dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2023/10

「his」

視聴環境のせいもあってか、もうなんか啓発映画と言った感じでげんなり。今泉力哉だから結構期待してたんですが、説明的なセリフは多いしなんだかなと。

宮沢氷魚は良かった。というか彼だけが良かった気がする。いや松本姉妹(違)の安牌とか戸田恵子とか良かったんだけど(鈴木慶一そういう使い方かよ)、それだけ。

まあ氷魚が良かったからそれでギリと言った感じ。この人最近はバラエティに出てる気がして、そういうイメージが先行してるせいかこういう静謐なキャラクターができるとは思わなかった。茶髪っぽい髪色も似あっててよい。

反対に藤原さんは表情がバリエーションも乏しいし(日本語字幕付きだったのもあるかもだが)些かエチュード的に振りすぎてなんかリズムが合ってない感じがする。演技がほかの人に比べて先走ってるというか。まあ、それはある意味で渚というキャラクターに合っているといえば合っているのだけれど。

二人の身長差だけは良かったね~ビジュアル的に。BL需要を当て込んだゲイ映画っていうのがもう「弟の夫」に先行されてるし。

それ以外の演出とか話運びとかはガタガタでは。空が公衆の面前でああいうこと言うのとか(もちろん、変だと思っていないからこそという意図はわかるが、それも含め娘に担わせすぎだろと)、問題の立て方がまさに「ザ・啓発」動画を2時間に引き延ばしたといった風情。

メタ的に見るとアウティングの臭いもするし、てかわざわざあの場で言う必要ないだろう、葬儀だってのに。

とまあ、問題意識ばかりが先走って上手く問題を立てられなかった教則映画、と言う感じ。氷魚の美しさを観るのであればこれは良い。

 

「暴力脱獄」

カーウォッシングとブロンドの性的メタファーが面白すぎてあそこしか印象に残らなかった…。

 

「SWAT アンダーシージ」

これ一応、あの良作SWATの続編の続編ということらしいのだが、よくもまあ続けたなこれ。

全体的に普通。アクションがあまりにももっさりというか役者の格闘のへぼさもさることながら編集での誤魔化しもできてないのでちとキツい。けどまあ午後ロー枠としてはこんなもんでしょう。

不死身なのにシス

試写会で観させてもらった「SISU/不死身の男」

いわゆるナチスものだが、まったくもってシリアスなものではなく、むしろバカ映画の類。上映後のトークライブ(なんと二人の内一人は宇川さん)で教えてもらったことなのだが、この映画の監督はハリウッドで映画作るのを目指しているらしく(現在進行形)、元々CMだったかMVだったかを仕事として作っているかたわら自主製作で作っていた短編がターミネーターみたいなもの(主演は今回の映画の主役と同じヨルマさん)だったらしく、その時点でまあどういう嗜好なのかというのは推して知るべしというところでしょう。

なお、この映画のタイトルであるSISUという単語(この単語についての説明が冒頭にテロップで表示されるのだが、「この言葉は翻訳できない」からの「不屈の精神を意味する~(意訳)」みたいな、言いたいことは分かるのだがちょっとギャグっぽくなってる感じで)は「意志の強さ」であり、決してあきらめない「強い心」のこと、みたいなようなのだ。で、監督がハリウッド映画を目指すきっかけになった「ダイハード2」などのレニ・ハーレン監督がハリウッドで撮れたのなら、ということで前述のとおり今もなおハリウッド進出を目指しており、その不屈の心こそがSISUだ、という旨をアフタートークでおっしゃっておりました。

 

で、本題の中身についてなんですが、90分というタイトなランニングタイムの割に色々と贅沢な間の取り方をしていて、それがフィンランドの荒涼として空が大きいロケとも相まってめちゃくちゃ重厚な映画に見えるんですよ。

この映画は無駄に全部で7つ(だったはず)のチャプターがでかでかと表示されるんですが、それもどことなく雰囲気を醸し出すのに一役買ってくれるんです。最初は。

ところが、まあ割と前半で「いやもしかして」となり、やがて「ははーん、さてはバカ映画だな?」と分かってきて(予告でわかるだろ)からはそういうマインドセット観れたので、そうと分かればもう素直に笑えましたよ。シュール・シリアスな笑いが散見されるので、これ。

執拗に犬だけは傷つけない(ナチ側の犬も)割には愛馬は爆散させて臓腑もろだし死体をてらいなく映して見せたりするバランス感覚とか、「お前らはゲノム兵か?」と思いたくなるようなヘボい偵察するナチ野郎とか(なおこの映画のコメントには小島秀夫もちゃんと寄せている)、かと思えばガソリンで犬の鼻を使えなくするというアイデアを盛り込んでみたり、「それで銃撃は防げないだろ!」とか「肉壁ぶあつすぎだろ!」とか、しまいには墜落した飛行機から何食わぬ顔で生存してそのままラストの幕引きまでいってみたり、とにかくもうシュールギャグの領域に到達してます。

いやまあ、最初の方で二手に分かれたナチス兵士の片方が(自分たちのまいた)地雷で爆死するところとか明らかに狙ってるので、そういう映画だということはわかるのですが、いかんせん役者の表情がみんなガチだし、こういうジャンル映画とは思えない間の取り方をするし、微妙に判断がつきずらいところがあるわけで。

ほかにも狙ってるのか違うのか分からないパロディっぽい場面(女衆のワイルドバンチ登場、博士の異常な愛情の爆弾落下ロデオなどなど)もあったり、そこだけトーンが変わってたりするのですが、全体としての雰囲気は壊していないのがまた面白い。

そういう意味ではアイデア自体は多い、と言えるかもしれない。無駄にグロい(本当に無駄に見えるんですよ、劇中での行動それ自体も。いや、アイデアを煮詰めずにそのままお出しされた感じが凄いんですけどね、首つられシーンの体を支えるためのぶっさしとか。後述しますが、この煮詰められてない感じというのは、的を射てるはず)描写が豊富だし。

曰く、とっちらかったアイデアを「SISU」という単語を使うことでまとめられたということらしいし。どんなマジックワードなんだ、と思うのだけれど観た後だと「SISUならしょうがないな」と思えるくらいには不死身なのでしょうがない。という説得力はある。なんで不死身なのか、という理由や理屈なんぞはいらないのである。地域的な日本より近しい国の出身であるリリコすら知らないフィンランド独自の言葉、SISU。強いというより本当にただ死なないという感じ(ダメージも結構負うが、戦闘継続する)は実写映画としては地味に新しいかもしれない。

 

ただなんというか、面白いんですけど、その面白さというのはなんか歪なバランスの上に成り立っていやしないか。というのが判明したのがやはりアフタートークの場で、どうやら監督はかつて映画を撮る際の資金集めの際に脚本に色々と口出しされたらしく、それがいやだからと出資者を絞って……というところまではいいのだが、なんと初稿の脚本にほぼ手入れをいれることなく撮影に入ったらしく、つまり細かい部分でみょうちきりんなバランスになっているというのはブラッシュアップされない荒削りなままの脚本でお出しされたからに他ならないのだ。

 

チャプターの表現にしても監督は実は割と反対っぽかったのが周囲に押し切られたとかだし、事程左様にこの映画は勢いで持っていくところが多い。しかしその勢いというのもどこか微熱っぽく、それこそが北欧の映画だからということなのかもしれないけれど、それがまた妙な味わいを引き出してくれている。

 

面白いかつまらないかで言えば間違いなく面白い(色々な意味で)し、90分ちょいなのでサクッと見れるのもよい。予告のツルハシ推しは詐欺とまではいかずとも誇大広告じゃないかと言う気はするけれど。

この映画のつくりにならって、この文章も推敲なしでこのままお出しすることにする。

 

2023/9

ゲッタウェイ(1972)」

観たことあったような、と思ったらそれはリメイク版の方だった。

こっちの方がよい。

「コカインベア」

フィル・ロードとクリス・ミラー製作ということで観てきた。この人たちの映画は大体外れなしということで観てきた。まあリブート早々死滅した「チャーリーズ・エンジェル」の監督という部分が結構不安でもあったのですが、総合的にはまあまあといった感じ。笑える部分は多々あってそれがしっかりとこの作品のウリであるゴア部分だというのは良かった。レンジャーの誤射シーンの三バカ大将なノリの部分とかそのあとの救急車に回収されるシーンのハチャメチャ感とか。

でも全体的には平板で、結構眠い部分もあった。100分ないのに。

 

「CURE」

そういえば、通して観るの初めてだな、というのを思い出し改めて見直す。役所広司こんなんばっかやんけ黒沢映画で、と今見ると笑ってしまう。

90年代のサイコホラーのかほりが懐かしさすら覚える。

 

呼ばれて飛び出てカメ登場

ようやっと観に行ってきました「(ティーンネイジ・)ミュータント(・ニンジャ)・タートルズ」。映画観る前にすでにパンフレットと資料・メイキング本が手元に揃っているというちぐはぐ具合。

平日とはいえ公開3週目にもかかわらず一日の上映回数が字幕と吹き替え合わせて3回と少な目。90年代は日本でもかなり人気があったコンテンツはずなのですが……。

言語版の声優が豪華ということでそっちを見たかったのだけれどこの手の映画(厳密には違うんだけど、配給側の扱いとしてのイルミネーションアニメ的な)にありがちな字幕<吹き替えの憂き目に会い、行ける時間が吹き替えだけだったので言語版では観れず。まあぶっちゃけ向こうの大物俳優とかアーティストの声とか言われてもネイティブでもないので顔とセットじゃないとぶっちゃけ分からないのでそこまで気にしてないんですけどね。そもそもシュワルツェネッガーの映画を観て本人の声じゃなくて玄田哲章の方が馴染んでるわけですし(偏見)。

私自身の吹き替えに対するスタンスとしてはいわゆる芸能人枠にあまり好意的ではないのですが、本作ではあまり気にならず。エイプリルが少したどたどしいかな~と思えるけどキャラのこと考えれば許容範囲。良くも悪くも目立たない声と言う感じ(これに限らず新海映画とかもそうだけど芸能人の吹き替えは往々にして平板に聞こえるので)。それにこの客入りのなさや週末ランキングの低さを見ると、少しでも客寄せのためにテレビなどの”マス”メディアへの露出が多い人をキャスティングしたくなる配給側の気持ちも分からなくはないのですがね。本作に関してそれが功を奏しているかどうかというのはまた別問題として。

 

てなわけで本題ですが、まあ思った通りかなり面白かったです。「スパイダーバース」以降のCGアニメ表現として、映像のルックばかり語られがち(まあ仕方ない)ですが、劇中で使われる歌も劇伴も良いし、アクションの見せ方も工夫されてるしアクションの種類自体も豊富、ストーリーも変に捻ったりせずそれでいてティーンの自意識とフリークスの悲哀を(くどさを感じさせず)重ね合わせて描く作劇、それぞれのキャラクターの強度(それこそタートルズはルック的にも演技的にも個々で考えると一番弱いくらい)などなど、映像表現云々以前に劇映画として単純に面白い。当たり前のことを当たり前にやる、ということがいかに偉大なことなのかということがよくわかる。もっとも、作り手の自意識はそういったメインストリームに対する(敬意はありつつ)ある種のカウンターとしてあるようですが(笑)。

それの意識はルックのコンセプトからも垣間見える。パンフレットによるプロダクションノート曰く、「ティーンエイジャーが描いた絵のように見せたかった」「高校生の時に皆が描くような、変な形やパースのおかしい、でもあちこちに描かれた絵」「あなたが10代のころ、授業に退屈してノートの端に落書きしたのを覚えていますか?私たちが望んでいる者はまさにそれです」である。

ルックの異様さというのは映像よりもむしろパンフレットのスチルというか静止画で観た方がよくわかるほどなのだが、1コマ1コマの絵の線が不均一で雑然としておりコンセプトアートのような緻密に作画されてないがゆえのダイナミズムを持っている。それはある種の線の荒さやクレヨンや油絵のような重さを感じる塗りに依っている。言うまでもないがそれは単に雑だったり手抜きをしているわけではなく、むしろその逆で精密さを得意とするCGを駆使しながらその真逆の方向性を指向するという二律背反によって成り立っているわけで。それは紛れもなく主流に対する傍流、地上に対して地下水路に住まうタートルズのキャラクター像とも一致している。

であるがゆえに、この映画は出来る限り最高の上映型式で観るべきだ。残念ながら今回は普通の上映型式でしか観れなかったのだけれど、「スパイダーバース」がそうであったように、IMAXとかで観るべきだ、これは。上述したようなことだけでなく、たとえばライティングにしても本作は基本的に夜の場面がほとんどで、昼間の場面というのは最後の最後くらいなもの(あれも「トイストーリー4」における「屋内(外)」モチーフと通じる表現であろう)であるから、色彩がよりはっきりとわかるIMAXなどが良いと思う。

あとビジュアルコンセプトにおけるモチーフの中に日本の暴走族がある(アート・オブ・ミュータントタートルズより)というのがちょっと笑ってしまった。ちょうど少し前に「ヤンキー人類学」を読み終わったばかりだったので、本作とヤンキー(≒暴走族)というのは疑似親子関係(の転覆)というのも含めてこの映画にピッタリじゃんと思ったので。そもそもタートルズがストリートカルチャー要素を多分に含んでいるので当然と言えば当然なのだけれど。

 

撮影スタイルについてはスパイク・ジョーンズやPTAなどの影響を上げてるが、その中で特に印象的だったのはアルフォンソ・キュアロンだった。どこが、と言えば「疑似長回し」なんだけど、特に「天国の口、終わりの楽園。」なのだと。言われて確かに本作にもそのような長回しがあったことを思い出すのだが、これについて「彼の長回しは、キャラクターたちと一緒にいるような気分にさせてくれます」と言ってるのだが、物は言いようである。キュアロンの場合はそれが黒沢清的な「その出来事にかち合ってしまった」ことを観客にもたらすことにあると思っている身からすれば、「そうだけどそうじゃない」というか。どうでもいいが吹き替えでエイプリルが「違う、そうじゃない」と言った時に鈴木将雅之を思い出したのが私です。脳みそがネットミームに汚損されていることをしみじみ痛感した瞬間でした。

 

撮影スタイルやルック以外の、お話の部分も前述のとおりグッとくるものがある。タートルズがオスなのでそこに少女の眼差しがあったかというと、エイプリルにそこまでのものを感じられたわけではないのだけど(いわばサイドキックだし)、「ティーン」であることを全面に打ち出していることによる思春期(少年)の自意識を描きつつそこにフリークスの悲哀を織り込んで見せたのはナイスである。

話自体はティム・バートンよりもさらにマスに刺さるように(そりゃタートルズであることよりティーンエイジであることを意識しているわけですので)作られているように見えて、実はタートルズ以外のミュータンツのデザインのグロさは割とマジで不快感を催しかねないレベルなのも作り手のカウンタースピリッツが見える。だって蠅の体毛とか何ですかあれ。ロックステディにしてもビーバップにしてもあんな体毛をリアルに描く必要はなかろうと言う話でしょうよ。いや私は声優の演技や劇中での「バイブス」の噛み合い具合(ボーリング場の疑似長回しの馬が合う感最高)からも「あ、こいつら全員すき」となる(少なくとも私はなった)愛嬌ある描き方をされているにしても。まあコンセプチュアルなおかげで実写版のようなヤングアダルトな亀人間が暴れまわるだけのような(嫌いじゃないけど)映画ではなくなっていることも向こうでのヒットに繋がっているのでしょうが。

アメコミ原作という繋がりでヒーロー映画的な切り口も不可能ではないだろうけれど、しかしたとえば同じくティーンの葛藤を描いた「スパイダーマン」ですらその葛藤の中心にあるのは「力」を巡るものであり、その土台はやはりヒーロー映画の上にティーンというフレーバーをふりかけたようなものだったのだと、本作を見た後で思う。

なぜならタートルズは「力」を巡る葛藤なんてこれっぽっちもないからだ。「アリスとテレス~」でも言及したような気がするのだけれど、それが行きつく先というのは多分ジョシュ・トランクの「クロニクル」になってしまう。本作はそれを上手く回避……というかそもそもそっちに振れるつもりが全くないのだ。だから「エンドゲームのハルク」のように茶化しのように使うことも厭わない。タートルズは別にヒーローになりたいわけでもなければ力を巡る葛藤もしないからだ。おそらくそれは、アニメーションという「なんでもアリ」だからこそ可能なことなのだろう。どれだけ誇張された表現もアニメであるならば実写のような疑念を差し挟みづらいのだから。

ティーン(とフリークス)としての自意識を巡る問題は、劇中での野外シアターで上映されているのがジョン・ヒューズの「フェリスはある朝突然に」であることからも明らかだ。ジョン・ヒューズ引用されすぎだろ、と思わなくもないけど。ある年代のアメリカ人にとってはそれほどまでに影響ある映画だったということではあるのでしょう。

そもそも製作・脚本・出演のセス・ローゲンが向こうでカルト的人気の「フリークス学園(原題もFreaks and Geeks)」に出てるわけ(これにしてもジョン・ヒューズの影響は少なくないだろう)で、座組としては真っ当であるとすらいえる。もっとも、ジョン・ヒューズの本質というのは(「フェリス~」「ブレックファスト~」のレビューでも書いたけれど)成長しえないティーンエイジャーと言う部分にあると思うのですが、まあこっちはアニメですから。成長もくそも身体性を持ちえないアニメに(まあ毛の表現については自分の「フェリス~」レビューを読んでいて「もしや」と思ったりはしたのだが)それは作り手の匙加減でしかないので。

まあ、なんてこと書きながら個人的にはティーン部分よりもフリークス要素、特にタートルズではないミュータンツの方にこそ思い入れがあるのだけれど。バクスター博士からしてアレであるし。

主人公であり正道たるタートルズと違ってスーパーフライ率いるミュータンツはモチーフからしてグロテスクなキャラが多い。そんな彼らの持つ悲哀と、それをある意味では利用して家父長的パターナリズムによって疑似家族を維持してきたスーパーフライに対する反旗を翻す展開からのスマートさのかけらもない(だがそれがいい)肉弾押し合いからの怪獣映画への転換、さらにそこからバトンリレー方式(エンドゲームじゃねえか!)でトドめなのだけれど、その一連のシークエンスのまさにバイブスの合致具合はもう垂涎もの。個人的には特にロックステディとビーバップがタクシーをがっしと受け止めるカットで「フリークスがまともにかっこいい」のが素晴らしかった。そこにスプリンター先生の人間不信を逆転させるシーンなど盛り込みおって、捻くれた自分ですら「イエス!」柏手ものでしたよ、ええ。

合流する前から「こいつら絶対仲良くなるじゃん」というのを本当に一作のうちでやってしまう潔さも含め、王道を描きつつ鼠とスカムバグの老年異種恋愛という特殊性辟ましまし要素まであり(ベロチューはほかのアニメ映画ではやらんでしょう。まあ「ソーセージパーティ」作った人だしなぁ)、そんなとこまで主流かつ傍流のマインドが通底しておりその一貫性こそがこの映画の強みなのだろうと自身を持って言える。

 

ネトフリのガメラもリブートされたし亀が今は熱いのかもしれん。

 

どうでもいいことなのだが「Anime club」の募集広告、あれヒロアカのデクだろ?デクだよな?(笑)。進撃の巨人への言及など日本アニメがアメリカのティーンの間でどのように受容されているのかというのが何となくわかるのだけれど、直接のアクションシーンは「長ぐつをはいたネコと9つの命」の方がまんまな感じでやっていたりして、その辺もちゃんとフォローしないとマズいなと思う今日この頃。

 

アート・オブ・ミュータントタートルズを読み終わって何かあったらまた追記するかもしれない。しないかもしれない。

プロレーサーになろう

実は気になっていた「グランツーリスモ」を観に行ってきた。去年だったかに公開された日本映画「アライブフーン」が本作と同じような話で割と面白いというのを聞いたので、比較のためにもそっちを見ておけば良かったなと今更思ったり。

話としてはグランツーリスモで遊んでたゲーマーがリアルレーサーになるという話で、まあグランツリーリスモに限らず、CODプレイヤーが軍隊に入った(あれも色々ありそうですが)というのもあったりするし、そもそも軍隊の訓練でも使用されていたりするし、もはやMGS2VR訓練の世界が現実になりつつあるという。

 

ぶっちゃけると本命は「ミュータント・ニンジャ・タートルズ」次点で「ジョン・ウィック」の方を観に行こうかと思っていたのですが前者は近所のシネコンでやってない(あんだけ予告編やっておいて上映してないとかハゲすぎる)し「ジョン~」の方は座席ほぼいっぱいで良い席が空いてない(し上映時間長めなので回転少な目)というのもあって、「観れたら観るか」程度だった「グランツーリスモ」へ。いやまあ、気になってはいたのですよ、実話ベースだしつい最近になって某レーシングゲームをクリアしたばかりだったというのもあったし。などと言いつつ前情報はなしで観に行くくらいのニワカマインドで劇場に足を運んだのですが……中々いいじゃないですか、これ。

 

シミュレーターとしてのグランツ―リスモをぶち上げた男・山内一典~というアバンからのキメキメのスタイリッシュフォントでタイトル「Gran Turismo」がブォンと出てくるあたりのホビーアニメ(具体的には遊戯王5Ds)あたりを彷彿とさせる演出に「勝ったな」と内心で勝利を確信。

そして確信の通り、この映画はかなり面白かった。もちろん手放しで褒めるわけではないのだけれど、そういうのは割とどうでもよくなる程度にはこの映画はまさしくドライブしてくれる。

とはいえやはり気になるところは気になるところだし、それは決して放置して語るには些か主義に反するので先にあげつらっておく。

第一に、この映画の作劇は「車と少年」という(伝統的価値観としての)アメリカン・マスキュリニティのフォーマットを強固に温存している。ロベルト・オーチがかつてインタビューで述べたように、車というのはアメリカにおいて成熟の象徴であり、それはすなわち「オトコ」になることである。だから少年の成長譚として、その象徴として車が出てくるとそこには客体化された身体としての「女性」が描かれる。なぜなら「オトコ」になるということは脱童貞=女性とセックスするという禊を経ることでなされるからだ。それは数々の映画で卒業パーティ(あるいはバチェラーパーティーにも敷衍できるだろうが)と娼婦がセットで描かれる定型を見ればわかることだろう。

この映画で主人公であるヤンはそういった露骨な性的な描写こそないが、彼の意中の人物であるオードリーは、そういったトロフィー的な役割すら希薄であるがゆえに物語上は彼女のシーンを全部カットしたところで何の問題もないのだ。パンフにキャラクター紹介欄がない程度の扱いですよ、ええ。

いやまあ、日本人的には彼女との日本観光デートシーン(割と適当)があることである種の笑いがもたらされるということはあるし、異邦人によって撮られる日本の都市の夜景……衰退著しい日本とは思えない摩天楼感は邦画や邦ドラにありがちなしょっぱい空撮とは違うどこか異質なリッチさがあるので、それを観れたというのは中々の収穫ではあった。まあこれにしてもデートである必要はないし、単に機材や編集の妙によるところではあるのかもしれないし、くどいようだがこのデートシーン自体が(山内一典をカメオさせるためか?)不要といえばそれまでなのだけれど。

カーレースで成り上がる映画なので「車」と「男性性」の旧来的な価値観を転倒させようとすると、それはそれでまた別の重いものを背負うことになるので娯楽映画として成立させるには「少年と車」のコテコテのフォーマットに則った方がわかりやすいのだろうが(まさしく少年と車の物語だし、そもそも実話だし)。そういう意味でこの問題を回避するのは難しいのだけれど、わざわざ弟がサッカーで成功しかけていることや、そういったスポーツ=マチヅモ的世界観と対置させる形でヤンを描いていることを考えると、やりようによっては、という気もするのだが……まあ結局勝負の世界の話ではあるので「男の美学」にしかなりようがないのだろうが。

彼の父親が元プロサッカー選手であるが、ヤンはその道を歩まずレーサーの道へ、という構造はマスキュリニティの継承を換骨奪胎できそうではあるのだが、そうはならず本作は徹底して「男の世界」の話であり「父と息子」の物語として機能し続ける。それは実の父親に認められるというだけでなく、コーチであるジャック・ソルターとの疑似父子関係にも表象される。そこに主体としての女性=母親の存在はない。アカデミーで勝ち残って親に連絡するシーンでも、母への報告はできたものの父親は留守にしていて報告できなかったという「父に認められたい息子」の矢印が如実に描かれる。

マスキュリニティとそのカウンターとしての「ゲーマー」という立ち位置をリアリティとバーチャルの対比としても(すわ「アリスとテレス~」か)見立てることは難しくないのだけれど、身体性・フィジカルが導入されざるを得ない時点でバーチャルに傾倒することは困難ではあった。まして「ゲーマー」的なそれはナードのそれに近いわけで、何かラディカルなものが提示されるわけなどなく、その点はまあ私のないものねだりだった。

しかし、このゲーム的演出および実際のゲーム画面を(部分的に)使っているであろうレースにおいてラインや順位の表示演出あるいは三人称視点というカメラアングルは、それ自体が虚実の皮膜を穿ち、ともすれば私に「現実を侵襲する可能性」見出させたのも事実ではあるので(グランツーリスモが何のゲームエンジン使ってるのか知りませんが)、そっち方向での「なんかすごいもん見たな」という感覚はある。

「フォードVSフェラーリ」のような男の世界を完徹し突き抜けることによって超越した世界を見せてくれるような映画ではないのだけれど、レーシング映画として、そして何よりテクノロジーの可能性を無邪気に信じるニール・ブロムガンプの映画としてあるからこそ、ここまでいけたのだろうということは言える。

私はこの映画のクレジットを観るまで彼が監督していることはまったく知らなかったのだけれど、しかし観終わってみれば彼が監督であるということについては得心しかない。

これは都度書いてきたことだけれど、彼の作家性ーーというよりも根本的な価値観なのだろうけれどーーとして、テクノロジーに対する恐怖がない。それは核の恐怖にしてもそうだしAIやサイボーグ(による身体侵襲に伴う)が実存を脅かすということも考えていない。ちょうどこの映画の本編の前にギャレスの新作「ザ・クリエイター」の予告編がかかっていたけれど、ニールはこんな大仰にテクノロジーの脅威を描くことはないだろう。

そして、そのようなテクノロジーへの無条件の肯定によって、彼は今までのSF大作のような箱庭的虚構から踏み出し本作のような事実をベースとした映画でビジュアル的には現実を侵犯するというぶっ飛んだ映画を撮ってみせた。なにせアーチーのインタビューが本当ならこの映画はグリーンバックでの合成がないという徹底ぶりなのだから。

もちろん、そこにはゲーム(=現実のシミュレーション)としての「グランツーリスモ」のコンセプトや内包した歴史を援用することによるハイコンテクストなものがあるわけだけれど、それは劇中でも何度も描かれるのだから決して一見さんお断りというわけではない。ゲームの「グランツーリスモ」をプレイしていた経験のある私が言うのもフェアではないのだけれども。

 

物語の強度も、それが事実であるからこその裏打ちではあるが1位ではなく3位入賞というのでも1位であること以上の感動をもたらす。ともすれば「物語」は批判的に(特に社会批評界隈では)捉えられることもあるのだけれど、これが事実をベースにした物語であるということからくる1位<3位という価値の転倒を引き起こしていることを考えれば、やはり物語は人間にとって必要なものなのだろうと再認識。

 

ま、そういう七面倒なたわごとは抜きにして役者も良いし、アがるカットも多いので観ていて楽しいのですな。6秒差の表現として先行車が通過し、数秒の間があってから追従するヤンの車が通過していくところの緩急とか、新しいドローンカメラを使った視点とか、VR感覚に車体のパーツが細かく分離していく表現の巧みさ、レースシーンはCGなしというだけあってその迫力(および前述の虚実のあわいの曖昧化)は観ていて新鮮。

役者に関しても申し分なく、特におっさんたちが良い。デヴィッド・ハーバーの即落ちの愛嬌とかジャイモン・フンスーの(展開はどうあれ)泣き顔、オーランド・ブルームのいい感じに年を取った顔のおかげで今回のビジネス第一主義の賢しいおっさん役は何気に新境地では。というか事実ベースの話でここまで一種政治的な駆け引き(というほどでもないが)をありありと提示してくるのは中々太いなと。

何にせよ期待値を上回る中々の良作でございました。

 

 

2023/8

青いパパイヤの香り

話も映像もジメジメしていてこの時期に見るとすげぇげんなりする。

「そこでそんな音ならすか?」という描写もあったりなんか全体的に変なバランス。

手と足を映すことにやたらと拘りが見える(というか使用人を描くと畢竟こうなるのだろう)が、自分の琴線に触れないのは手元を映すことに作為的すぎるからなのだろう。

あと役者の表情が画一的で、機微をかなり読み取ろうとしないとこぼれ落ちそうなものが多い。

これがドキュメンタリーだったらなぁと思わないでもないのだが、50年代頭のベトナムが舞台じゃ厳しいかもしれない。

 

「聖杯たちの騎士」

映像は美麗なのだが、完全に今の自分のモードとはそぐわない映画でした。なんだかなぁ、という気はするんだけど村上春樹っぽいのかな。

 

シンドラーのリスト

久々に見た。改めて観るとやばいこれ。スピルバーグの真骨頂は感動云々とかではなく、やはりこの人体を物質として捉える才覚なのだと実感。

 

「MEMORIES」

三本の短編のオムニバスということなのですが、個人的には岡村天斉監督の「最臭兵器」が一番面白かった。CGを実験的に使うというのはこの「MEMORIES」の一つの方向性だったと思うのですが、「~兵器」にはそこまで目立った使い方がなかったけど。

やっぱりこの人はギャグセンスと動きのコミカルさが抜群なので変にシリアス方面に依らない方が良いと思うんですよね。あと煙の動きとかね。まあ原作は大友ですが。

逆に一本目の「彼女の想いで」は脚本・設定だけじゃなくて絶対に作画に参加してるだろ今敏!と思うような今敏あじが強い。ソラリスがやりたかったのかなぁ、という気も。

それで言うと「大砲の街」は一番実験的であると言える。ワンカット風の絵本(大友曰く絵巻物)というは、線の強さと流線はどことなくロシアアニメーションを思わせる。

まあ短編じゃないとこういうことは出来まいしな、という感じで観ていて面白くはありましたな。片渕さんが地味にメインで参加していたりする。

 

「ミトヤマネ」

オンライン試写にて。

この映画の美点:上映時間が短い(80分未満)

以上。

これマジで「大和(カリフォルニア)」とか「VIDEOPHOBIA」の宮崎監督の映画か?と思うほどキツかったです。自慢じゃありませんが「VIDEOPHOBIA」とか私CFに金出したんですけど。

久々にこのレベルの映画を観た気がする。普段午後ローやらBSやらで観てる映画にケチをつけたりしてますが(もちろん良い映画もたくさんある)がいかに面白い映画なのかということを思い知らされる。

サブイボ映画、観てるこっちが恥ずかしくなってくる映画。いやほんとオンライン試写で一人で観れたから「うわー」「きつい」とか声出してリアクション取れたから耐えられたものの、映画館で観てたら溢死していたかもしれん。

そもそも、上映時間が短いとは書いたけど編集のテンポ悪すぎ(特に会話)るし脚本も甘すぎて冗長が過ぎる。マネージャーが王城ティナの家に来て案件の説明をするシーンなど、直後に妹ちゃんが帰宅して彼女に対してもほぼ同じ説明を繰り返すという二度手間すぎる場面などは正気を疑いましたよ。

 

黒沢清の助監督も務めたことがあるからある意味で師事していたということもできるのでしょうが、ドライビングシーンのスクリーンプロセスの使い方とかディープフェイクが白い空間にでかでかと額縁入りスクリーンで展示されてるのとか、表現主義と言えば聞こえはいいのかもですが……クラブでのシーンである種の「逆転」が行われたというのは分かるのだけれど(そういう意味で妹ちゃんの髪型の変化とか絵的に見せることを放棄してるわけではないのだが)、おじいさんのデモシーン(?)とかそこに突っかかる女性とか、あのシーンもすっげぇ上辺をなぞっただけの薄っぺらいイデオローグをたらたらと撮り続けるのとか観客のことバカにしてるんじゃないかとすら思いましたよ。

というか、割と本気で手抜きで撮ったんじゃないかしらこれ。「PLASTIC」の方に注力してこっちは片手間なんじゃないのかしら?と思うくらいペラペラですよ。

長編映画として出すために無理に引き延ばしてるんじゃないですか、マジで。それでも80分切ってますからね、ランニングタイム。

早稲田の政経出てるから私なんかよりよっぽどインテリなはずなのに、なんでこうも頭悪い人にダメだしされてるような映画になるんですか。

もっとちゃんとやってください。

 

「サイダーのように言葉が湧き上がる」

光堕ちした「悪の華」とでも言うべきか。

細かい部分は違うけど、どちらも群馬県が舞台というのも共通しているしクライマックスが祭りのやぐらで「未成年の主張」というのも共通している。まあ、「舞台」だし使い方としては正しいのかもしれないけれど、意地悪な言い方をするとありきたりではある。で、私がこういう意地悪な言い方をするのは、久々にある種の力関係を想起してしまったからなのだが、それは後述する。

 

まずアニメということで絵そのものに関して言及するのであれば、本作は背景とキャラクターが均質化している部分に特徴がある。光冠まで、というのは結構インパクトがあるが、それは背景をある種簡略化することによる、同化による異化ともいえる効果をもたらしているのかもしれない。もっとも、それ自体はもっと手間のかかる方法で「かぐや姫の物語」が先んじている。というかあれはほとんどアート映画の部類な気がするので、比べるべくもないかもしれないんだけど。

某映画ライターは「シンプソンズ」を引き合いに出し、むしろアメリカのカートゥーンに見られるように動画(ここでいえばアニメートされたキャラクターのことだろうが)と背景がマッチして記号と感じさせないことで豊かさを獲得しているとしていることや、日本のアニメにおける美麗な背景は、リッチであるほど、演劇における記号的な“書き割り”と同じものに過ぎないと無意識に感じさせてしまう、ということを述べている。

よく考えればクレヨンしんちゃんサザエさんとか(特に冒頭の動きなど顕著にそれを思わせたのだが)もそういう作り方ではなかったか。だとするとそれは単に超長期にわたるテレビアニメ制作上の必然なのでは。

ただ私に言わせれば、背景はむしろ動く方が不自然ではなかろうか。なぜなら背景というのはキャラクターを包含する世界そのものであり、特にここで言及される背景=空はあらゆる意味においてキャラクターとはスケール自体が違う以上、動的(に見える)である方がおかしい。そもそも人は背景=世界(自然とか宇宙とか、そういう抽象的なもの)を記号として以外に捉えようがないと思うのだが。

もちろん、背景というのはもっとスケールの小さい建物とかそういったものもあるわけで、それらすべてをひっくるめてのことだというのはわかるし、その場合はキャラクターと近似したスケールではあるのだろう。だから背景の一部分がセルで描かれたものであることもあるわけで。

でも、第一、アニメを観るときってそれを「記号である」と承知した上で観るものじゃないのかしら? たとえば特撮(特に巨人・怪獣など人外スケールのもの)の着ぐるみを見るとき、我々はそれを「着ぐるみ(=記号)」と分かったうえで怪獣として認識しているはず。どれだけリアルなCGで作ってみたところで、というかそれこそアニメと同じわけで。そこに身体性を持ち込むことでアニメの記号性を揶揄することは(今は難しいかもだが)可能でしょうが、「記号的に見えてしまう」というのはなんだか妙な話で、その言動にはある種の実写偏重の眼差しがあるように見える。

そも、シンプソンズの背景、こと空(特に夜空や夕暮れ)の背景描写はグラデーションをかなり流麗にかけていて、キャラクターと部分的な背景の一致は絶妙に崩されていることが少なくない(もっとも、デジタルに移行してからのシンプソンズはほとんど観てないので現状どうなっているのか分からないんだけど)。

また、わたせせいぞうを引き合いに出していたけれど、私自身は少路を思い浮かべた。というのも本作のザ・田舎な田園風景は冒頭のタイトルバックでぐーんと動くカメラに捉えられるのだが、その中心には巨大なショッピングモールが鎮座しており、その屋上と思しき場所でチェリーらが話し込んでいる風景などは、色味の強い色彩設計も相まって田園やそれを取り囲む山や空を相対化しているように思える。

宅内では開放的なデザインのスマイルの家も、団地の一部屋でありこじんまりとしたチェリーの家も、すべてフラットに描かれることでスケールを同質にして、部屋・建物といったそれらの閉塞した空間こそがむしろ魅力的に映る。私には。ていうか空とか山とかよりも廃墟含め建物観てる方が楽しいでしょ(暴論)。

 

絵そのもの以外にも特徴的なものがある。それは何気なくかつここぞというときに使われるスプリットスクリーン。

スプリットスクリーンの使い方はそれこそ「500日のサマー」のようで、別の場所にいながら二人が同じ挙動をする空間越境的ダイナミズムは普通に良かったし、それをクライマックスに持ってくるのも気が利いてる。端的に世界から二人だけが切り取られ、やぐらの上とその下、という空間的な上下の隔たりをこのスプリットスクリーンの演出によって同じ地平に立たせるのも良い。

(余談だが実写版「ちはやふる(の上の句だったはず)」で不満だったポイントも、この演出を使えば良かったのだなと、振り返って思う)

で、実質的に二人の一対一のコミュニケーションになっている(スマイル側に祭り客がいるのだが、全員花火の方を向いているのでチェリーの方に意識が向いていない)がゆえに、チェリーは俳句を詠むことができたのだ、という理屈をつけることも可能。だが、まあそこは普通に彼が頑張ったからということで手を打つのがよろしいのだろう。無粋だしね。

でもまあ、「歯」と「葉」の部分は「は」にした方が良かったのではないだろうか。

という感じでロマンス、青春グラフィティとしては楽しかった気もするのだが、それとは別の位相で腹立たしいことがある。それが冒頭の意地悪な物言いに繋がる。

 

それはコンプレックスの問題だ。

「竜とそばかすの姫」でも感じたが、というか多くの創作でそうなのだろうが、キャラクターの抱える容姿のコンプレックスはそれが裏返されチャームとして踏み台にされるものとしてしか描かれない。チェリーに関しても、お前それ葉くんの前でも言えんの、という。

これは私が都度都度主張しているのだが、醜を美に回収すること、弱さを強さと言い換える欺瞞・強者の理論がルッキズムやマチヅモを温存させるんじゃないか。

痘痕も靨じゃねえ。痘痕があっていいじゃんか。いやそれが困難だってことは身に染みてわかってるけども。

 

そういう既存の「そうある」ことに乗っかることの偽物の無謬性は、スマイルの求める「カワイイ」に代表される。「カワイイ」は「KAWAII」に直結し、グローバルに敷衍されるその概念は「カワイイ」もの以外を捨象する。それは今時の、というか今昔の若者(とりわけ女子高生)のリアルなのだろうが、それはスマホを通して世界を認識するバーチャルなリアルでしかない。だからこそ最後に意味があるともいえるのだが、それはしょせん「やまざくら かくしたその歯 ぼくはすき」という他者に肯定されることでしか解消されえない。

「ぼくはすき」じゃねえ。お前に好きだと言われるからなんだというのか。誰かに肯定されないと出っ歯は存在してはならないのか? 

まあ、アニメはデザインされたキャラクター=記号であるため、本質的にこの問いに対して答えることは不可能なんじゃないか(肉体としての身体性の不在)という気もするのだが。

 

今回はちょっと野蛮な物言いが自分でも抑えきれてないのだが、別にこれはこの映画に限ったことではない、それこそ自分の中のコンプレックスによるところが大きいので共感なんてされないし、して欲しいとも思ってないが(そもそも共感原則を疑ってるし)、見るタイミングによってはそんなこと思ってなかったかもしれない。

俳句を詠むという婉曲表現(つってもかなり直截的だが)それ自体は肯定したいが、そのふわふわした感じが私が指摘する問題にもつながっているような気がするので煩悶とする。

 

とはいえ、やっぱり最初に書いたように青春映画としては面白いしテクい部分もあるので私のようなこじらせ人間じゃない人はストレートに楽しめるはず。

 

あとCV山寺の擬態力すげぇっす。途中まで気づかんかった。それと、すごいどうでもいいんだけどSNSで親と相互フォローとか地獄では。

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

これをNHKが8/31に放送する文脈も含めてあまり好きではない。原作をほぼなぞった感じだが、そもそもとして私は押見修造があまり好きではない。特に自分自身の最近のモードがそう感じさせる。

で、原作ほぼそのままのこの映画だが、マンガと違って音がつくことでその分の迫真さは獲得できているとは思う。その意味で実写化に意味はあったとは思う。

アリスとテレスとお前はおかん

というわけで試写会で「アリスとテレスのまぼろし工場」を観てきた。

これタイトルがいまいちしっくりこないんですけどね、未だに。アリストテレス要素はキャラクターが「ある哲学者が”希望とは、目覚めている人間が見る夢である”と言った(意訳)」てなことを発したくらいで、アリスが出てくるわけでも(百歩譲ってあるキャラクターが別の世界に迷い込んでくるという部分にフォーカスすれば不思議の国のアリスとして見れなくもないけど)、ましてテレスというキャラクターが出てくるわけでもないので。まぼろし工場はまあわかるけど。

 

という余談はさておき。

わたくしはマリーを熱心にフォローしているわけではないのですが、ある程度深夜アニメに触れていると彼女がメイン脚本だったりシリーズ構成を担当していた作品を必然的にいくつか観ていて、最近でもBSで再放送されてる「とらドラ!」とか「ウィクロス」とか今や話題にすらならない「M3」とか、劇場作品でも確か「ここさけ」は観た気がする(けど記憶にあまりない)。ほかにもいくつか知っているのがちらほらあって、まあ売れっ子脚本家であることは違いない。

で、愚者なりに経験則から感じるのはなんとなくこの人の脚本て(特にオリジナルの場合)人間関係がドロドロしていることが多い気がするということだ。昼ドラみたいな展開を思春期のガールズ&ボーイズにやらせたり、親子の間(あるいは親同士)の間で問題を抱えていたりとか。そして、そういったティーンの視点から見た性に対する関心が見える。どこかむっつりっぽいというか興味津々というか。本作にもそれらの特徴は見られる。とはいえ、レファレンス乏しすぎて片手落ちな印象論でしかないのですが。

ただ私にとって岡田麿里というのはそういう作家と認識してはいるくらいに作家性なるものがあるタイプだと思っている。

前述のように脚本家としては知っていたのですが、監督作については知らず、てっきりこれが初監督作品だと思ってたのですが5年前にすでに長編アニメ監督デビューしていたのですな(無知)。とまあ、このことからも分かるようにマリーに関してはそれくらいの熱量でしかなく、特に過度な期待も不安もせず比較的フラットに見れたと思うのだけれど、結構面白いアニメだと思いましたですよ。

 

個人的に特にツボだったのは廃墟というか廃工場(…ではないのか、一応)。冒頭の出来事から点検などはされていたようだが稼働はしていなかったっぽくて、まあでも普通に廃工場な見た目なので廃工場でいいと思うのだが、そこのディテールが良い。全体図が見えるような鳥瞰視点とかあればなお良かったのだけれど。bingの画面で観たことあるようなのとかあったし。おそらく明確な参照元があると思われるのだけれど、パンフが出たら載ってたりするのかしらん。

で、そこが山間部っぽい田舎というのも良い。「田舎はクソ系」の映画として閉塞的な空気感(というかマジで世界ごと閉鎖されるんですが)と廃工場の寂れ具合がマッチしておる。これ本当かどうか知らないんですが、もしかしたら小説の方に書いてあるのかもですが、舞台が1991年らしくそうなるとマリーがちょうど中学生の時期であり彼女が秩父というド田舎出身であることを考えるとかなりプライベートなものが入り込んでいるんじゃなかろうかと勘繰りたくなる。

じゃあこれは私小説なのかというと別にそんなことは多分なくて、むしろこの映画で描かれる少年少女たち(厳密にはそう言い切れないのだが)の在り様を見ていると、それはむしろ今を生きる若者に対する「両論併記」の訴えに思えるわけです。厳密には若者だけではないというか、むしろこの映画でいえば大人こそがそのような在り様を率先しているわけですが。

では何を訴えているのかというと「安定志向、現状維持」の(非)永続性、あるいは不安定性であり、その対としての「変化」を並置させようということ。

「安定志向」とは、とりわけ日本の今の若者に見られる傾向であることは都度指摘されることで、リスクを避けチャレンジ精神が少なくコスパを重視するという。あくまで相対的な見方でしかないと思うが、少なくとも去年から一昨年あたりまでの若者の自民党への投票率などがそれを示す一つの指標として持ち出されることを考えるとあながち間違いでもあるまい。

その在り方は劇中の中学生たちに表象され、しかしそれは当初否定的な世界観として描かれる。主人公たちが否応なしに住まわざるを得なくなった「まぼろし」世界の季節が冬のままであること、冬とはつまるところ生命の育たない季節であり、まさに時間の止まった、停止した=永遠の=無痛の=死の世界なのであるということに他ならない。同時にそこはバーチャルな世界でもある。

 

それに対して劇中で描かれる「現実」の世界の季節は夏=生命に溢れ=動的で=有限な世界であり、「まぼろし」世界で経過した分の時間がはっきりと表れている。要するに冒頭の事象によって停止した世界とそのまま進み続けた世界とに分岐した、ある種のマルチバース的なものだと考えるのが昨今の流れを考えると理解しやすいだろうか。

生=変化=現実であり、生命=熱を帯びた季節として現実世界が夏であるのだが、しかしこの映画の言辞を借りるなら現実にこっちの世界が侵食されるとはまさにこのことで、よりにもよって世界新記録の暑さを記録した今夏は、その暑さによって死人が多発したことを考えると、やはり現実はクソでありバーチャルな「まぼろし」世界の方がいいじゃねえか(そうしたのは他ならぬ人類なのだが)と言ってしまいたくなる。

まあ、バーチャルはバーチャルで痛いものに溢れているし、実際に心の痛みと体の痛みは脳内では同じ処理をされるということを考えると決していいもんでもないと思いますが(経験則)

 

けれど「まぼろし」世界の永続性というのは極めて脆いものであり、何度も世界に亀裂が生じてしまう。その上世界そのものがその場その場で修復されようとも、そこに住む人々は大きく心が動かされてしまうと当人に亀裂が生じ、世界の修正力=神機狼(どうみても龍だろオイ)に飲み込まれ事実上の死を迎えてしまう。

その心の動きとは恋慕だったり将来の夢だったりするのだが、それ自体というよりもむしろその喪失(失恋、夢が実現しない現実による絶望)によってこそ心は大きく動かされ、それが世界の働きによって「修正」されてしまう。恋愛リアリティショーも真っ青な、恋愛に敗北した者は死ぬという容赦のなさはちょっとぶっ飛びすぎて笑ってしまいましたが。

ここがマリーのダークな部分だと思うのだが、失恋によって「修正」されるキャラクターとは別に、主人公二人を覗いて恋愛が成就するキャラクターがいるのだけれど彼女たちは「修正」されないのだすな。このことは、「正」の情動よりもむしろ「負」の情動の方が世界に(そしてセカイ)に与える影響が大きいということだ。少なくともマリーの中ではそういうことになっていると考えられる。だからドロドロしたものばっか書いてるのだろうか(偏見)。

 

で、ひたすら「変わらず」「現状維持」を固持しようとする「まぼろし」世界の人々に揺さぶりをかけてくるのが「現実」世界から迷い込んだ少女(というか当初は幼女)の五実なのだが……ぶっちゃけどうなの、このキャラ?

狼少年(野生児)と神機狼を照合させたいのはまあ、それ意味あるのかどうかは置いておいて言葉遊び的なアレなのねというのは分かる(というか睦実の義父がそこからこじつけたのだろうが、設定的には)。わざわざ正宗に「サルというより狼みたい」と言わせたり。

そういうイノセントな属性を持ったキャラクター(大体白のワンピース着てる)の扱いはさておき、この五実がかなり厄介なキャラクターで、「現実」世界の正宗と睦実の娘で、かくかくしかじかで「まぼろし」世界の中学生で時間停止した正宗に恋をしてしまい、あげく正宗と睦実の濃厚キスシーンを目撃してしまいその心の揺らぎで「まぼろし」世界にでっかい亀裂が入るという面白場面を導く存在として描かれるのですな。

(余談だが、マリーは「荒ぶる季節の乙女どもよ。」でも幼馴染のオナニーを目撃するという場面を描いていて、単なるギミックとしてよりも何かそういうのに対するオブセッションでもあるんじゃないかと思うのだが)

BTTFの近親相姦ネタに両親のセックスシーンを見てしまったイノセントな娘という性癖爆発シーンで思わず噴き出したのですが、これのために五実は無垢性を帯びさせられたのではないかと勘繰ってしまうほどです。いやもちろん物語的に巫女をこじつけられてしまうので無垢性が必要だったためにああいう描き方をされたのだというのは理解しているけれど。もっとも、その無垢性というのはある意味で本質的なものではなく「イノセントな存在であれ」という家父長制の欲望によって虚偽的に作り出されたものなのでちと違うのだが。

でも睦実はあれだけ長い間世話をしていたのだから言葉を覚えさせることはできたのではないだろうか、とか色々思っちゃうんですよねぇ。少なくとも10年は経過してんだから言葉は教えられたろ。あと惚れさせたくなかったなら男連れてくなよ!とか。だから正宗の外見の女性性を強調してたんだろうけど、これもこれで疑似百合的なシーンを描きたかっただけなのではとか邪推してしまう。最初はヤングケアラー的な在れかと思ったけど別にそんなことなかったZE。

 

色々あって五実を現実世界に返そうとする派とそれを拒もうとする派による対立が生じて、この辺の一連のアクションシーンがシリアスな笑いが結構あってその意味でも必見なんですが、中学生の身体のまま少なくとも精神的には(主義に反するが心身相関をこのさい度外視して)成人している正宗たちのカーチェイスが文字通り車で行われるというのは一考の余地がある。

それは「キッズ・リターン」であの二人が自転車を乗っていたことの裏返しだからだ。あの映画において自転車とは若さ・未熟さ(=脆さ、儚さ)の象徴としてあった。

翻って本作では中学生連中が手繰るのは自動車だ。それは本来、大人が使うものだが、停止した「まぼろし」世界においては青春は無限に延長されその刹那性を予め封殺されている。だから最後まで自動車なのだろうと思うとやるせない。

正直、クライマックスはいろいろとなあなあになって感が否めないのだけれど、「好きな人と一緒にいたい」というあるキャラクターの永遠への願望は、正宗と睦実がそちらに傾斜することの布石ではあるし、二人がそちらを選択し、一方で五実を「現実」世界に返したことで「トイストーリー4」的な両論併記に持って行ったこと自体はアリだとは思う。

まあ「その選択って悪役と進む道が同じなんだけど」とか「正宗の叔父がセカイ系主人公と化してるんだけど(だから兄貴に負けんだよおめーはよぉ)」とか、土壇場で実の娘にマウンティングして勝利宣言する母親=睦実とか、どうかと思う部分はあるのだけれど、それも含めてこういうねじくれた感じは大歓迎。笑えるし。どうでもいいが親父と叔父の声優が瀬戸康史林遣都って、趣味が出てませんかね。特に叔父がああいう役回りっていうのが。

 

そういう楽しい部分はさして気にならないし、映画にドライブできるのでいいんだけど、普通に気になる部分もある。

 

たとえば設定として時間が止まっている(劇中的に言えば「季節が止まっている」)ので、長期的スパンの時間経過がすごい分かりづらく、そのせいで登場人物の関係性も分かりづらい。特に睦実と園部の関係性はいじめとはいかないが陰湿な行為を双方向的に行うものであったけれど、睦実自身は園部のことをかなり近しい友人だと思っていたように描かれる。しかし、いかんせん二人の間柄、さらに言えば正宗と園部に関してもちょと飲み込みづらいかなと思う。

ただ好きになった理由というのはそもそも明確に描くべきかどうかというのは私自身も疑問には思っていて(それこそがむしろ作為的過ぎるので)、やっぱりこれに関しては自分確認票も含めて、セリフでなくてもいいのでもうちょっと明示的に無限反復であることを示した方が良かったのではないかと。「中学生が車を運転している」という絵面がある意味で説明ではあるんだけど。

まあこの辺は細かくつつきだすと本当にドツボなので(身体の恒常性がどの程度なのかとか)この辺にしておきますが。

 

あと細かい部分だけどカーチェイスパートの、カット割ったら一瞬で平然とバンに乗せられてる五実とかは、もっと編集の仕方あったでしょう。アニメだと作画作業増えるのでおいそれと編集でどうにかできないのかもだけど。

 

まったくの余談2だが、「AIの遺電子」で恋愛感情を捨てたいヒューマノイドの話が出てきたりして(レズビアンという設定なのでこちらとはちょっと外装が違うんだけど)、恋愛感情の排斥というのが効率化のいきつく果てなのかと思うと荒涼とした未来しか見えない。その荒涼とした風景とトー横界隈の、恋愛よりも先に性交を経験するということの問題系を投影することも可能だろうと思う。

 

色々書き綴ってきたし思想的に相いれない部分も結構あるのだけれど、なんだかんだで勢いで持って行ってくれる映画ではあると思うし是か非で言えば割と是よりでございます。