dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

得意球:ナックルなのに。中身:ストレートな映画

久々に劇場に行ってきました。試写会だったんですけれど、最後に劇場で映画観たのがワンウーだったことを考えるとすでに一月以上も観ていなかったことに。なんというか、まあ、昔と違って映画以外のものが多様になってきているから、というのは経験則から考えると根拠としては結構強いような気がしなくもない。

あ、あと試写会の日にちが2月14日ということでプレスシートのほかに野球のボールをイメージしたクッキーもいただきました。ありがとうフィルマークス!独り身にはウレシイずぇ!これもらったチョコレートとして換算してよろしいか?

 

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で、試写会で観たのは画像のプレスシートからもわかるように「野球少女」という韓国映画だったのですが、まあ内容もストレートならタイトルもどストレート(原題でもBASEBALL GIRLと英語表記されていたので韓国語でも同意なのではないかとおもわれ)で捻る箇所などあろうもない、という気概を感じます。その意気や良し。

 

これ、本当にフォーマットとしては直球のスポ根路線なので、ちょっと驚きます。特訓モンタージュとかも捻った部分はまったくないし、BGMの使い方(あと音量)もなんかすごい印象に残る楽曲ではないのだけれど場面としては多分適切なのだろうと思われる添え方だし、なんというかこう、演出や物語において何かが突き抜けるものというものがないのではないか。
ところで、この映画はちょいちょいズームインするのだけれど、個人的にズームインってよほどの卓抜さがなければダサく見えてしまうんですよね。これって私だけなのだろうか。いや、スピルバーグみたいなドリーズームとかなら問題ないのだけれども。

閑話休題

だがしかしである。この、良くも悪くも極めてドストレートな映画において、ある変数を代入することで社会性を意識させるものとなっている。その変数とは無論、「女性」である。これ自体が異化効果として作用してしまうということそのものがこの社会の持つ歪んだ病理であるということはともかくとして、そう見えることを意図している以上は作り手の勝利なのでしょう。

特に私が心を打たれたのは女性と社会の繋がり以上に、女性(というか性そのものにまつわる)の身体性の部分なのだったりする。これ、たとえば集英社の某ワンピースの初期も初期に出てきた「くいな」というキャラクターが持っていた葛藤そのままなのですね。だから感動した、というわけではもちろんなくて(そもそもワンピース読んでないし)、それは私自身の経験則として、とても痛感していることだからなのですね。
特に彼女と対置させられる幼馴染でプロになったイ・ジョンホくんと手を重ねるところ。あれは本当に来るものがある。というのも、ある意味で社会とのつながりというものは、それが事実上どんな困難を抱えていたとしても変革可能性を秘めているものであるのに対し、身体性というものは(とりわけ性を含めて個人の資質としての才覚)どうあがいたところで越境の限界があり頭打ちになることが見えている。だからこそ、その不可能性を乗り越えようとする姿に感動するのでせう。いやまあ、日々のテクノロジーの進歩を見るにつけ、越境というのも実は容易になりつつあるのではないかとも思うのだけれど。まあ「ガタカ」ならともかく「野球少女」でそういう話になるはずもなく

そして、そのための根拠としてのナックルボールという「彼女だけ」の資質を伸ばすというのも理にかなっている。まあ、どうして高校の終わりまでその長所を発見・成長させられなかったのか、というツッコミも入らないではないだろうが、それも「スインが女性だから」ということで一蹴できてしまうところがまたお辛い。監督は人が好さそうで面倒見もよさそうなだけに、そんな彼ですらも男根主義的な社会の中で偏見を無意識のうちに内面化してしまったのだろうかと考えてしまう(え、単なる作劇上の都合だろって?)。

まあちょっと気になった点でいえば最後の契約のシーンなんですけれど、なんかあそこの契約内容変更の部分だけややもするとあまりにご都合すぎはしないかという気もするのですね。それは作り手も理解しているのか、2軍でのデビューということで手打ちとなった感がすごい。

実のところ少女の投手が主役の映画でいえばすでに傑作(?)の「がんばれ!ベアーズ」という先駆者があるですが・・・とか書いておきながら、そもそもからして並列して並べることは難しかったりする(じゃあなんで名前だした)。
というのも、「ベアーズ」の方は先に述べた成長に伴う身体性の現出以前の話であり、なおかつこれからがモラトリアムに突入するのだという「始まりの始まり」を告げるものであるのに対し、「野球少女」に関してはむしろその逆。それはリアリストとして登場させられるスインの母が示すようにモラトリアムの終焉つまり「終わりの始まり」の話であるからですね。

無論、この映画はそれと同時に「始まりの始まり」でもあるわけではあるのですが、やはり全編を貫くはそのモラトリアムのリミットまでの自己実現VS現実的着地との葛藤であることは言うまでもない。

そしてその現実に敗北を喫した先達としてのジンテコーチやスインの父(はまあ、色々と盛り込もうとして失敗していると思うのだけれど)という人物がいる。なぜ敗北を喫したのが全員男性(そして葛藤なく成功を手にしたのもジョンホという男性)なのか。

それは男性というものが競争社会に否応なく駆り出される性であるからにほかならない。もちろん、二人にはそれぞれが抱く夢というものがあり、自発的な参戦であることには間違いないのだろうけれど、某仮面ライダー作品を引用するのならば「夢というのは呪いと同じ」なのであるわけで。

そして、スインの母が徹底してリアリストとして描かれるゆえんは、映画の中では描写されずとも、そもそも彼女が夢を見ることすら許してもらえない性であったからという推知をするのはヨム・ヘランの演技だけでも十二分だろう。作劇的にはどうなのかと言いたいこともないこともないけれど。

とまあそういうことは抜きにして食事シーンが結構多いのは好印象。もうちょっと凝ってくれるといいかな、という気もするけれど。あとラスト近くで球場全体が映されるカットはすごい良かったです。


個人的には大傑作とは思わないし、所々で気になる点ももちろんあるのだけれど、そうだとしても、ここまでドストレートなものを、そこに異化効果としての女性というものが立ち現れてきてしまうという事実を感じる必要はあるだろう。

2021/1

「アーヤと魔女」

特段目を見張るものがあるというわけではないのと、後半の駆け足っぷりがすごく気になる程度なのですが、個人的には「母親」ひいては母性の扱いについて色々と思うところがあって、まあこれに関しては私自身がまだ思索をめぐらせるには知識が足りないのでここで書くことはしませんが、色々と考える余地はありそう。

でもまあ、やっぱりアニメーションって大変な作業なのだなぁ・・・となぜか改めてこれを観ていて思わされました。そう考えるとディズニーのあのハイクオリティというのはやはり大資本と才能の人海戦術だけがなしうるものなのだぁ・・・。

 

 「白い恐怖」

グレゴリー・ペックってこんなにアゴ細かったっけ?

今見ると精神分析のくだりそのものが「おいおい」てな感じがしなくもないのだけれど、アングルとか拳銃自殺やらスクリーンプロセスの不穏感とかはさすが。しかし自分の体調が最悪な状態だったので妙に展開ののろさにイライラしてしまった。最低だ、俺って。

 

サハラ 死の砂漠を脱出せよ

ファンタジー路線かと思ったら全然そんなことなかったでござるの巻き。

この手の映画(つまり午後ロー路線)にしてはかなりストレスフリーで観れるというのは何気に良いのではなかろうか。メインキャラクターが全員能動的に動くことで状況を常に変化させてくれるので、単純に画面が飽きないというかなんというか。まあマコノヒーの当初の目的がさらっと人助けに変わっていたりするのはややもすると不思議なのですが、とはいえ提督含めみんな割とナイスなキャラなので午後ロー枠として見ればまあまあ良いほうなのではないだろうか。

 

 

「ギターを持った渡り鳥」

 助監督が神代辰也というところに目が行ってしまった。

にしてもである。この時代の日本であればまだ銃器を出すことがファンタジーではなかったのだな、と。まあそれはやくざのことを考えれば今でもまだファンタジーではないのだろうけれど、それにしても西部劇じみた決闘といい、冒頭の白人との乱闘といい、ところどころに見えるある種のコンプレックスのようなものが。

 

 

「狐狼の血」土曜洋画劇場

ほんと邦画界の良心ですね、白石(両名)監督は。役者といい音楽の使い方といい、ギャグセンスも含めて流石と言わざるを得ない。

善悪の彼岸を融解させ必要悪なる道化(なればこそ綱渡りせざるを得ない)を演じるオオガミの生き汚さの美しさは、それこそ「綺麗は汚い、汚いは綺麗」と言いたくなるようなカタギへの人情へとかぶいているのである。

カメラワークは「凪待ち」にも見られるものでしたが、それよりもなおかなり遊んでいて、長回しだけでなくクライマックスのトイレの一連のシークエンスを見るに(わざわざ透過して見せたトイレの壁を映すあたり)かなり力を入れているのが分かる。またそこに使われる太鼓の音は「底のみ〜」にもつうじる(これしか引き出しのない拙者のデータベースの少なさよ…)盛り上げ方。

松坂桃李も、わかっていたけれどここまで良い顔ができるとは思わなんだ。

 

にしても、この人情的な描き方、ある意味で北野映画の無常なゲーム性に対するアンサーめいてもいて面白いのですが、これってどっちが主流なのだろう?

 

「JUNO」

これ、なぜかわからないのですが勝手にロブ・ライナーが監督してたと思ってたのですが、ジェイソン・ライトマンじゃないですか!個人的にはリンクレイターやアレクサンダー・ペインと並置して眺めたい監督の一人で、「ヤング≒アダルト」(傑作)や「タリ―と私の秘密の時間」(傑作)など、女性を主軸に据えたそこはかとない(でもない)性的な問題にアプローチしながらも決してシリアスにならない素晴らしい監督だと思う のです、「JUNO」も良かったです。

この映画の前年には日本で「14歳の母」というドラマがやっていたことと考えると、その問題へのアプローチの仕方、あるいは同じような問題を扱っていても視点の違いなどが異なっていてとても面白い。

ていうかエレン・ペイジ、去年末にカミングアウトしてたのですね・・・女性とカップルでTGでエリオットという名前に変えたということは性自認が男性ということだったのだろうか。そんな人がジュノを演じていた、というのもなんだかすさまじい話ではある。

モールでのヴァネッサを観るジュノの表情だとか色々といいなーと思うディテールはあるのですが、ラストカットのシンメトリックな絵面で占めるのが粋でござい。

基本、この人のこの手の映画というのは主人公のモノローグひいてはナラティブによって進んでいくのですが、その手法それ自体およびその「語り」をする主人公の割り切りというのが、ほかの映画で見られるような鼻につく湿っぽさがないのがすごいと思う。

 

 

ハスラー2」

 1を観たことなかったんですけど、意外や意外(?)にも1を観ずとも楽しめるという。まあ原題を考えるとあまり続編だということを意識させないようにしていたようにもできなくもないですし。しかしスコセッシでしたか、監督。

流血しない映画も撮れるのか、スコセッシ(偏見)。

それにしてもトム・クルーズである。そしてタトゥーロ。

メンターであるはずのポール・ニューマンがあまりメンターとしての完全性みたいなものがそこまで表立つことない、というのが割と不思議なのですが、これって1を観ているとわかるのだろうか。

 

12/2020

「砂漠の鬼将軍」

 ロンメルマジヒーロー

 

「天国は待ってくれる」

口説けるかどうは虫の数で決まる。金言ですな。

しかしまさかボッシュートを映画で観るとは。

 

「こんな夜更けにバナナかよ」

 今更になって三浦春馬の死を実感してしまった。この人真面目な役ばっかやってる印象。松岡茉優とやってたドラマくらい軽いのって結構珍しいのでは、とか。

しかしみんな上手いですね。高畑充希のイライラ演技の口調とか表情とか声の震えとかマジにしか見えなんだし、大泉洋の腹立つけど天性の人たらし感があって周囲を惹きつける存在感とか、マジで素晴らしいと思います。ただ役者ではない大泉洋としてみるとそれを自覚して織り込み済みで対応するのが鼻につくこともあるのですが、やはり役者としては素晴らしいです。何気に韓英恵出てましたね。

春馬と大泉の長回しとか、回想シーンのモノクロストップモーションとか面白い演出もさることながら、鹿野の自宅のドアがバリアフリーになっていたり、講演会でおそらく聾啞である人にマンツーマンで手話通訳していたり、しかしそういうのを殊更強調しない品もありながら、悲哀を強調したりもしない。

性に関することは「パーフェクト・レボリューション」で主題として取り上げられていましたが、リリーフランキーのような嫌な生々しさもない大泉洋の陽気な感じは金ロー向けではありましょう。

ぶっちゃけ「60セカンズ」よりも全然好印象です。

 

 

「半世界」

坂本順治監督ゆえ(失礼)と知り合いのゴローちゃんファンが「微妙」という評価だったので警戒していたのですが、思った以上に良かったでござそうろう。まあ、キノフィルムズが好きそうな映画だなぁ、とは思いましたが。たしか香取君が主演の「凪待ち」もここの配給だった気が。

カメラワークがちょっと独特で、やたらと人物の「背中」から(背中を、ではなく)から撮っていたり(これは明確な意図を持っていることが途中で人物のセリフで明かされ、ラストシーンの長回しで対比的に使われたりするのでかなり意識的ではありましょう)長回しを多用していたり、それがどことなく黒沢っぽくもあったりして、それが独特に感じられたのやも。序盤の池脇千鶴とゴローちゃんの食卓での横から撮っているシーンで、ちょっとした会話(この映画、部分部分を除いてかけ合いの妙が良い)の流れでゴローちゃんが苛立って立ち上がるシーンがあるのですが、そのときゴローちゃんの顔から上だけがカメラに映らなくなる感じとか、ともすればその直後にゴローちゃんの顔のアップでリアクションを見せたりしそうなものなのですが、そのまま場面転換していたり、その辺の割り切りというかつなぎ方もあまり邦画ではない感じ。少なくとも大作では。

 

 この映画は全体的にホモソーシャルとそれに連なる暴力性を「美学」的に描き出しており、その旧態依然としたものを前提にしていることにそれ自体に無頓着な気がしなくもないのですが、しかしそういうホモソがいまだに温存されているがゆえに、それをスムーズに描き出すためにあえて田舎町を舞台にしている可能性もあり、なかなか厄介な問題ではありそうなのです。

いや、やはり無頓着というのはないだろう。そうでなければ元自衛隊であるという設定もコンバット・ストレスの問題に言及することもないし、脚本の流れとしても長谷川博己が明に護身術(という名の暴力性のメタファー)を継承させようとする場面の後に長谷川博己自身がその暴力性(の中心地である戦闘地域での経験の傷跡。少年兵への言及なども考えるとイラク戦争に派兵された過去があるのかもしれない)を発露するという極めて自己言及的なつくりになっている。

あるいはゴローちゃんが父親から愛の鞭()を受けていたことや、それが継承されていたような痕跡が所々の明への対応からも垣間見える。

一方で、三バカのやりとりなどは明らかにホモソで遠慮のない(つまり配慮のない)心地の良い空間として機能させている。

かといって全面的に感情移入させるようになっているかというと、前述の暴力性の部分からもそれはあり得ないし、三バカが夜の海に繰り出しおしくら饅頭をする場面など、夜の海をバックに収め遠めから撮ることでその滑稽さを伝えてくれる。もちろん、このシーンでは三バカに寄り添うようなアングルもあるわけで、全否定だったり全肯定だったりというものではない。

 

思うに、この映画はホモソーシャル的な時代錯誤な「美学」をどうにかして昇華させようとしているのではないか。だからこそ(素行不良であったとはいえ)「父」から殴られていた(接し方がど下手~)、「父」であるゴローちゃんが死ぬことでその連鎖が断たれ、ホモソの部分極限空間(つまり暴力性だけが純化された)たる戦闘地域で傷を負った長谷川博己は破滅を免れる。そう考えると、当初、長谷川博己がゴローちゃんたちと距離を置いていたのもよくわかる。(この主題自体は、仮面ライダークウガとその直系である響鬼の敗北によってストレートにはもはや通用しなくなっていたことを10年以上前に示していたわけなので、直截的に描くのが不可能だったのでしょう)

ゴローちゃんは父親への反発から家業を継ぐ(それによって生活は苦しい)。しかしラストにおいて明は父親と全く同じカメラワークで仕事場に入ってきながら、その家業を継ぐのではなく自らの夢として掲げるボクシングの練習場として使用する。

つまり高村家の時代にそぐわない家業(=ホモソーシャルの暴力性)の継承を否定し連鎖を断ち切り、その暴力性によって傷を負った沖山のその傷(=戦闘地域への適応による過剰な暴力性)をそのまま受け取るのではなくボクシングという夢へと(心理学的な意味合いに近い意味で)昇華させる。

 

ある物事を単純に良い悪いと割り切るのではなく、なるだけ総合的俯瞰的(この言葉に他意はないですよ、ええ)に見ようとしたのではないか。とはいえ、天秤でいえば肯定に傾いているのでしょうが。

 

演出も面白いですし、まあまあ良い映画だと思いまする。

 

とはいえ、気になるところも結構あって、明くんのいじめの問題の解決方法が「バットマンVSスーパーマン」における「マーサ!」並みに「おいおい」てな感じで、しかも葬式に来てたのが(グラサンは謎)ちょっといい感じになっていて(村田くんの表情の絶妙な塩梅自体はいいのですが)、「いや、そのりくつはおかしい」とちょっと萎えるポイントではありました。いや、本筋を考えればホモソ的暴力性の正の側面として機能させたかったというのはわかるのですが、こっちははっきりいって上手くいっているとは思えませんでした。

あとは中坊を恫喝するシーンとか、長谷川博己にそういう怒鳴らせかたさせるのはあまり迫力にかけるというか、この人はもっと静かに狂ってる感じの方が合ってる気がするのです。それと長谷川博己の暴走シーンの音楽も、もうちょっとなんか別の感じにできなかったのだろうか。コンポーザーの問題というよりはこれはやはり監督の采配によるミスな気が。同じ池脇出演作品で「そこのみにて光輝く」とか素晴らしい音楽使いをしてたので、あれくらいやって欲しい。

それ以外にもゴローちゃんがコダマみたいに森の中でたたずむ夢幻的なシーンとか、所所でセリフの過剰さが目立つ部分もあり(それこそ「背中」の意図を語らせるセリフはもうちょっとスマートにできそうな気もします。それでもカバーしようという意識は観えたのですが)。池脇千鶴と支配人のかけあいも「話の論点が~」はいらないかなぁ。というかあのくさいくだりはいらないと思う。まあ個人の好みの問題なのだろうけど。

 

俳優陣はみんなよござんすよ。ゴローちゃんの肌が綺麗すぎて「こいつ本当に田舎もんかえ?」と思ったりはしましたけれども、「うざくて理解のない父親」感じはよく出てましたし、長谷川博己もちょいちょい演出による「んー?」な箇所はあったにせよそこまで瑕疵にならないのはさすがですし。

池脇千鶴はしかし「そこのみ~」から考えるとまた別の色気というか家庭的な感じが出てきていい具合に年を重ねてきていると思います。

 

言いたいことはあるけれど全体としてはまあまあいい映画だと思う。

 

 「フル・メタル・ジャケット」

通しで観るのは初めてだったのですが、さすがキューブリックというべきでしょうか。

ディスコミュニケーション(とそれがもたらす惨禍、あるいは滑稽さ)というのはキューブリック映画に通して見られるものではありましょうが、ベトナム戦争を題材にしたことでそれがかなり全面展開されている気がする。

普通の映画なら微笑みデブがハイライトになっていてもおかしくないにも関わらず、それは前哨戦にすぎず、微笑みデブの末路それ自体がベトナム戦争(ひいては戦争全体、あるいは戦場)における非人間化の極致を見出させる。

私がこの映画で一番そら恐ろしかったのは、戦場におけるマスキュリニティを通じてしか成り立たない会話の上滑りがディスコミュニケ―ションの極北として描かれていることである。しかしそんな彼らがインタビューを受ける際には、やはり戦争や戦闘に対する疑問、自由という建前のもとに行われる単なる殺人(Slaughter)に対する本音が見え隠れする。一方、戦場に参加してこなかった報道部のラフターマンは戦場を知らないがゆえに(ディコミュニケーション)アメリカの正義をインタビューにおいても掲げ続ける。

そんな彼がラストにおいて行う(劇中で描かれる限りは)最初にして最後の殺人。この殺人に至るまでの状況それすらがマスキュリニティをあざ笑っているのですが(ブービートラップによる隊長の死亡、それを引き継ぐものの力量不足により隊員を死なせてしまうカウボーイ、乱射する部隊、強敵がいると戦車を要請するカウボーイ、結局は自身も殺されてしまうカウボーイ、 それらを引き起こしたのがたった一人の女性スナイパーであるという滑稽さ。それまではあっけなく死んでいた兵士たちが、このシークエンスにおいてのみスローモーションでその死に際が際立たせられる=逆説的な滑稽さが誇張される)、遂にアメリカの正義を掲げ敵を「殺した」後のラフターマンのバストショットにおける顔は、明らかにほほえみデブのそれであった。

長回しシンメトリックな絵面、血を引き立たせるための白いタイル、アンビエント調な音楽、狂言回しであるジェイムズのあだ名がジョーカーである遊びなど、その辺はやはり抜かりない。

 

正直、ベトナム映画ものでも群を抜いている。戦争映画とは、つまるところ非人間化を描くことにならざるを得ない(今はその旗手はキャスリン・ビグローなのだろうか)のだろうけれど、しかし表現の野蛮さという点においてはやはりキューブリックはすさまじい。

 

「ミッション:8ミニッツ」

ダンカン・ジョーンズの二作目。今のところ全四作ですが、一応前作は観ている程度のにわかな私ですがこの人中々手堅い作品作りますな。

前作に続いて「極めて」限定的な生からの解放=(疑似的な)死というモチーフは続いている。ジレンホールから監督に持ち掛けた、というのが中々面白いのだけれど、しかしジレンホールにしては真っ当に正義漢な感じ。とはいえ、病みぎみというか、世界に対する違和感を持っている(あるいはジレンホールの役柄自体が世界に対する違和感である)といった部分は相変わらずな感じ。

いわゆるループものであるわけですが、最終盤までは「単に記憶の中をリピートしてるだけです」という説明が(だとしたら行動によって記憶が変わるというのがそもそもおかしい)されるわけですが、それが開発者の思惑を超えた機能を持っていたことが明かされるわけです。まあ、量子物理学とか言ってる時点で当然と言えば当然だし、主人公の行動に意味を持たせるという意味であれは作劇上の意味があるわけですが。

でも無意味でもやる、というのでもよかったとは思うんですけどね・・・。

中々いい感じのよござんす。

 

「僕はイエス様が嫌い」

この、小学生の「僕」から見た神への疑義という問題それ自体はサウスパークで10年以上前に観たなぁという印象。

ところでこれ監督・脚本・編集・撮影を一人でやってるということなのですが、まあ一応証明の人もいるようではあるのだけれど、ほとんど自然光で撮ってるんじゃないかというほど暗いシーンが多い。特に屋内。

これほとんど人物のかけあいの妙というか、演技っぽくないエチュード的な感じを堪能する映画のような気がする。だからこそちびっこキリスト(以下チビスト)がコミカルな動きをするのではないだろうか。

ていうかチャドに似てるチビストが出るたびに「チャド・・・?」となったのですが。本当にチャド・マレーンだったとは・・・。

閉塞感がどうとか、鶏とか(キリスト教におけるニワトリは罪への警告の象徴とされる)まあそういうディテールからして、というかすでに述べたようにサウスパークでその話は(もちろん最終的にはギャグに回収されるのだけど)履修済みだったがゆえに、彼が死ぬことは自明でしかなかったわけで。ではそもそも、彼があの帰路に着くきっかけとなった由来の早退はどこから来たのか。それは直接的に言明はされないけれど、すさまじいシンクロニシティで自分にもまさに同じような(別に人死にがあったわけではない)ことがあったし、小学生のころ、まさに同じようなことがあったのでわかるすぎるくらいに由来の気持ちはわかるのだけれど、それは意地の悪い言い方をすれば独占欲に基づくものだしルサンチマンに傾きかねない。

無論、由来は転校してきたばかりという状況、そもそも彼は小学生だということ、キリスト教系列の学校というアウェイであることなどなどを考慮しなければならないのだけれど。

ああ、そう考えると自戒による赦しでもあるのかもしれない、この映画は。それこそ監督自身の。

 

 「レプリカズ」

午後ロー案件な気がする、これ。明らかに予算が大作のそれとは違うし。内容やオチまで含めてB級精神だし、扱ってるSFのテーマも手あかまみれ。

ただしこの映画は序盤のキアヌの倫理ブレイカーっぷりがかなり面白いというか、責任というものに対して(まあ理由はわかりすぎるくらいにわかるのですが)まったくコミットしておらず、友人に任せまくるというのが実に観ていて滑稽で面白い。

滑稽、と言いつつまあ全然笑えないんですけど自分を顧みると。

しかしそういうテンパり具合は観ていて面白いです。

 

怪獣大戦争

だいぶ前にレンタルして観た記憶があるようなないような、ということで再見する。

シェーってこれでしたか。いや、マットペインティングとか所々で目を見張るものがあったりして、侮れないというか。

しかしこんなに怪獣の出番少なかったかな、と思うほどあまり怪獣出てこないなぁ・・・というのは最近の(特に)ドハゴジに毒されてるような気がする。

ワンダーウーマン1984

すごい久しぶりにシネコン行ってきました。というか新作自体まともに観るのは半年ぶり以上な気がする。正確には短編やらオンライン試写会やらで片手で数えられる程度には観ているのですが。まあそれは生活スタイルが大きく変わったから、というのがあるのですが・・・ってこれ前も同じようなこと書いた気がする。

 

それはさておきワンウーである。

 この手の映画にしてはランニングタイムが二時間半と結構長めで、前日にまともに寝ていなかったこともあって中盤で少しダラついたような気もしました。アバンのSASUKEは普通にもっと短くできたと思うのだけれど。序盤のバーバラとダイアナの出会いのシーンとか編集というか脚本でもうちょっと場面転換抑えられたんじゃないかとか、とってつけたというかテリーマンが犬を助けるとき並みの弱者救出演出とか、まあ細かいことを言えば気にならない場面がないわけではない。

とか書きつつも劇場で5回くらい涙ちょちょぎれてしまいました。というのも、これは完全に自分自身の問題で、ここ一週間ほどかなりメンタルが不安定で、平時ならば「ちょっとクサくない?」とか感じ得る場所ですら、そのストレートさに普通に涙流してしまうほどで、つまり自律神経が不安定であるがゆえにもとから緩い涙腺がさらに緩くなっているというのはあるえる。

だっていつもの私だったらガル・ガドットクリス・パインのカメラぐるぐるでさすがにやりすぎじゃないですか、とか思うところで泣いちゃったし、別れのシーンで、ガル・ガドットの顔を撮り続けながら背後の柱の陰に残したクリス・パインは映さず彼の言葉による激励に背中を押される撮影で涙出てきてしまいましたし。いやここは平時でもグッと来てたか。

クリスティン・ウィグ演じるバーバラのルサンチマンが自分の中のルサンチマンとダブって泣いてしまいましたし(あんだけ能力あるのにルサンチマン発動するとか富める者の悩みでしょうが!と普段なら逆切れしているパターン)、アリスタくんがパパの幸福を願う何気ないシーン(すれ違いなのがまたくる)で泣いちゃいましたし、マックスが息子のために願いを取り消す(に至る回想も含め)シーンで泣いちゃいましたし、ワンダーウーマンのテーマのアレンジが底抜けに前向きな感じなのも来ましたし、なんだかメンタル不安定なせいでともかく感情的になってしまっていた。

無論、泣ける映画がイコールで良い映画などというわけではないでしょう。

それでも、(これは、もしかするとペギオ氏的な天然知能なものに接続可能なのかもしれない。全然理解してないけど)というその姿勢は、劇中の暴動と現実のそれが重ねられているにもかかわらずーーだからこそーー迷いはすれど世界をありのまま受け入れるというその姿勢は称揚せずにはいられない。

中盤でデバフがかかったワンウーの走る姿のダサさ(JLにおけるフラッシュのそれには及ばないが)は、しかし決別によりその力を取り戻した際のガル・ガドットの疾走の助走であったと考えるならばそれはすべてが必然であり必要なものだったのだと思える。

この映画はネオリベ的なものの否定をする。しかしそれは左派的なものでは決してない。そうではなく、人であることに対する信頼をその否定材料にしているように見える。

たしかこれも伊藤氏が言っていたことだと思うのだけれど(違ってたらすまそん)、ジョージ・オーウェルが今もなお読み継がれているのは監視社会がどうこうではなく、それは人がシステムそのものに組み込まれてしまうことの恐ろしさ(超絶意訳)にあるということだったはず。そうしてみると、「ワンダーウーマン1984」というタイトルのオーウェルへの目配せは、複数のテレビによるそういう絵面ではない(けど映画版の「1984」は意識していそう。本人は関係ないと言ってるけど)。そうではなく、人々の欲望それ自体がシステムを駆動させる燃料になってしまうということにあるのだろう。

だからこそマックスは劇中で人でなくなり、システムそのものとなってしまった。この映画におけるオーウェルの要素は多分そこにある。

そして、極めて社会力学的で冷徹なその視座に対し、パティ・ジェンキンスは人なるもので対置した。もっとストレートに、極めて俗的な言い方をすれば愛なのかもしれない。その臆面のなさ、バカらしいまでに率直なそれに、私はもう一回泣いてしまった。

そして最後の最後に現れるリンダ・カーターa.k.aワンダーウーマンもといアステリアに泣いた。


余談ですが80年代ディテールでまさかレオタードを推してくるとは思いませんでした。クリスティン・ウィグにまるで恥じらいが感じられないのは彼女がコメディアンだからだろうか。

そういうディテールも含めた臆面のなさ。その、青臭さともいえてしまうような、それこそすれた私のような人間が唾棄したがる人ほど見るべしなのかもしれない。

11/2020

スターリンの葬送狂騒曲

いやー面白かったです。原作のグラフィックノベルは冒頭だけチラッと読んだ覚えがあるのですが、それだけだとここまで笑えるような内容だとはわからなかった。

私は自他ともに認める勉強できない劣等生なので当然ながら歴史も赤点取らなければ万々歳だったレベルゆえ、ソ連史についてもほとんど知らないのですが、この映画に関してはそういうのはほぼ不要でした。まあ歴史的には(あえて)間違っている部分もあるらしいので、むしろあまりソ連史に詳しくない人の方がストレートに楽しめるのかもしれない。

スターリンの死によって物語が駆動し始めるわけですが、彼の死を確かめるためにすらあれだけのごたごたが、というのは本当に滑稽で面白い。一転に集中していた権力が宙に浮くやいなやパワーゲームを始める委員会の姿は、スターリンの死そのものがあっけなく笑えるものであることからも明らかなように、巨悪というものが本来的には存在しえないということを、(まあこの映画を観るまでもなくどこかの国の惨状をみればわかることですが)改めて認識させてくれる。

あらゆる登場人物の一挙手一投足が笑いに転化されるこの映画において、しかしその本質は万人が恐怖による支配下にあるということの証左なわけで。例外的にヴァシーロフ元帥だけが恐怖心を垣間見せることすらないけれど、それはもちろん軍部という政治権力とはやや位相の異なるワイルドカードを掌握しているから。

笑える部分はたくさんあるのですが、マレンコフが「ロシアンアスにキスしろ」と言ったところで憲兵?が女の子の目を隠すところなんかが特に細かくて笑えました。

 

特に、人の死すらも笑えるようになっているのがさすがである、と言いたい。クーデター開始した委員会の部屋に入ってきたベリヤ側のNKVD(?)を追う軍部兵士のところとか、一連の銃殺シーンとか。スピルバーグイズムもある。なればこそ、スターリンとその他名もなき殺された人々が同じ地平に立たされることになるのであるから。

まあそもそも、そこまで徹底しないとこの映画のスタンスとしてあり得ないというだけではあるのだけれど。

 

 「ブラック・シー

冒頭のアバンでめちゃくちゃ期待したんですけど、アバンから予測される映画とは全く違ったでござる。

細かい部分を考えだすとキリがないので目をつむって観てましたけれど、なんか昔話的なある種の理不尽さみたいなものがある。

しかしジュード・ロウは海に出ると死にますね。

 

「ワイルド・バレット」

だ、だせぇ!カット割りからカメラワークまで全部だせぇ!この時期から本格的に使われはじめたデジタル撮影による擬似ワンカットの使い方の節操のなさといい、やたらズームしたがるしバストショットもださいしポールウォーカーの過剰な演技といい、彩度の調整といい、ハリウッドのメインストリームのエピゴーネン。これ見るといかにトニースコットが素晴らしいのかよく分かるし、キュアロンやフィンチャーの卓抜さがわかる。

でも吹き替えの売春婦?の悪罵はすごい直球で面白かったです。

 

しかし小杉十郎太のポールウォーカーって珍しい気がする。情けない小杉十郎太ボイスという意味では吹き替えで一見の価値ありかもしれない。

 

ハンバーガー・ヒル

ベトナム戦争を題材にした映画はいくつか観てきたけれど、まあベトナム戦争に限らず戦争における戦場を切り取った場合、どれも描き出そうとするものは似たものになってくる。年代によっては戦意高揚のために戦争を肯定的に描いたりする映画もあるけれど、戦後においてそれはもはや機能しないことは言うまでもない。

要するに、戦争というものの避けがたい引力がそれなのだろう。あるいは、戦争に対する人間の想像力の限界と言ってもいいかもしれない。

似たようなものと言っても、どう撮るかということによって大きく変わってくるし、戦場によっては何がどう過酷だったかというものも変わってくるだろう。それは地形だったりテクノロジー(兵器)の差によっても違ってくる。

ハンバーガー・ヒル」においては、合衆国の兵士ではあってもそこには明確に黒人と白人の軋轢(と戦場の絆による超克)が抽出されていて、ここはほかのベトナム戦争の映画ではここまで強調されることは少なかったかもしれない。や、そんなにベトナム戦争映画は観ていないけれど。

あるいはフレンドリーファイヤーの描写。味方のヘリから掃射され次々に死んでいくチームメンバー。ここもかなり大仰に描いているのだけれど、やはりほかの映画ではあまりないように思える。歯ブラシのくだりも初耳だった。

 

少なくともほかの戦争映画とはちゃんと区別できている気はする。

 

 「恐怖の報酬」

フリードキンによるリメイク版。1977年に公開されたのに今回観たオリジナル完全版が日本で公開されたのは2018年ということらしいのですが、そんなに待たされていたのかと。オリジナル版も原作も知らないのですがリメイク版によって加えられたのが「トラックで運ぶというオリジナルの設定に加え、主人公たちの行く手を遮る泥濘、雨、ぼろぼろの吊橋、反政府ゲリラなど、オリジナルにはなかった@Wikipedia」ということで、むしろこれなしでどうやってオリジナル版は緊張感を持たせたのかが気になる。

というか、フリードキンの映画ってガチすぎてビビるのですが。豪雨の橋とか脱輪とか、爆発もマジですし。

ちょっとした人情はあれど、「それはそれとして世界は回るよ(残酷に)」。ピンチを知恵で切り抜けようとも、「それはそれとして世界は回るよ(残酷に)」。

それはほとんど喜劇的ですらあり、実際私は何度か噴き出してしまいました。

フリードキンの野蛮さというのはヤバイ。

 

花のあと

うむ、なかなかどうして悪くないと思います。

昨今のべたべたした恋愛主軸にした者に比べてほんのり桜色の淡い慕情は、恋愛というギトギトしたものよりももっと「人間として」尊敬できる相手という、より大きなものであるし。

殺陣はもうちょっとカット割らずにとか色々物足りない部分はあれど、飾り気なく髪を結んだ北川景子の顔は良し。手弱女のように振る舞う(というよりも、手弱女として戯れているようにも思える)のとのギャップにグッときます。

いや、いいんじゃないかしらこれ。というか、21世紀の時代劇って割ととっつきやすいうえに割とバラエティに富んでいたり、現代を舞台にするとどうしても何かしらのエクスキューズが必要になってくる刀やらを自然に出せるし、あるいは「シグルイ」的なものも描こうと思えば描けるし、かなりおいしいジャンルなのでは?

 

「西部魂」

 フリッツ・ラングの監督映画。

西部劇としてカテゴライズされるであろうこの映画。開幕から西部の荒野なのだけれど、何かが違う。大地と空のコントラストが妙にはっきりとしていて、その境目が線としてはっきりとわかるようですらあった。

ともかく、何か細かいところが違うのである。エドワードが馬から倒れこみ湧き水をすするときの左手が掴む地面に食い込んだ石。石、というよりもそれを握るディーン・ジャガーの左手なのである。これはたとえば「ダークサイドムーン」において目覚めさせたセンチネルに押し倒されたオプティマスが立ち上がる際に拳を地面につきながら親指をさらにその支えにしている、あの手の動きを想起させる「何か」。それは単に私のフェティシズムである、と言い切ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、手指の動きというのは、やはりそれ自体が人間ひいては多くの生物が外界に触れるためのインターフェースであるということを考えると、このエロティシズムというのは根源的なものであるように思える。

あとはスクリーンプロセスらしき背景。それはあまりに唐突に背景が「造られた背景」として前景化してくる(それがスクリーンプロセスのもたらす作用の一つだとは思うのですが)のですが、なにゆえなのかが分からない。ただ、背景が「造られた背景」としてその存在をぼやかすことでむしろ画面全体、その背景の前に立つ役者の存在が強烈に浮かび上がってくる。

別にスクリーンプロセスなんて珍しいことでもないのに、なぜなのだろうか。そもそも、あれは本当にスクリーンプロセスだったのだろうか、とすら思う。

あるいは人間の距離の近さ。これはまあ、別にこの映画に限ったことではないのだろうけれども、初めてそれを意識した、ということは言える。要するにこの時代はまだスタンダードサイズというアスペクト比による撮影のために、人物を画面に収めるためには人物同志を密着させるしかない、というだけの話なのだろうけれど、それが妙に意識される。

もしかすると、このご時世ですから、自分でも無意識のうちにそーしゃるでぃすたんすが刷り込まれていたのだろうか。自分では全く意識していなかったのだけれど。

そういえば、真正面からのバストサイズがあったような気がするのだけれど、あれもなんだか不思議で、小津じゃないけれど、妙に気になる部分だった。

なんか不思議な映画だった。あと「先住民」はどうなの。

 

「運び屋」

イーストウッドはやっぱりイーストウッドなのだった。

もはや映画のテクニック的なことを指摘することが(まあ指摘できるほど知識ないですが)馬鹿らしくなってくるようにきっちかっちりと収めるべきものを収めていく。初めて紹介された場所に行ったときはカメラの揺れ(とイーストウッドの所作)で緊張を表現し、二度目は手持ちだがほぼ揺れない。あるいは窓ノックの意趣返しなどの反復。あるいはジェームズ・スチュアートの天丼。

どこまでが脚本でイーストウッドがどこまで手を加えたかわかりませんが、まあ映画を観ればイーストウッドの映画であることには間違いないというか。

 

これは利他が巡り巡って自己を救う話である。しかし、そこには明瞭な善悪の二元は存在しない。社会的悪とされるマフィアだろうが、それを取り締まるDEAであろうが、イーストウッドはどちらをも殊更あくどく描いたりはしない。もちろん一般的な市民としての善良さ以上の善性も描かない。ただ、各々の人物は各々の(それは狂言回し的な位置に自ら収まるイーストウッド=アーロが主)関係の中で生じる個々の人間性を発露するにすぎない。

だから音楽はあまり強調されないけれど、それでも感傷的なときにはそれを表現するための音楽が流れる。

 

アーロは分け隔てなくかかわった人間を助けようとする。金、というのはそのための手段であって目的ではない。

スマートフォンへの度重なる言及は、やっぱりイーストウッドが手を加えたところなのだろうか。だとしたら、人間だけでなく、その文明の利器に対してもイーストウッド観照的に見定めようとしている。確かに便利で、それに順応しようとする。一方で、それによって失われえるものの可能性(逆説的に得られるもの=愛する他者との時間)を提示してみせる。

マスキュリニティを明らかに虚仮にしていたり、価値観をアップデート(イーストウッド風に言えばcatch up withだろうか)しようとしている。

某デザイナーは「グラン・トリノ」をしてマスキュリニティを継承させてしまっているとも指摘していたけれど、しかしそれからもはや10年が経過し老いさらばえたイーストウッドの身体はそれを表現しえないことを考えると、自身を以てマスキュリニティの老衰を現出させようとしているのではないか。

しかしいくらなんでもおさかんすぎるでしょう、クリント御大。

 

若草物語

四姉妹が可愛い。のだけれど、保守的過ぎるのが難点のど飴。

四女だけが可能性を秘めており、そこに配役されているのが和泉雅子というお転婆な漢字というのがせめてもの救いだろうか。

掛け合いの妙は好きです。

 

 

シャレード

アバンが妙にオシャレで、どことなくソールバスっぽいというかヒッチコック映画っぽくもあってシリアスな雰囲気かと思ったのですが、そうでもなかった。いや、人は数人死にますけど。ボサノバ?なbgmも相まって全体的に洒落てはいるのだけれど、どちらかというとコメディ寄りか。

それにしても、あんな典型的なダイイングメッセージが本当に創作物の中に存在するとは思わなんだ。なんかこう、隔世の感があるというかアンモナイト化石を発見したような感があるというか。

 

ガンジー

この映画はガンジーの死から始まる。それは彼の偉業を際立たせる狼煙となる。

 

福島はかく語りき

「福島は語る」という映画を観た。土井敏邦というもともと中東を専門に扱う記者だった人が撮ったドキュメンタリー映画

 

土井敏邦さんは記者でありながら2005年から13本の映像を撮ってきた人で、キャリアもかなりある人にもかかわらず私は全く知らなかった。

これ、決定版(と上映会では銘打たれていた)も170分と大尺なのですが、完全版にいたっては330分(5時間半!)という長さなのです。が、多分、もっともっと尺を伸ばすことは可能なつくりになっている。

というのも、この映画はほぼ3.11のときに福島に住んでいた人へのインタビューだけを章立てている単純な形式だから。ちなみに決定版においては第一章から最終章の全八章で構成されている。

そして、この章立ての数字は観た限りでは明確なストーリー(物語という意味ではなく)ラインを描いているわけではなく、個々で完結していると言える。

章立てというこの形式は、そのまま断章であることをも意味している。断章、つまりそれぞれの章に登場する人物(一章に一人というわけではない)はそれぞれに(未)完結した断片なのでせう。
だからこそどれだけ盛り込んでもこの映画は破綻しない。なぜならこの映画に存在するのは各々の「語」りだけだから。

一方で、この映画は「語」りを増やすことをせずとも、この映画の目的とするものを表現できてしまっている側面もあるように思える。

なぜなら、インタビューされる人々の誰もが、自分自身がインタビューされているにもかかわらず自分以外の人たちのことをも語るからだ。

たとえば大河原多津子さんは夫と一緒に農業に従事していた自身たちを語りながら、放射性物質によって汚染された作物を売れなくなり、自殺してしまった、しいたけを栽培していた知人のことを口にする。

たとえば当時双葉町の小学校で教師をしていた小野田陽子さんは劇中に登場しない生徒たちのことを嬉々として(内容自体は必ずしも喜ばしいことばかりではないけれど)「語」る。

その語りはあまりに滑らかで、彼我の区別はあっても自他の区別はないそのナラティブは、ある種「我が事・丸ごと」的な相互扶助の関係性を思わせる。

そのナラティブを引き出す手腕こそが土井さんの力なのだと、同じく中東ジャーナリストの川上泰徳さんは語る。その通りだと私も思う。なぜなら、ドキュメンタリーとしてはあまりないことだけれど、カメラを回す土井さんの声がそのまんま一緒に入ってしまっているから。
それはとりもなおさず彼の声もこの映画の一部分であることの証左として受け取れる。

その判断は、土井さんが己の問いかけをしっかりと背負っているということでもある。いまだに「ソニータ」というドキュメンタリー映画について思うことなのだけれど、あれは被写体であるソニータという少女に制作側が積極的に介入・支援することによって、それ以外へのすべての責を放擲してしまっている点で、あまりにその視線の無自覚さが露わになっていて好きになれず、対置してみるとその自覚の差が露わになる。


話を戻しますと、その、他者たる隣人を「語」る彼女彼らの表情や声、すなわち身体を通じて当時福島に住んでいた人々の「個」が観えてくるのです。

依り代であるその身体のディティールを映すためか、インタビューはすべてアップに近いバストショット(というか杉下さんにいたってはほぼアップなのだけれど)である。それがより「語」りを強くし、強く語られる顔も名前も知らない他者の「個」的なものが浮かび上がってくる。必ずしもポジティブなものではないけれど。

無論、これは錯覚に過ぎない。しかし、それこそが映画ではないだろうかとも思う。

 

3.11という概念には、様々な要素がある。それは原発という極めて人為的なものが招いた問題と津波という自然災害が招来したもの。特に小野田さんの背負ったものは自然災害によるものが大きく、はっきり言ってしまえば「仕方のなかったこと」なのだと思う。そこには人為の介在する余地はなかったのだから。だとしても、彼女の生徒が避難せざるを得なくなったのは原発という人為の介在したものによることであり、それは登場する人たち全員に言えることではある。


ところで、すでに土井さんが中東を専門に扱う記者だったことは述べたのだけれど、そんな彼がどうして福島を題材にしたのか。

その理由を川上さんは、福島の問題も中東の問題もつまるところ「難民」であり、その難民の痛みを伝えることがジャーナリストとしての土井さんの自責なのだと考えているからだという(意訳)。成程、両方ともに人災であることに疑いようはない。

人災が自然災害と違うのはそれが「避けられたかもしれない」ということだし、それがたとえ尋常ならざる力を必要にしたとしても「解決できるかもしれない」問題であるということだ。

けれど、インタビューを受けた元朝日新聞支局の記者であった村田弘さんは水俣病を取材していたときの経験と原発における国家の隠蔽体質の不変さを指摘する。星ひかりさんは、福島の人たちの間に生じた分断を国家による目くらましであると感じている。

現在の政治の状況を見るにつけ、本当にこの人災は「避けられるかもしれない」ことなのだろうかと首をひねりたくなってくる。

多分それはシステムの問題なのだろう。他者を他者として、その痛みを認識しないでいること。あるいは、その痛みを「敵対者」のものとして積極的に圧殺すること。そうして自分だけが甘い汁をすすること。これらの人災はそういった非人間的・・・というか非人道的な原理によって駆動し加速する。

それは資本主義にも言えることだろう。企業経営者にサイコパスが多いというのは知られた話だ(いや、個人的にはリベラル左派もどうかと思ってはいるけれど)。

福島の問題は福島だけの問題ではない。日本の問題であるし、それよりもまず中心としての東京の問題だ。そもそも福島原発と呼ばれるが、それは「東京」電力福島原子力発電所の「東京」を隠蔽している。

それは「福島」という「他者」の問題なのだと。ひいては「中東」という遠い国の「他者」の問題なのだと。それはテクノロジーによって加速している(抗おうとするものも当然いるが)。

だからこそ土井さんは「痛み」を伝えようとするのだろう。臆面もなくいってしまえば、たぶん、平和のために。

オンライン試写会、とやらを観る。 

家なき子 希望の歌声」というやつ。

なんかの童話なのだろうな、とは思っていたのですがかなり有名な児童文学らしいですね。全然知りませんでした、はい。こちらも全く知らなかったのですが、出崎勉監督版のテレビアニメもあったとか。

今回は珍しく吹き替えで観させてもらいました。山路さんと朴さんが夫婦で共演なさっておりました。

などとバラン並みに枝葉末節な部分はともかく、吹き替えはよござんした。ヴィタリスの落ち着かない呼吸の仕方に山路さんが一々ブレスを合わせていて芸コマでしたし、少年期のレミも違和感なかったです。レミの歌の部分は原語流用なのかわかりませんが。というか、普通に良かったです。ミュージカルや舞台などで活躍している子役だそうなのでさもありなん。

まあ一つ気になるところといえば冒頭のケーキつまみ食いする男の子のリップシンクが微妙に合っていないのとか、作風的にかなり戯画化されているとはいえそれにしてもやや過剰ぎみな気はしなくもないのですが、すぐに壮年期のレミ(CV勝部演之)が物語の中に誘導してくれるのでご安心ください。

 

で、本筋なんですが、前半の20分くらいはなんというか変なバランスで困りました。なんというかこう、とんとん拍子でおぜん立てされる少年の不幸の生い立ちに。

倫理的にどうこう、ということではないのです。壮麗な風景をかなり意図的に使っておりまして、意図的に時代感を脱臭して(まあジュール・ベルヌの「80日間世界一周」とか、中盤あたりから時代が丸わかるバランスになっていくのですが)いわゆるファンタジックな世界を構築しようとしているので、そこに倫理をさしはさむような野暮な感性はそもそもお呼びではないからです。

というか、人物の配置(構図的な意味で)とかとんとん拍子て進んでいく話とか、舞台のように見えるのですよね。だからこそ前半の、ともすればダイジェスト的な話運び・演出も受け入れられるのですが、しかしそれにしても妙な違和感が残る。

 

この映画の主人公はヴィタリスである(断言)。それはレミ(壮年)が語り部として自分の過去を語るという構造にも関わらず、その場にレミがいなかったはず(あるいは本意は隠されている)のヴィタリスの場面が描かれることからもわかるように、ヴィタリスは物語(レミが子どもに語る物語としても、映画そのものからも)からはみ出る、ある種のメタ的な演出がなされている。

それは、音楽の使い方にも表れている。劇中、ヴィタリスが二度音楽を奏でるシーンがあるのですが、彼が、彼の手にする楽器によって鳴る劇中曲であるその音楽がシームレスにBGMへと転じる(というか拡張されていく)のです。

けれど、ヴィタリスが称揚するレミの歌声は映画の世界観の内部に留まり続け、その世界の一部を成す音楽(=BGM)にまで至ることはない。いや、一度だけそうなっているようにも聞こえる場面もあるのですが、しかしそれはBGMと同じ位相にあるというよりはBGMによって補助されている(これはそもそもヴィタリスが曲であるのに対してレミは歌だから、というのもあるでしょうが)に過ぎないし、仮にそれをカウントしたとしても単純に回数としてヴィタリスに及んでいない。

つまり、音楽(歌も含む)というものが肝になるこの映画において、より存在感の大きな音楽を発する奏者こそが主人公であり、それがヴィタリスなのだと思うのです。

だからなんだ、という話ではあるのですが、しかし初めからレミではなくヴィタリスこそが真の主人公であると考えれば前半のレミのくだりのダイジェスト感というのも得心がいくのであります。個人的に。

まあ、貴種流離譚の変奏ともいえるこの映画において、まっとうに考えればレミが主人公であるというのは至極当然なのですが、しかしヴィタリスの存在感の大きさに対してレミの存在感が食われているように思える。それが違和感の正体なのかもしれない。

ヴィタリスの告白も、途中途中でレミの反応を映してもいいものを(ハリウッド映画なら確実にそうする)バストショットのやや長めのワンショットで撮っていたりするし。

 

んで、ヴィタリスの存在感がレミに比べて先行してしまった結果、冒頭と終盤が消化試合を観ているような感覚に陥ってしまった。

えーすごいアレなたとえをすると企画段階はスターウォーズ本編なのに撮ってみたらオビワンのスピンオフみたいだった、という感じだろうか。

 

そんな私がこの映画で一番はっとさせられたのは牛の目だったりする。レミが愛牛に寄り添う場面で、斜め後ろから牛の顔を捉えるショットの、牛の目。あの白目が「もののけ姫」のシシ神の生首の目、あるいは「アンダルシアの犬」の例のシーン(あれもそういえば仔牛でしたっけ)のような、ゾッとする感覚をもたらしてくれた。

本編とほぼ全く無関係なシーンなのですが、このゾッとする感覚というのは昔話の持っているとりつく島のなさにも似ていはしないだろうか?

などと強引にまとめて結ぶことにします。どうもすみませんでした。