かび上がらないが)感動を与えてくれる。

これがデフォになればいいではないか、というのはさすがに酷か。

 

「プライベート・ウォー」

冒頭と最後のまさに哀鴻遍野な風景で閉じるのは中々。細かい戦場ネタとしてのジムの会員証で通れる、ストレスで母乳が出なくなるなど、前者はともかく後者については戦場だけでなく被災地などでも見られることだろう。

それにしてもここまで酒とたばこが単なる依存対象としてしか描かれないのは珍しいような。

かなり手堅く真摯に作られている映画である。

バリーの物語

いやーMCUが失速ぎみとかなんとか色々言われてるけれど、だからといったアメコミ原作映画が不振というわけではまったくないのだな、というのを「アクロス・ザ・スパイダーバース」に続いて「ザ・フラッシュ」を観て思った。

それにしてもこの二つの映画、日本では同日公開でありアメコミ二大巨頭の双璧であり、アニメーションと実写であり、同じようなテーマをかかげながらアプローチが好対照であるというのはなんかもうそれだけでお腹いっぱいなのですが、それはともかくこの映画単品としてももちろん楽しい。

自分はマーベル以上にDCについてはほとんど知らないのだが(もちろんMCU勃興以降の基礎的な知識としては理解しているけれど、ニコケイの没ネタとか一番最初のスーパーマンとか出されても今の観客は分かるのか?)、とりあえず既存のDCEUは観ておかないと置いてけぼりくらう感じはなくもないのだが、しかしそれはそれとしてしっかり「いまここ」のバリー・アレンの物語として一つに収まっていて良かった。大小さまざまなくすぐり要素はあるのだけれど、それはそれとして普通に楽しかった。ヒーロー側に死者は出るし親しい者の死の受容という重苦しテーマではあるものの、シリアスに固め過ぎずに最後のオチとしてのアレも(シューマッカ―が存命だったら喜んだだろうか)良い。

みんないい顔しているのだが、やはりエズラ・ミラーは良い役者だなぁ。彼の繊細さと陽気さのおかげで成り立っている映画であり、それは多分アニメーションとしてあのような選択をした「アクロス~」と異なりながらも説得力を持たせることができたのはやはり彼の身体によって立つところがあるからではないだろうか。

アニメーションとは、「描けばそこに(どんなものでも)在る」ことを可能にすることができるメディアであるがゆえに、無限並列に存在する数多のスパイダーマンの中のワンオブゼムとして、それはカットごとに変容するマイルスを筆頭としたキャラクターの無限性・無際限性が「すべて」を救うことへの希望を見出させる。それはある意味で無限のサルの話に近い。

一方で「ザ・フラッシュ」においては(もちろんCGは多用されているが)は役者の身体、その唯一性によって映画が担保されている。そう、だからこそ「過去があるから今の自分がある」という言葉には、その役者の重ねてきた年輪が刻まれており、それが演じるキャラクターに重ね合わされることで説得力を与えるのであり、瞬間瞬間(カットはおろか中割という単位ですら)で断絶を起こしているアニメーションという絵とは異なる強度を持っているのだ。

そう考えると実写映画「ザ・フラッシュ」における運命の受容とアニメーション映画「アクロス・ザ・スパイダーバース」における運命の打倒という、キャラクターなる概念を考えるうえでたどり着いた帰結の違いはそこにあるのだと思う。

どちらも、表現の手法とテーゼに沿った実に卓抜したヒーロー映画でございました。

こんな好対照な映画を同時代どころか同日に観ることができるというのは何気すごいことだと思いますよ。

「アクロス・ザ・スパイダーバース」とはまた異なる傑作として「ザ・フラッシュ」はある。

マイルスの物語

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期待値マックスで観てきた冒頭10分で期待値を余裕で超えてきた。
傑作どころか大傑作。いやさ超傑作といっても良いのではなかろうか。

宣伝文句としてFOX-TVのJake Hamiltonの「全アニメ映画史上、最高傑作!」 という文言があって、かつて「アベンジャーズ」公開の時に「日本よ、これが映画だ」並みの傲慢さを感じたり「いくらなんでも誇大すぎるだろ」とも思ったのですが、実際に観てみたらなるほど、そう言いたくなる気持ちは十二分に理解できてしまう。ていうか同調している自分がいる。

いやちょっとこれに関してはもう「観ねば死」というほかにない。なんならソニーからコロンビアのロゴのバグり表現でもう感極まりつつあった。そこからグウェンのパートが始まるわけですが、開幕10割で終幕までもう涙腺ゆるゆるでございましたよ。

嘘っぽく聞こえますが冒頭30分のグウェンパートのアクションや音楽、色彩、それらすべてをひっくるめたアニメーションの素晴らしさだけで感動のあまり落涙しましたよ。自分でもどうかと思うのだが、それくらいガツンともらってしまった。ドラミングの表現のバッキバキのカッコよさから始まりヴァルチャー戦までのその30分はCG表現を取り入れたアニメ史の現時点でのハイブリッドの総決算的な、それでいてディズニーやピクサーのようなフォト・シュール・リアリスティックとはまた異なる表現を「スパイダーバース」からさらに発展させた到達点として、その映像的快楽に鳥肌が止まらなかった。視覚効果監修のマイク・ラスカーが冒頭25分のシーンは映画の中でも最も難しいレンダリングスタイルの一つと言っていたので、それだけの技術力と人力が投入されているわけで、それも当然なのでせう。目から嬉ションである。
驚くべきは、二時間越えのこの映画で最後までそれが持続するということ。この映画だけでは完結せずシリアル的に次回に続くわけなのだが、まったくもって長く感じないどころか、久方ぶりに「え、もう終わり?」となるくらいひたすら楽しい。

認めてしまうと、自分のような凡夫はこの映画を語るのがかなり無理筋で、というのもあまりにも映像的な楽しさ、それもどこか抽象的で原アニメーション的な面白さ・楽しさに満ちていながらコラージュ的異質さも備え(スパイダーパンクがまさにその体現でもある)、それを言葉として伝えようとするのは根本的には不可能だからでせう。
それでも、この映画に対する感動を言葉にして書き起こそうと奮起させるほどこの映画は傑作なのである。

マンガ(というかアメコミ)のコマ割りを意識したスプリットスクリーンの巧みな使い方といいコマ芸も相変わらずで、コミックをアニメーションに置換するということへのたゆまぬ思考っぷりは、そういったスクリーン上に現出する視覚情報だけではなくこの映画の志向する本質の在り方にもつながっているように見える。

故スタン・リーが言っていたように「マスクを被れば、誰もがスパイダーマンになれる」という精神の体現が前作の骨子であった。つまりスパイダーマンになる話だった。本作では、そこに「マイルス・モラレス」というヒーロ―性ではない個人性の持つ他者との関係性による葛藤が描かれる。言うまでもなく、そのような葛藤はこれまでの実写版スパイダーマンなどでも近年でも描かれてきたことだが、本作ではそれが一種のセカイ系的様相を見せる。というより、逆セカイ系だろうか? 

そして、面白いのはその「犠牲」こそがスパイダーマンスパイダーマンたらしめるイニシエーションであり「正史のイベント」=カノンであるということ、それがスパイダーマンの運命であるということ、そのメタ的な自己言及であることだ。「犠牲なくして勝利なし(No sacrifice No victory)」ならぬ「犠牲亡くしてスパイダーマンなし」だ。

これはある意味で、スパイダーマンというキャラクター創造における作り手の贖罪意識とも言い換えられるかもしれない。アメコミのように同じキャラクターを何度も使い倒し、そのたびにオリジンをやりなおす方式は、実写映画のスパイダーマンにおいてすら我々は目にし、「またかよ」という気持ちを抱いたはずだ。それは「スパイダーマンだから」という安易で便利なドラマツルギーとしてのベン叔父さんの犠牲という、スパイダーマンの数だけ立てられ、それを受容した受け手によって共作された安普請の墓標でもある。

想えば、それは一種のループものでもあるのだ。「スパイダーマン」というキャラクターは、大衆から求められる限り(産業的価値がある限り)そのループから抜け出すことはできない。

ゆえにマイルス・モラレス≒スパイダーマンはその運命に反旗を翻す。何のために?父親を救うために。もちろん、物語上はそうだ。しかし、その本質は「スパイダーマンを救うため」だ。スパイダーマンによる「スパイダーマン」の(自力)救済。そうしてみると「Self Love」という楽曲の意味合いも、少し変わって見えてくる。つまるところ、それはキャラクターに対して真摯であろうとすることにほかならない。
これはある意味で「ウォッチメン」的発想かもしれない。誰がヒーローを監視するのか、ならぬ誰がヒーローをケアするのか、という話。メタヒーローの話としての。

そして、そのケアを(まさにヒーローであるマイルズが)ないがしろにした結果として生まれるのが「ヴィラン」であり本作におけるスポットなのだと喝破してみせる。彼の能力であるポータルの生成は、基本的に戦闘においては相手の攻撃をそのまま返すということに主立っている。ここの映像表現の面白さもさることながら、その意味合いを考えると彼の存在そのものがヒーローとしてのスパイダーマンアルターとしてとらえられる。彼のビジュアルがほかのヴィランと違ってどこか素体的であり、そのポータルがブラックホールダークマター)と形容されるのも、「スパイダーマン」というキャラクターを内包せしめるヴィジュアル的説得力と不気味さを与えられているのも面白いし、実際彼の登場しているシーンは面白さと不気味さ、最終的には「こいつやべぇ」感としっかりラスボス感まで醸し出すのだから凄まじい。

フィル・ロードクリストファー・ミラーコンビが手掛けた(主に製作だが)作品群には、キャラクターに対するメタ的な受容の視座が見える。監督作の「LEGOムービー」もそうだったし、「レゴバットマン」にしても面白おかしくもしかしバットマンの本質を抉り出す傑作だった。

スパイダーマン」を物語るにあって、実のところ死ぬのはベン叔父さんだけではない。本来、マイルズというスパイダーマンはカノンイベントとして叔父をすでに失っているし、ライミスパイダーにしてもアメスパにしてもトムホスパイダーにしても、そのシリーズ作品が作られる都度に親しい人間の死に直面している。
スパイダーマン」はその陽気さの足元にそれだけの犠牲を踏みしめているのだ。

しかしマイルズはそれを拒絶する。犠牲の上に「スパイダーマン」というスーパーヒーローが成り立つのだという「カノン」を否定する。スパイダーマンとして「スパイダーマン」の在り方を否定する。それはもはやアンチスパイダーマンと言っても過言ではない。

エバ・ヨークでスパイダーマン軍団に追われているとき、彼だけが(そして彼の友であった特定の「スパイダーマン」だけが)マスクを外していることは、演出上の分かりやすさや手間というコスト的な側面だけではなく、マスクに覆われた個人性の暴露であることの証左だ。

繰り返すが、これは「スパイダーマン」というキャラクターの救済の物語に他ならない。それをマイルズ・モラレスというスパイダーマンの手で行うということ、彼の個人の物語を紡ぐことでそれを成さんとすること。スパイダーマンの中の人としての語りから「スパイダーマン」を革命すること。
これまでの「スパイダーマン」は、その個人性とヒーローとしての自己の葛藤(によって生じる犠牲)によって物語を紡いできた。しかしマイルズはそれを葛藤させるのではなく、一本の糸に綯い交ぜにすることで統合し語りなおそうとしている。マルチバースという設定は、ある意味そのためにこそあると(少なくとも本作においては)言ってもいい。

その結果がどうなるのか、スポットとは別の明確なアルターエゴとしてのプロウラーはどうなるのか、「ビヨンド・ザ・スパイダーバース」が今から待ちきれない。

 

参照

「スパイダーバース」が3DCGアニメーションをいかに進化させたか - GIGAZINE

『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』:アニメの概念を更新せよ、映像体験の最前線(nippon.com) - Yahoo!ニュース

高橋ヨシキが『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』に見た映像の革新。 解体された因果の先にある、新しい〈一貫性〉|Tokyo Art Beat