dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

継承体感

「ヘレディタリー/継承」4DX再上映を。

4DXは確か「パシフィック・リム」と「GotG.vol2」で体験済みだったけれども、ホラー映画では初めて。結構椅子の動きが結構違っていて、これはこれでかなり相性がいいんじゃないかという気がする。

屋根裏の遺体の臭いの表現としてScentというのはわからなくはないのだけど、しかし腐臭というにはあまりにいい匂いすぎて不快感はあまりない。かといって本当に悪臭を提供されてもそれはそれで困る(同じようなことを前に書いた気が)わけですが。

あとは映画のカメラワークによってかなり座席の動きも変わってくる、というのもありまして、アスターの映画はゆっくりとパンしていくシーンが多く、それに合わせて座席もナナメになるのですが、これが何とも言えずなかなかよかった。動きもさることながら、動く際の座席の軋む音なんかも不穏な感じがしてよい。

あと燃えるシーンで首元が暖まったり、風が吹くシーンで送風されたり、というのがあった。暖まるのはともかく、送風に関しては劇中の風の音と劇場の送風機の音がまったく別であるためにむしろ一体感がそがれてしまう、というのはあったりして、この辺はパンに際しての座席の音とは逆に作用してしまっています。

4DXの動きって誰がどう設定してるのか、結構気になります。


本編自体も楽しかったです。
家(セット)をミニチュアに見せるような演出が多く(特に扉から家に入ってくるカットはほぼすべて真横から撮影してますね)、独特のセンスが楽しい。

ミニチュアで始まりミニチュアで終わっていたり、ラストのあのシーンもしっかりジョーンの家ででかでかと伏線が提示されていたしますし、この辺はやっぱり手堅い。
なんというかこの人はオカルトとかスピ系の因果みたいなものを上手く取り入れている。ただそれは、恐怖心の裏返しとして神経症的な理路整然さなのではないかと思ったりもする。

まだ長編2作しかないので今後どうなるのかわかりませんが、アスター本人が映画を作るにあたって私的な部分が云々と言っているくらいだから、このオカルト・スピ系を使うというのは、もしかするとある法則に無理やりにでも当てはめようとする試みなのかもしれない、と。


理不尽で不条理なものとしての超常現象を、ホラーというジャンルであれば臆することなく描くことができる。現実の不条理さを、そのままホラー映画の不条理さに適用し、そこにオカルティズムの因果を当てはめ投射することでアスターはセルフセラピーを行っているのではないか。

たとえば現実である人がある事故で死んだとして、そこに事故の原因を観ることはできてもその人が死ぬ因果を見出すことは不可能だろう。せいぜい「運がなかった」というくらい。

けれど、ホラーであればそこに一定の法則を付与することができる。というよりも、それこそがホラー映画の肝であるようにも思える。
キャビンに入ったから殺される、ビデオを観たから殺される、家に入ったから殺される、濡れ場のカップルは殺される。なんでもいいけれど、そういうルールによってホラー映画は進行する(もちろん例外はあるけれど)。

だからアスター監督がホラーというジャンルに意識的なのは、そういうことも関係しているのだろう。

「ミッドサマー」のホルガにしても、主人公たちにしてみれば理解不能ディスコミュニケーションの相手である村人も、彼らからすれば彼らなりのルールがある。

「ヘレディタリー」にしてもピーターには奇異な母親の行動も、箱の外からからみれば連綿と続く法則に依っていることがわかるし、光の正体も(パンフの小林さんの解説を読まずとも)類推することはできる。

まあ精神疾患を遺伝的・器質的なものとして扱うことを許すその精神性はいかにも西洋人らしいある種の傲慢さではあると思うのだけれど、「ミッドサマー」を観るかぎりだと本人も自覚しているのだろうか。

ともかく、アスターは多分、そうやって自分の映画の中に法則を作ってそれをメタ的に俯瞰することで(この映画のミニチュアという「箱庭」はこの映画そのものではないか?)安心したいのではないか。

世界の不条理を自分自身で掌握するために。アスターが映画作りをセラピーだと言ったのも、そういう意味ではないだろうか。

ハーレイに乗り回されよ

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PRAY」を観る。

観た人の感想でテンポが速い、というのを結構目にしたんですけど・・・うーん?

確かにカット割りの連続とかシーンの切り替えの連続で画面自体はめまぐるしく動くのだけれど、その見せ方自体は「スーサイド・スクワッド」と同じ手法を採用しているためにむしろ鈍重にさえ感じられました、私。

ただまあ、これは明らかに意図したものではあるわけで。

スーサイド・スクワッド」で受けた部分、つまりキャラクター(というかマーゴっと・ロビー演じるハーレイ)を前面に押し出し過剰に装飾することを今作でも採用し、前作ではさばけなかった「その他のキャラクター」を今回は「その他」にせず一人ひとり描いているのでそこまで気にする人がいないのでせう。

 

お話は雑ではありますが、「物語」は二の次にキャラクターに注力するその姿勢は801文化に通じる。とはいえ、実のところそれは「スーサイド・スクワッド」からのものであり、その手法を採用し連なる「ハーレイ・クイン」は図らずもフェミニズムの文脈に接近しているようにも見える。

とはいえそこに子細なテクストを読み取れるか、といえばかなり表面的なウーマン・パワーにとどまっているようにしか見えないのですが。

 

個人的にはハントレスが良かったです。どこかで見た顔だお思ったら「グラインドハウス~」や「スコット・ピルグリム」のメアリー・エリザベスさんだったんですね。

髪型のせいかやや面長に見えましたがぽんこつカワイイ。

 

まあでもいろんな意味でハーレイ(マーゴっと・ロビー)がジョーカー(ジャレッド・レド)をぶっ飛ばすシーンは欲しかったなぁ、と思います。

2連続

「ミッドサマー」と「黒い司法」を連ちゃんで観賞。おかげで感情が疲弊しますた。

 

アリ・アスター監督の噂自体は「ヘレディタリー」の時点で耳にしていたのですが、結局未だにそちらは観れておらず、「ミッドサマー」が初アスター作品だったわけですが・・・。

気持ち悪い映画でございますね、これ。いや本当、「ヘレディタリー」もこういう感じなのかしら?だとしたかなり食指が動くのですが。

ていうかこんな作家性が強くて強烈なグロ(狭義にも広義にも)映画がシネコンにかかっているというのがすでに気持ち悪いのですが。これ完全にミニシアター系でかかってるような気持ち悪さなんですけど。あとこのゴアの感じはヴァニラ画廊にありそうでもあり、やっぱりマスを向いた映画という感じがしないのですが。

 

ともかく画面が気持ち悪いです。

カット一つあたりの長さとそれに連なるカメラワークの肌にこびりつくようなのっぺりした感じ(曖昧)。なんかしっかり叫ばせずにカットいれるのもなんか気持ち悪いし、最序盤での異様にダウナーなライティングに反してあの村では白夜という常に日の光が注いでいるという、自然の持つある種の気持ち悪さもそう。あの序盤の暗さはダニーのメンタルのアレゴリーとして機能しているはずで、にもかかわらず半ば強制的に日の下に晒され明るく染め上げられるという不一致の気持ち悪さ。

都度都度シンメトリックな画が登場するのに、そこはかとなく左右対称がズレていたりする(スタンドライトの向かって右側の頭が若干もたげていたり)のも気持ち悪いし、会話のシーンにしても二人を画面に収めたりカット割ったっていいところでわざわざ鏡とかテレビ画面とか使うし。

ともかく、そういう「なんだか生理的に気持ち悪い」を詰め込んだ映画でございまして・・・ゴアな表現も耐性がない人にはかなりきついであろうシーンも多々ありますし、かと思えば笑ってしまうシーンも多々ありまして(交配儀式シーンとか熊の着ぐるみかぶらされて生きたまま焼かれるという、ともすればギャグにしかならないシーンなどなど)、そういう「笑ってしまう」ディテールというのもなんだか気持ち悪くて、とにもかくにも気持ち悪い映画でございまする。

ある年代の日本人的な感覚でいえば「まごころを君に」の、こっちとあっちの見解の相違もとい断絶が生み出す気持ち悪さ、とでも言いますか。

なんでテーブルに並んでる食事が蠢いているんですかね、ピント合ってないしぃ。花の鎧(語彙喪失)を引きずるピューの絵面のばかばかしさとか、聖典が安置されている建物のデザインとかとか・・・。

気持ち悪いディテールを一つ一つつぶさに上げていったら枚挙にいとまがない。伏線もしっかり張ってたり抜け目ないところもあるし。

 

しかしどことなく既視感を覚えたりもする。崖のシーンのワンカットなんかは明らかに黒沢清の影響だろうし、ドラッギーなシーンもどことなく見覚えがあったり。

 

ともかく異様で気持ち悪い映画でした、「ミッドサマー」。まあ、切ない話でもあるんですけど、初見だとそういうものより絵面のインパクトががが。

とか書いてて思ったんですけど、これ(ディス)コミュニケーションの話なんですね。

あ、パンフの装丁は凝っててよかったです。

 

それに比べて「黒い司法」の何と人に寄り添った分かりやすい映画であることか。

泣いてしまった。元々涙腺が弱いというのもあるのだけれど、これは泣く。

監督のデスティン・ダニエル・クレットンについては全く知らないのですが、この映画の前から評価されている監督だったのですな。

これまでの作品の感じから、マイノリティ(と呼ばれる)人を起用し寄り添った映画を作っているようなので、その文脈ではわかりやすい。ブリー・ラーソンマイケル・B・ジョーダンというとミーハーな私はMCUの被抑圧者イメージの文脈から起用したのかと思っていたのですが、デスティン監督の初期作からラーソンは主演を務めていたりするので、MCU文脈はあんまり関係なさそうです。早とちりはいかんですな。とか思ってたら「シャン・チー」の監督やるらしいし、やっぱりMCU文脈あるじゃんすか!

でもMCUってことはアクションシーン多めになる気がしますが、この「黒い司法」だけじゃアクションの腕前がどうかわからないのですが、「アメスパ2」の例もありますしその辺はもう分業体制にするのだろうか。

 

脇にそれてしまいましたが、先述のようにこの映画は登場人物に寄り添った映画になっておりまする。それは監督がハワイ州の日系・アイルランド系・スロバキア系の血を引くアメリカにおけるマイノリティ(と呼ばれる)出自だから、というのも大きく反映されていそうです。

まず顔面のアップが多用されている。いや本当、めちゃくちゃ多いです。そしてそれに耐えうる役者陣の表情の妙。

みんな軒並みよござんす。マイケル・B・ジョーダンは口元と目元の機微が特によくて、あらゆる場面で展開される差別(自分に向けられたものだけではない)への怒りを湛えた表情が絶妙。そりゃこんな目にあったらキルモンガーになりますよ。

あとジェイミー・フォックス。「ベイビー・ドライバー」の印象が残っていたし顔つきも割と鋭いタイプなのでどちらかというとバイオレンスを与える側っぽくもあるわけですが、しかし「コラテラル」「アメスパ2」などなど、むしろ不条理に巻き込まれる被害者を演じることが意外と多い「巻き込まれ系主人公」体質の彼。本作でも不条理に巻き込まれるわけですが、その自分の置かれた状況・世界に対する諦念と怒りの表出の仕方がこれまた良き。

こういう書き方をすると誤解を招きそうなのだけれど、監房の人たちもみんな輝いていた。演技というかほとんどナラティブそのもののようで、その語りそのものが。

忘れてはいけないのがマイヤーズを演じたティム・ブレイク・ネルソン。この人の口をゆがめた演技とか、ある出来事によって変質してしまったことが後で判明するわけですが、それを体現する身体の動きといい、この人も大概達者であります。

で、この寄り添い方で思い出したのは「チョコレート・ドーナツ」だった。そこはかとないカメラの揺れとかも含めて。

 

この映画にはあまり悪が強調されることがない。一人だけ悪徳オンリーな描き方をされている人がいなくもないのですが、そもそもあの人は一か所を除いてほとんど画面を占めることすらないわけで、誰もがカメラに据えられるこの映画においてそれはほとんど亡き者状態ではないだろうか。少なくとも、大きな構造としての悪はあっても、それを個々人に収束しようとはしない。

だからこそ、マイヤーズやトミーが正義を述べようとする際に、その葛藤として天秤にかけられるのは悪ではなく痛みや恐怖なのだろう。

正義の反対側の秤にかけられるのは悪ではない。本当の悪はその天秤そのもの=個々人を抑圧し破壊しようとさせるシステムそのものにある、ということ。

 

 

 

2020の2月

「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」

死者を見ること、それを受け入れることの断絶。

イェルチンがこの役、というのが今観ると泣けてくるというか、慰めになるというか。

 

 

「エアポート75」

あんまり派手な絵は無いのにしっかりどっしりしている。

 

「ナビゲイター」

アランシルベストリとはまた豪華な。

鉄道の線路を往復するリフレインが好きなのだけど、これってフェチなのかしらやっぱり。

なんというか、いわゆる一夏の思い出みたいな、ふとしたときに思い返すようなそんな名残のある映画でしたな。

 

「特捜部Q 檻の中の女」

音がきついです。なんかドラマっぽい。

 

「アビス 完全版」

だいぶ昔に通常版を観ただけだったので記憶がかなりあいまいだったんですけど、ここまで露骨に「2001年~」オマージュがあったっけ、と。

しかしこうやって見るとキャメロンってSF作家というよりもかなり男女のロマンスを重視する監督なんじゃないかしら、と思えてくる。

ターミネーターにせよアビスにせよアバターにせよ、そもそもタイタニックなんてど派手な絵面以外はそういう男女のロマンスというかイチャイチャでもたせてるようなものですし。

そう考えると、この人って結構フェミニズムと親和性がありそうな気がするんだけど、どうなのだろう。

しかし波の表現がいい。

 

戦場のピアニスト

きっつい。BGMがほとんど響かず、ときたま聞こえてくる音楽は戦火の音に瞬く間にかき消される。かと言って徹底してBGMを排しているのかというと、そういうわけでもない。それは劇中で流れる音楽のあわいに流れる些細な音でしかない。けれど、それは多分ノードなのだろう。シュピルマンの生を繋ぐための。

彼の依って立つ音楽なるものは鉛と火薬が奏でる巨大で強大なノイズによて容易くかき消される。なにせ、そのシーンからこの映画は始まるのだから。

「戦場」の「ピアニスト」。これほど合致しないものもそうないだろう。それは戦場においてピアニストという存在の無力を徹底する。シュピルマンは何一つとしてこの映画で活躍することはない。ただひたすら状況に翻弄され続け流されては救われていくだけだ。いや、正確にはラストシーンも含めて二か所あるのだけれど、あれは音楽の力がもたらしたものなのか、それとも諦めがもたらしたものなのかが実は巧妙に分かりづらく描かれていたりするのではないかと疑っている。

彼の無力はいとも容易く射殺されていくユダヤの人民たちの質量感や地平線まで続く廃墟のアーチの無限と錯覚する遠大な荒涼さによって裏打ちされてしまう。

 

すぐそこに首をもたげて横たわる「死」。生活と地続きのいつ訪れてもおかしくない「死」。ユダヤの民がこれほどまでに恐ろしい状況下にあったことを、この映画は強制収容所などといった巨大化した固有名詞を引用することなく、日常の中に死を潜ませる。それはほとんど「さよなら、人類」における強制収容所の悪夢のシーンを想起してしまうほどだった。

 

ことさら強調することなくに描かれる「死」。そこから生還した末に描かれる盤を打鍵する指の動き。

不動の「死」に対し流動し続ける「生」。

描かれる「死」があまりにも重すぎて「生」が押し負けていると思いますよこれ。

 

バッド・ルーテナント

そういえばヘルツォークの映画をまともに通して観るのこれが初めてだった。

これ一応フィクションですけど「日本で一番悪い奴ら」のような実録ものが日本にあるのにアメリカでああいうことがない、なんていうことはないわけで。

ニコラス・KGの過剰演技と相まって(どうでもいいですが和製ニコラスといえば藤原竜也が思い浮かぶ)爆笑ものでした。

私からすればあれはほとんど非日常の領域だし、警官とか軍人とかいった暴力(とりわけこの映画では。というかアメリカ?)と近接している職種の方々にとっても、あれはほとんど非日常なのではないかと思うのだけれど、ことこの映画のテレンスを見ていると日常と非日常の垣根が融解・・・というかインビジブルになっているのではないかと思う。

それはドラッグによる精神作用でもあるだろうし、きわめてマッチョイムズの蔓延するあの世界に適応せんがための精神的な負荷のせいでもあるだろう。というか、だからこそのドラッグなのかもしれないけれど。

さきほど例に出した「日本で~」の綾野剛にしたって、その一線を踏み越えることには自覚的だったし、まあなんでもいいけど「トレーニング・デイ」にしたってあれはイーサン・ホークという他者の視線を取り入れることでデンゼル・ワシントンがいかに非日常的存在であるかということを自覚させる作用があった。

んが、この映画ではそういった垣根を意識させるようなものが一見するとほとんどないように見える。

ともかく、悪徳を実践する中で、あらゆるボーダーが彼の中で見えなくなってきているのではないか。

署に賭博で儲けた金を持ってこられるシーンなど、それがテレンスの意思によるものではないにしてもほとんど狼狽などもせずに受け取るあたりなど目を疑う。

そこにくると、この映画で印象的に使われる爬虫類と魚類たちは何なのか。やすっぽいハンディカムで撮ったようなイグアナしかり冒頭の蛇もしかり。まあキリスト教的に言えば爬虫類というか蛇なんていうのは悪の暗喩であるし、魚はキリスト教にとって重要なシンボルであるわけだから、あのラストを見ればわかるように善なるものとして見れなくもない。

一人の人間が善悪を日常と非日常をボーダーレスに往来すること。そこには一切の間隙が存在しない無秩序な混沌が渦巻いている。

それは安らぎが彼の魂に安らぎが存在しないということ。そこまでさんざんハイテンションなテレンスが、ラストカットにおいてのみ静寂を得ること。

そのわずかながらの安寧=救いも、しかしニコラスの顔面や僅かな挙動が混沌への回帰を予感させる。

 

要するに躁なニコラスくんがラストで一瞬だけ落ち着いたという話です。

 

「X-メン ダークフェニックス」

いよいよジェシカ・チャスティンが人間をやめてしまった・・・。

これまで「モリ―ズ・ゲーム」や「ゼロ・ダーク・サーティ」において非人間化されてきた彼女が文字通り人間でなくなってしまった、という意味では記念碑的な映画でありましょう。

メイクのせいか、というか人間でないことを表しているのかどうかわかりませんが、非常に魅力の薄い顔でございまして、そこがまた非人間である彼女にとっては実は幸福な作用をもたらしているのではないかという気がしなくもないのですが。

まあ、それなりに楽しめはしました、はい。

 

ソウル・キッチン

雑貨屋みたいであのキッチンの空間がたまらなく好きなのでっすが、なんだか妙なテンションの映画でございます。

 

「スモールソルジャーズ」

うーん。こんな感じでしたっけ?

さいころに観たときはもっと超楽しい印象があったんですけど、なんか思っていたほどでもなかった。思い出補正なのだろうか。

ジョー・ダンテなので相変わらずブラックな感じだったり本気で怖い部分だったり、というのは一貫している。

しかしコマンドー連中ばかりにスポットが当たっていてほとんどフリークス連中に時間を割いていなかったりするのが、今見るとすごい奇妙なバランスに見える。

おもちゃ屋の店の名前といい、どことなく自己言及的でもあるんですよね、この映画。

 

ウイラード

なんですかこれ・・・いや本当に何なんですかねこの映画。

世にも奇妙な物語にありそうな、しかしここまで極端なバランスというのもそうはない気がするのですが。

しかしやっぱりなんだこれ。

なんか「銀河ヒッチハイクガイド」みたいなネズミの扱い方。

主人公の境遇を考えると、あれくらいの増長は許してやってほしくもないのだけれど。

あとボーグナインが久々に観れてよかった。あの人好きなんですよね、個人的に。

 

ザ・ファーム 法律事務所

面白い。いやほんと、これ面白いです。

こんなアクション性の薄い映画なのに走らされるトムクルーズ

音楽も良いし、ちょっと長いけどゲームものとしてはかなり面白い。

 

チェンジリング

なんか観た気になってたけどまったく観たことなかった・・・。

いやしかし凄いですねこの映画。

いろんな問題を孕んでいるのですが(アンジーの息子だけでなく、この映画内で描かれる児童「へ」の描写、公権力の腐敗とそのアンチとして浮上する臭いを放つ「オウム裁判」に似た問題、ミソジニーガスライティング・・・etc)、何よりアンジーの迫真の演技に魅せられる。手の震えのマジっぽさとか、放水シーンとかもそうですけど。

あとは「ダークサイド・ムーン」を昨日観返していたばかりだったのでマルコヴィッチのマジ顔のギャップに変に笑えてしまった。

まあイーストウッドなので相変わらず泣きはしないんですけど。

余談ですが頭に電気を流すあれ、私は実際の現場を一度観たことがあるのですが、もっと体が勢いよく「バツンっ!」って感じに軽く撥ねるんですよね。

あれを意識があってなにも脳の器質に問題がない人にやる、物理的というよりも心理的なダメージの方が。どうも部外者から見るとアサイラムって治療するよりもむしろ積極的にトラウマを植え付けにいっているようにしか見えないんですよね・・・最近の精神病院はもうちょい明るい雰囲気ではありますけど、地方に行ったらああいうのがごろごろあるのだろうなぁ・・・。

 

ファイト・クラブ

吹き替え初めて観たんですけど良いですねこっちも良いですね。

しかしこの映画を公開当時から称揚していた連中は現状を見てどう思っているのだろうか。

 

「ダラス・バイヤーズ・クラブ」

ウッドルーフは生きることに怠惰だったわけではなければ怠惰に生きていたわけでもない。ただ生(性)を貪っていたにすぎない。

だからこそあそこまで生き延びることができたのだろう。

 

メン・イン・ブラック インターナショナル」

妙に脚本がごたついているなーと思ったら製作段階でトラブルがあったんですね、これ。

日本公開時でのプロモーションではまったく感じさせないあたり日本の配給と広報はある意味で有能なのかもしれない。

MIBシリーズでは一番退屈でした。もったいない。

 

「アンノウン」

ジェイソンボーン系の映画では割と成功例ではなかろうか。あほっぽいところも含めて。しかしニーソンというだけでもう笑えて来てしまうくらいニーソンなのですが、ニーソンはセガールみたいな路線にでも行くつもりなのだろうか。

いや面白いんですけどね、それはそれで。

 

「海辺のリア」「裏切りのサーカス

なんか、前者はもはや仲代達也の仲代達也による仲代達也のための映画・・・もとい舞台といった趣。望遠も、奥行きを感じさせない画面構成も、1カット当たりの長さも、何もかもが仲代達也のナラティブに貢献している。

仲代達也の演技が凄まじすぎる。やばいです。

で、後者も後者でイギリスのおっさんおじいさん名俳優が雁首揃えてモグラ炙り出しとかなんかもうそれだけでおなか一杯。トム・ハーディの絶妙に似合ってない金髪もあれはあれで面白いのでよし。

 

犬(人)>人

これ主演ハリソン・フォードじゃなくてバックでしたね。いや本当に。

後半はダブル主人公な立ち位置ですけど、中盤までほとんど出番ないですしハリソン。

 

にしても、原作全く知らなかったのですが、リアル路線かとばかり思っていたので(モーションキャプチャーなのは知ってましたが)、しょっぱなから犬の描き方の擬人化度合いが完全にファンタジーのそれだったのでちょっと面喰らいました。

まあだからこそ今再びライブアクションとして映画化されたのでしょうけど。

ていうか監督のクリス・サンダースがアニメ畑の人だったんですね。「リロ&スティッチ」や「ヒックとドラゴン」の監督というのを見てあの犬たちのモーションも妙に納得というか。劇半も「ヒックとドラゴン」のジョン・パウエルですし、今回、劇半がいい意味でBGMとして機能していて、かなり端折ったりよく考えると気になる部分もあるのですが曲と映像の勢いでもっていってくれるのも、その辺のマッチング具合のなせる業でしょうか。

それとどことなく西部劇っぽいところがあったりするのは製作にジェームズ・マンゴールドがいるからだろうか。

 

冒頭に書いたようにこの映画はハリソンではなくバックが主役なのですが(日本版ウィキのキャスト欄にバックとテリー・ノートリーの項目がない。執筆者はやりなおすように)、じゃあ犬の映画なのかというとまったくそうではない。ちょっと調べたところだと、犬は一切使っていないようですし。

要するにこれ、人間を超えた犬を描くために人間の身体を依り代にしているわけですね。超人ならぬ超犬とでもいうべきでしょうか。

ヒトが犬をヒトよりも優れた存在として描き出すことは多分、無理なのです。だからヒトを超越した動物を描くために、人間の身体に犬を憑依させることでそれを達成したわけです。まあ、これはCGに限らず着ぐるみの時代からも行ってきたことではあるのでしょうが。

 

だからというべきか、この映画では人間のキャラクターはほとんどクリシェ的ですらあり、反対に半分「虚構」である犬こそが生き生きとしているのであります。どちらかといえば人間こそが添え物であり、それはハリソンも例外ではない。いや、良い演技してるんですけどね、ハリソン。金を掬っている皿に魚が置かれた時の笑い顔とか超萌えますし。

実際、劇中では犬が人間を助けてばかりいますし、オマール・シーが「バックがボスだ」と言うくらい(冗談半分だけど)犬がすべてを先導する。犬だけのシーンがかなり多いのも、それだけ超犬への自信が脚本家と監督にあったからでしょう。「これ人間なしでもいけますわ」みたいな。

超実写と言われた「ライオンキング」の例もありますし。

ただこっちは見逃していたりするのですが・・・。どうもディズニーは「ジャングル・ブック」あたりから動物の実写表現への注力ぶりが伺えるのですが、映画におけるテクノロジーを導入し続けるその指向性と資本力はさすがというか。

屋外ロケも一度もしていないというくらいなので、はっきり言ってしまえばこの映画のすべて、人間以外は作り物なわけです。

それはほとんどアニメーションである。

そう考えると、常にアニメーションの可能性をどこよりも誰よりも不断に模索し続けてきたディズニーは、実写映画化という手法すらアニメーションのテクノロジーに寄与させるための踏み台なのではないかとすら思えるほどです。

評論家の廣瀬さんがトークショーで「トイ・ストーリー4のウッディの顔に、私たちは(肉体を持った役者の顔に見出すように)見出すわけですよね(意訳&うろ覚え)」と言っていたように、ディズニーの実写に対するアニメーションの無限の敗北(project談)の歴史はここにきて異なる様相を呈しているのではないだろうか。

ただ、「ハウルの動く城」でもアニメーションでは不可能なことをある程度達成している、と氏は指摘していたりするのですが。

 

アニメーションはすべてが虚構である。それはまあ、ネットスラングの「絵じゃん」という突っ込みが適用されるように意識せずとも理解されているところではあると思う。が、ディズニーはそのアニメという「絵じゃん」という記号をテクノロジーによって超えようとしているのではないだろうか。

そう。だからあの時代に黒人がああいう職業に就いていることも、ポリティカリーコレクトネス的な云々ということではなく、「全部虚構なんだからいいじゃん。虚構の方が実物よりいいじゃん」というある種の開き直り、というか虚構の力で押し切れると踏んだのかもしれない。

いや、実際の歴史的にそういうこともありえたのかもしれませんが。

 

これ、ちょっとディズニー映画を実写とアニメーションの両方を全部追いきれてないのでわからないのですが、ディズニーはアニメーションによる実写映画への下克上を果たそうとしているのではないだろうか。

そう考えると劇中で示される「電報」という技術の誕生により犬ぞりで手紙を届けるという仕事自体が淘汰されてしまうことが示されるのですが、あれもなんだか意味深な気がする。

 

正直物語的には言いたいことは色々なくもないのですが、それもパウエルの劇半でそこまで違和感なく仕立て上げられてますし、許容範囲ではあります。

 

みんなが「ライオンキング」を観ていたときに思ったのはこういうことなのだろうか。たしかに、ここ一連の作品はかなり実験的ではある気がします。

 

その実験の先にディズニーが見出すのは、アニメーションによるライブアクションへの侵襲なのではなかろうか。

そこに到達したときに映画というメディアの在り方がどうなるのか。多分それは、死者をCGで再現することへの倫理問題とも合わさってくるのだろうけれど、実写映画における役者の不在、なんていうのも現実味を帯びてきている気がする。

 

余談ですがテリー・ノートリーさんは元々シルクドソレイユのパフォーマーだったんですね。そこから「グリンチ」や「猿の惑星」や「アバター」などにかかわってきたというちょっと異色な感じ。

 

 

 

 

 

 

 

「だってしょうがないじゃない」、だってしょうがないんだもん まこと

などと、みつを風トートロジーなタイトルにしてしまって本当に申し訳ない。後悔はしていないけれど。

 

 まあ実際、この映画は「しょうがない」ので。

そんなわけで坪田義忠監督の「だってしょうがないじゃない」観てきました。

 

「当事者にフォーカスしたドキュメンタリー」というあやふやな情報以外は前情報は一切なしで臨んだため、映画の途中で開陳される「とある事実」には、ちょっとした驚きはありました。

ただ、驚きはしても、実のところ映画冒頭の改札場面と、製作も担当している池田さんが撮影に加わってからの同じく改札のシーンで観られるように、その「とある事実」については周到に伏線(?)が張られていたりするので、驚きというよりはむしろ得心がいった、という表現の方が正しいのかもしれない。

この映画はドキュメンタリーですが、そういうギミックも使われていたりする映画だったりします。というか、坪田監督はもともと劇映画監督らしいので、そういう演出も得意なのでしょう。

 

とか書くと、なにやらウェルメイドだったり、もしくはマイケル・ムーア(に限らないけれど)のようにイデオロギーをバンバンに主張して観客を誘導していくタイプの、ある種の偏向性、といって悪ければ恣意性を含んだ映画と思われかねないのだけれど、そうではない。そもそもドキュメンタリーだろう劇映画だろうが「撮った」瞬間に恣意が介在するものだとは思いますが・・・ってこれ毎回同じようなこと書いてますな。

とはいいつつも、ある意味では確かに偏っている映画ではあるかもしれない。「全肯定」という意味において。

元々、編集段階ではタイトルが「大人の発達障害」だったらしいのですが、編集作業の中でまことさん含め「しょうがない」という言葉が頻出していたことから、この「だってしょうがないじゃない」になったとかなんとか。

 

しょうがない。それは一つの諦めの言葉のように聞こえるかもしれないけれど、しかし本編を観るとそういうものとも違うように思える。

「だってしょうがないじゃん、ねー?」と二人仲良く顔を見合わせて笑い合うようなイメージ、とでもいえばいいだろうか。諦観、というよりまむしろ達観に近いのかもしれない。気の抜けるトロンボーンも相まって、この映画は暖簾に腕押し・柳に風といった、負荷を受け止めるのではなく受け流すしなやかさを湛えているように見える。

 

けれど一言に「全肯定」とはいいつつも、そこに至るまでには葛藤はあったはず。それは劇中でも「とある事実」とそれに連なる物事という形で監督が自己開示しているし、副読本的なパンフレットからも読み取れる。そういった、観客に伝わるナラティブ以外にも色々とあったに違いない。

だからこそ、この映画は肩ひじを張らずにあけっぴろげにしてしまう。

考えておくんなしい。肩ひじ張った神妙な映画のどこにJKのパンツ写真集をどアップにするシーンが出てこようか。

深刻な社会問題を考えようと訴えるような映画のどこに、「お茶のみに行こう」と言った人物が次のカットでは酒を飲んでいるなどというとぼけたシーンを入れるだろうか。

いい年したおっさんたちが「隠してたエロ本が見つかってしまった」という話題を出汁に、高校生の放課後の益体のない駄弁りじみた井戸端会議を展開するシーンのどこに格調高いものがあるだろうか。第一、元はあんな大胆に鎮座させていたエロ本なのに、それが叔母に見つかったという事実がもうすでにくだらなすぎるわけで。

(ただまあ、よく考えるとこのホモソーシャル空間を公衆の面前にさらすのは些か別の問題を含んでいそうな気もしなくもないのですが)

 

要するにこの映画、極めて卑近なのである。映画そのものが。

 

障碍者・・・にかぎらず、社会的にマイノリティ・弱者とされる人々を「扱う」映画では、往々にしてその当事者が背負わされてきた負の側面を描き出し、我々が考えなければならない「深刻な問題」として突きつける鋭さを持っているように思える。

近年であればそれこそ是枝監督や彼が尊敬するケン・ローチ監督なんかはその筆頭だろうし、ポン・ジュノにしたって前者に比べればフィクション性やエンタメ性が強いにしてもその映画が問題を提起しようとする際の鋭利さは劣らない。

 

翻って、この映画はどうだろうか。そんな鋭利なものは感じさせない。

精神や知的とされる人を描いた映画は目につく限りでも、直近だと「ザ・ピーナツバター・ファルコン」や「500ページの夢の束」なんかはライトな作風ではあったけれど、それにしたって「だってしょうがないじゃない」ほど気負っていなかったか、といえばそんなことは全くないわけで。まあ劇映画なので物語が要求されるのは仕方ないことではあるかもですが。

 

では「だってしょうがないじゃない」はどうしてそんなことが可能だったのだろうか。それは多分、監督自身が当事者である(という自覚を獲得した)からだ。

当事者としてカメラを持ち、またもう一人の当事者としてまことさんと一緒にフレームに収まることで、発達障害/知的障害といったものを客体化させず自身の延長として捉え直すことができたからこそ、ここまで影を絶つことができたんじゃないかなーと。

 

でも個人的にドキュメンタリーで監督に限らず作り手が前面に出てくるものは(主となる被写体が監督自身だとかのセルフドキュメンタリーとかはともかく)抵抗があるタイプだったりする。

というかまあ、映るかどうかというよりも「どう介入するか」とか、それがもたらすものが何かを本当に考えているのか、ということに無頓着なものが嫌いなのだす。具体的な名前を挙げると「ソニータ」のことなんですけど。あの映画における制作側の著しくボーダーを踏み越えた介入は、「それ以外の他者」を排他してしまう結果をまったく引き受けていないように見えて、それ以来どうにも作り手の介入に対して敏感になっているのでせう。

「だってしょうがないじゃない」ではむしろその逆で、当事者としての監督が積極的に出てくることでむしろそれを引き受けている。パンフレットでも監督が言及しているように、その身体性によって。

 「ザ・ピーナツ~」にしてもザック・ゴッサーゲンという当事者をメインに据えてはいても監督は当事者ではなかったし、「500ページの~」だって監督は松葉づえを必要とする「身体」障害当事者ではあったけれど、映画で描かれる「精神」の分野として扱われる自閉症の少女とは違う(その違い自体が一つのグラデーションではあるけど)。

 

先に挙げた鋭さを持つ映画というのは、しかしその映画が持つ鋭さがとても非日常的な体験を観客にもたらし、かえってその問題から距離を置かせるようにすら思えてしまう。

だからこそ、この映画が持つ卑近さというのは、すぐ隣に彼らがいるという、観客の地続きの日常の存在であると意識させる点において、前述した映画たち以上にその映画たちの視座する位置にある(かっこつけてかっこよく「脱構築されている!」、とか言えればいいのですが、いかんせん私は哲学とか美術とかに疎い人間なので)。

そんなふうに影を見せずにいながらも、ケン・ローチ的なイデオロギーを図らずも体現しているようにすら見える。

ケン・ローチは是枝監督との対談で「弱い立場にいる人を単なる被害者として描くことはしません。なぜなら、それこそ正に、特権階級が望むことだからです。彼らは貧しい人の物語が大好きで、チャリティーに寄付し、涙を流したがります。でも、最も嫌うのは、弱者が力を持つことです。」と言ってたけど、それは何も貧困層と富裕層にとどまらなず、障碍者と健常者の間にも適用されうる。

つまり障碍者を弱者とみなし、だから助けなければならないと、一見すると思いやりに見えるそれも、その実は当事者から主権を奪う「簒奪」にほかならないわけで。

実際、この映画の中でも後見人たる叔母さんとまことさんの関係が、家をめぐる問題が浮上した際にそのような上下の関係があることが見えてくる。

それは今の複雑な制度が敷かれた社会においては仕方のないことで、正当性があること自体は間違いないのだけれど、でもやっぱりそこに何か気持ち悪い権力構造が働いているように思えてくるのは、私がそういう人たちと距離の近いところにいるから、というだけではないはずだ。

そもそも、その正当性はだれが与えているのか、ということになりますし。

 

ではまことさんは弱者として描かれているか? 論ずるまでもなく、そんなことはない。むしろその逆で、まことさんはまさにその肉体でもってそんな視線をはねのける。

この映画ではまことさんの裸体がまあまあな頻度で登場する上に、ラスト近くでは入浴シーンに至るのですが、その肉体は還暦を超えてなお筋肉がついているのがわかる。それはおそらく、まことさんがかつて自衛隊にいたころの名残(マッスルメモリーとか運動学習とかとか)なのだろう。あにはからんや、意図せずしてまことさんは弱者として客体化されることをその身でもって否定するのである。

 

卑近でありながらも、しかし問題は問題として提起する。これはもはやケン・ローチや是枝監督以上に彼らの目指す先を行っている・・・気がします。

 

そもそも私自身は、はなから「~障害」を引き受ける身体を弱さと直結するような考え方をしていなかったというのもある。

以前、ここで↓書いた最後の一文に連なるのだけれど、

https://dadalized.hatenadiary.jp/entry/2019/02/14/220115

まさにその体現者として、むしろ、社会の要請する成長・適応を否定する彼ら障碍者の身体性は、存在それ自体が現代社会への批判を含んでいるのではないか、とすら思っているので。存在自体がロックな人(なんだか甲本ヒロトみたいでかっこいい)。そう考えると、劇中で都度都度写し撮られるまことさんの「こだわり」も、妥協を許さぬ職人の一挙手一投足を捉えたものとして再定義できまいか。

 

というか、単純に私は発達障害というのがうらやましくもあったりする(これって不謹慎でしょうか?)。

というのも、自分が「この人面白いなぁ」とか「この人頭いいなぁ」と憧れる人の多くが発達障害であることが多く、その障害特性というのはこの社会においては生き辛さではあるかもしれないけれど、その「力」は持たざる者にとっては同時に大きな魅力としても映るのです。それなりにーーーヒキニートやってたこともあるしそれ以外でもいろいろとアレなこともあったので、あくまで「それなり」。人並みではないかもーーー社会に順応できてしまっている自分としては。

だけんど、順応とは屈服の末の従属を言い換えたようにも聞こえてしまう。

とはいえ、この考え方はルサンチマンからくる歪みが大きく関与していることは自覚しているし、一歩間違えば「障害」というものを免罪符にして自分の愚鈍さや怠惰さを育んでしまいかねない。

これはそれこそ「自己責任論」みたいに、どこまでが自分のものでどこからが世界とのかかわりの中で生じる葛藤なのかがいまいちわからない、明瞭さを欠いた問答だからかもしれない。

精神疾患にしてもそうだけれど、これまでは心を病むことを弱さとして受け止められてきた部分が少なくないと思う。けれど、私にしてみれば心を病むことができるというのは繊細な強さの表出として映る。

無論、これは私がそういう人たちに投射する身勝手な視線でしかないことは重々承知しているし、少なからず当事者と接することの多い身でもある(現在進行形でADHDかつASDの人ともかかわりがある)から、当事者の誰もかれもがその「強さ」を坪田監督やその他多くの私がリスペクトする人たちのように「表現」として発露できるわけではないことも分かっている。

 

それに何より、この考え方やこの映画の「全肯定」というものには危うさもある。

宮口幸治さんが「ケーキの切れない非行少年たち」で指摘するように、「褒める教育だけでは問題は解決しない」といった問題点にも通じるものがあるし、それにさっきはああ書いたけど、叔母さんとエロ本にまつわるエピソードは「エロに厳しい口うるさいママンにがみがみ言われて七面倒くさいから男だけでだべる」といった呑気なものとしてだけ受容するのは無理だろう。

 

でも、パンフレットで森さんがまことさんとのやりとりから「寅さん」を見出すように、その「成長しないこと」というのはやはり現代に在っては一つの強度を持っていると思う。

そもそも、(森さんは知ってか知らずか・・・さすがに知ったうえで書いてるのかな。そこまでパンフでは言及してないだけで)「フーテンの寅さん」のフーテンとは元をたどれば瘋癲(ふうてん)のことであり、その言葉は精神疾患を意味していたものだ。しかし「瘋癲」という言葉は寅さんというキャラクターを通じて「フーテン」という言葉へと転化され、「まったく『しょうがない』奴だなぁ、あの人は」といった、相手の認識を融解させ肯定的なものへと再構成してきた歴史がある。ように見える。

なればこそ、やはり精神障害/精神疾患というものが、私が憧憬するような「世界を変える力」を持っているというのは、あながち間違いではないと思う。

だから甘い汁をすする人は恐れるのかもしれない。福祉とか、そういうのを。

 

ほかにも傾聴ボランティアのこととかについても自分の経験に引き付けて書きたいこともあるのですが、あんまり自分のことを知られるのは嫌なのでこの辺にしておきませう。

 

最後に余談、というかすごくどうでもいいことなのですが、まことさんの棚に飾ってあったライダーのフィギュアは平成の物が多かったわりに、家のカレンダー?のとこに一緒にかけてあった手描きと思しき絵は初代の1号だった気がするんですけど、まことさんは平成と昭和のどっちの方が好きなんだろうか。

 

あ~幸せになりたい。

中村和彦監督映画「蹴る」(ダイレクトマーケティング)

タダより安い物はない。というわけで無料の上映会があったので行ってきた。

タダで観れてしかも去年公開の映画なのにパンフレットまで買えて監督のトークも聞けて言うことなしでございます。金がなくて観たい映画をスルーすることは結構あるので。途中で製作資金が尽きて製作会社が降りて監督のポケットマネーで制作を続けた、という話を聞いて若干後ろめたくもあるのですが。まあ区の講座だから公的にお金が出ていると信じたい。

たまたま掲示板を見かけなかったらこの映画とも出会わなかったであろうことを考えると、一期一会の縁に感謝感激雨霰、恐悦至極でございます。

そう思えるくらい、観れて良かった映画。

 

 

間違いなく今年観た中でベスト級の映画。というか、この一年の中でもベスト級の映画でございました。


中村和彦監督のことを知っている人がどれだけいるのか分かりませんが、少なくとも私は今回の上映会まで寡聞にして全く存じ上げませんでした。

それにしても、こんな傑作を手掛ける監督がポケット・マネーで映画を作らなければいけないとはいやはや世知辛い。どうでもいい映画ばかりが取りざたされてこういう良い映画が埋もれていくのは困る。情弱な私としては特に。

中村監督の一連の監督作のテーマからすると寡作ではありつつも社会派な、特に障碍福祉分野にフォーカスしているようにも見えるのですが(例外的なのもありますが、3.11に関しては意識的な作り手からすれば避けては通れないのでしょう)、ウィキペディアの映画以外の仕事を見ると障碍福祉よりもむしろサッカーへの関心が先にあることがわかる。

というか、監督自身「もともとサッカー(を見るのが)好きの野球部少年で、その延長として障碍よりも色々なサッカーのゴールシーンを並べたくて、調べていくうちに障碍者サッカーの存在を知ったことがきっかけて一連の作品を撮ることになった(超意訳)」と言っていたくらいですので、サッカーに興味津々なのは間違いないでしょう。

(全く関係ないんですけど映画にかかわる人でサッカーに入れ込んでるという人が多い印象があるのですが、一体何が彼らを引き付けるのだろうか)

もしかすると、そうやって「サッカー」が「障碍者」に先立っているがために、この映画が障碍者を映したほかの凡百のドキュメンタリーや劇映画とは異なっているのかもしれない。そこまで障碍者をテーマにした作品を観ているわけではないですが。

この「蹴る」は電動車椅子サッカーを題材にしたドキュメンタリー映画なのですが、チームスポーツをたしなんでいた人や介護の現場について思いをはせたことのある人が観たらかなりくるものがあると思う。

実際、私はその両方の要素に僅かばかりとはいえかかわりがあって、だからこそここまで興奮している、というのは否めない。


けれど、そういう経験の有無にかかわらず、観れば圧倒されるはず。

この映画はすべてのプロのチームスポーツ・・・という枠を超えて「個人」と「組織」の間で生まれる二律背反、あるいは個人そのもの、そのシステムの中で身体障碍者ということからどうしようもなく導出されてしまう身体性、そういった極めて個的なものとその集合としての組織の持つ歪みといったものをつまびらかにしてしまうのだから。

それは私が都度都度名前を挙げるオリバー・ストーンの「エニー・ギブン・サンデー」にも通じる「プロ」「チーム」「スポーツ」の持つグロテスクさを、「エニー~」が資本主義的でホモソーシャルなマッチョイムズの清濁から切り撮ったのとはまた別の断面から見せてくれる。正確に言えば金の絡む話もラストあたりの東さんの発言なんかからも垣間見えなくはないのですが、「エニー~」のような個人の思惑を超えた制御不可能な大きなシステムとしてのキャピタリズムは立ち現れてこないので。

先に書いたように、この映画は電動車椅子サッカー取り上げたものなので、サッカーつまりチームスポーツの世界をカメラに収めたものであります。
ではそもそもチームスポーツとは何か? 個人のプロスポーツとは何が違うのか?
それは文字通りチーム=組織であるか否かということ。

組織ゆえに「個人」では生じえない「個々人」の葛藤が生じる。個人種目であれば競技上のすべての責任は己にあり、対峙するのは対戦相手という絶対的な他者のみ。

んが、チームスポーツにおいては、対戦相手以外にも対峙しなければならない「チームメイト」という相対的な他者がいる。そしてチームメイトという他者は、競技の内だけでなく外においても常に意識しなければならない存在なのでせう。

加えて、ただでさえ誤魔化しのきかない実力主義の競争原理がすべてを支配する(裏で色々な力が働いていたりするのでしょうが)「スポーツ」に、さらにその原理に拍車をかける「プロ」という要素が加わることで、「チーム(組織)」や「スポーツ」というものが本質的に内在するグロテスクな構造がより鮮明に浮かび上がってくる。

まあ、そもそも「スポーツ」というものが「闘争」の代替物であるというのはある程度の真であろうし、それが「チーム」という個を超えた集団となりその極北としての「国家」間の「闘争」が「戦争」なのだと考えれば、そのグロさというのは当然なのかもしれない。オリンピックで国旗を背負わされるアスリートの姿を見ていればその違和感のなさに違和感を覚える。

スポーツとは運動であり、人間の身体は運動によって健康を保ち、健康な身体というものはそれだけで病気などのリスクを減らし生存の可能性を高め、さらに立ち返れば我々ヒトの先祖はその健康な身体を駆使することによってエネルギー源としての食糧を得て、さらにその生存可能性を高めるようにできているわけで、人間・・・というか生物というものはその存在の根幹からして闘争(と逃走)を避けることはできないのではないか、とも思ったりもする。

だから戦争というものは、宗教的なイデオロギーとかそういうのとはまた別に人間の機構として組み込まれているものが、集団になることで増幅された結果なんじゃないかしら、と。

この辺の考えは一歩間違えるとレイシズムとかピーター・シンガーみたいなパーソン論に行ってしまうので気を付けなければいけまへんね。はっきり言って、だれでも植松聖になりえると思いますし。

それはともかく、そういう「スポーツ」の世界に健常者という変数の代わりに身体障碍者という変数を代入することで、健常であることに慣れた我々には見慣れない世界がスクリーンに映し出される。

そして、「組織」なるものはそういう「個人的」なものを覆いつくしてしまうということを、図らずも(とか書くと侮りすぎ?)この映画の構造そのものが体現してしまっている。


とはいえ、基本的にこの映画は個人個人に(特にこの映画のきっかけとなった真理さんに)焦点を当てているから、カメラに映し出される人たちを観て真っ当に感情を揺さぶられる作りになっている。

特に、私自身もかつてサッカー(部活動レベルですが)をしていたこともあって、セレクションの厳しさや後輩にスタメンを取られる悔しさなんかを思い出して胸が熱くなったりしましたし、東さんがトッププレイヤーの動きを観て感嘆するのにも「あるある」と頷いたりもした。

常に場面が流動し続けるサッカーなどの競技において、その一連の流れがゴールに結びついた瞬間の高揚感や羨望や憧憬は近ければ近いほどに強くなる。その点で、同じフィールドでプレイしていた東さんからすれば、ワールドカップのフランスVSアメリカの試合は特に強烈だったに違いないことは、その反応からも窺える。もちろん、だからこその悔しさや後述するような抗いようのない壁を痛切に意識せざるを得なくなるのだけれど。

これはもしかすると、観客として観ているだけでは伝わらないプレイヤーならではの共感かもしれない。そういうのは抜きにしてもVSアメリカ戦のフランスのダイレクトパスで素早く相手の守備を突いてあっという間にゴールに放り込むボール回しは誰が観ても圧巻のプレイングだろうと思う。

ほかにも試合用のマシンの調整を行う場面などは、シューズを選ぶときの「自分に適合したツールを見出す」わくわく感にも通じているし、細かいところで言えば1対1の練習や壁に向けてボールを当てて跳ね返ってきたボール(私の地元では「蹴りま」と呼んでいたっけ)をまた壁に返していく一人ラリーの練習もよくやることだった。

もちろん、いずれにしても全く同じというわけではないけれど、個人に焦点を絞ることによって、あまり取り上げられることのない些細な練習の風景一つをとっても、その風景が色彩を帯び観る者の記憶を掘削する。

 
一方で、それ自体がおいそれとした共感を阻む要素として身体の違いが厳然と横たわっている。この映画で描かれる電動車椅子サッカーの選手たちの思いは、そのほとんどが各人の身体と切っても切り離せないところにある。
たとえば電動車椅子一つとってみても、さっきは自分に合ったツールを選ぶわくわく、という風に表現したけれど、動きやすく蹴りやすくするというあくまで付加的なツールとしてのシューズを選ぶ健常者のサッカー選手に対して、彼女たちにとっては一口にツールと言ってもそれはもはや付加的なものではなく足そのものであるはずなのです。

冒頭で永岡さんが「そもそも歩いたことがないから歩き方がわからない」と言ったように。だから、気軽には選べないし(そもそも金がかかるし)入念に調整を加える必要がある。そこには楽しさ以上の懸念や憂慮なんかも多分に含まれていることだろう。

まあ、これは障碍者スポーツに限らないことだというのは、昨今のナイキの厚底シューズの問題が証明してもいるけど。今後もテクノロジーと人間の身体の関わりという問題はもっと避けがたいものになるでしょう。

もっとも、呼吸器のことからも分かるように、テクノロジーの存在は彼らにとっては健常者以上にその身体と不可分であるわけだから、采配の如何がもたらすものは厚底シューズのレベルではないと思うけれど。

これは何もスポーツのことだけではない。電動車椅子サッカーを取り上げつつも個人にフォーカスする(せざるを得ない引力を、彼ら彼女らの身体は有している)この映画は、選手の競技外の日常をレンズに収めていく。
そしてその日常においてこそ、彼らの身体が抱える生き辛さが前面に押し出されてくる。

メインに永岡さんと東さんという二人を据え、さらに他の選手にも二人ほどではないにせよ尺を割くことで、同じ障碍者競技の、同じチーム(ではないのだけど。厳密には)の中であっても、その身体には明確なスペクトルの違いがあることがわかってくる。ソーイングができる永岡さんがいれば、L字型のフォークを使い細かく切ってもらわなければ食事がとれない有田さんがいれば、「2001年宇宙の旅」さながらのペーストでしか食事ができず、しかも本当なら楽しみとしてあったはずの食事が苦痛となり、生きるための営為が苦しみと重荷に直結している東さんがいる(この辺に関してはパンフレットにも載っている東さんのブログの引用なんかを読むとその並々ならぬ思いが伝わってきます)。

だからこそ、PF1とかPF2とか、それらの区分の中でさえも違いあるような、その大きく多様なスペクトルがあっても、そんなものに関係なく一丸となって取り組めるのが電動車椅子サッカーだった・・・はずだった。

ところが、映画終盤、そのスペクトルのすべてを包括(インクルージョン)してくれると無邪気にも思わされた電動車椅子サッカーは、その実フィジカルの差が、電動車椅子であるがゆえに如実に現れてくるのかもしれないことがワールドカップの決勝戦で突きつけられてしまう。

だから東さんは一つの大きく絶対的な壁に打ちのめされてしまった。 東さんだけではない。肺気胸のリスクのせいでそもそも海外に行くことにドクターストップがかかり本人の意思や実力とは無関係に試合から降りなければならない人だっていた。
それは彼らの身体性から生じるものだ。

また「蹴る」が捉える日常風景の中には、健常者が当然のように営為する恋模様もある。

全体の比重としてはそこまで多くはないし、監督自身も障碍者の恋愛についてもっと描きたかった、と言っていたりするのだけど。

確かに、もう少しその辺を掘り下げることもできたかもしれないけれど、その短い尺の中でも見えるものはあった。そもそも実際の撮影期間は6年なわけで、それだけの時間があれば関係性も変容するものであるし、実際その変化を真正面から撮影している。

それに、短くとも東さん・永岡さん・有田さんら三者三葉の恋模様(有田さんは既婚だから少し違うんだけど)を並べることで浮上してくるものが確かにあった。1組だけに注力していただけでは見えてこなかっただろうし、かといってこれ以上の尺を取ることは難しかったのだろう。消去法としての取捨選択の結果でしかなかったとしても。

そして、それはやっぱり、健常者同士の恋愛とは違う世界なのだった。それにもかかわらず、その恋愛の中からは障害の有無に関係ない他者との関わりという普遍的な命題が現出してくる。

永岡さんと北沢さんの当事者同士の二人は、一見すると順風満帆に見える。けれど二人のデートにはヘルパーが付き添っている。それがどういうことなのか、どう二人が感じているのかまではわからない。ただ、健常者の世界に慣れた自分の感覚では、デートに交際相手以外の誰かが付いてくることに、違和感を覚えずにはいられない。

ただ、おそらく、こと恋愛模様に関しては永岡さんと北沢さんのペアよりも、むしろ東さんと有田さんたちのパートナーとの関係性について対置させて描きたかったのだと思う。というのも、恋愛だけではなくサッカーに対するスタンスにしてもこの二人はかなり対象的だからだ。

まず恋愛についてだけれど、東さんとその交際相手の健常者の彼女は、付き合い始めたきっかけを二人仲良くカメラに収まって話してくれていた。んが、撮影を進めるなかで二人は別れてしまう。

その理由は、介護しなければならない者としての自分と恋人としての自分の乖離でもあっただろうし、やはり永岡さんと北沢さんのデートでもそうであったようにヘルパーという第三者が介在することで二人きりの時間が取れなかったこと、あるいは東さん自身が明言していたようにサッカーを何より最優先する東さんの価値観に疲弊し、ついていくことができなくなったこともあるだろう。

果たして、これが健常者同士、あるいは永岡さんたちのような当事者同士だったとしたら、あのような結果になっていたのかどうか。

健常者としての感覚と障碍者としての感覚。その断絶に、二人は耐えきれなかったのではないか。ヘルパーの存在は、彼女にとってみれば東さんにとって必要不可欠であるとわかっていても(わかっているからこそ)二人だけの時間を阻む邪魔者でしかない。けれど多分、東さんにとってはヘルパーの存在は、ともすれば彼女よりも慣れ親しんた存在であったかもしれない。だとすると、そこには埋めがたい感覚があったことは想像できなくない。

当事者同士であり感覚を共有しているであろう永岡さんと北沢さんは、少なくとも劇中ではヘルパーがいても円滑に交際できているように見えるのだから。

だとしたら、サッカーに向ける情熱を彼女が理解しきることができなかったのも、やっぱりその身体性の差から生じるものなのではないか。

というのも、もし東さんが健常者だったとしたら、果たしてそこまで身を削ってまでサッカーにあれだけの熱量を持てたのかどうか疑念を向けざるを得ないからだ。

あれだけの熱意というのは、東さん自身の身体がもたらすある種の絶望を振り払うためにあるのではないか、と。

もし生きるためのよすがとしてあるのだとすれば、大げさではなく生き甲斐としてあれだけの熱量を持つことができるの当然だ。だって生きるためなのだから。

観客はそれを理解できるけれど、それは場外だからこそ客観的に観れることもさることながら、「死んでも構わない」と言うほどの、東さんと同じようにサッカーへの思いを、語り部としての永岡さんを通じることで東さんの情熱へ近接できる(けれど決してそこまでは到達できなない)からなのでせう。

それに、6年という撮影期間の間に亡くなった選手が何人かいたことを観客はすでに映画の中で知らされているから、というのもあるだろう。選手の葬儀が示すように、彼らの身体は健常者のそれよりも死が身近にある。だからこそ東さんがサッカーで全力に、それこそ狂気的に生きることに、その狂気を狂気としてではなく熱意として受け止められる。

食事という生存方法を捨ててサッカーという生存手法を選び取った東さんにとって、サッカーは文字通り生きるための術なのだろう。それは健常者でありヘルパーを必要とせず呼吸器を必要とせず車椅子を必要とせず食事を美味しく味わうことができる彼女には理解しがたい苦しみであり快楽に違いない。

サッカーそのものにかんしてもそうだけれど、内部にいては見えないもの、というのは確実にある。それこそが本当の意味での客観性、というやつなのだと思う。

うん。「さよならテレビ」でうすうす感じていたことが、さらにはっきりした気がする。


では健常者と障碍者の間の断絶は乗り越えようのないものなのだろうか。いや、そんなことはない(反語)。
なぜなら東さんたちが別れてしまった一方で、東さんたちにも在りえた可能性として有田さん夫婦がこの映画では描かれているのだから。

もちろん、すでに述べたように東さんと有田さんにしたってそこには障害の違いがあるしサッカーに対するスタンスの違いもある。だからこそ断絶を乗り越えられる、ということでもある。

それは障碍者だからとか健常者だからとか、そういうラベリングに囚われることなくその人個人を見つめるということだ。

とはいえ、それは言うほど簡単なことじゃない。有田さん夫婦にしたって、そこには前述したような東さんたちが直面したヘルパーという第三者との折り合いのつけ方だったり、夫婦であることによってより介護の現実に向き合わなければならなかったはず。

映画の中では、有田さんはすでに結婚していたから振り返る形ではあったけれど、それまでの葛藤の結実としての「夫婦」という形だけがスクリーンに投射されるからこそ、二人の「絆」(この言葉に含まれる二重性は、まさに二人に適していると思う)が示される。

有田さんは東さんに比べてリアリストな側面があって、自分の身体との折り合いをつけて生活のためにボッチャに転向するフットワークの軽さがある。それは東さんのサッカーに拘る一極集中の生き方とは違う。有田さんに比べると東さんの生き方は己を削りそのサイクルの中で他者を削るような常に全速力で燃え尽きようとする生き方で、それに身近にいながら共感し理解できる人はそうはいない。

そこに恋を芽生えさせたとして愛にまで育むことは難しいのかもしれない。東さんの生き方はほとんど漫画みたいなものだから。

誤解してほしくないのは、どちらが良いとか悪いとか、善し悪しの問題じゃなくて、それは生き方の違いでしかないということだ。ただ、その生き方というもの次第で、生き辛さを感じることもあるだろうし孤独になってしまうこともあるだろう、ということだ。

東さんの生き方はマイノリティかもしれないけれど、個人的にはむしろあのがむしゃらに全力で生きる姿にこそ憧憬を覚えるし、社会があの生き方をサポートできるようにあって欲しいと思う。

建前としてのソーシャル・インクルージョンなんかじゃなくて。まがりなりにも福祉を学んだ人間としては、そう思う。
まあ、当事者は「受け入れる、なんて何様だ」と言いいそう(というか言われた)だけれど。

これら個人個人の身体の発露はハリー・ディーン・スタントンの「ラッキー」を想起するほどだ。あちらは障碍ではなく万人に共通する「老い」についてのものなので、ちょっと趣は違いますが、晩年のル=グウィンが語っていたように、当事者の肉体があってこそスクリーンから濃密に照射されるものであることに違いはない。その意味で「蹴る」は同じ位相にあると言っても過言ではないと思う。

 〔余談ですが、障碍者の恋愛でいえば、ちょっと前に劇映画では車椅子のおっさん(リリー・フランキー)が精神障害の若人(清野菜名)と恋愛を繰り広げる「パーフェクト・レボリューション」とかありましたが、当事者はあれをどう観るのだろう。公開当時に観たときは「いい映画だなぁ」と思ったりもしたのだけど、今振り返ると性別と年齢差にそこはかとない危険ににほひを感じたりもするのだけれど〕

 
 しかし不思議なことに、そうして個人に寄り添い写し取っていくと、そのやりとりや独白によって彼らが織り成す「チーム」という形態の実体が、むしろ彼女らを囲ってしまう存在として浮かび上がり、個人を差し置いて全面に展開していっていしまうように見える。

 
それが極に達するのは2017年のワールドカップ

永岡さんを起点にしていたはずのこの映画が、あろうことにハイライトともいえるシーンで永岡さんにカメラを向けることがないのです。当然だ。あの場に永岡さんはいなかったのだから。

監督にはワールドカップではなく永岡さんに焦点を絞るという選択肢もあったはず。けれど、そうはしなかった。そうではなく、ワールドカップに出場した選手たちの総体としての日本代表というチームにフォーカスをした。そうせざるを得なかった。多分、誰が撮ったとしてもワールドカップの方を撮っただろうとは思う。

極めて意地の悪い言い方をするならば、それは個人を蔑ろにして組織に照準を定めたともいえる。

もちろん、永岡さんと並んで映画の中で存在感を放つ東さんがワールドカップに出場していたのだから、個人にフォーカスしていると言えなくもないだろう。ただ、もし仮に東さんが出場していなかったとして、監督はワールドカップを撮らなかったのだろうかと考えると疑念が残る。

勘違いされないように断っておくけれど、別に監督を批判したいわけじゃない。そういう個人の意思とかそういうレベルではない、その内部にいては知覚することのできない不可視で巨大な環境管理型権力の一形態としての組織(とそれが発生させる「大きな流れ」ーーこの映画ではワールドカップがその「流れ」)の持つ重力なのだと思う。

これがもし個人競技だったら、たとえ落選したとしてもワールドカップではなくその落選してしまった個人にカメラを向ける可能性が高い。それこそが組織と個人の違いであり、組織というシステムが内在する歪な構造なのだと思う。

 その歪な構造、チームスポーツ(=組織)が内在する二律背反が垣間見えるシーンはほかにもある。それは日本障がい者サッカー連盟会長の北澤さんと永岡さんの会話場面でのやりとりだ。

北澤さんは「代表っていうのは自分だけではなくて、人のためにやる場所」と言う。

もちろん、これはおためごかしでも欺瞞でもなくて厳然たる事実だ。チームスポーツはチームメイト全員の動きを把握してチームそのものに貢献しないと勝てないのだから。

だけれど、この北澤さんの言葉は、一面的には正しいけれどそれがすべてじゃない。もっと別の側面がある。そして、それはこの場面の前に、永岡さんが代表落ちしたことが物語っている。

代表落ちしたということは、ほかの誰かが代表になるということだ。それはオブラートに包まずに言ってしまえば、仲間同士での蹴落とし合いに他ならない。

強敵と書いて(とも)と読んだり、仲間と書いて(ライバル)と読むような週刊少年ジャンプイズムが全くないとは言わないけれど、純然たる事実として集まった仲間を出し抜いて己の実力を証明しその仲間を打ち負かさなければならないという非情な現実がある。

仲間を思いやりながら、その仲間を蹴落としていかなければならない。それがチームというものが持つ歪んだ構造の一つ。

草野球とか高架下のフットサルとかならまだしも、「プロ」スポーツともなればその選抜の闘争もより尖鋭化される。だからこそ、「蹴る」ではここまでその歪みが表面化したのだろうと思う。

結果として(といっても最初からサッカーに関心があったと明言するくらいだから、それはある程度自覚的なのだろうけれど) 監督も、その組織の重力に引っ張られてしまい、その証左と言わんばかりにワールドカップを撮り続ける。

だけど、それでもなおこの映画は最終的には個人にフォーカスしていく。それは監督の、「個」としての個人を撮ろうとという意志によるものだと思う。

システムとしての組織の中に巻き取られてしまう「個」というものを、かき消えないように繋ぎ留めようとしているように見える。だってそうじゃなきゃパンフレットであそこまで個人をフォーカスした作りにはしますまい(それと同じくらいサッカーへの関心も強いんだなぁという内容が載っていたりするのが笑う)。

すでに書いたけど、そもそもこの映画を撮ろうとしたきっかけが「永岡真理」という「個人」の発見だった(彼女だけ、というわけではない。為念)のだから、さもありなんといったところ。

それと、もしかしたらこの映画を編集するにあたって介護の経験が反映されたのかもしれないと推察することもできなくはない。なぜなら介護(というか福祉的な行為)は基本的に対人の仕事であり、目の前の個人という他者の命を預かることだからだ(だからセクショナリズムと福祉は本質的に食い合わせが悪いと思うのですが、公的な資源がなければ福祉が行き渡らないというモヤモヤ)。

そうやって個人に対して「個人」として向き合わなければならない仕事である以上、その経験を通じた監督が「個人」というものによりピントを絞る構成にしたかったからこそ、最後は永岡さんだったんじゃないかな、と思う。

プロダクションノートだと「もっと横浜クラッカーズの比重を高くしようと思っていた」と書いているのだけど、言葉通り受け取るのならばそれは個人ではなく組織にまで視野を広げることになるわけだから、劇中でクラッカーズに焦点があまり当てられなかったのはむしろ正解だったのかもしれない。

 とか書いたけれど、単純に映画を締めくくるためにはそうしなければならなかっただけかもしれない。だとすればそれはそれで、「物語」の持つ強度が組織の中の個人を救い上げることができるという証左なので個人的には喜ばしいことなのだけれど。

 あとついでに書けば、サッカーというのも結構重要な要素な気がする。サッカーというと、なんだかチャラいイメージがあったりシミュレーションというのがわかりやすい形で伝わってしまうのでアレなのですが、個人的にはアメフト(は言い過ぎかな)やラグビーに追随する身体接触の激しいスポーツだと思います。

と、個人的な経験則から思う。だからこそ、あそこまで身体性が如実に現れたのではないかな、と。
 

そんなわけでこの映画は組織と個人の対立を描いた大変な傑作だったわけですが 一つ気になることがある。
それはパンフレットの表紙がダサいことです(爆)。
なんかこう・・・玩具のパッケージ裏に描かれてそうな効果戦を入れているのがダサい。アートディレクター誰ですか?怒らないから手を挙げなさい。
永岡さんと東さんを素材にするのなら、もっと良い素材があったのではないですか。
いやね、中村監督はカツカツの中でやっていたようですし、パンフの表紙にまで気を配れというのは酷な話かもしれませんが。
 

とまあ冗談はともかくとして、この映画は間違いなく傑作でございます。

自分と絶対的に異なる他者の世界をみること。本来ならそれは恐ろしいことでもあるのだけれど、それでもなお一歩踏み出させようとする勇気をくれる。

こんな映画は、そうないんじゃないかしら。