dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

TOKYO TELEPATH 2020 from tokyo in シブヤ

ペンタクル、リバースペンタクル、フラクタル、リバースペンタクル、リバースペンタクル、スペクトル、以下∞略・・・

この映画にフュージョンして文章書こうと思ったのですがダメでした。失敗しました。フュージョン失敗です。解除まで30分待ちます。

 

中編ですし普段ならスルーしていた(というか気づかなかった)であろう映画なのですが、さるお方の激推しで観に行ってきました。凄い映画でした。

ただなんというかですね、言語化するのにはあまり向いていない映画というか、言葉をひりだそうとすると「映像がすごい(小並感)」といった具合でにっちもさっちもいかない感じになってしまう。のですが、それだとさすがにあれなので無い知を絞って書きます。

といっても問題系は割とシンプルで、アプローチは全く違いますけど楫野裕監督「阿吽」と並べてもそこまで違和感はないと思う。遠藤麻衣子監督の場合はもっと抽象的ですが。

映像がすごい、だけだとまるで〇痴なので無茶を承知で一番卑近な例に無理やり引き付けてアナロジーすれば、吉田大八監督「美しい星」(include「未知との遭遇」)の覚醒シーン(渡邊琢磨の音楽も含め)が全編にわたって全面展開している(しかし恐ろしく緩急がついている)、といえばいいだろうか。「美しい星」もある意味で電波系の映画ではありますし、遠からず近からずだと思う。いや「TOKYOTELEPATH」の方が遥かに超なのですが。

それにまあ宇宙人もオカルトの範疇ですし。だがしかし、これは何度でも書きますが、私は幼少期に友人と一緒にUFOを目視したことがあるので個人的には宇宙人というのはオカルトの埒外なのです。それでも一般的にはテレパスも宇宙人もオカルトのカテゴリでしょう。話はそれますが「虚空門GATE」観てないんだけど、こんなこと書いてる人間があの映画を観るというのはなんかまずい気もする。

 

それと、この作品の名前を出すと品性というか性癖を疑われそうなのと、「あんな低俗なものと一緒にするな」「持ち出すならタルコフスキーの「ソラリス」の首都高シーンだろ」とかお叱りを受けそうなので躊躇われるのですが、それを覚悟で名前を挙げると、ショタコンアダルトOVA(今となっては男の娘表記の方がしっくりくる)「シリーズぴこ」の第3作にあたる「ぴこ×CoCo×ちこ」にも、TOKYOという都市(を象徴するランドマーク)を逍遥しつつ「何か」が展開されるというのは結構通じるものがあると思うのですが、さすがに血迷っているだろうか。

 

かっちょいい画の連続、ノイジーで耳心地の良い頭が痛くなる音は、残飯監督の映画で使われたノイズとも違う。彼の映画のノイズはまさしくノイズであり露悪でしかないノイズ(だがそれがいい)なのだけれど、それとはまた違う。

 

物語らしい物語は、ない。辛うじてキョンちゃん・よ8888・お兄ちゃんの関係性から読み取ることはできようが、それも盲目・足のないの彼らがジャミングし上滑りさせているようにも見える。それはフリーメイソン的プリズムで光を掌握しようとも・よもや日常風景化したサンバイザー(=フェイスガード)によって光を遮断しようとも・数珠繋ぎの疑似龍脈で光を回折させようともしない、光を持たないがゆえに光を必要としない者たち。中心たるTOKYO・オリンピック、フェンスで囲われた国立競技場の外苑・パラリンピックに象徴される周縁。もとい、双方ともに外縁的。

ところがぎっちょんてれすくてん。パラリンピックは文字通りparaである。ゆえに中心たる彼らは並置され相克され物語は無化される。おお!そう考えるとドキュメンタリーであったからこそ相克できなかった佐々木誠監督の「ナイトクルージング」の先んじてはいまいか!?などと興奮する。 

物語はない。けれど意味はある。というか、意味しかない。虹色の階段上で、まるでビット単位で蠢くおよそ人影には見えない影を見ながら、距離を思う。距離によってその視線の対象物は姿形を変える。残飯監督の短編を観ていた思ったことと似ている。つかず離れず、適度にバランス、だから中庸。それが処世術。

だけど、それだとつまらないのも事実でありけり。だから超接近してみたり、離れてみてみたりして、あたかも形状変容しているように見るのである。

 

とはいえである。果たして、距離そのものを喪失させるテレパシーなるものが、テクノロジーなるものの誘惑を無根拠に受け入れていいものだろうか。

少なくとも私は「リジェクト」したい気持ちがある。ノーサンキューです。

 

どうでもいい個人的なことなのだけれど、キョンちゃんが見ていた風景を私も見たことがある。あのまま競技場が未完成だったらすごいいいのになーと思ったりもしたり。それはオリンピックに反対していたからというより、完成の退屈さとか、単純にオブジェクトに対する美的感覚が違うというだけなのだけれど、今になって思えば、生まれる前から死んでいたこの「中心」的建造物の、2018年の生まれようとする姿をその「外部」から観れるというだけでも、この映画の素晴らしさがあるように思える。

2020/10

 

オールドボーイ(2003)」

あの長回しは決して洗練されているとは言い難いのですが、それこそがオ・デスの復帰戦である。横スクロールを思わせる真横からのあの観方は、なんだかゲーム的である。というのは、この映画の話そのものが彼とイ・ウジンのゲームであるので。そう考えるとマリオとピーチとクッパの関係性にも見えてくる不思議。

というのは冗談ですが、原作と結構違っています。細かいギミック(ギョーザの味とか)は原作からですが、こっちでは割とわかりやすい復讐の理由ではある。

まあ教会系の学校というのもありますし、近親相姦(インセスト)は確かタブー扱いだった気がしますので、それゆえでしょうか。

冒頭の音楽の切り替わり方がカッコいい。姉さんエロい。

 

エデンの東

困ったことに傑作ではありながらいかんせん騙された気がしないでもない。

カインとアベルの話をモチーフに父と息子の愛をめぐる話で、観てる最中は最高に盛り上がりジェームズ・ディーンが父親に拒絶されたシーンでは彼の演技に涙を溜めたのですが、最終盤に至り「・・・あれ、これだいぶ歪んだ構造してない?」となり、観終わった後には妙なもやもやが残るのであった。

確かに、これは傑作と呼んでよろしいのでしょうが、しかしキリスト教的・父権主義的な歪みが構造的に潜んでいる。まあ、聖書の話がベースになっているので当然と言えば当然なのですが。

最後まで見ると、この親子は共依存的であることがわかる。それは父親の愛を絶対視することによって生じる屈折にほかならない。

なぜキャロとアーロンの母であるケイトはあれだけの存在感を与えられながら、物語的救済を一切与えられないのか。彼女はキーパーソンでありながら、アーロンと接触させられた後は画面上に出てくることすらない。さもありなん。なぜなら彼女の存在感というのは徹底して舞台装置化されたものであるからである。

父親の愛を得るための、踏み台としての母親の愛でしかないのである。キャルが同じ存在としてのケイトに共感していたのも、それは父親からの寵愛の欠如という「父親(夫)からの愛の欠如」という父権を絶対視することからくる極めてネガティブな絆によるものでしかない。今であれば、むしろ強い女性像としてケイトは描かれうるのだろうけれど、この映画ではキャロの悪性の根源として描かれている。

とはいえ、父親からの束縛・所有からの脱却をケイトが口にしているので、彼女の見地からの物言いが提示されてはいるのだけれど、やはりそれは建前的に映り、本当はその愛を受け取りたがっているように見えなくもない。そうでなくても結局はキャロが父親の愛情を獲得するための、道具としてのロールしか与えられないように見える以上、これは父息子のホモソーシャル的な絆から除外された女性像を思い浮かべてしまう。

 

そもそも、キャロはなぜ赦されなければならいのか。赦しを求めるようなことをしただろうか? 彼の悪徳の根拠はこの映画では母親に由来しており、その母親の悪性はそもそも夫(父親)からの束縛にあるわけで、キャロの悪性の大元である父親に赦しを得るために奮闘するというのはあまりにも倒錯した循環構造になっていると言わざるを得ない。

最終的に、悪徳を働く息子を愛することで父は息子から赦され()救済される。

つまるところ、これは父親の懺悔の物語であるはずなのだ。にもかかわらず、主人公として配置されているのは息子であるキャロなのであり、真正面からこの映画を、ラストのオチを見据えると息子が赦しを得るように見える。本来ならば父親こそが語り手でなければならないはずが、そのナラティブを息子に仮託し、彼の赦しを収奪しているところに父権による侵襲を見て取れてしまう。

父親による母と息子の略取。父親からのDVによる母と息子の歪んだ共鳴。聖女化された母の偶像を失ったもう一人の息子であるアーロン(彼こそが父親の理想でありダブルであることを考えると、やはりケイトの主張の真正さが強まるというのが救いだろうか)の発狂。

 

一見すると、これは倫理を説いてもいて、徹底して戦争を否定し(しかし父は選定する立場にあり、それは父という権力を行使できる特権階級であることの証左である)、その正しさによってキャロは否定される。この父の倫理というのは、それこそ最近になって話題になっているエシカル云々に繋がるものであるのですが、正しさの自明性を疑わない正しさというのは信用ならない。

 

とはいえ、役者の表情の機微、カメラワークやアングルなどなど、やはり傑作と呼んでよろしいのではないかと思わなくもない。

 

愛人/ラマン

方や貧民、方や金持ち。方や男、方や女。方や大人()、方や子ども()。立場の異なる男女の、共感可能性を両者に共通する家族のしがらみから試みようとする。愛飢え男な中国人青年とませたい年ごろの少女、彼女のモノローグで語られることで脱臭される権力の不均衡によって隠蔽されるものはともかくとして、常に欺瞞と韜晦によってつながる二人の行きつく先はまあ当然といえば当然で、一番エロいのは冒頭も冒頭のアバンだったりする(それは二人についてまだ知らなかったから)。

最後まで陶酔を貫き通してくれるのでまあ潔しとはいえるのだけれど、すさまじい何かの映画のジェネリック感ががが。

あとアノーがアジア(というか文化的他者)に向ける多分にエキゾチシズムを含んだ視線は先に観ていた「セブン・イヤーズ・イン・チベット」にもつながっているのだけれど、この監督のアジアに向ける視線というのがなんかなーと言いたくなる。

スラング的に言えば「こっちみんな」みたいな。

 

クリムゾン・タイド

これ多分キューバ危機におけるソ連側のB-59内部の出来事を参照していると思しいのですがどうなのでしょう。まあ「駆逐艦 ベッドフォード作戦」という映画がそのまんまらしいですが。

しかしデンゼル若いなぁ。しかしタランティーノが加えた(変えた)というセリフの唐突感がすごいんですけど、何なんだあれは・・・。いや「眼下の敵」だから一応脈絡がまったくないというわけではないんだけど。

まあトニー・スコットなのでディテールなんぞは脇においておくというのですが、それでもやっぱり何か楽しい部分というのがあって、それは実は多分に集合知的な、作家性がないからこそいいとこどりができるのではないか(ノンクレジットだとしても)という気がする。

 

「慕情」

語る余地は色々とあると思うんですけど、すみません、個人的には開幕の香港の風景がハイライトでした。というかそれくらい、あの感じがすごい良い。

 

「ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷」

あーこれ「プリデスティネーション」の監督の映画だったんですね。この兄弟の監督作はほかに長編だと「ジグソウ」と「デイブレイカー」というのがあるらしいのですがどちらも観ておらず。ただ「プリデスティネーション」と「ウィンチェスターハウス」は結構被るところがある。回廊とかシステムに対する視座とか。

とはいえ「プリデスティネーション」に比べるとかなり安易というか。まあ史実をベースにしているのでどこまで脚色するかというのは難しいところではあったのでしょうが。

 

「クルードさんちのはじめての冒険」

クリス・サンダースとカーク・デミッコの共同監督。後者についてはまったく知らぬのですが、クリス・サンダースは最近でいえば「野生の呼び声」の監督でございんす。

そして音楽にアラン・シルヴェストリ

ところで、久々にドリームワークスのアニメーションを観て思ったのですが、キャラデザがディズニー系より絶妙にキモい気がする。いや、観てるうちにそんなのは全然気にならなくなってくるんですけど、おそらくCGアニメの製作会社として二大巨塔と呼んでも差し支えない両者の差を隔てる違いというのは結構探してみると面白いものがある気がするのです。

んで、なんとなく思ったのはディズニーはデフォルメが強く、ドリームワークスはカリカチュアが強めなのではないか、という感じ。ドリームワークスのキャラデザというのは遊園地なんかでよく見かける戯画化した絵を描いてくれる絵描きの人のようなキャラデザのような気がするんですよね。これ、三輪さんじゃないけどディズニー以上に人を選ぶ気がする。

でもテーマはわかりやすく人間の、というか人体のシステムにおける生存に必須の「恐怖心」と「好奇心」を原始時代にまで世界を遡って見せるというお話。

まあそういうテーマとかは正直どうでもよくて、冒頭から動き回りまくりのアニメーションとか素晴らしい美術の仕事だけで十分すぎますゆえ。

実はこの世界観も先述したディズニーとドリームワークスのキャラデザの違いにも表れているような気がする。そういう意味で、この「クルード~」のカリカチュアされた原始世界というのは、現実のデフォルメとしての世界に注力するディズニーでは見れないので、それだけでもう十二分すぎる。これ使ったオープンワールドゲームとかやってみたいなーと思いつつ久々にコンセプトアート集が欲しくなった映画でございました。

調べたら一応原語版は出てはいるんですけど、高い!

とてもじゃないけど手を出すにはかなり躊躇する値段なんですけお!

続編やるらしいので、その機会に日本で出してくれないかなぁ・・・

でもドリームワークスって日本だと微妙に弱いんだよなー立場が。

うわーマジでほしいなこのコンセプトアート

 

ワイルドカード

いつものステイサム映画なんだけど、ほんのりやさしみがあってよい。それ以外はいつものステイサムry

 

「ニコライとアレクサンドラ」

髭面多すぎ。

ラスプーチン狂気じみすぎ。今度の「キングスマン」にも出るらしいけれど、どうなることやら。撃たれても血が出ないラスプーチンは神(違)。

鑑賞中にアクシデントがあり最後まで見れず。

 

「わたしを離さないで」

 これ「ストーカー」の監督だったのですね。

ガーフィールドはともかくとして、キャシーとルースは観ている間「どこかで見たことあるけど誰だっけ」というのがちらついて正直集中して観られなかった。

で、後で調べたらルースがキーラ・ナイトレイキーラ・ナイトレイ!?

あんな可愛げないキーラが撮れるってすごいと思うんですけど。本当に。嫌味とかではなく。いやまあ、よく見ると目元とか鋭いし、こういう役どころもありっちゃありなのかもしれませんが、キーラのKAWAII最高打点が「はじまりのうた」である私にしてみるとすさまじい落差が。

キャシーはキャシーでキャリー・マリガンだと気づかなかったし。まあそもそもあまり彼女の出演作を観ていないというのがあるのだけれど、「野生の証明」と違ってこの時期のキャリーはそこはかとなくエル・ファニングみがあって、しかし彼女ほどには何か浮世離れした感もないちょうどいい塩梅であったりして、それがまた「この女優誰だっけ」感につながっている。

本筋にまったく触れてませんね。いや、まあイギリス映画っぽいなとは思う(曖昧模糊)。ファミレスでの笑いの誘い方とか。

原作未読だし地上波での放送のためCM枠でだいぶカットされているだろうから何とも言えないのですが、それを抜きにしても少なくともこの映画はクローンの倫理の問題そのものを突き詰める気はあまりなさそうな気がする。クローンの問題、というのはオリジナルとの対面においてアイデンティティの揺らぎというものが前景化してくると思うのですが、この映画の人物たちはそのオリジナルとの対面を果たさないし、自らの運命について先刻承知済みなのである。

ルースと彼女のオリジナルの人物と思しき女性をめぐるエピソードにしても、それはアイデンティティの揺らぎをもたらすような演出は一切ないし、海岸でのセリフのかけあいにしても「オリジナル」はそのまま「母親(父親)」と代替可能なものでしかない。

つまるところ、まあ最後のシーンでも語られるとおりなのですが、この映画はそういう生命倫理の問題よりも運命論的な「生」そのものについての抒情詩に観える。ていうか、劇中でもマダムがはっきり口にしてますしおすし。

もちろん、オリジナルのパーツに過ぎないという設定はその運命論的「生」をどう受け入れるかという問題を強調する役割を果たしてはいるけれど、どちらに比重があるかと言えば圧倒的に後者であろう。そしてそのことは「オリジナル」である(というかコピーではない)観客=私たちにも感情移入が可能な程度には、クローンである彼らとの代替可能性が担保されている(彼らのオリジナルが明確に登場しないのはそのためだろうし、それによってコピー側である三人の主観が相対化されることなく維持され観客の感情移入を容易にさせる)。そして、その代替可能性というのは、ポストモダンの状況にあって我々は代替可能な人的リソースとしてみなされていることにほかならない。

だからこそ逆説的に「生」を想起させるシーンが排されていたり、精彩を欠いたものになっているのだろう。たとえばルースとトミーのセックスにしても、正常位ではなく騎乗位であり、しかもなおトミーは明らかに不快感(とまでは言わずとも早く終わって欲しいとかは考えているだろう)を示すしぐさを取っている(このためのガーフィールド)し、優位であるはずのルースの喘ぎ声にしてもどこか空虚である。それはのちの展開が・・・というかキャシーのモノローグ通りトミーとルース(とキャシー)はすれ違っているから。エロ本のくだりもそのすれ違い。

食事のシーンがないのもそうだろう。全くない、ということはない。だからこそ食べ物が出てくるとき・それを彼らが口にするときに「生」気を帯びるのでせう。あるいはその逆説として、キャシーが一人で白い空疎な部屋で壁に向かって食事をとるシーンの生気のなさ。あれに比べれば、彼女がダークチョコレートをハンナ(だったよね?)に差し入れするシーンのハンナの方が(ベッドに寝かされ、チョコを口にしなかったとしても)随分と「生」気を帯びているし、ルースがオレンジが口にするシーンもそう。

 

代替可能なコピー、というかそもそも代替物であるコピー(それは現代における我々そのもの)が、代替不可能な「生」としての真の「愛」をめぐる話になるのは必然なのでせう。最終的にはコピーもオリジナルも何ら変わらない、というある意味では真っ当な帰着に達する。

これを世界情勢に敷衍させてコピーをいわゆる第三世界とか、その血をすすって生きる資本主義国(オリジナル)というような読みもできるでしょうが、それはそれでむしろ矮小な気もしなくもない。

2020/9

オペラ座の怪人

うわー今思えばシュマッカー監督の映画を観るのは初めてでしたよ。「バットマン」すらも観ていない。

んが、なんというかこの「オペラ~」だけをとってみると、そのフリークへの眼差し(とセットの感じとか)がバートンのそれと非常に似通っている。

しかしなんというか、全編通してセリフも含めて歌ってみせるというその過剰さや全編にわたってクライマックスな絵面といいカット割りの豪胆さといい、なかなかどうして面白い映画である。

印象的な音楽の力もあって、ひたすらにパッショナブルでありながらフリークスの悲哀が貫いている。それはさながら青い炎。

画面全体が豪奢なのも、すべてはその画面の裏に充満し続ける怪人の悲しみの裏返しなのではないか。

 

わたしは、ダニエル・ブレイク

黒澤明「生きる」のような哀愁をまとう寄る辺すらなく、ただただ宙ぶらりんな悲観しかもたらさない。だからダニエルの死すらもあっけなく、余韻など微塵もなく、トイレで突然死して終わり。死ぬ瞬間すらも画面のフレームから剥奪され、死に顔一つ画面に場を与えられない。

未来世紀ブラジル」における戯画化された官僚制・・・すなわちモンティ・パイソン(ていうかギリアムなんだけど、まあ一緒でしょ(暴論))の茶化しが機能していなかったのか、イギリスのセクショナリズムたらいまわしっぷりは文字通り生殺しである。あるいはセーフティネットへのアクセシビリティの格差という問題もある。

つまるところ、これは構造の問題であるわけで。彼女がポン引きに捕まってしまったのも貧富・性的な抑圧の構造によるもの。逆差別だ、などとのたまうつもりはないが一方でダニエルは性的なサービスによって金銭を得ることはできない。

女性の性風俗産業それ自体が女性を抑圧する構造の賜物である。それで救われる人もいる、という言説もあるし誇りを持っているだとか職業に貴賤はないだとか言う人もいるのだろうが、それがどれだけの「嫌嫌・渋々・仕方なく」従事せざるを得ない人の声の上に覆いかぶさるノイジーであるのかと考えたことはあるのだろうか。それは単に内面化しているだけに過ぎないのではないか。

 

若干話がズレたが、要するに役所はちゃんと仕事しろ、ということである。というかこういうことはどこにでもあって、それこそ障碍者の分野にも当たり前のようにはびこっておりまして、本来なら回数制限のないサービスを勝手に回数付きにされたりなどなど、こっちが知らないと思い込んで勝手に適用範囲を捻じ曲げることもままある。

んで、そういう貧しい人というのは情報へのアクセシビリティ(ダニエルがITに特段疎いのは年齢的なものばかりではないだろう)も低く、情報格差によってそれをうのみにしてしまうこともある。

こう見ると生活保護の制度があるだけ日本はまだいくらかマシなのかもしれない、とすら思えてくる。無論、それは単なる需給のしやすさという意味に限るわけだけれど、すくなくとも身近な生活保護受給者を見る限りでは衣食住は確保できているし。

しかしまあ是枝監督のようなお行儀のよさよりも怒りをしっかりと発露させてくる分ケン・ローチの方がかなり好印象である。

 

「クラウン」

ジョン・ワッツらしく大人コエーな映画。

すってんころりんとか噴き出してしまいそうなディテール、オチも含めてB級な佇まいでありながら結構な力作。

無垢な子どもも意地悪な子どもも等しく死ぬ、その心意気やよし。スパイダーマンが「スパイダーマン」でなければ殺されていたのではないかとすら思う。

 

 IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。

前作の細かいところ覚えてなかったのですが、それでもまあ楽しめましたかね。

ただまあ、今回は解決編でもありますので倒さなければならないために、ホラーというよりもむしろファンタジー路線というか。セルフも含めパロディや確実に笑かしに来ている描写が結構あり(前作もあったとは思うけど)、特殊効果もふんだんに使われていて退屈はしないのですけれど、それにしても終盤のバトルはステージも含めてゲーム感がもりもり。「イドリス・エルバ呼んできて」といった風情。

解決方法はグレート・スピリッツ的で(まあ武井さんはキング読んでるだろうけど)、そういう意味でも前作から一貫して心の(葛藤、どうあるか)問題であり、Jホラー的な理不尽さはない。

ある意味でわかりやすい映画ではある。

 

ロミオとジュリエット

こんな笑える映画だとは思わなんだ。

これが作られた時点ですでに擦られまくった後なのでしょうが、だからこそパロディっぽいというか小学生並みの恋愛(ごっこ、とは言いませぬが)をそのままお出しされた感じで実に可笑しい。と言って差し支えあれば微笑ましい。

異様に胸を寄せているのも精一杯の艶美さを出そうとしているようにしか見えない。寝巻きなのだろうけども。

ロミオの友人たちのからかい方も小学生のそれ。ジュリエットの乳母への悪態(原語はたぶんWhoreと言ってたのでかなりアレなのですが)にいたっては保育園レベル。

カメラワークといいジュマンジ並みの下手くそキス合戦といい、笑うなという方が無理である。まあ人のセックスを笑うと怒られるらしいので彼らの恋愛も笑ってはならないのかもですが、ポエムもなんか稚拙な感じがする。

 

んが、その後の両家の人間の死にまつわる洗練さのかけらもないドタバタ(字義通り)を見るにつけ、しかるにこれは赤いナントカが言うところの若さゆえの云々であり、それがもたらす悲劇=喜劇であると。

しかしその必死さに胸を打たれるような気もしてくる。

超どうでもいいのだけれど、ロミオのケツとジュリエットの一瞬映る乳首になんというかどうでもいいこだわりを感じるのですが。

 

「誘拐犯」

マッカリーの過去作。こう見るとデルトロってやっぱりブラピに似てる。

コーエン兄弟+アメリカンニューシネマ的な。

 

ネバダ・スミス」

16歳・・・は無理がある。とまあそれはともかく「復讐は何も生まない」系をハリウッド映画で見るのは私初めてでございまして、ラストシーンのあれで「ダーティ・ハリー回避」と心の中でツッコミを入れていたのであった。

殺しはしないけど手足は撃つ、というのは個人の落としどころとしてはいいのかもしれませんがそれでいいのかと思わないでもない。

一か所、序盤で気になったカットがあったのだけど、あれは何か意図があったのだろうか。

 

「セブンイヤーズ・イン・チベット

これ原作がどうなっているのかわからないのだけれど、ンガプーに対するハラーの反応というのが、あまりにマッチョイズム的というか取り付く島もなかったのが、あれ自体が戦争被害な気がしなくもない。

無論、ナチに入るような人だしもとからああいう気質だったのだと言えなくもないのだけれど。やっぱりどこかこの映画にはアジアに対するエキゾチズムが鳴りを潜めている気がしてならない。

 

「夜霧よ今夜も有難う」

石原裕次郎の主演映画ってもはや沈黙シリーズのようにすら見えるのですが。

ソフトフォーカスで裕次郎のリップピカピカは流石に笑う。

あとボクシングの存在感というか、ごく当然視されている感覚、というのも時代なのかなぁ。

 

「レッドサン」

ブロンソン×三船という垂涎モノの映画があったとは思わなんだ。

にしてもブロンソンの軽さは素晴らしいですな。

とにもかくにも三船とブロンソンのブロマンス的な、しかしあまりべたつかず、しかし締めるところは締めるという素晴らしさ。

三船よりもブロンソンのすばらしさ。あんなオス臭い男でありながらコミカルであることを全くいとわない軽さ。

対峙するのがアラン・ドロンというのも良い。素晴らしすぎる。

 

「バニー・レークは行方不明」

これ面白いですね。バニーが顔見せされないことで信頼できない語り手的な構造が浮かび上がってくるという。

「え、それ本当にそうなるの?!」という感覚はちょっとシャマランに近いかもしれない。

明らかにミスリードな人がいるにしても、メイン二人の言動に齟齬が出てくる感覚とか、だんだん奇妙になってくるのが面白いのですが、これはこれで精神障害に対する偏見を増長するものな気がするのですが、人種とかジェンダー的なことにはうるさいのにそういうツッコミを入れる人はあんまり見かけないんですよね。

あの狂気的なやりすぎ顔演技とか見どころはかなりある。

テネット記事消失につき萎える

一週間ほど前、「TENET」を観に行って、感想記事を書いていたのですが、モニターが唐突にご臨終し、保存かけておらず、記事もおしゃかになってしまい・・・もう面倒になったのでテキトーに。

 

・科学考証はアントマンと同程度だと思います。はい。

別にバカにしているとかそういうことではなく、それくらいとっつきやすいのではないかということ。

・ノーランの映画というのは、広告も含めて知性的というか深淵に見せているようでその実は結構おバカな(良い意味で)ことをやっているので、それが好感に繋がるかお高く留まっているように見えるかが映画ファンにとっての評価(というか好悪)の分かれ目なのではないか。

私は映画ファンではなく一介の映画好きでしかないので、「わーたのしー」といった具合にノーラン映画を観ていて、今回も割とそんな風に観ていました。普通に楽しい、という感じ。

もちろん色々と「おいおい」と言いたいところも相変わらずなくもない。ニール(ロバート・パティンソン演)への言及の少なさとか明らかに後で何かを関係してくるであろうという。ミステリアスと言えば聞こえはいいけれど。まあそういうの含めてノーランの映画の設定(とそれを表現するための演出)は「それっぽく」見せるためのギミックであることが多く、よく考えたらそれおかしいよというのが今回も結構あって、じゃあなんでそういうのがノーランの映画においては気になるのかと言えば、映画のルックがそういう風に見えない(見せない)ために、かえってそのギャップが気になるという罠。ポンコツイケメン的な。個人的にはそれもノーランの愛嬌として受容することも難しくはないのだけど、鼻持ちならないという気持ちも分からないでもない。

あと、やっぱりノーランはアクション苦手な気がします。アクション映画では、特にフィジカル重視の場合なんかは早回ししたり逆にスローにしたりすることで徒手を素早く見せたりするわけですが、一瞬のカットですがワシントンの攻撃がぽかぽかなってる部分とかあったりする。ところどころ編集のぶつ切り感があったりするのは編集のジェニファー・レイムの仕業だろうか。この人「ヘレディタリー」とかやってたりするし。

今回やってること自体はテクノロジーという意味合いでは別段すさまじいものを投入しているというわけではなく、それこそわかりやすい例でいえば佐伯ユウスケの「ナウオアネバー」のMVと同じでしょう。

まあ、だからこそ役者(スタント)の肉体が映えるというのもありんす。

どうでもいいですがこの映画って2009年の「トライアングル」という映画に非常に似ているというか、まあオチ自体は割とありがちではありけり。

 

本当この四倍くらいは書いていたのだけれど、正直モチベーション落ちに落ちたのでこの辺で終わり。ほんと最悪だよ!

 

 

 

2020/8

「ローグアサシン」

暗殺者といえばまだNINJAだったころですか。なんかこう、いろいろと惜しい感じというか。これをむりやり「ジョン・ウィック」世界にぶちこんでリーチあたりに監督させたらもっと面白くなりそうな気がしなくもないのですが。

そこまでひどくないけど良くもないというか。あのラストとか、せめてもう20分くらい尺があればあんな「え、これで終わり?」とはならなかった気もするし、目新しいアクションがあったわけでもないとはいえ、残り20分くらいなら付き合ってやってもいいと思えるくらいにはそこそこ楽しんではいたので、その辺は惜しい。

 

怪物はささやく

ファンタジーな映画かと思ったら全然そんなことなかった・・・。

ナラティブ映画だった。しかしリーアム・ニーソンのラストの粋な使い方(本編では未登場)はグッとくる。継承の話でもあったという。「あれはイマジナリーフレンドでぇ~」などと誰でもわかるような無粋な解説をするつもりもない。

ありがちな鬱屈(を発露させるため)のメタファーとしての怪物ではない、というのが個人的には新鮮だった。「キャリー」でも「クロニクル」でもなんでもいいけれど、ナウなヤング(死語)のフラストレーションやリビドーの力としての怪物や超能力という、ある種の破滅願望・破壊衝動のような力はあの怪物にはない。

あの怪物は、怪物自身が言明するように徹頭徹尾、コナーひいては人間の二律背反した心の写し鏡でしかない。だからどんなに空想の中で破壊を行っても、いじめっこを殴りつけても、コナー自身を超越する結果をもたらすことはない。なぜならこれは解放のカタルシスは徹底的に抑えられた、不全の映画だから。

コミュニケーションの不全、フラストレーション(その発露)の不全。コナーはそれらを表出するにはまだ幼い(それゆえにイマジナリーフレンドを創り出す)。だから怪物として、超能力として発散することはできない。

ではどうするか? 語る、そして受け入れる。自己(怪物)との対話を重ね、自分を受け入れたその先に他者(祖母。そして母親の死)という「現実」がある。

そうやって自分を受け入れたからこそ祖母を受け入れることができたのだし、母親の死を受け入れることができたのでせう。

祖母は登場した時点ではちょっと嫌な感じ(ってわけでもないんだけど、ちゃんと見れば)に描写されているのに対し、後半の描き方は大きく違っている。

これ、シガニー・ウィーバー以外だとかなり難しかったのではないだろうか。彼女の強権的な顔面力で嫌な感じを醸し出しながら、それが表面的なレベルで留まっているというのは中々。

 

この監督が「ジュラシックワールド」の続編に選ばれた理由はスピルパーグ味がそこはかとなくあるからでしょうか?

怪物が登場する際に家が揺れるのとか「未知との遭遇」っぽいですし、怪物のニュアンスとか「BFG」ぽい。父親は健在ですけど確執を抱えていなくもないですし。

 

しかしリーアム・ニーソンシガニー・ウィーバーの子どもがフェリシティ・ジョーンズってどんな世界線なんですかこれ。下手な殺し屋一家よりも最強でしょこの家族。

 

 「新・ガンヒルの決斗」

これ最後の最後までフラストレーション貯める感じで結構イライラするかも。

びんたされた方向と逆の方向はさすがにどうかと思ったけど。

 

「動いてる庭」

ジル・クレマンについては何も知らなかったのですが、なんかラブロック臭がするというか。

放射線ときのこのくだりとかは、「蟹の惑星」の吉田さんに比べるとかなり直感的でサイエンスというよりはスピリチュアルというか、そっちよりな気がするのですが、どうなのだろう。

が、しかし文化としての保全と動く庭としての二律背反などはかなり興味深い話ではありました。植物とて動くということ。その自明性にあまりにも無頓着だったことに思い至る。でもそれは何となく当然の話で、文字通り植物と人間ではライフサイクルのスケールが違う。スケールと言って語弊があればスピードといえばいいだろうか。

植物の動くスケールというのはアハ体験的で、だからこそ人間というのは時間をかけて徐々に動いていくものを認識することが困難なのでせう。人間は連続性で物を見るから。

植物に限らず、この星そのものもそうだろうし、自然物、あるいはその流れを汲むものというのは遠大な時間をかけて徐々に変化していくものなのではないだろうか。

動きすぎてはいけない。人間はどんどん加速しているが、それによって認識に弊害をもたらしている可能性を考えなければならない。

ところで澤崎 賢一・山内 朋樹・松井茂のアフタートークが面白かったです。

「第三風景」「物騒な共存」

 

あゝひめゆりの塔

青酸カリ牛乳といい、最後まで救いがない。「野火」のサイドA`というか。

 

「あやしい彼女」

うーん。リメイク元はどういう感じなのだろう、これ。

妙な長回しはまあ、銭湯の構造をわかりやすく図示していたりするので効果的っちゃ効果的なのでしょうが。

これ「21世紀少年」の問題をクリアしていない気がするんですけど。笑えないことはないんですけど、最後のあれは蛇足な気がする。

 

「ガス燈(1944)」

観たつもりだったのですが全編通して観るのは初めてだったことに今更気づく。

しかしセットにやたら既視感があるのは何故だろうか・・・。たしか「ガスライティング」の語源はここからだった希ガス

イングリッド・バーグマンの上品な服装と、それに締め付けられることで立ち現れるボディラインのエロさは、しかし物語と同じように夫から圧迫されたものであるかのように見えてしまう。

これは同じ年代の「若草物語」にも言える女性の閉塞感と同じ類だと思う。ジョージ・キューカーは実際に1933年に「若草~」を撮っているし。まあ私が観た「若草~」は別の監督のでしたが、しかしそこにある基本的な構造は変わりますまい。

してキューカーはおそらくそういう女性を・・・というかそういう風に女性を囲う話が好きなのかもしれない。

正直、この映画に出てくる男性陣はブライアン含め誰一人として信用ならんのですが。

 

「クレイジー・リッチ」

何か目新しいものがあったか、と言えばアジア系アメリカンが~ということは言えるのでしょうが、テンプレを逸脱する何かがあるかと言えば「うーん」である。

ヘンリー・ゴールディングの細マッチョなやさおなルックは個人的にどんぴしゃりなので、まあそれでも十分と言えば十分ではあるのですが。麻雀の駆け引きとかは確かにアジア(というか中華圏)テイストではあったりするし、メインストリーム=白人ヘテロ向けのこてこてテンプレとはディテールは違うし、そこを楽しめないこともないのではあろうけれど、しかし「現代の金持ち」を描くとどうしても似たり寄ったりになってしまうのは制作側の想像力の限界なのか実際にあの程度の金持ちというのはああいうことしかしないのか、ド平民な私には存ぜぬところではありますが、面白みに欠けなくもない気がしなくもない。

いや、まあまあ楽しくは観てましたけどね。料理おいしそうなものも結構ありましたし。

アストリッドにしても、もうちょっと上手くできたのではないかと思うんですよね。まあ原作との絡みもあるのかもですが。

 

まああとアジア系というくくりもそれはそれで危険な気もするんですが。キャストの多国籍っぷりを見ると。この辺はちゃんと指摘されているようですが。

 

ミッドナイト・イン・パリ

恥ずかしながらウディ・アレンを観たのはこれが初めてなのです。別に積極的に避けていたわけではなく、かといって積極的に観ようとも思っていなかったのでこうして偶発的に遭遇するまで接触することがなかったという。

これが彼のいつも通りの作風なのかはわかりませんが、思ったより全然楽しめました。なんだかもっと癖の強い映画をイメージしてたのですが、全然すんなり楽しめた。

まず役者が個人的に好みだったのもある。面白いAGOことオーウェン・ウィルソンの佇まいはギルにぴったりだし、レイチェル・マクアダムスの「ザ・マス」的な退屈さ・・・というか凡庸さも見事ですし、20年代の人たちもいい具合にカリカチュアされたウィットを含んでいる。

現代におけるレア・セドゥはむしろ20年代パリの住人のような妖艶さを醸し出していて、それがマクアダムスとの対比になっている。朝と夜、というのはまあ明確に対比的に使われていて、それがまあ「夜の女」というシニフィアンが醸し出す性的な表象(実際、夜の街で娼婦が描かれる)というのはウディ・アレンの視線なのかどうか。

しかしレア・セドゥって笑うと口まわりの皺がすごい。正直彼女に笑顔は似合わないと思う。というか、イメージが完全に反転する。「スペクター」のときは全然笑わなかったし、気づかなかった。

懐古主義の否定、ではあるのだけれど。なんだかギルのフィルターを通すと絶妙に言い訳がましく、というか未練がましく聞こえなくもない。

 

追想

これ結局のところ真偽とは別のレベルで受容し合う、ということでは。

本物か偽物かは関係なく、ただお互いが求め合うのであればそれで良い(母娘の物語だけど)。

そこには言うまでもなく欺瞞があるわけですが、むしろこれは欺瞞こそが二人を結び付けているとも言える。

美しいなどとは口が避けても言えない

けれど、そもそも他人の愛にあーだこーだ言うことが無粋なのでは。

まあラストがあれな時点で無駄な考えな気がする。

ばヰお映画祭

なるものに行ってきた。

映画祭と言ってもバーのような昔ながらの?極小ミニシアター(定員10名だし)で短編映画を流すという(しかも全部同一監督なので、実質は特集上映)ものだったのですが、実験映画的な趣。何の実験か。

それは端的に言って、どれだけ映画(というか映像?)というメディアを使って人を不快にさせることができるか、だと思う。というか、そう思わざるを得ないほどに露悪である。

全部で11作品あったのですが、趣の違う「ハウス残飯映画200513」を除いてほぼほぼそれは通底している。特に「濁ッた佃煮」を筆頭とする「かんぼつ」や「けんべん」なるキャラクターを使ったアニメは特にそうだと思う。といっても、どれもこれもストーリーらしいストーリーはない(一応、撮りたい映像を先にストーリーを後付しているとは言っていましたが監督は)ので、そういう意味ではNHKの短いアニメーション的ではある。もちろん、こんなの流そうものなら苦情殺到子どもはトラウマ確定なわけですが。

すごーく平易にたとえるならば「まごころを~」の心理パートをすべて汚物的なものでコラージュしたもの、といえばいいだろうか。

まあ、映画祭のオープニング映像からしてホットドッグにソースぶちまけたり何かを食べているだけの映像を編集でああもグロテスクにするような監督ですからね。このアバンは結構好きだったりするのだけれど(というか、一番わかりやすくバランスがいいのがこのオープニング映像ではないだろうか)。

音声にしてもそうで、意図的に不快な音を不快な音量(音割れやヴぁーい)で不快な言葉を羅列する。というか、言葉すらもコラージュされている気がするのですが、実際監督はAVのパッケージの云々と言っていたりもしたので間違いではないでしょう。

ことほどさように、この映画は監督の視点によって切り取られた「世界」のコラージュで出来上がっているのではないでしょうか。「みんちゃあ」に対する監督のコメントなんかを聞くに、そう思う。

そして、監督の視点を通過して彩られた映像たちは「世界」を異化し、当たり前のように生きているこの世界(のシステム)がいかにおぞましいのかを見せつけてくる。

わらび餅をミクロで見ることでああも「何か見てはいけないものを見せられている」感覚を催すとは思わなんだ。というか、あれ見ている間は絶対に内視鏡が何かで人体内部の粘膜系を映しているのかと思っていたので、わらびもちだというので驚き桃の木山椒の木でござんした。

で、オープニング映像の「食べる」ことのグロテスクさもそうですし、ある種「生命」に対するグロさでもあるのではないかと。そういう意味じゃビーガンの人なんかとも相性がいいんじゃないかと勝手に思うのですが。

汚物や雑多なコラージュ、セリフのズレや替え歌の歌詞のひどさ(ハッピーバースデーの歌の歌詞を「はみだして鬱~」という置換)にしてもそう。

はれときどきぶた」とか「ねこぢる」とかのシュールさとも違って(まあテレビ放映できる時点で当然なのだが)、かなり露悪的なので好みは分かれそうだし、私ももろ手を挙げて称揚する気にはならないのですが、それでもちょいちょい笑ってしまう部分もありますし、何より依って立つこの世界の意識しない側面を見せてくれるので全然アリアリです。

 

それと「しあわせのちょきんばこ」を観ていて思ったのだけれど、「レインボー」って七色だから美しいのではなくて、それが整然と並んでいることが美しいのだな。ということを七色のモザイクを観ていて思った。

サメのポリティカリー・コレクトネス

久々に映画館で映画を観る。本当に久しぶりに。

とはいえいきなり重い映画を観る気もせず、リハビリがてら軽めのサメ映画を観てきました。「海底47m」の続編である「海底47m 古代マヤの死の迷宮」を。

公開から少し経ってますけど、前作は結構な良作だったので観に行ってもいいかな、と。

世間的にも前作は好評だったらしくわかりやすくグレードアップしていました。

・製作費倍増

・メインキャラクターが2人から4人にグレードアップ

・ケージの中のみ(厳密にはちょっと違いますが)という限定空間から迷宮へと空間の広がりがパワーアップ。

・パンフレットが作られる。

・シャークネードの風味が香り立つ。

などなど。まあ最後のは冗談ですしそもそもグレードアップなのかわかりませんが、まあわかりやすく豪華にはなっていました。

 

んが、それに対して絵面はジリ貧な感じが否めない。基本的にヒット&アウェイの連続(まあ前作もそうだと言えばそうなんですが)で、迷宮を進んでいく中で途中でサメに遭遇→回避を繰り返していくわけですが、回避の仕方が狭いところに逃げるという方法なのですが、それがもう絵面が同じこと同じこと。それに加えて空間が狭っくるしく暗いため何やってるのか分かりづらい。役者も判別しづらいですし。

これは前作がまだ明るかっただけにちょっと残念。この後退の仕方はちょっとAVPシリーズっぽくもある。

 

あとスローの多用が謎。食われるシーンでスローを使うのも、あの緩急は完全にギャグの領域ですし、終盤の射撃シーンのスローとかそうですが。というか、終盤のあれはテンポでごまかしていますが作劇的にはバッドエンドに持って行った方が良かったのでは。前作ではそうだったわけですし。

噛まれても生存、というのはサメ映画では珍しいかもしれませんが、だからどうだと言われるとよくわからない。サメの牙でサメを撃退するのも含め、がんばればシャークネード路線もいけそうな感じで、むしろそっちにシフトするのが正解なのではないかと、ちょっとこのシチュエーションでの頭打ち感が(少なくとも監督には)出てきている気が。撮影は大変だろうし、それに対してのクオリティが追い付いてないなーという気はします。

 

 個人的に一番面白かったのは字幕。

この映画でサメは傷つけられていません。サメによる人間の死者は年間10人程度。人間によるサメの死は年間1億とか。

つまり「サメを恐ろしく描いている(ステレオタイプ)けど、実態はその逆なんだよ」という。いや、生き物は傷つけてないよ、というのはまま見るのですが、まるで弁明するかのように人間とサメの加虐と被虐の事実をエンドクレジットの後に字幕表示するというのは中々新鮮だったというか。

まあ、これならPETAにも難癖付けられないで済みますしね。彼らの守備範囲に魚類が含まれるのかどうか知りませんが。

 

あとパンフレットの情報も結構薄かったですねー。まあ理由はわかりますけど、これで850円というのはうーん。まあ苦慮しているのはうかがえるのであまり文句を書く気はないのですが、これは700円でもちょっとどうかと思うレベルでした。相対的なものですが。

やややけくそみのあるパンフではあるので、それを楽しむことはできますが、そのために850円出せる人だけにしましょう。